5章
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久しぶりの任務だった。
レギュラスは最近、ほとんどの時間を屋敷でアランの隣に過ごしている。
病に伏した妻の傍らにいることが日常となり、外の世界を意識する余裕さえ少なくなっていた。
けれど今夜、呼び出しがあり指令に応じて外へ出たことで、自分がまだ引退したわけではないと改めて思い知らされた。
「引退したのかと思ったが、健在そうで何よりだ。」
ルシウス・マルフォイが皮肉を含んだ声色で笑う。
レギュラスは黙して応じ、変わらぬ杖捌きで呪文を放ち続ける。
現場では、マグル生まれの魔法使いたちが結託し、魔法界とマグル界を繋ぐ抜け道を作ろうとしていた。
それは、純血主義の体制がもっとも嫌うものだ。
レギュラスは問答無用で制しにかかる。
冷静な手つきで、深い迷いもなく、次々と敵を無力化していく。
捉えたマグルの魔法使いたちは全員、魔法裁判にかけられることになるだろう。
本当はこのまま、殺してしまってもよかった。
少なくとも昔のレギュラスならそうしていた。
けれど――今は、それをしなかった。
「情けをかけるとは、お前らしくもない。」
ルシウスが呆れたような目でレギュラスを見ている。
「そういうのではありません。魔法省には遺憾ですが、マグル生まれの役職の者もいますから。余計な対立は避けて通るべきです。」
レギュラスは、もっともらしい理屈で返す。
ルシウスは不満げに鼻を鳴らし、話はそれで終わった。
しかし、本当の理由は他にある。
おそらく、それはアランがそうすることを望むだろうと考えたからだった。
アランがアリス・ブラックを気にかけてほしいと告げてきたとき、
それはアリスの持つ思想もまた尊重してほしいという、静かな願いなのだと受け取った。
純血魔法使いとマグルが分け隔てなく生きていける世界――
自分が築き守ろうとしてきた世界とは、まったく正反対の理想郷。
誇りと理想を、あれほど手放しがたかった自分が。
この年齢になってようやく、愛する者のために手放してもいいと思えるほどになった。
それは、痛みと静かな誓いが混ざる新しい境地だった。
心の底からアリスやアランの夢見た思想に共鳴できるわけではない。
けれど、そのすべてを否定し、押さえつけ、踏み躙ってやろうとは、もう思わなかった。
思いたくなかった。
これから先も自分は、おそらく表立ってアリス・ブラックを守ることはしないだろう。
だけれど――
こうしてマグル生まれの魔法使いたちを、あえて問答無用で殺していくほどの冷酷さを仕舞い込むことで、
自分なりの守りとしてその存在を示そうと思った。
それが、レギュラス・ブラックにとってアランに望まれた「アリスという女を守る術」だった。
夕闇に沈む街路の片隅で、降り積もる葛藤を背に杖を納める。
冷たい夜風が、少しだけ胸の奥の孤独を洗い流してくれたような気がした。
心から共鳴できない理想――それでも、大切な人のために譲歩できる自分がいる。
その事実が、レギュラスの胸にひと筋の温かさと痛みを残していくのだった。
重苦しい静けさに包まれた魔法法廷。
レギュラスはマグル生まれの魔法使いたちを連れて堂々とその場に立っていた。
騎士団のメンバー――キングスリーらが席に並び、レギュラスを睨むような視線を静かに送る。
誰もが「冷徹なレギュラス・ブラック」が入る場所に違和感を覚えていた。
審判の杖を持つ魔法法廷大臣が壇上に立ち、判決を下そうとしている。
レギュラスは既に、処罰は騎士団側が妥当だと提示する案に順ずる、と事前にサインしていた。
予定調和のような形で開かれた審理――それでも法廷内の空気は張り詰めている。
騎士団の望む処罰は、孤児院での魔法指導の慈善活動、そして少額の罰金。
大臣がその内容を淡々と告げると、場内が揺れる。
その瞬間、騎士団のメンバーたちは信じられないという顔でレギュラスを見つめ返した。
誰もが口々にその理由を探ろうとする。
「あのレギュラス・ブラックが、冷徹にマグルを切り捨ててきた男が……」
「なぜこんな甘い判決を容認したのか?」
「何か裏があるのでは?」
法廷を出ていくレギュラスの背後を、キングスリー・シャックルボルトが静かに追いかけた。
「レギュラス・ブラック、一体何を考えている?」
その問いにレギュラスは振り向かず、歩みを止めることなく短く答えた。
「何も。妻がそう望むようですので。」
廊下の陰影の中で、その言葉だけが静かに響く。
キングスリーが驚きと戸惑いの混じった表情で後ろ姿を見送る。
本人ですら、未だに驚いている。
アランを思う気持ちだけで、かつて自分が築き上げてきた信念や誇りのすべてを、簡単に崩してしまっても構わないと思える日が来るなんて、誰が想像しただろうか。
かつては冷徹に裁きを下してきた。
純血以外は容赦なく――それが、ブラック家の誇りであり、自分自身の強さだと信じてきた。
だが今は違う。
マグル生まれの魔法使いたちを問答無用で断罪することなく、
慈善活動と罰金という、温もりをまとった判決に同意した自分。
それは、アランの望みに応えたいという思いだけが、すべての価値観を上書きしてしまったからだ。
愛する人の想いを叶えるためなら、誇りも信念も、こうして手放していけるのだと初めて気づいた。
法廷の廊下を抜ける足もとに、ほんの僅かな温かい風が通り抜けていく。
過去の自分なら感じられなかった僅かな安堵が、胸に広がっていった。
その夜、レギュラスは窓辺に佇み、薄闇の向こうにいるアランのことをひとときだけ静かに思った。
信念を手放すほどの愛が、人を変えていくことをほんとうに知ったのは、この瞬間だった。
夕暮れの屋敷の大広間に、セレナが静かに帰ってきた。
彼女の声は柔らかく、穏やかに空間を満たす。
「おかえりなさい、お父様。少しだけ休暇をいただきましたの。」
レギュラスは微笑みながら答えた。
「アランのためですか?」
「ええ。お兄様からも、『帰れる時は帰ってこい』と手紙をいただいていました。」
アルタイルの細やかな心配りを想い出し、レギュラスは深い敬意を感じていた。
かつて自分が息子と同じ年齢のころ、一体どこまで家族のことを思いやれていただろうか、と。
セレナはホグワーツの最終学年に進み、日増しにブラック家の血が色濃く現れるようになった。
彼女の佇まいには美しさと気品が一層磨きがかかり、これがまさに王家に受け継がれるべき誇り高き家系の娘であることを示していた。
レギュラスは、ときおり胸が締めつけられるような寂しさに襲われるのを感じていた。
誇らしいが、同時に自分の手から本当に離れていってしまうことへの言いようのない喪失感があった。
「アランとは話せましたか?」
レギュラスが慎ましく尋ねる。
「ええ、少しだけ。」
しかしセレナの表情はどこか凛としていて、薄くツンとした態度が伺えた。
アルタイルとは対照的に、セレナはいつも強さを全面に押し出す。
泣いて懇願することもなく、動揺を見せることも少ない。
事実を静かに、しかし誰にも揺るがぬ意志で受け入れ、それを昇華する術を身につけていた。
子供らしい一面が見え隠れすることもあるが、その芯は誰にも見えぬほど深く、凛として強かった。
彼女が女で生まれたことを悔やましくさえ思ったあの頃の考えが、今では遠い記憶となっている。
セレナ・ブラックは、男であろうと女であろうと、それを越えてこの国の王に嫁ぐ強く美しい、誇り高き少女に成長していた。
今、彼女は唇を固く噛みしめ、口を閉ざしている。
一瞬、不機嫌にも見えるその表情を、レギュラスは親として敏感に感じ取っていた。
「セレナ、よく帰ってきてくれましたね。アランもきっと喜びます」
彼は背の伸びたその頭をやさしく撫でた。
そろそろこうして撫でてやるのは、やめた方がいいのかもしれないと胸の内で呟きながら。
「お父様……お母様……今日はちょっと…色々昔と今が混ざってるみたいでした。」
言葉は小さく途切れ、セレナの表情はゆっくりと美しく歪んでいく。
その頬には小さな涙が一筋、静かに落ちた。
レギュラスは思わず息を飲んだ。
随分と美しい涙だと思った。
あんなに泣きじゃくっていた幼いセレナは、もう確かにどこにもいない。
「きっと痛み止めのせいですね。そういうことが時々あるみたいだと、医務魔女が言っていました。」
彼は静かな声でそう説明した。
強い痛み止めの魔法薬は、時に記憶の混乱を引き起こし、過去と現在の境界を曖昧にすることがある。
今日、セレナは初めて、混ざり合う母・アランの姿を目の当たりにし、その衝撃を隠しきれなかったのだろう。
家族の変化をただ見守る小さな祈りが、静かに紡がれていく。
寝室の空気は静かで柔らかく、母アランは長い時間眠っていた。
時折、瞼を微かに開き、短く声を発することがあった。
その瞬間を、セレナはいつもそっと見守っていた。
「お母様、今日は課外授業をしてきたの。屋敷に立ち寄ったのよ。」
セレナは静かに話しかけた。
けれど、本当は兄アルタイルに呼ばれたから戻ってきたのだと告げることが、胸を締めつけて苦しかった。
必死に誰かに知られないように、それらしい理由を並べる。
その時、母は突然、セレナではなく「アリス、本当に綺麗になったわ」と呼んだ。
混乱と驚きでセレナは目を見開いた。
なぜアリスなのか。何の冗談なのか。
しかしもっと強く心を揺さぶられたのは、母がその名を口にし、真剣な表情で話していることだった。
まるでそれが自然で、何の違和感もなく、当たり前のようにセレナへ向けて言葉を紡いでいる。
胸の奥がちくりちくりと痛んだ。
彼女の心は乱れていた。
「危ない任務は受けないでね。あなたは私の大切な、かけがえのない光なのよ。」
母はセレナの手をそっと握りながらやさしく言葉を紡ぐ。
その時のセレナの瞳に映るのは、もう「セレナ・ブラック」ではなく、母の目には「アリス・ブラック」として映っている自分だった。
その現実に、胸が張り裂けるほどの痛みが走った。
帰ってからずっと母は寝ていて、ようやく会話が叶ったと思えば、その言葉だったのだ。
衝撃は隠し切れなかった。
「大丈夫よ……私は強いもの……」
セレナは声を揺らさぬようにしながら、アリスのような話し方を思い浮かべて答えた。
母と話す、アリスとしての自分の言葉が、まるで陌路を行くように感じられた。
「そうね、あなたはシリウスの子ですもの。強いわね。」
母は誇らしげに微笑む。
その微笑みの美しさに、セレナの壊れそうな胸は悲鳴を上げそうだった。
かつてアリス・ブラックを憎もうと思ったことは一度もなかった。
今までは……。
今もそれは憎しみとは違うものかもしれない。
母の心には、まず何より誇り高き父レギュラスがいて、
そしてその次に兄アルタイルと自分の存在が同じくらい大きく占められていると信じていた。
だが母の中には、どれほど時が経っても、かつて燃えるように愛したシリウス・ブラックと、彼が育てたアリス・ブラックという女が存在し続けている。
家族だけでなく、別の存在があって、
それが母にとって同じくらい大切にされているという現実。
「特別」が二つあるという事実は、セレナの心を引き裂いた。
幼くて稚拙と笑われてしまいそうな嫉妬と寂しさは、あまりにも深く、痛く、虚しかった。
思い返せば、幼少期に母と過ごした時間は少なかった。
ほとんどは乳母や商人の手元で過ごし、母のぬくもりは遠いものだった。
兄が生まれた頃、母は少しだけ彼の側にいられたようだが、
自分が産まれてからは難産のために伏せることが増え、母の姿は遠のいていった。
仕方のないことだと理解している。
命がけで産んでくれたことへの感謝も同じくらいある。
しかし、その一方で成長するにつれて、かつて手に入れられなかった母との時間や思い出に執着するようになった。
だからこそ、アリスの名前を口にされたことは、言葉に尽くせないほど悔しく、深い虚しさに変わった。
それでも、静かな寝室に流れる揺るぎない母の愛と、その中にある複雑な感情を、セレナは静かに見つめていた。
夜の静寂が寝室を包む中、レギュラスはそっとアランの隣にベッドへ潜り込んだ。
薄暗い部屋の中で、アランの翡翠色の瞳がレギュラスの方を静かに見つめている。
「昼間、たくさん寝過ぎてしまったみたいです。」
アランは少し困ったような微笑みを浮かべながらそう呟いた。
「それは良かったです。眠れそうですか?」
レギュラスは優しく問いかける。
アランは首を横に振って答えた。
その仕草がどこか子供っぽくて愛らしく、レギュラスは思わず小さく吹き出してしまう。
レギュラスはアランの方へ体を向け、肘を立ててその上に頭を乗せるようにして横になった。
月明かりが窓から差し込み、二人の間に柔らかな光を落としている。
「じゃあ、今夜は夜通し語り明かしてもいいかもしれませんね。」
レギュラスの声には温かな期待が込められていた。
「あなたの方がきっと眠気が来るわよ。」
アランは微笑み返し、いたずらっぽく言った。
「望むところですよ。」
レギュラスは軽やかに応じ、二人の間に心地よい静寂が流れた。
アランとこうしてゆっくりと、どちらかが限界に来るまで話し明かすなんて――それは夢のような幸福だとレギュラスは思った。
きっと睡魔に襲われても、その瞬間まで持ちこたえようとするだろう。
それほどまでに、この貴重な時間を失いたくないと心から願っていた。
「今日の任務はどうでした?」
アランが静かに尋ねる。
「思ったより穏やかに終わりました。マグル生まれの魔法使いたちを捕らえましたが、騎士団の提案する処罰で済ませることにしました。」
レギュラスは淡々と答える。
「それは……意外ですね。」
アランは少し驚いたような表情を見せた。
「あなたが望むだろうと思ったからです。」
レギュラスは正直に告白し、アランの頬がほんのり赤らむのを見つめた。
話題はセレナのことに移った。
「セレナが今日帰ってきました。あの子、随分と大人になりましたね。」
「そうですね。もうすっかり王妃になる準備ができているみたい。」
アランの声には誇らしさと、少しの寂しさが混じっていた。
「でも時々、まだ子供っぽい一面も見せてくれます。今日も、あなたの体調のことで泣きそうになっていました。」
続いて二人は生まれてくるアルタイルの子供について語り合った。
「男の子でしょうか、女の子でしょうか?」とアランが問いかけると、
「どちらでも構いませんが、アルタイルに似て優しい子になってくれるでしょうね。」とレギュラスが答えた。
「名前はもう考えているのかしら?」
「まだのようです。でも、きっとブラック家に相応しい立派な名前を選んでくれるでしょう。」
「その子が大きくなる頃には、魔法界ももっと平和になっているといいですね。」
アランの言葉に、レギュラスは静かに頷いた。
「きっとそうなります。アルタイルとイザベラが、良い世界を作ってくれるでしょう。」
時々、二人は声を上げて笑い、時々しんみりと黙り込むこともあった。
言葉にならない想いが心の中を駆け巡り、ただ相手の存在を感じているだけで満たされる瞬間があった。
レギュラスはアランの美しさを損なわない翡翠色の瞳から、どうしても目を離すことができなかった。
どれほどの年月を重ねても、初めて出会った日と変わらず、その瞳に恋焦がれ続けてきた。
残された時間がどれほどあるかは分からないが、許される限り、レギュラスはアランのその瞳をずっと見つめていたいと願っていた。
月が少しずつ移動し、部屋の中の光の角度が変わっていく。
それでも二人は語り続け、時の流れを忘れるほど深い愛情に包まれていた。
夜が深まり、屋敷全体が静寂に包まれた寝室で、アランは穏やかな眠りの中へと導かれていった。
その夢は、まるで別の人生を歩んでいるかのように鮮明で美しかった。
夢の中の彼女の身体は、病に蝕まれる前の健康そのものだった。
軽やかに立ち上がり、どこへでも自由に歩いていける力強さに満ち溢れている。
不思議なことに、これが夢であることを彼女は静かに理解していた。
それでもその温かな幸福感は、現実以上に心を満たしてくれるものだった。
その夢の世界には、かつて燃えるように愛したシリウス・ブラックがいた。
二人は幸せそうに寄り添い、未来への希望を語り合っている。
彼の笑顔は昔と変わらず輝いていて、その声は優しく彼女の心を包み込んでいた。
「一緒に歩こう、アラン。」
シリウスが手を差し伸べ、その瞳には深い愛情が宿っていた。
暖かくて平穏で、どんな困難も二人で乗り越えていけそうなその世界は、かつて彼女が心の底で描いていた理想そのものだった。
若い頃に見た夢、叶わなかった願い、それらすべてがそこには存在していた。
けれど、歩みを進めるにつれて、心の奥で何かがチクチクと痛み始めた。
足りないものがある。大切な何かが欠けている。
その正体に気づいた時、アランの胸は締め付けられるような思いに襲われた。
この美しい世界には、自分が命懸けで産み育てた二人の子供たち——アルタイルとセレナの姿がどこにもないのだ。
アルタイルの優しい笑顔も、セレナの気高い瞳も、この世界には存在しない。
彼らと過ごした愛おしい日々、苦しい時も支え合った時間、子供たちの成長を見守ってきた母としての誇り——それらすべてが、この夢の中では失われている。
「いけない」
アランは心の中で強く思った。
「これは間違っているわ」
どんなに美しくても、どんなに幸せそうでも、我が子たちのいない世界など彼女には受け入れられなかった。
母として、妻として歩んできた人生のすべてを否定することなど、できるはずがなかった。
シリウスが振り返り、困惑したような表情を浮かべる。
「どうしたんだ、アラン?」
だが彼女は、もうこれ以上その背中を追いかけることはできないと悟っていた。
立ち止まり、そっとシリウスの手を離す。
その手は温かく、優しく、別れを惜しむように彼女の指先に触れていた。
「一緒には生きていけない」
そんな強い意志を込めて、彼女は静かにその手を離したのだ。
シリウスの表情が悲しげに歪む。
「アラン……」
「ありがとう、シリウス。でも、私には帰る場所があるの。」
彼女は涙を浮かべながらも、確かな声でそう告げた。
繊細な想いが胸の奥で渦巻く中、現実の世界がゆっくりと彼女を呼び戻し始めた。
「アラン、どこか痛みますか?」
レギュラスの心配そうな声に、彼女はゆっくりと目を開けた。
暗い寝室の中で、夫の愛情に満ちた瞳が彼女を見つめている。
その瞳は、まるで灯台の光のように彼女を現実へと導いてくれた。
夢の世界から、ようやく本当に帰るべき場所へと戻ってきた——その安堵感に、涙が自然と込み上げてきた。
ここには、変わらず隣で支えてくれるレギュラスがいる。
同じ屋敷の中には、愛おしい我が子たちアルタイルとセレナが眠っている。
これこそが彼女の現実であり、守るべき世界だった。
シリウスを愛したことは嘘ではない。あの燃えるような恋は確かに存在した。
けれどレギュラスと共に築いてきた人生を大切に思う気持ちも、紛れもない真実だった。
今となっては、かつてのシリウスへの思いよりも、目の前にいる夫への愛の方が遥かに深く、重いものになっている。
だからこそ、夢の中でもシリウスの背中を追い続けることはできなかったのだ。
アランは弱々しくも確かな微笑みを浮かべ、かすれた声で告げた。
「シリウスに連れていかれそうになりました。」
その言葉を聞いたレギュラスは、一瞬目を見開き、驚きと安堵の入り混じった表情を見せた。
「戻ってきてくれて何よりです。」
彼は深く息をつき、心からの安堵を込めて優しく微笑んだ。
「当たり前よ。私の帰る場所は、あなたのところですから。」
その言葉は、静寂に包まれた部屋の中で特別な響きを持って二人の間に流れた。
レギュラスはより深い微笑みを浮かべ、そっとアランの手を握り返した。
二人の間には、言葉では表現できないほど確かで深い愛が満ちていく。
夜は更けていったが、その寝室には温かな光が宿り続けていた。
その日、神聖な魔法法廷の重厚な扉が開かれた時、レギュラス・ブラックは静かに、しかし確実にほんのりとアルコールの香りを纏った状態で現れた。
アリス・ブラックは彼が隣に立った瞬間、その微かな酒の匂いを敏感に察知した。
まさか、この男は神聖な魔法法廷という場であるにも関わらず、酒を飲んで出廷しているというのか。
呆れを通り越して、法廷そのものを侮辱しているのではないかとさえ思えてならなかった。
この日扱われるのは、小さな村で起こったマグルと純血魔法使いの争いが死傷事件にまで発展した案件だった。
当然、アリスはマグル側を擁護する立場に立ち、レギュラスは純血魔法使い側を擁護してくるものだろうと予想していた。
それがこれまでの彼のやり方であり、絶対に譲らない信念だと理解していたからだ。
しかし、アリスの予想は完全に裏切られることになった。
レギュラスは驚くべきことに、純血魔法使いの過去の悪行を暴く証人を何人も法廷に出廷させ、純血魔法使い側に明らかな非があったことを認めさせたのだ。
その結果、マグルは無罪放免となった。
アリスは自分の目を疑った。
以前にも、レギュラス・ブラックが処罰を決める際に恩赦をかけてくれたことを、キングスリーから聞かされてはいた。
けれど、こうして実際に目の前でその信念に反するような行動を取られると、理解が追いつかなかった。
あの冷徹なまでの純血至上主義者が、一体何を考えているのか。
純血魔法使い側に過去の非道な行いがあったとしても、普通なら何がなんでもそれを握り潰し、マグル側を徹底的に潰しにかかってくるような男のはずなのに。
「飲み過ぎで判断力を鈍らせているのですか?」
アリスは皮肉を込めて問いかけた。
「酔いが回っていても、あなたの杖を奪うことはできますよ。」
レギュラスは淡々と、しかし確かな自信を込めて応じた。
その瞬間、アリスは反射的にレギュラスに向けて杖を構える仕草を見せた。
しかし、レギュラスは振り返ることすらなく、見えないほど素早く無駄のない動きでアリスの杖を鮮やかに奪い取ってしまった。
一瞬のうちに、杖はレギュラスの手の中に収まっていた。
アリスは悔しさに唇を噛んだ。
別に本気で杖から呪文を放つつもりなどなかった。
ただ、威嚇のひとつでもしてやりたいという気持ちが湧き上がったのだ。
酔いの入った状態で法廷に現れ、そしてまるで「手加減をしてやったのだ」と言わんばかりのやり方で、マグル側を彼の力によって無罪にしてみせたその態度が腹立たしくてならなかった。
「返してもらえますか?私の杖。」
アリスが静かに要求すると、
「どうぞ。」
レギュラスは素っ気なく杖を差し出した。
杖を手渡される瞬間、二人の距離が僅かに縮まる。
その時、再びふわりと香るアルコールの匂いが鼻をついた。
アリスは眉をひそめた。
「ここは法廷ですよ?何を考えているのかは知りませんが、少なくとも酒は抜いてから来るべきです。」
アリスの厳しい言葉に対して、レギュラスはクスッと嘲笑うような笑いを見せた。
その表情には、どこか自嘲的なものも混じっているように見えた。
しばらくの重い沈黙が流れた後、レギュラスの方から口を開いた。
「アランが、あなたに会いたがっているようです。近いうちに屋敷にどうぞ。今度は正式に招きましょう。正門から堂々といらしてかまいませんよ。」
皮肉に皮肉を重ねるように言ってくるこの男は、やはりどこまでも嫌な感じだった。
もうずっと昔のことを、いまだに持ち出してくるなんて。
かつて幼かった自分が、アランに会いたくてブラック家の屋敷に忍び込んだあの事件のことを、今になって蒸し返すなんて。
本当に嫌な男だと思えてならなかった。
けれど、この男がわざわざ自分を招くことを許すなんて。
そして、少しずつマグルやマグル生まれの魔法使いに対して寛大になろうと変わりつつあるその態度を、以前アルタイルから聞かされたアランの体調と合わせて考えると——
やはり、アランの身体は良い方向に向かっているというわけではないのだろう。
その推測が、アリスの胸の奥をきゅっと締め付けるような痛みで満たした。
法廷を後にするレギュラスの背中を見つめながら、アリスは複雑な感情に包まれていた。
憎らしいほど高慢で、相変わらず嫌味な男——それでも、その変化の裏にある深い愛情を感じ取らずにはいられなかった。
夜の屋敷は重苦しい静寂に包まれていた。
セレナはまだ戸惑いと怒りが胸を支配したまま、目の前の光景を信じられない思いで見つめていた。
父レギュラスが、あのアリス・ブラックを正式に招いたのだ。
あの父が——
誇り高き純血至上主義を掲げ、この世界の頂点に立つべき者だと信じてきた父が——
かつての恋敵、シリウス・ブラックの養子であり、マグル生まれの女をこのブラック家の屋敷に迎え入れるなんて。
一体何が起きたのだろうか。
セレナの心は混乱と不信、そして鋭い痛みに引き裂かれていた。
「お父様、これは一体どういうことです?」
セレナは感情を押し殺せず、レギュラスに詰め寄る。
しかし、隣に立つアルタイルが静かに制止した。
「セレナ、落ち着きましょう。先生に対しても失礼です。」
兄のように、冷静でいられるはずもなかったセレナは、その言葉にも苛立ちを隠せなかった。
このマグルの女を、ただの「先生」などとは呼べなかった。
確かに彼女はホグワーツで教鞭を執っていた時期があり、師として敬われるべき存在だったかもしれない。
だが今は違う。
もうホグワーツの教師ではないし、このブラック家の一員として迎え入れられた彼女を「先生」などと呼ぶ筋合いはないと、セレナは強く思った。
シリウスに養子に迎えられただけで、恐れ多くもブラック家の名前を名乗るようになったその女——アリス・ブラックに、母アランがどれほど気を遣い、愛情を持って接しているのか。
それを理解できずにいるセレナの心は、尊敬よりもまず敵意で満ちていた。
「セレナ……大きくなったのね。」
アリスが静かに言葉をかけた。
「ええ、立場というものを理解できるほどには大人になりましたわ。」
セレナも負けじと、精一杯の嫌味を込めて応えた。
まるで「よくもこのブラック家に足を踏み入れたものだ」という攻撃そのものだった。
本当は罵りたかった。
母は自分たちだけの母であり、父の愛する妻なのだ。
その愛情を他の誰とも分け合いたくない。
シリウスにも、アリスにも絶対に奪われたくない。
「どうしてなんですか、お父様。あんまりじゃないですか。」
セレナの声には涙と怒りが混じっていた。
「セレナ、アランが望むことを叶えてあげたいんですよ。」
レギュラスは深く静かな声でそう告げた。
その言葉に、セレナの胸は張り裂けそうな痛みで満たされた。
母の口からさえアリスの名前が出ることが嫌でたまらなかったのに、ついに父の口からもその名が語られてしまう現実。
母という尊い存在を、マグル生まれの女と分かち合うことを強いられることが、セレナにとっては何よりも屈辱的で耐え難いものだった。
時間と共に重く深まる家族の溝。
しかし決して断ち切れることのない複雑な愛情の糸は、今もまだ静かに繋がっているのだと誰もが知っていた。
アルタイルは静かな屋敷の廊下を歩きながら、隣に立つアリスに穏やかに話しかけた。
「すみません、先生。あの、さっきのセレナの態度については……彼女、感情的になるとああなってしまうんです。」
アリスは少しだけ微笑みを浮かべて答えた。
「いいえ、私も分かっています。この屋敷に足を踏み入れること自体、きっと場違いで、歓迎されていないことも承知していますから。」
アルタイルはその言葉に申し訳なさと同時に、セレナの気持ちも理解できるのだと胸の内で思った。
セレナは、自分と違って母アランと共に過ごせる時間が限られていた。
常に伏せる母の姿を間近に見て育ち、甘えられずに大人になるしかなかったのだ。
「もし人生の順番が違っていたら、セレナにこんな辛い思いをさせずに済んだのかもしれませんね。」
アルタイルは深く息をついた。
幼いセレナの心には、母アランが弱っていく姿だけでなく、父のために用意された側室候補の若い女性たちの存在も刻まれていた。
幾人もの女性と暮らす日々が、少しずつ彼女の幼い心に深い傷跡を残したことだろう。
アルタイルは、自分がホグワーツに通っていたため、そばでセレナを守ることが叶わなかったことを悔やんだ。
帰省の度に見る、少しずつ不自然なほど美しく成長を遂げようとするセレナの姿は、彼にとって何よりも切なかった。
セレナは母と父、そして家族のために、笑顔を振りまきながらも、いつの間にか凛と張り詰めた美しさを纏い、隙や弱さを一切見せない孤高の姫へと変わっていったのだ。
そのセレナが唯一感情を思い切りあらわにしたのが、アリスへの嫌悪感だった。
アルタイルはその思いを心から受け入れてやりたいと願った。
けれど同時に、母の気にかかる存在としてアリスという女性がいることも理解していた。
母アランが愛したのはシリウス・ブラックであり、そして彼が育て上げた、マグル出生の女性だった。
「なぜよりにもよってマグルなのか」と感じることもあったが、排他的で差別的な自分の思考さえも、もしかすると弱さの一つなのかもしれないと自覚していた。
誰よりも誇り高い純血魔法使いとしての地位を築き上げてきた父レギュラスですら、アリスを母アランの前に連れて行くことを許した。
それは、母を深く愛するゆえに、自らの信念のすべてを曲げる覚悟があったからこそだったのだ。
アルタイルは父のその行動を、強さと尊さだと感じていた。
母がアリスを大切に思うのなら、自分も同じように彼女を受け入れ、尊重する人間でありたいと強く思った。
「母の部屋はあちらです。」
アルタイルはしずしずと告げ、アリスは小さく礼を返した。
二人が部屋へと入る間際に、アルタイルは立ち止まり、静かに息を吐く。
二人の会話が聞こえないうちに、一歩、また一歩と距離を取っていく。
何を話すのか、それは――自分が知るべきことではないと直感していたからだった。
静かな廊下に、アルタイルの足音だけが柔らかく響く。
そして扉が静かに閉じられ、部屋の中はふたりの時間で満たされていった。
薄暗い寝室の中、久しぶりに目にしたアランの姿は、かつて魔法法廷のカフェテラスで見かけた時よりもさらに痩せ細っていた。
その弱りようは、アリスの胸に切り裂くような痛みを走らせ、まるで悲鳴をあげそうなほどだった。
しかし、やつれた身体の奥底にいまだ燦然と輝くアランの美しさは変わらず存在していた。
「アリス、来てくれたのね。嬉しいわ。」
アランの声はかすかに震えながらも柔らかく、彼女は癖のようにアリスに手を差し伸べた。
その手を、アリスはためらうことなくそっと取った。
傍らに寄り添いながら、静かな時間が流れていく。
「正式にお招きいただきました。」
アリスは言葉に迷いながらも冗談を交えた。
「何と言えばいいのかわからなくて。でも、しんみりしすぎるのは悲しすぎるから。」
過去の失敗を引き出すように話すと、アランはにんまりと微笑んだ。
その微笑みは決して力強くはないが、確かにそこに美しさがあった。
アランの視線がふとアリスの首元にかかる赤いネックレスへと向かった。
「そのネックレスの意味を聞いているかしら?」
慈しむような瞳で見つめられ、アリスはその場所に手を伸ばした。
「アルタイルから渡されたものだけど、意味まではわからないわ。」
アランは優しくベッドの脇をたたき、「ここに座って」と促した。
アリスは素直に頷き、その場に腰を下ろす。
手は離さず、アランの手を握ったままだったが、その温もりは以前のように力強くはなかった。
生の灯火がか細く消え入りそうな、その温度にアリスは胸が締め付けられる思いを抱いた。
「レギュラスはきっと、あなたにこのネックレスの意味を話さないでしょうから、このことは内緒にしておきましょうね。」
アランが小声で囁くと、アリスは静かに頷いた。
「あのネックレスには、あの人──レギュラスの血の誓いが込められているのよ。」
その言葉に、アリスの心は跳ね上がった。
血の誓い――それは、術者の命すら引き換えにする禁断の魔法。
そんな恐ろしいものが、この繊細なネックレスに宿っているという事実に、アリスは戦慄した。
一体あの男は、自分の命と引き換えに何を守ろうとしたのか。
思うだけで、背筋が凍りつくようだった。
「それはもともと、私にくれたものです。私はかつて許されざる呪文を受けてしまいましたから。」
アランの口から告げられる真実の重さに、アリスは頭が痛くなった。
あんなにもか弱く、そして美しい人に、禁じられた呪文が降りかかったなんて。
その事実が一気に憎しみの炎となり胸に燃え上がった。
「そして、あの人はこれをくれました。このネックレスがあれば、どんな攻撃の呪文もすべてあの人に跳ね返ります。」
その言葉にアリスは深く心強さを感じたが、同時に問いが浮かんだ。
あの男が彼女を守るために用意したものを、なぜ自分に渡したのか、その理由がわからなかった。
「どうしてそれを私に?」
「私があなたを守りたいからよ。」
アランの言葉は、まるで胸を強く締め上げるように痛みをもたらした。
‘ぎゅっ’と表現するにはあまりにも彼女の胸は締め付けられ、きりきりと腹の底を痛めつけるほどだった。
涙が頬を伝い、止めどなく溢れ出す。
「泣かないで、アリス。あなたはシリウスと同じ、光を纏った子なのよ。」
アランのか細い指先がそっとアリスの頬の涙を拭いていく。
「どうして……」
アリスの声は震えていた。
「愛しているからよ、アリス。出会ってくれてありがとう。シリウスの元で本当に立派に育ってくれてありがとう……あなたは私の誇りなの。」
その言葉が、アリスの感情の堰を決壊させた。
泣き声が喉に詰まるほど溢れ、涙は止まらなかった。
「だから、お願い……レギュラスのことを許してほしいの。」
アランはそう辛そうに話し、瞳を伏せて申し訳なさげに続けた。
「あの人はね、あなたにネックレスを渡すことを反対しなかった。これから私がいなくなった後も、あの人はその命の尽きるまで、あなたを守ってくれます。だから、何も恐れずに、自分の生きたい未来を走り抜けてほしいの……」
アリスは思わず、どこまで深く愛されていたのだろうかと自問せずにはいられなかった。
ずっと渇望し続けてきた「母」という存在の、真の温もりに、今ようやく触れたのだと感じた。
静寂に包まれた寝室で、二人の間に流れる時間は言葉では伝えきれないほど深く、そして美しかった。
ブラック家の屋敷は、かつて忍び込んだあの日のまま、時を閉じ込めたように荘厳な姿を保っていた。
重厚な壁、黒曜石のように磨かれた床、そして壁に並ぶ数々の肖像画――どれもが、外界とは隔絶された誇り高き純血の象徴として、いまだに冷ややかな威容を放っていた。
アリスにとって、それはひどく息苦しいものだった。まるで「お前の居場所ではない」と囁くように、空間そのものが彼女を拒絶していたからだ。
だが今、胸を最も締め付けていたのは、その空間に漂う拒絶ではなかった。
それ以上に、ようやく掴んだ「母の愛」という温もりを、永遠に手放さなければならないという、冷酷な現実だった。
アランの声も、指先のかすかな温度も、柔らかな微笑みも――すべてが既に遠ざかりつつある。その事実を思うだけで、胸の奥が切り裂かれるように痛んだ。
ゆっくりとアランの部屋を出て、静まり返った廊下を歩く。
肖像画たちは一斉に目を向け、マグルであるアリスを、鋭い刃物のような視線で貫いてきた。
氷のように冷たいその眼差しが、彼女の全身を刺す。
それでも涙は止まらなかった。アランの言葉に崩れ落ちるように溢れた涙は、今もなお頬を伝い、形を変えることなく零れ続けていた。
重い足取りで階段を降り、広々としたロビーにたどり着く。
そこには、レギュラス・ブラックが静かにソファに腰掛けていた。
背筋を伸ばし、ただ虚空を見据えるその姿は、まるで何世代も前から動かずにこの場に座していた古き肖像の一枚のようだった。
アリスが近づくと、彼は背後の気配だけでそれを察したのだろう。振り返ることもなく、低く穏やかな声を落とす。
「……話せましたか。」
赤いペンダントの意味を知ってしまった今、そのことを彼に告げるべきか――アリスは一瞬、心を揺らした。
だが結局、彼女は言わないことを選んだ。
知らないふりを通す。胸の奥に押し込めて、決して言葉にはしない。
そう決めた。そうでなければ、この先の自分の心がもたなかったから。
きっと、自分たちがこれから先、本当の意味で分かり合い、共に歩む未来など訪れることはないだろう。
あまりにも多くを失いすぎた。
シリウスが――彼女の唯一の父が――夢見た未来。アランと共に生き、アリスを抱きしめて育んでいく未来。
それは、この男の存在ゆえに奪われたのだ。
幼い少女が渇望した「三人での家族」という夢は、鋭い刃物で引き裂かれるように無残に散った。
さらに、幾度となく彼と杖を交え、死を賭して戦った記憶も消えることはない。
憎しみは簡単に溶けてはくれない。赦しは決して軽くない。
だからこそ――アランが最後に願った「レギュラスを許してほしい」という言葉に、心から頷くことはどうしてもできなかった。
その願いは、あまりにも重く、痛すぎた。
けれど、それでも。
血の誓いを込めたペンダントを、自ら反対せずにアリスへ託すことを認めた男の心を、アリスは確かに受け取った。
すべてを赦せはしない。だが――もう二度とこの男に杖を向けることはしない。
それは、せめてもの応えであり、アランが望んでいることだと信じた。
アリスは深く息を吸い、声を震わせぬよう慎重に言葉を選んだ。
「……ええ、話せました。招いてくださったこと、感謝します。」
それは簡潔で、飾り気のない言葉だった。
レギュラスは沈黙を保ったまま、返事をしなかった。
その表情は見えない。背を向けたまま、ただ静寂の中に存在しているだけだった。
だが、返答のないその空白にすら、何か確かなものが宿っているようにアリスは感じた。
アリスはそのまま背を向け、屋敷の重たい扉を押し開けた。
古びた蝶番が軋む音が、長い年月を告げるかのように低く響く。
外に出ると、世界は驚くほど澄んでいた。
夜空には月が冴え渡り、冷たい風が頬を撫でていく。
屋敷の中で押しつぶされそうだった胸が、少しだけ解き放たれる。
それでも、アランの温もりはもう戻らない。
その痛みを抱えたまま、アリスは静かに屋敷を後にした。
――その背中を、重厚な扉が音もなく閉じていった。
レギュラスは最近、ほとんどの時間を屋敷でアランの隣に過ごしている。
病に伏した妻の傍らにいることが日常となり、外の世界を意識する余裕さえ少なくなっていた。
けれど今夜、呼び出しがあり指令に応じて外へ出たことで、自分がまだ引退したわけではないと改めて思い知らされた。
「引退したのかと思ったが、健在そうで何よりだ。」
ルシウス・マルフォイが皮肉を含んだ声色で笑う。
レギュラスは黙して応じ、変わらぬ杖捌きで呪文を放ち続ける。
現場では、マグル生まれの魔法使いたちが結託し、魔法界とマグル界を繋ぐ抜け道を作ろうとしていた。
それは、純血主義の体制がもっとも嫌うものだ。
レギュラスは問答無用で制しにかかる。
冷静な手つきで、深い迷いもなく、次々と敵を無力化していく。
捉えたマグルの魔法使いたちは全員、魔法裁判にかけられることになるだろう。
本当はこのまま、殺してしまってもよかった。
少なくとも昔のレギュラスならそうしていた。
けれど――今は、それをしなかった。
「情けをかけるとは、お前らしくもない。」
ルシウスが呆れたような目でレギュラスを見ている。
「そういうのではありません。魔法省には遺憾ですが、マグル生まれの役職の者もいますから。余計な対立は避けて通るべきです。」
レギュラスは、もっともらしい理屈で返す。
ルシウスは不満げに鼻を鳴らし、話はそれで終わった。
しかし、本当の理由は他にある。
おそらく、それはアランがそうすることを望むだろうと考えたからだった。
アランがアリス・ブラックを気にかけてほしいと告げてきたとき、
それはアリスの持つ思想もまた尊重してほしいという、静かな願いなのだと受け取った。
純血魔法使いとマグルが分け隔てなく生きていける世界――
自分が築き守ろうとしてきた世界とは、まったく正反対の理想郷。
誇りと理想を、あれほど手放しがたかった自分が。
この年齢になってようやく、愛する者のために手放してもいいと思えるほどになった。
それは、痛みと静かな誓いが混ざる新しい境地だった。
心の底からアリスやアランの夢見た思想に共鳴できるわけではない。
けれど、そのすべてを否定し、押さえつけ、踏み躙ってやろうとは、もう思わなかった。
思いたくなかった。
これから先も自分は、おそらく表立ってアリス・ブラックを守ることはしないだろう。
だけれど――
こうしてマグル生まれの魔法使いたちを、あえて問答無用で殺していくほどの冷酷さを仕舞い込むことで、
自分なりの守りとしてその存在を示そうと思った。
それが、レギュラス・ブラックにとってアランに望まれた「アリスという女を守る術」だった。
夕闇に沈む街路の片隅で、降り積もる葛藤を背に杖を納める。
冷たい夜風が、少しだけ胸の奥の孤独を洗い流してくれたような気がした。
心から共鳴できない理想――それでも、大切な人のために譲歩できる自分がいる。
その事実が、レギュラスの胸にひと筋の温かさと痛みを残していくのだった。
重苦しい静けさに包まれた魔法法廷。
レギュラスはマグル生まれの魔法使いたちを連れて堂々とその場に立っていた。
騎士団のメンバー――キングスリーらが席に並び、レギュラスを睨むような視線を静かに送る。
誰もが「冷徹なレギュラス・ブラック」が入る場所に違和感を覚えていた。
審判の杖を持つ魔法法廷大臣が壇上に立ち、判決を下そうとしている。
レギュラスは既に、処罰は騎士団側が妥当だと提示する案に順ずる、と事前にサインしていた。
予定調和のような形で開かれた審理――それでも法廷内の空気は張り詰めている。
騎士団の望む処罰は、孤児院での魔法指導の慈善活動、そして少額の罰金。
大臣がその内容を淡々と告げると、場内が揺れる。
その瞬間、騎士団のメンバーたちは信じられないという顔でレギュラスを見つめ返した。
誰もが口々にその理由を探ろうとする。
「あのレギュラス・ブラックが、冷徹にマグルを切り捨ててきた男が……」
「なぜこんな甘い判決を容認したのか?」
「何か裏があるのでは?」
法廷を出ていくレギュラスの背後を、キングスリー・シャックルボルトが静かに追いかけた。
「レギュラス・ブラック、一体何を考えている?」
その問いにレギュラスは振り向かず、歩みを止めることなく短く答えた。
「何も。妻がそう望むようですので。」
廊下の陰影の中で、その言葉だけが静かに響く。
キングスリーが驚きと戸惑いの混じった表情で後ろ姿を見送る。
本人ですら、未だに驚いている。
アランを思う気持ちだけで、かつて自分が築き上げてきた信念や誇りのすべてを、簡単に崩してしまっても構わないと思える日が来るなんて、誰が想像しただろうか。
かつては冷徹に裁きを下してきた。
純血以外は容赦なく――それが、ブラック家の誇りであり、自分自身の強さだと信じてきた。
だが今は違う。
マグル生まれの魔法使いたちを問答無用で断罪することなく、
慈善活動と罰金という、温もりをまとった判決に同意した自分。
それは、アランの望みに応えたいという思いだけが、すべての価値観を上書きしてしまったからだ。
愛する人の想いを叶えるためなら、誇りも信念も、こうして手放していけるのだと初めて気づいた。
法廷の廊下を抜ける足もとに、ほんの僅かな温かい風が通り抜けていく。
過去の自分なら感じられなかった僅かな安堵が、胸に広がっていった。
その夜、レギュラスは窓辺に佇み、薄闇の向こうにいるアランのことをひとときだけ静かに思った。
信念を手放すほどの愛が、人を変えていくことをほんとうに知ったのは、この瞬間だった。
夕暮れの屋敷の大広間に、セレナが静かに帰ってきた。
彼女の声は柔らかく、穏やかに空間を満たす。
「おかえりなさい、お父様。少しだけ休暇をいただきましたの。」
レギュラスは微笑みながら答えた。
「アランのためですか?」
「ええ。お兄様からも、『帰れる時は帰ってこい』と手紙をいただいていました。」
アルタイルの細やかな心配りを想い出し、レギュラスは深い敬意を感じていた。
かつて自分が息子と同じ年齢のころ、一体どこまで家族のことを思いやれていただろうか、と。
セレナはホグワーツの最終学年に進み、日増しにブラック家の血が色濃く現れるようになった。
彼女の佇まいには美しさと気品が一層磨きがかかり、これがまさに王家に受け継がれるべき誇り高き家系の娘であることを示していた。
レギュラスは、ときおり胸が締めつけられるような寂しさに襲われるのを感じていた。
誇らしいが、同時に自分の手から本当に離れていってしまうことへの言いようのない喪失感があった。
「アランとは話せましたか?」
レギュラスが慎ましく尋ねる。
「ええ、少しだけ。」
しかしセレナの表情はどこか凛としていて、薄くツンとした態度が伺えた。
アルタイルとは対照的に、セレナはいつも強さを全面に押し出す。
泣いて懇願することもなく、動揺を見せることも少ない。
事実を静かに、しかし誰にも揺るがぬ意志で受け入れ、それを昇華する術を身につけていた。
子供らしい一面が見え隠れすることもあるが、その芯は誰にも見えぬほど深く、凛として強かった。
彼女が女で生まれたことを悔やましくさえ思ったあの頃の考えが、今では遠い記憶となっている。
セレナ・ブラックは、男であろうと女であろうと、それを越えてこの国の王に嫁ぐ強く美しい、誇り高き少女に成長していた。
今、彼女は唇を固く噛みしめ、口を閉ざしている。
一瞬、不機嫌にも見えるその表情を、レギュラスは親として敏感に感じ取っていた。
「セレナ、よく帰ってきてくれましたね。アランもきっと喜びます」
彼は背の伸びたその頭をやさしく撫でた。
そろそろこうして撫でてやるのは、やめた方がいいのかもしれないと胸の内で呟きながら。
「お父様……お母様……今日はちょっと…色々昔と今が混ざってるみたいでした。」
言葉は小さく途切れ、セレナの表情はゆっくりと美しく歪んでいく。
その頬には小さな涙が一筋、静かに落ちた。
レギュラスは思わず息を飲んだ。
随分と美しい涙だと思った。
あんなに泣きじゃくっていた幼いセレナは、もう確かにどこにもいない。
「きっと痛み止めのせいですね。そういうことが時々あるみたいだと、医務魔女が言っていました。」
彼は静かな声でそう説明した。
強い痛み止めの魔法薬は、時に記憶の混乱を引き起こし、過去と現在の境界を曖昧にすることがある。
今日、セレナは初めて、混ざり合う母・アランの姿を目の当たりにし、その衝撃を隠しきれなかったのだろう。
家族の変化をただ見守る小さな祈りが、静かに紡がれていく。
寝室の空気は静かで柔らかく、母アランは長い時間眠っていた。
時折、瞼を微かに開き、短く声を発することがあった。
その瞬間を、セレナはいつもそっと見守っていた。
「お母様、今日は課外授業をしてきたの。屋敷に立ち寄ったのよ。」
セレナは静かに話しかけた。
けれど、本当は兄アルタイルに呼ばれたから戻ってきたのだと告げることが、胸を締めつけて苦しかった。
必死に誰かに知られないように、それらしい理由を並べる。
その時、母は突然、セレナではなく「アリス、本当に綺麗になったわ」と呼んだ。
混乱と驚きでセレナは目を見開いた。
なぜアリスなのか。何の冗談なのか。
しかしもっと強く心を揺さぶられたのは、母がその名を口にし、真剣な表情で話していることだった。
まるでそれが自然で、何の違和感もなく、当たり前のようにセレナへ向けて言葉を紡いでいる。
胸の奥がちくりちくりと痛んだ。
彼女の心は乱れていた。
「危ない任務は受けないでね。あなたは私の大切な、かけがえのない光なのよ。」
母はセレナの手をそっと握りながらやさしく言葉を紡ぐ。
その時のセレナの瞳に映るのは、もう「セレナ・ブラック」ではなく、母の目には「アリス・ブラック」として映っている自分だった。
その現実に、胸が張り裂けるほどの痛みが走った。
帰ってからずっと母は寝ていて、ようやく会話が叶ったと思えば、その言葉だったのだ。
衝撃は隠し切れなかった。
「大丈夫よ……私は強いもの……」
セレナは声を揺らさぬようにしながら、アリスのような話し方を思い浮かべて答えた。
母と話す、アリスとしての自分の言葉が、まるで陌路を行くように感じられた。
「そうね、あなたはシリウスの子ですもの。強いわね。」
母は誇らしげに微笑む。
その微笑みの美しさに、セレナの壊れそうな胸は悲鳴を上げそうだった。
かつてアリス・ブラックを憎もうと思ったことは一度もなかった。
今までは……。
今もそれは憎しみとは違うものかもしれない。
母の心には、まず何より誇り高き父レギュラスがいて、
そしてその次に兄アルタイルと自分の存在が同じくらい大きく占められていると信じていた。
だが母の中には、どれほど時が経っても、かつて燃えるように愛したシリウス・ブラックと、彼が育てたアリス・ブラックという女が存在し続けている。
家族だけでなく、別の存在があって、
それが母にとって同じくらい大切にされているという現実。
「特別」が二つあるという事実は、セレナの心を引き裂いた。
幼くて稚拙と笑われてしまいそうな嫉妬と寂しさは、あまりにも深く、痛く、虚しかった。
思い返せば、幼少期に母と過ごした時間は少なかった。
ほとんどは乳母や商人の手元で過ごし、母のぬくもりは遠いものだった。
兄が生まれた頃、母は少しだけ彼の側にいられたようだが、
自分が産まれてからは難産のために伏せることが増え、母の姿は遠のいていった。
仕方のないことだと理解している。
命がけで産んでくれたことへの感謝も同じくらいある。
しかし、その一方で成長するにつれて、かつて手に入れられなかった母との時間や思い出に執着するようになった。
だからこそ、アリスの名前を口にされたことは、言葉に尽くせないほど悔しく、深い虚しさに変わった。
それでも、静かな寝室に流れる揺るぎない母の愛と、その中にある複雑な感情を、セレナは静かに見つめていた。
夜の静寂が寝室を包む中、レギュラスはそっとアランの隣にベッドへ潜り込んだ。
薄暗い部屋の中で、アランの翡翠色の瞳がレギュラスの方を静かに見つめている。
「昼間、たくさん寝過ぎてしまったみたいです。」
アランは少し困ったような微笑みを浮かべながらそう呟いた。
「それは良かったです。眠れそうですか?」
レギュラスは優しく問いかける。
アランは首を横に振って答えた。
その仕草がどこか子供っぽくて愛らしく、レギュラスは思わず小さく吹き出してしまう。
レギュラスはアランの方へ体を向け、肘を立ててその上に頭を乗せるようにして横になった。
月明かりが窓から差し込み、二人の間に柔らかな光を落としている。
「じゃあ、今夜は夜通し語り明かしてもいいかもしれませんね。」
レギュラスの声には温かな期待が込められていた。
「あなたの方がきっと眠気が来るわよ。」
アランは微笑み返し、いたずらっぽく言った。
「望むところですよ。」
レギュラスは軽やかに応じ、二人の間に心地よい静寂が流れた。
アランとこうしてゆっくりと、どちらかが限界に来るまで話し明かすなんて――それは夢のような幸福だとレギュラスは思った。
きっと睡魔に襲われても、その瞬間まで持ちこたえようとするだろう。
それほどまでに、この貴重な時間を失いたくないと心から願っていた。
「今日の任務はどうでした?」
アランが静かに尋ねる。
「思ったより穏やかに終わりました。マグル生まれの魔法使いたちを捕らえましたが、騎士団の提案する処罰で済ませることにしました。」
レギュラスは淡々と答える。
「それは……意外ですね。」
アランは少し驚いたような表情を見せた。
「あなたが望むだろうと思ったからです。」
レギュラスは正直に告白し、アランの頬がほんのり赤らむのを見つめた。
話題はセレナのことに移った。
「セレナが今日帰ってきました。あの子、随分と大人になりましたね。」
「そうですね。もうすっかり王妃になる準備ができているみたい。」
アランの声には誇らしさと、少しの寂しさが混じっていた。
「でも時々、まだ子供っぽい一面も見せてくれます。今日も、あなたの体調のことで泣きそうになっていました。」
続いて二人は生まれてくるアルタイルの子供について語り合った。
「男の子でしょうか、女の子でしょうか?」とアランが問いかけると、
「どちらでも構いませんが、アルタイルに似て優しい子になってくれるでしょうね。」とレギュラスが答えた。
「名前はもう考えているのかしら?」
「まだのようです。でも、きっとブラック家に相応しい立派な名前を選んでくれるでしょう。」
「その子が大きくなる頃には、魔法界ももっと平和になっているといいですね。」
アランの言葉に、レギュラスは静かに頷いた。
「きっとそうなります。アルタイルとイザベラが、良い世界を作ってくれるでしょう。」
時々、二人は声を上げて笑い、時々しんみりと黙り込むこともあった。
言葉にならない想いが心の中を駆け巡り、ただ相手の存在を感じているだけで満たされる瞬間があった。
レギュラスはアランの美しさを損なわない翡翠色の瞳から、どうしても目を離すことができなかった。
どれほどの年月を重ねても、初めて出会った日と変わらず、その瞳に恋焦がれ続けてきた。
残された時間がどれほどあるかは分からないが、許される限り、レギュラスはアランのその瞳をずっと見つめていたいと願っていた。
月が少しずつ移動し、部屋の中の光の角度が変わっていく。
それでも二人は語り続け、時の流れを忘れるほど深い愛情に包まれていた。
夜が深まり、屋敷全体が静寂に包まれた寝室で、アランは穏やかな眠りの中へと導かれていった。
その夢は、まるで別の人生を歩んでいるかのように鮮明で美しかった。
夢の中の彼女の身体は、病に蝕まれる前の健康そのものだった。
軽やかに立ち上がり、どこへでも自由に歩いていける力強さに満ち溢れている。
不思議なことに、これが夢であることを彼女は静かに理解していた。
それでもその温かな幸福感は、現実以上に心を満たしてくれるものだった。
その夢の世界には、かつて燃えるように愛したシリウス・ブラックがいた。
二人は幸せそうに寄り添い、未来への希望を語り合っている。
彼の笑顔は昔と変わらず輝いていて、その声は優しく彼女の心を包み込んでいた。
「一緒に歩こう、アラン。」
シリウスが手を差し伸べ、その瞳には深い愛情が宿っていた。
暖かくて平穏で、どんな困難も二人で乗り越えていけそうなその世界は、かつて彼女が心の底で描いていた理想そのものだった。
若い頃に見た夢、叶わなかった願い、それらすべてがそこには存在していた。
けれど、歩みを進めるにつれて、心の奥で何かがチクチクと痛み始めた。
足りないものがある。大切な何かが欠けている。
その正体に気づいた時、アランの胸は締め付けられるような思いに襲われた。
この美しい世界には、自分が命懸けで産み育てた二人の子供たち——アルタイルとセレナの姿がどこにもないのだ。
アルタイルの優しい笑顔も、セレナの気高い瞳も、この世界には存在しない。
彼らと過ごした愛おしい日々、苦しい時も支え合った時間、子供たちの成長を見守ってきた母としての誇り——それらすべてが、この夢の中では失われている。
「いけない」
アランは心の中で強く思った。
「これは間違っているわ」
どんなに美しくても、どんなに幸せそうでも、我が子たちのいない世界など彼女には受け入れられなかった。
母として、妻として歩んできた人生のすべてを否定することなど、できるはずがなかった。
シリウスが振り返り、困惑したような表情を浮かべる。
「どうしたんだ、アラン?」
だが彼女は、もうこれ以上その背中を追いかけることはできないと悟っていた。
立ち止まり、そっとシリウスの手を離す。
その手は温かく、優しく、別れを惜しむように彼女の指先に触れていた。
「一緒には生きていけない」
そんな強い意志を込めて、彼女は静かにその手を離したのだ。
シリウスの表情が悲しげに歪む。
「アラン……」
「ありがとう、シリウス。でも、私には帰る場所があるの。」
彼女は涙を浮かべながらも、確かな声でそう告げた。
繊細な想いが胸の奥で渦巻く中、現実の世界がゆっくりと彼女を呼び戻し始めた。
「アラン、どこか痛みますか?」
レギュラスの心配そうな声に、彼女はゆっくりと目を開けた。
暗い寝室の中で、夫の愛情に満ちた瞳が彼女を見つめている。
その瞳は、まるで灯台の光のように彼女を現実へと導いてくれた。
夢の世界から、ようやく本当に帰るべき場所へと戻ってきた——その安堵感に、涙が自然と込み上げてきた。
ここには、変わらず隣で支えてくれるレギュラスがいる。
同じ屋敷の中には、愛おしい我が子たちアルタイルとセレナが眠っている。
これこそが彼女の現実であり、守るべき世界だった。
シリウスを愛したことは嘘ではない。あの燃えるような恋は確かに存在した。
けれどレギュラスと共に築いてきた人生を大切に思う気持ちも、紛れもない真実だった。
今となっては、かつてのシリウスへの思いよりも、目の前にいる夫への愛の方が遥かに深く、重いものになっている。
だからこそ、夢の中でもシリウスの背中を追い続けることはできなかったのだ。
アランは弱々しくも確かな微笑みを浮かべ、かすれた声で告げた。
「シリウスに連れていかれそうになりました。」
その言葉を聞いたレギュラスは、一瞬目を見開き、驚きと安堵の入り混じった表情を見せた。
「戻ってきてくれて何よりです。」
彼は深く息をつき、心からの安堵を込めて優しく微笑んだ。
「当たり前よ。私の帰る場所は、あなたのところですから。」
その言葉は、静寂に包まれた部屋の中で特別な響きを持って二人の間に流れた。
レギュラスはより深い微笑みを浮かべ、そっとアランの手を握り返した。
二人の間には、言葉では表現できないほど確かで深い愛が満ちていく。
夜は更けていったが、その寝室には温かな光が宿り続けていた。
その日、神聖な魔法法廷の重厚な扉が開かれた時、レギュラス・ブラックは静かに、しかし確実にほんのりとアルコールの香りを纏った状態で現れた。
アリス・ブラックは彼が隣に立った瞬間、その微かな酒の匂いを敏感に察知した。
まさか、この男は神聖な魔法法廷という場であるにも関わらず、酒を飲んで出廷しているというのか。
呆れを通り越して、法廷そのものを侮辱しているのではないかとさえ思えてならなかった。
この日扱われるのは、小さな村で起こったマグルと純血魔法使いの争いが死傷事件にまで発展した案件だった。
当然、アリスはマグル側を擁護する立場に立ち、レギュラスは純血魔法使い側を擁護してくるものだろうと予想していた。
それがこれまでの彼のやり方であり、絶対に譲らない信念だと理解していたからだ。
しかし、アリスの予想は完全に裏切られることになった。
レギュラスは驚くべきことに、純血魔法使いの過去の悪行を暴く証人を何人も法廷に出廷させ、純血魔法使い側に明らかな非があったことを認めさせたのだ。
その結果、マグルは無罪放免となった。
アリスは自分の目を疑った。
以前にも、レギュラス・ブラックが処罰を決める際に恩赦をかけてくれたことを、キングスリーから聞かされてはいた。
けれど、こうして実際に目の前でその信念に反するような行動を取られると、理解が追いつかなかった。
あの冷徹なまでの純血至上主義者が、一体何を考えているのか。
純血魔法使い側に過去の非道な行いがあったとしても、普通なら何がなんでもそれを握り潰し、マグル側を徹底的に潰しにかかってくるような男のはずなのに。
「飲み過ぎで判断力を鈍らせているのですか?」
アリスは皮肉を込めて問いかけた。
「酔いが回っていても、あなたの杖を奪うことはできますよ。」
レギュラスは淡々と、しかし確かな自信を込めて応じた。
その瞬間、アリスは反射的にレギュラスに向けて杖を構える仕草を見せた。
しかし、レギュラスは振り返ることすらなく、見えないほど素早く無駄のない動きでアリスの杖を鮮やかに奪い取ってしまった。
一瞬のうちに、杖はレギュラスの手の中に収まっていた。
アリスは悔しさに唇を噛んだ。
別に本気で杖から呪文を放つつもりなどなかった。
ただ、威嚇のひとつでもしてやりたいという気持ちが湧き上がったのだ。
酔いの入った状態で法廷に現れ、そしてまるで「手加減をしてやったのだ」と言わんばかりのやり方で、マグル側を彼の力によって無罪にしてみせたその態度が腹立たしくてならなかった。
「返してもらえますか?私の杖。」
アリスが静かに要求すると、
「どうぞ。」
レギュラスは素っ気なく杖を差し出した。
杖を手渡される瞬間、二人の距離が僅かに縮まる。
その時、再びふわりと香るアルコールの匂いが鼻をついた。
アリスは眉をひそめた。
「ここは法廷ですよ?何を考えているのかは知りませんが、少なくとも酒は抜いてから来るべきです。」
アリスの厳しい言葉に対して、レギュラスはクスッと嘲笑うような笑いを見せた。
その表情には、どこか自嘲的なものも混じっているように見えた。
しばらくの重い沈黙が流れた後、レギュラスの方から口を開いた。
「アランが、あなたに会いたがっているようです。近いうちに屋敷にどうぞ。今度は正式に招きましょう。正門から堂々といらしてかまいませんよ。」
皮肉に皮肉を重ねるように言ってくるこの男は、やはりどこまでも嫌な感じだった。
もうずっと昔のことを、いまだに持ち出してくるなんて。
かつて幼かった自分が、アランに会いたくてブラック家の屋敷に忍び込んだあの事件のことを、今になって蒸し返すなんて。
本当に嫌な男だと思えてならなかった。
けれど、この男がわざわざ自分を招くことを許すなんて。
そして、少しずつマグルやマグル生まれの魔法使いに対して寛大になろうと変わりつつあるその態度を、以前アルタイルから聞かされたアランの体調と合わせて考えると——
やはり、アランの身体は良い方向に向かっているというわけではないのだろう。
その推測が、アリスの胸の奥をきゅっと締め付けるような痛みで満たした。
法廷を後にするレギュラスの背中を見つめながら、アリスは複雑な感情に包まれていた。
憎らしいほど高慢で、相変わらず嫌味な男——それでも、その変化の裏にある深い愛情を感じ取らずにはいられなかった。
夜の屋敷は重苦しい静寂に包まれていた。
セレナはまだ戸惑いと怒りが胸を支配したまま、目の前の光景を信じられない思いで見つめていた。
父レギュラスが、あのアリス・ブラックを正式に招いたのだ。
あの父が——
誇り高き純血至上主義を掲げ、この世界の頂点に立つべき者だと信じてきた父が——
かつての恋敵、シリウス・ブラックの養子であり、マグル生まれの女をこのブラック家の屋敷に迎え入れるなんて。
一体何が起きたのだろうか。
セレナの心は混乱と不信、そして鋭い痛みに引き裂かれていた。
「お父様、これは一体どういうことです?」
セレナは感情を押し殺せず、レギュラスに詰め寄る。
しかし、隣に立つアルタイルが静かに制止した。
「セレナ、落ち着きましょう。先生に対しても失礼です。」
兄のように、冷静でいられるはずもなかったセレナは、その言葉にも苛立ちを隠せなかった。
このマグルの女を、ただの「先生」などとは呼べなかった。
確かに彼女はホグワーツで教鞭を執っていた時期があり、師として敬われるべき存在だったかもしれない。
だが今は違う。
もうホグワーツの教師ではないし、このブラック家の一員として迎え入れられた彼女を「先生」などと呼ぶ筋合いはないと、セレナは強く思った。
シリウスに養子に迎えられただけで、恐れ多くもブラック家の名前を名乗るようになったその女——アリス・ブラックに、母アランがどれほど気を遣い、愛情を持って接しているのか。
それを理解できずにいるセレナの心は、尊敬よりもまず敵意で満ちていた。
「セレナ……大きくなったのね。」
アリスが静かに言葉をかけた。
「ええ、立場というものを理解できるほどには大人になりましたわ。」
セレナも負けじと、精一杯の嫌味を込めて応えた。
まるで「よくもこのブラック家に足を踏み入れたものだ」という攻撃そのものだった。
本当は罵りたかった。
母は自分たちだけの母であり、父の愛する妻なのだ。
その愛情を他の誰とも分け合いたくない。
シリウスにも、アリスにも絶対に奪われたくない。
「どうしてなんですか、お父様。あんまりじゃないですか。」
セレナの声には涙と怒りが混じっていた。
「セレナ、アランが望むことを叶えてあげたいんですよ。」
レギュラスは深く静かな声でそう告げた。
その言葉に、セレナの胸は張り裂けそうな痛みで満たされた。
母の口からさえアリスの名前が出ることが嫌でたまらなかったのに、ついに父の口からもその名が語られてしまう現実。
母という尊い存在を、マグル生まれの女と分かち合うことを強いられることが、セレナにとっては何よりも屈辱的で耐え難いものだった。
時間と共に重く深まる家族の溝。
しかし決して断ち切れることのない複雑な愛情の糸は、今もまだ静かに繋がっているのだと誰もが知っていた。
アルタイルは静かな屋敷の廊下を歩きながら、隣に立つアリスに穏やかに話しかけた。
「すみません、先生。あの、さっきのセレナの態度については……彼女、感情的になるとああなってしまうんです。」
アリスは少しだけ微笑みを浮かべて答えた。
「いいえ、私も分かっています。この屋敷に足を踏み入れること自体、きっと場違いで、歓迎されていないことも承知していますから。」
アルタイルはその言葉に申し訳なさと同時に、セレナの気持ちも理解できるのだと胸の内で思った。
セレナは、自分と違って母アランと共に過ごせる時間が限られていた。
常に伏せる母の姿を間近に見て育ち、甘えられずに大人になるしかなかったのだ。
「もし人生の順番が違っていたら、セレナにこんな辛い思いをさせずに済んだのかもしれませんね。」
アルタイルは深く息をついた。
幼いセレナの心には、母アランが弱っていく姿だけでなく、父のために用意された側室候補の若い女性たちの存在も刻まれていた。
幾人もの女性と暮らす日々が、少しずつ彼女の幼い心に深い傷跡を残したことだろう。
アルタイルは、自分がホグワーツに通っていたため、そばでセレナを守ることが叶わなかったことを悔やんだ。
帰省の度に見る、少しずつ不自然なほど美しく成長を遂げようとするセレナの姿は、彼にとって何よりも切なかった。
セレナは母と父、そして家族のために、笑顔を振りまきながらも、いつの間にか凛と張り詰めた美しさを纏い、隙や弱さを一切見せない孤高の姫へと変わっていったのだ。
そのセレナが唯一感情を思い切りあらわにしたのが、アリスへの嫌悪感だった。
アルタイルはその思いを心から受け入れてやりたいと願った。
けれど同時に、母の気にかかる存在としてアリスという女性がいることも理解していた。
母アランが愛したのはシリウス・ブラックであり、そして彼が育て上げた、マグル出生の女性だった。
「なぜよりにもよってマグルなのか」と感じることもあったが、排他的で差別的な自分の思考さえも、もしかすると弱さの一つなのかもしれないと自覚していた。
誰よりも誇り高い純血魔法使いとしての地位を築き上げてきた父レギュラスですら、アリスを母アランの前に連れて行くことを許した。
それは、母を深く愛するゆえに、自らの信念のすべてを曲げる覚悟があったからこそだったのだ。
アルタイルは父のその行動を、強さと尊さだと感じていた。
母がアリスを大切に思うのなら、自分も同じように彼女を受け入れ、尊重する人間でありたいと強く思った。
「母の部屋はあちらです。」
アルタイルはしずしずと告げ、アリスは小さく礼を返した。
二人が部屋へと入る間際に、アルタイルは立ち止まり、静かに息を吐く。
二人の会話が聞こえないうちに、一歩、また一歩と距離を取っていく。
何を話すのか、それは――自分が知るべきことではないと直感していたからだった。
静かな廊下に、アルタイルの足音だけが柔らかく響く。
そして扉が静かに閉じられ、部屋の中はふたりの時間で満たされていった。
薄暗い寝室の中、久しぶりに目にしたアランの姿は、かつて魔法法廷のカフェテラスで見かけた時よりもさらに痩せ細っていた。
その弱りようは、アリスの胸に切り裂くような痛みを走らせ、まるで悲鳴をあげそうなほどだった。
しかし、やつれた身体の奥底にいまだ燦然と輝くアランの美しさは変わらず存在していた。
「アリス、来てくれたのね。嬉しいわ。」
アランの声はかすかに震えながらも柔らかく、彼女は癖のようにアリスに手を差し伸べた。
その手を、アリスはためらうことなくそっと取った。
傍らに寄り添いながら、静かな時間が流れていく。
「正式にお招きいただきました。」
アリスは言葉に迷いながらも冗談を交えた。
「何と言えばいいのかわからなくて。でも、しんみりしすぎるのは悲しすぎるから。」
過去の失敗を引き出すように話すと、アランはにんまりと微笑んだ。
その微笑みは決して力強くはないが、確かにそこに美しさがあった。
アランの視線がふとアリスの首元にかかる赤いネックレスへと向かった。
「そのネックレスの意味を聞いているかしら?」
慈しむような瞳で見つめられ、アリスはその場所に手を伸ばした。
「アルタイルから渡されたものだけど、意味まではわからないわ。」
アランは優しくベッドの脇をたたき、「ここに座って」と促した。
アリスは素直に頷き、その場に腰を下ろす。
手は離さず、アランの手を握ったままだったが、その温もりは以前のように力強くはなかった。
生の灯火がか細く消え入りそうな、その温度にアリスは胸が締め付けられる思いを抱いた。
「レギュラスはきっと、あなたにこのネックレスの意味を話さないでしょうから、このことは内緒にしておきましょうね。」
アランが小声で囁くと、アリスは静かに頷いた。
「あのネックレスには、あの人──レギュラスの血の誓いが込められているのよ。」
その言葉に、アリスの心は跳ね上がった。
血の誓い――それは、術者の命すら引き換えにする禁断の魔法。
そんな恐ろしいものが、この繊細なネックレスに宿っているという事実に、アリスは戦慄した。
一体あの男は、自分の命と引き換えに何を守ろうとしたのか。
思うだけで、背筋が凍りつくようだった。
「それはもともと、私にくれたものです。私はかつて許されざる呪文を受けてしまいましたから。」
アランの口から告げられる真実の重さに、アリスは頭が痛くなった。
あんなにもか弱く、そして美しい人に、禁じられた呪文が降りかかったなんて。
その事実が一気に憎しみの炎となり胸に燃え上がった。
「そして、あの人はこれをくれました。このネックレスがあれば、どんな攻撃の呪文もすべてあの人に跳ね返ります。」
その言葉にアリスは深く心強さを感じたが、同時に問いが浮かんだ。
あの男が彼女を守るために用意したものを、なぜ自分に渡したのか、その理由がわからなかった。
「どうしてそれを私に?」
「私があなたを守りたいからよ。」
アランの言葉は、まるで胸を強く締め上げるように痛みをもたらした。
‘ぎゅっ’と表現するにはあまりにも彼女の胸は締め付けられ、きりきりと腹の底を痛めつけるほどだった。
涙が頬を伝い、止めどなく溢れ出す。
「泣かないで、アリス。あなたはシリウスと同じ、光を纏った子なのよ。」
アランのか細い指先がそっとアリスの頬の涙を拭いていく。
「どうして……」
アリスの声は震えていた。
「愛しているからよ、アリス。出会ってくれてありがとう。シリウスの元で本当に立派に育ってくれてありがとう……あなたは私の誇りなの。」
その言葉が、アリスの感情の堰を決壊させた。
泣き声が喉に詰まるほど溢れ、涙は止まらなかった。
「だから、お願い……レギュラスのことを許してほしいの。」
アランはそう辛そうに話し、瞳を伏せて申し訳なさげに続けた。
「あの人はね、あなたにネックレスを渡すことを反対しなかった。これから私がいなくなった後も、あの人はその命の尽きるまで、あなたを守ってくれます。だから、何も恐れずに、自分の生きたい未来を走り抜けてほしいの……」
アリスは思わず、どこまで深く愛されていたのだろうかと自問せずにはいられなかった。
ずっと渇望し続けてきた「母」という存在の、真の温もりに、今ようやく触れたのだと感じた。
静寂に包まれた寝室で、二人の間に流れる時間は言葉では伝えきれないほど深く、そして美しかった。
ブラック家の屋敷は、かつて忍び込んだあの日のまま、時を閉じ込めたように荘厳な姿を保っていた。
重厚な壁、黒曜石のように磨かれた床、そして壁に並ぶ数々の肖像画――どれもが、外界とは隔絶された誇り高き純血の象徴として、いまだに冷ややかな威容を放っていた。
アリスにとって、それはひどく息苦しいものだった。まるで「お前の居場所ではない」と囁くように、空間そのものが彼女を拒絶していたからだ。
だが今、胸を最も締め付けていたのは、その空間に漂う拒絶ではなかった。
それ以上に、ようやく掴んだ「母の愛」という温もりを、永遠に手放さなければならないという、冷酷な現実だった。
アランの声も、指先のかすかな温度も、柔らかな微笑みも――すべてが既に遠ざかりつつある。その事実を思うだけで、胸の奥が切り裂かれるように痛んだ。
ゆっくりとアランの部屋を出て、静まり返った廊下を歩く。
肖像画たちは一斉に目を向け、マグルであるアリスを、鋭い刃物のような視線で貫いてきた。
氷のように冷たいその眼差しが、彼女の全身を刺す。
それでも涙は止まらなかった。アランの言葉に崩れ落ちるように溢れた涙は、今もなお頬を伝い、形を変えることなく零れ続けていた。
重い足取りで階段を降り、広々としたロビーにたどり着く。
そこには、レギュラス・ブラックが静かにソファに腰掛けていた。
背筋を伸ばし、ただ虚空を見据えるその姿は、まるで何世代も前から動かずにこの場に座していた古き肖像の一枚のようだった。
アリスが近づくと、彼は背後の気配だけでそれを察したのだろう。振り返ることもなく、低く穏やかな声を落とす。
「……話せましたか。」
赤いペンダントの意味を知ってしまった今、そのことを彼に告げるべきか――アリスは一瞬、心を揺らした。
だが結局、彼女は言わないことを選んだ。
知らないふりを通す。胸の奥に押し込めて、決して言葉にはしない。
そう決めた。そうでなければ、この先の自分の心がもたなかったから。
きっと、自分たちがこれから先、本当の意味で分かり合い、共に歩む未来など訪れることはないだろう。
あまりにも多くを失いすぎた。
シリウスが――彼女の唯一の父が――夢見た未来。アランと共に生き、アリスを抱きしめて育んでいく未来。
それは、この男の存在ゆえに奪われたのだ。
幼い少女が渇望した「三人での家族」という夢は、鋭い刃物で引き裂かれるように無残に散った。
さらに、幾度となく彼と杖を交え、死を賭して戦った記憶も消えることはない。
憎しみは簡単に溶けてはくれない。赦しは決して軽くない。
だからこそ――アランが最後に願った「レギュラスを許してほしい」という言葉に、心から頷くことはどうしてもできなかった。
その願いは、あまりにも重く、痛すぎた。
けれど、それでも。
血の誓いを込めたペンダントを、自ら反対せずにアリスへ託すことを認めた男の心を、アリスは確かに受け取った。
すべてを赦せはしない。だが――もう二度とこの男に杖を向けることはしない。
それは、せめてもの応えであり、アランが望んでいることだと信じた。
アリスは深く息を吸い、声を震わせぬよう慎重に言葉を選んだ。
「……ええ、話せました。招いてくださったこと、感謝します。」
それは簡潔で、飾り気のない言葉だった。
レギュラスは沈黙を保ったまま、返事をしなかった。
その表情は見えない。背を向けたまま、ただ静寂の中に存在しているだけだった。
だが、返答のないその空白にすら、何か確かなものが宿っているようにアリスは感じた。
アリスはそのまま背を向け、屋敷の重たい扉を押し開けた。
古びた蝶番が軋む音が、長い年月を告げるかのように低く響く。
外に出ると、世界は驚くほど澄んでいた。
夜空には月が冴え渡り、冷たい風が頬を撫でていく。
屋敷の中で押しつぶされそうだった胸が、少しだけ解き放たれる。
それでも、アランの温もりはもう戻らない。
その痛みを抱えたまま、アリスは静かに屋敷を後にした。
――その背中を、重厚な扉が音もなく閉じていった。
