1章
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授業中の教室は、いつものように頁をめくる音と、淡々とした教師の声に包まれていた。
陽の光が石造りの窓から差し込み、整然と並ぶ机に柔らかな光を落としている。
そのなかでアランは、ふと隣に座るレギュラスへと視線を向けた。
横顔――高く通った鼻梁、静かで知的な瞳、感情を抑えたような口元。
やっぱり、端整だと思う。
レギュラスはシリウスとはまた違う、品のある美しさを持っている。
その整った顔立ちにはどこか凛としたものがあり、
周囲の生徒たちの尊敬や憧れを集めるのも、当然のようにも感じられた。
事実、クィディッチでの活躍が広まるほどに、レギュラスを慕う女生徒たちは日に日に増え、
休み時間に彼の周囲を囲む光景は、もはや日常の一部になりつつあった。
そしてそれに比例するように、アランとレギュラスの距離も、少しずつ静かに開いていった。
たとえば、朝食の席がひとつ離れたとき。
クラス移動の途中で会話が交わせなかったとき。
そんな些細な変化の積み重ねが、
まるで自然の流れのように、二人の間に静かな隙間を作っていく。
アランは、その距離を――ほっとする自分がいることに気づいていた。
レギュラスは誠実で、やさしく、裏切らない人だった。
あの夏、真っ直ぐに気持ちを告げてくれた彼に、アランは応えようと思った。
レギュラスなら、自分の人生を預けられるかもしれない――そう思った。
けれど今、彼のまわりに咲く無数の好意の視線に囲まれながら、
その人の隣でひとり静かに座っていると、
その距離が、どこか楽だった。
――重荷が、少し降りたような気がする。
そんなひそやかな安堵を、アランは決して口にすることはない。
レギュラスには言えない。
言わないまま、授業が淡々と進んでいく。
ペンの先でノートをなぞりながら、アランは再び視線を前に戻す。
それでも、隣にいる彼の気配は確かにあって、
らその存在が、自分の背筋をまっすぐに保たせるのだった。
鏡の前の手を止めて、アランはその場に立ち尽くした。
スリザリンの女子用トイレの奥、扉の向こう側から、声が聞こえてきていた。
ひとつは、抑えようとしても震えを隠せない泣き声。
もうひとつは、小さな囁きのような慰めの言葉。
「……でも、無理なんだよ。アラン・セシールという婚約者がいるんだから……叶うわけないよ……」
すすり泣くその声は、少女らしい幼さと、どうしようもない切実さがまじっていた。
その声の主を、アランは知らなかった。
廊下ですれ違えば挨拶を交わす程度の、同じ寮にいるだけの生徒。
けれどその涙は、アランの胸に深く突き刺さった。
扉ひとつ隔てたその向こうで、静かに誰かの心が砕けていた。
それは他ならぬ、レギュラスへの想いからだった。
レギュラス・ブラックに恋をした少女の痛み。
その恋が、“アランという婚約者”という存在によって拒まれ、行き場をなくしていた。
――わたしが、踏み躙ってしまったのだろうか。
その瞬間、胸に思わぬ重さが雪のように落ちてきた。
見ようとしなかったものを突きつけられたようで、息ができなくなった。
彼女たちの恋心も、それを抱いた勇気も、本物だったはずなのに。
その純粋な感情が、“アラン”という名前だけで静かに壊されていくのを、なすすべもなく聞いていた。
――もし、シリウスと堂々と結ばれることができたなら。
そんなことを、思ってしまった。
レギュラスはまっすぐな人だ。
言葉にはしなくても、その愛情はいつだって誠実で、真摯で、揺るぎがない。
そんな彼にはきっと、自分を一途に愛してくれる誰かが、ふさわしいのだろうと思った。
誰より優しく、誰より繊細で、誰より寂しがり屋の少年。
そんな彼に、泣きながらも憧れ続けている少女の存在が、遠くで光って見えた。
――なぜ、婚約者が自分なんだろう。
その問いは、アラン自身にもわからなかった。
家の名、血筋、決して本人の意志では叶えられないものたちの上に、それは静かに置かれていた。
本人の気持ちを置き去りにしたまま――
何も選べないまま。
しばらくしてトイレの扉がそっと開き、少女たちの姿が影のように遠ざかっていった。
アランは、鏡に映る自分をぼんやりと見つめた。
美しく整えられた制服、翡翠色の瞳、名門セシール家の令嬢としての顔。
けれど、そのどこにも「わたし」と呼べるものがあるのか、自信が持てなかった。
その場に立ち尽くしたまま、アランはただ、胸の奥に広がる沈黙を聞いていた。
それは、誰のせいでもないのに、誰の心も傷つけてしまう、悲しい静けさだった。
朝のやわらかな陽ざしがホグワーツの大広間に差し込む頃、アランは静かに食卓の端に座っていた。周囲には、食事や会話に興じる生徒たちのざわめきが広がっている。遠くの席で、レギュラスが友人や下級生に囲まれて微笑みを浮かべている様子が目に入った。
ふと意識を向ければ、彼の周りには憧れを帯びた視線が幾重にも注がれていた。スリザリンの新しいシーカー、整った顔立ち、物静かな才気――理由はきっといくつもあるのだろう。けれど、少女たちが彼に近づこうとするその瞬間、どこかで「婚約者」という事実が道を塞いでしまっているのかもしれない。
自分は、ただレギュラスの隣に座るだけで、その幾人もの淡い想いを、知らず知らずに踏みつけているのかもしれない。
そう思うと、胸の奥に冷たいものがそっと滴り落ちた。
誰かの憧れを遮る壁となり、誰かの夢を壊してしまっている――そんな現実が、アランの心に静かに広がっていく。意図したことではない。それでも、「レギュラスの婚約者」という立場が、人知れず誰かを傷つけていることを、今ほど痛感したことはなかった。
「私がここに座っているだけで、誰かの心を泣かせてしまうんだろうか……」
アランは空のカップを指先でなぞりながら、そう思った。その問いには、誰も答えてくれない。
翡翠色の瞳はうつむき、食堂のざわめきが遠く霞んでいく。
やるせなさが、掌の中にじわりと広がった。この重さをどこにも置くことができず、ただ静かに呑み込むしかなかった。
それでも、朝の光は等しく全てを照らし、誰にも見えない涙や想いの上にも、やさしく降り注いでいた。
アランはひとつ、深呼吸をした。小さな祈りを胸の奥に抱きながら――知らずのうちに誰も傷つけませんように、と。
風が少し冷たくなり始めた廊下の一角――授業と授業の合間、まだ校舎はざわめいていた。
そんな中、レギュラスは一人の下級生の女生徒に呼び止められていた。
彼女は制服の袖をぎゅっと握りしめ、見るからに緊張した面持ちでレギュラスを見上げていた。
その瞳は真っ直ぐで、曇りのない想いが宿っていた。
「す、好きです……!」
その声は、震えていた。
けれど凛とした強さもあった。
この一言を告げるまで、どれほどの勇気をかき集めてきたのかが伝わる。
カバンの中で握りしめてきたのか、彼女の手には小さな便箋が一枚握られている。
誰かに選ばれたくて、誰かの特別になりたくて、その一歩を踏み出したその姿に――
レギュラスは、思わず息を呑んだ。
嬉しい――はずだった。
それでも、胸に満ちたのは喜びではなく、
何とも言えぬ、重たい申し訳なさだった。
「……すみません。」
そう告げた声は、自分でも信じられないほど静かだった。
女生徒の表情が曇る。唇を噛みしめ、泣きそうな目で俯いたその姿が、
レギュラスの胸を締めつけた。
彼女の、その一瞬の顔は、きっとずっと記憶に残る気がする。
「慣れないな……」
手紙を受け取って軽く会釈するだけなら、言葉は必要ない。
誰かが笑顔で手を振ってくるなら、微笑み返せばいい。
けれど、こうして真正面から想いをぶつけられたとき――
向き合い、誠実に応えなければならないという覚悟が、重くのしかかる。
レギュラスの心は、アランに向いていた。
それはずっと変わらない。諦めたくても、薄めようとしても、できない。
下級生の少女の純粋な気持ちを拒まざるを得ないのは、自分自身が、同じくらい必死だからだった。
ひとりの人を真っ直ぐに想う。
それが、こんなに苦しく、こんなに尊いものなんだと――今さらのように思い知らされる。
「――アランも、きっとこんな思いをしていたのだろうか……」
自分に告げられた気持ちにどう向き合うべきか悩み、
けれど心のどこかにはまだ兄、シリウスへの想いが残るまま、
そうしてアランは、返事をくれたのだ。
自分に向けられた瞳と、いま目の前にあるこの少女の瞳。
そこに宿る誠実さと不安が、重なって見える気がして苦しかった。
静かにお辞儀をする少女の背に、レギュラスは何も言えなかった。
その小さな背中が遠ざかるのを、ただ見送るしかできなかった。
淡い廊下の光がその場をそっと照らしていた。
冷たい風がすり抜けていく中、ただ胸の奥だけが、ひどく熱を帯びていた。
石造りの廊下に夕暮れの光が差し込み、淡い灯りが長く伸びた影を静かに照らしていた。
レギュラスは立ち尽くし、先ほどの出来事――年下の少女からの告白――がまだ胸の奥に余韻のように残っていた。
その切実な想いと、それに真摯に応えることの重さが、心の中で静かに反響している。
そこへ、バーテミウス・クラウチ・ジュニアがふいに現れ、軽やかな口調で声をかけてきた。
「モテる男は大変だね、レギュラス。」
レギュラスはそっと肩をすくめ、目を細める。
その言い回しに、どこか茶化すような響きが含まれているのが、聞き取れた。
「……立ち聞きですか?」
押し殺した声色には、ほんの少し棘が混ざった。
少女の振り絞った勇気、その真っ直ぐな想いを、こうして冗談のように口に出されるのは、レギュラスにとって心外だった。
人の感情を、軽くあしらうような真似はしたくない。
だが、バーテミウスは飄々と肩をすくめるだけだった。
「いやいや、通りかかっただけだよ。……まあ、セシール嬢じゃなくて、何よりだと思っただけさ。」
その名前が出た瞬間、レギュラスの鼓動が、ほんの一瞬だけ強く打った。
アランが――もしこの場にいたら、どうしただろうか。
想像してみる。
彼女は、きっと淡く微笑むのだろう。嫉妬などしない。
いや、むしろ祝福すらしそうな、そんな静かな優しさで。
そして――
思い出した。
あれは、まだ彼女とまともに想いを交わす前のこと。
「これは政略結婚なのだから、あなたが自由に生きるなら、それを止めはしないわ。」
確かに、そう言われたのだった。
そのときは何気なく受け止めたその言葉が、今、胸の奥で再び冷たく広がる。
あれがアランの本心なのだ。
きっと彼女は今も同じように思っているのだろう。
自分ひとりが彼女を好きで、彼女を見つめて、
一歩ずつ、心に近づこうと願っている。
けれどアランの心は、どこか遠くを見ていて、
自分には届かないものを静かに宿している。
そんな、片想いのような日々。
手が届いているようで、どこか触れられない距離に、胸が苦しくなる。
「なぜ、自分だけが追いかけているのだろう。」
その問いが、静かに胸に滲んだ。
バーテミウスは深くは立ち入らず、ほのかな皮肉だけを残して去っていった。
レギュラスは静かにその背を見送った。
光が差し込む窓の向こうで、赤く染まる空が夜の始まりを告げている。
アランと過ごした、ほんのひとときの静けさと優しさ、
それが今は、どこか遠い過去のように思えた。
廊下の静けさの中で、レギュラスは一歩、また一歩と歩き出した。
その足取りは凛としていたが、胸の奥に潜む寂しさは、誰にも知られぬよう、静かに抱えられたままだった。
窓から差し込む午前の陽光が、ゆるやかに石造りの床を照らし、教室全体を淡い金色に包んでいた。
魔法薬学の授業。静まり返った空気の中で、ページをめくる音だけが控えめに響いていた。
レギュラスは、アランと隣り合って机を並べていた。
開かれた教科書をふたりで共有しながら、複雑な調合手順をなぞるように見つめていたが、途中から彼の視線は自然に隣へと流れていた。
アランの指先。
白くしなやかで、触れるときだけわずかに本頁を押すような柔らかい仕草。
指の節の美しい曲線や、目立たない小さな爪の先まで繊細で、まるで何かに触れれば壊してしまいそうな儚さを感じさせた。
――綺麗だな。
ただそれだけの理由で、レギュラスはアランの指先に目を奪われていた。
その時、不意にアランが小さく囁いた。
「……まだ、見てる?」
レギュラスは、はっとして瞬きする。
「……え?」
アランは軽く微笑んで、指先を教科書の中央に止めたまま言った。
「このページ、レギュラスがまだ読んでるのかなって思って。次へ進んでいいのか、迷ってたの。」
その声は、まるで春先に吹く風のように柔らかだった。
ああ、まさかそんなふうに思っていたとは――思わず、レギュラスの頬にほんの僅か熱が差した。
「……いえ、平気です。めくってください。」
平静を装ってそう答えたけれど、内心ではとてもじゃないが言えなかった。
アランの指先があまりにも綺麗で、ただそれに見とれていただけだったなんて。
そんな理由は、あまりにも惹かれすぎていて、言葉にすればたちまち崩れてしまいそうだった。
アランは安心したように、そっと次のページをめくる。
また、その指が本の紙をなぞるように滑り、光を受けてほのかに白く輝いた。
ふたりの距離は、ほんの肩が触れるようなわずかなもの。
けれど、その隣に座っていられるのが、レギュラスにとってはかけがえのない時間だった。
外の木々が揺れる音を聞きながら、レギュラスは読書するふりをして、しばらくページの端に映る指先の影をそっと追っていた。
それが、自分の胸に灯る特別な感情の証なのだと、静かに確信している。
授業の合間、ホグワーツの中庭には昼の光がやわらかく差し込んでいた。
噴水のそばで風に揺れる草花の香りを感じながら、ジェームズとシリウスは石造りの縁に腰を下ろしていた。
周囲には、何人かの女生徒たちがさりげなく距離をとって佇み、視線だけはこちらへと注がれている。
誰もが気づかぬふりをしていたが、その視線の先にあるのは、他でもない、シリウス・ブラックの背中だった。
「君たちブラック兄弟は本当に、絵に描いたようなモテモテコンビだね」
ジェームズが軽やかに笑いながら言った言葉に、シリウスは鼻で笑った。
「アイツは外面がいいだけだよ」
吐き捨てるようなその声音には、明確な棘があった。
「中身は陰気臭ぇ純潔主義なんか掲げてるクソ野郎だ。こっちは迷惑してんだよ。」
言葉こそ軽く投げ渡されたものの、その奥にあるのは、まぎれもない強い嫌悪だった。
一緒にされるのが、許せなかった。
あの“レギュラス”と、同じ「モテる兄弟」として並べて語られることが。
シリウスには感じ取れていた。
レギュラスが、アランに向けている想い――言葉にせずとも、視線や態度の端々に滲む、あの息の詰まるような感情を。
おそらくそれは、本人にさえ抑えきれないほどのもので。
だが、それがひどく我慢ならなかった。
くだらない純血思想をかざし、親の命令に忠実に従い、
与えられた役割を何の疑問も持たずに演じているくせに。
口先では「好ましい」と言いながら、本当に人を愛し、人生を懸けて守る覚悟などあるとは思えない。
そんな人間が、アランに想いを向けている。
ただそれだけで、シリウスの胸にはどうしようもない怒りと、焦りのようなものが込みあげた。
自分は違う。
ただの憧れや、ままごとのような夢ではない。
アランへの想いは、ただ「好き」では足りない。
その人を一生、そして死ぬまで隣に置いて、喜びも憎しみも全部、引き受ける覚悟――
そう思えるほど、確かな「愛」だった。
息を吐くように、シリウスは空を仰ぐ。
光が、視界にまぶしかった。
切実で、鋭いほどのこの想いは、まだ言葉にして誰にも伝えていない。
けれど、アランの姿が見えた瞬間、胸の奥がそのたびに張り裂けそうになる。
この想いが、いつか真正面から彼女に届く日がくるのだろうか。
そうでなければ、自分は何のために、ここにいるのか――
ふいに吹いた風が、シリウスの髪を揺らした。
その中に、アランの香りが混じっていたような気がして、彼はそっと眼差しを遠くへ向けた。
レギュラスには絶対に渡せない。
この想いは、誰より深く、誰より本気なのだから。
陽の光が石造りの窓から差し込み、整然と並ぶ机に柔らかな光を落としている。
そのなかでアランは、ふと隣に座るレギュラスへと視線を向けた。
横顔――高く通った鼻梁、静かで知的な瞳、感情を抑えたような口元。
やっぱり、端整だと思う。
レギュラスはシリウスとはまた違う、品のある美しさを持っている。
その整った顔立ちにはどこか凛としたものがあり、
周囲の生徒たちの尊敬や憧れを集めるのも、当然のようにも感じられた。
事実、クィディッチでの活躍が広まるほどに、レギュラスを慕う女生徒たちは日に日に増え、
休み時間に彼の周囲を囲む光景は、もはや日常の一部になりつつあった。
そしてそれに比例するように、アランとレギュラスの距離も、少しずつ静かに開いていった。
たとえば、朝食の席がひとつ離れたとき。
クラス移動の途中で会話が交わせなかったとき。
そんな些細な変化の積み重ねが、
まるで自然の流れのように、二人の間に静かな隙間を作っていく。
アランは、その距離を――ほっとする自分がいることに気づいていた。
レギュラスは誠実で、やさしく、裏切らない人だった。
あの夏、真っ直ぐに気持ちを告げてくれた彼に、アランは応えようと思った。
レギュラスなら、自分の人生を預けられるかもしれない――そう思った。
けれど今、彼のまわりに咲く無数の好意の視線に囲まれながら、
その人の隣でひとり静かに座っていると、
その距離が、どこか楽だった。
――重荷が、少し降りたような気がする。
そんなひそやかな安堵を、アランは決して口にすることはない。
レギュラスには言えない。
言わないまま、授業が淡々と進んでいく。
ペンの先でノートをなぞりながら、アランは再び視線を前に戻す。
それでも、隣にいる彼の気配は確かにあって、
らその存在が、自分の背筋をまっすぐに保たせるのだった。
鏡の前の手を止めて、アランはその場に立ち尽くした。
スリザリンの女子用トイレの奥、扉の向こう側から、声が聞こえてきていた。
ひとつは、抑えようとしても震えを隠せない泣き声。
もうひとつは、小さな囁きのような慰めの言葉。
「……でも、無理なんだよ。アラン・セシールという婚約者がいるんだから……叶うわけないよ……」
すすり泣くその声は、少女らしい幼さと、どうしようもない切実さがまじっていた。
その声の主を、アランは知らなかった。
廊下ですれ違えば挨拶を交わす程度の、同じ寮にいるだけの生徒。
けれどその涙は、アランの胸に深く突き刺さった。
扉ひとつ隔てたその向こうで、静かに誰かの心が砕けていた。
それは他ならぬ、レギュラスへの想いからだった。
レギュラス・ブラックに恋をした少女の痛み。
その恋が、“アランという婚約者”という存在によって拒まれ、行き場をなくしていた。
――わたしが、踏み躙ってしまったのだろうか。
その瞬間、胸に思わぬ重さが雪のように落ちてきた。
見ようとしなかったものを突きつけられたようで、息ができなくなった。
彼女たちの恋心も、それを抱いた勇気も、本物だったはずなのに。
その純粋な感情が、“アラン”という名前だけで静かに壊されていくのを、なすすべもなく聞いていた。
――もし、シリウスと堂々と結ばれることができたなら。
そんなことを、思ってしまった。
レギュラスはまっすぐな人だ。
言葉にはしなくても、その愛情はいつだって誠実で、真摯で、揺るぎがない。
そんな彼にはきっと、自分を一途に愛してくれる誰かが、ふさわしいのだろうと思った。
誰より優しく、誰より繊細で、誰より寂しがり屋の少年。
そんな彼に、泣きながらも憧れ続けている少女の存在が、遠くで光って見えた。
――なぜ、婚約者が自分なんだろう。
その問いは、アラン自身にもわからなかった。
家の名、血筋、決して本人の意志では叶えられないものたちの上に、それは静かに置かれていた。
本人の気持ちを置き去りにしたまま――
何も選べないまま。
しばらくしてトイレの扉がそっと開き、少女たちの姿が影のように遠ざかっていった。
アランは、鏡に映る自分をぼんやりと見つめた。
美しく整えられた制服、翡翠色の瞳、名門セシール家の令嬢としての顔。
けれど、そのどこにも「わたし」と呼べるものがあるのか、自信が持てなかった。
その場に立ち尽くしたまま、アランはただ、胸の奥に広がる沈黙を聞いていた。
それは、誰のせいでもないのに、誰の心も傷つけてしまう、悲しい静けさだった。
朝のやわらかな陽ざしがホグワーツの大広間に差し込む頃、アランは静かに食卓の端に座っていた。周囲には、食事や会話に興じる生徒たちのざわめきが広がっている。遠くの席で、レギュラスが友人や下級生に囲まれて微笑みを浮かべている様子が目に入った。
ふと意識を向ければ、彼の周りには憧れを帯びた視線が幾重にも注がれていた。スリザリンの新しいシーカー、整った顔立ち、物静かな才気――理由はきっといくつもあるのだろう。けれど、少女たちが彼に近づこうとするその瞬間、どこかで「婚約者」という事実が道を塞いでしまっているのかもしれない。
自分は、ただレギュラスの隣に座るだけで、その幾人もの淡い想いを、知らず知らずに踏みつけているのかもしれない。
そう思うと、胸の奥に冷たいものがそっと滴り落ちた。
誰かの憧れを遮る壁となり、誰かの夢を壊してしまっている――そんな現実が、アランの心に静かに広がっていく。意図したことではない。それでも、「レギュラスの婚約者」という立場が、人知れず誰かを傷つけていることを、今ほど痛感したことはなかった。
「私がここに座っているだけで、誰かの心を泣かせてしまうんだろうか……」
アランは空のカップを指先でなぞりながら、そう思った。その問いには、誰も答えてくれない。
翡翠色の瞳はうつむき、食堂のざわめきが遠く霞んでいく。
やるせなさが、掌の中にじわりと広がった。この重さをどこにも置くことができず、ただ静かに呑み込むしかなかった。
それでも、朝の光は等しく全てを照らし、誰にも見えない涙や想いの上にも、やさしく降り注いでいた。
アランはひとつ、深呼吸をした。小さな祈りを胸の奥に抱きながら――知らずのうちに誰も傷つけませんように、と。
風が少し冷たくなり始めた廊下の一角――授業と授業の合間、まだ校舎はざわめいていた。
そんな中、レギュラスは一人の下級生の女生徒に呼び止められていた。
彼女は制服の袖をぎゅっと握りしめ、見るからに緊張した面持ちでレギュラスを見上げていた。
その瞳は真っ直ぐで、曇りのない想いが宿っていた。
「す、好きです……!」
その声は、震えていた。
けれど凛とした強さもあった。
この一言を告げるまで、どれほどの勇気をかき集めてきたのかが伝わる。
カバンの中で握りしめてきたのか、彼女の手には小さな便箋が一枚握られている。
誰かに選ばれたくて、誰かの特別になりたくて、その一歩を踏み出したその姿に――
レギュラスは、思わず息を呑んだ。
嬉しい――はずだった。
それでも、胸に満ちたのは喜びではなく、
何とも言えぬ、重たい申し訳なさだった。
「……すみません。」
そう告げた声は、自分でも信じられないほど静かだった。
女生徒の表情が曇る。唇を噛みしめ、泣きそうな目で俯いたその姿が、
レギュラスの胸を締めつけた。
彼女の、その一瞬の顔は、きっとずっと記憶に残る気がする。
「慣れないな……」
手紙を受け取って軽く会釈するだけなら、言葉は必要ない。
誰かが笑顔で手を振ってくるなら、微笑み返せばいい。
けれど、こうして真正面から想いをぶつけられたとき――
向き合い、誠実に応えなければならないという覚悟が、重くのしかかる。
レギュラスの心は、アランに向いていた。
それはずっと変わらない。諦めたくても、薄めようとしても、できない。
下級生の少女の純粋な気持ちを拒まざるを得ないのは、自分自身が、同じくらい必死だからだった。
ひとりの人を真っ直ぐに想う。
それが、こんなに苦しく、こんなに尊いものなんだと――今さらのように思い知らされる。
「――アランも、きっとこんな思いをしていたのだろうか……」
自分に告げられた気持ちにどう向き合うべきか悩み、
けれど心のどこかにはまだ兄、シリウスへの想いが残るまま、
そうしてアランは、返事をくれたのだ。
自分に向けられた瞳と、いま目の前にあるこの少女の瞳。
そこに宿る誠実さと不安が、重なって見える気がして苦しかった。
静かにお辞儀をする少女の背に、レギュラスは何も言えなかった。
その小さな背中が遠ざかるのを、ただ見送るしかできなかった。
淡い廊下の光がその場をそっと照らしていた。
冷たい風がすり抜けていく中、ただ胸の奥だけが、ひどく熱を帯びていた。
石造りの廊下に夕暮れの光が差し込み、淡い灯りが長く伸びた影を静かに照らしていた。
レギュラスは立ち尽くし、先ほどの出来事――年下の少女からの告白――がまだ胸の奥に余韻のように残っていた。
その切実な想いと、それに真摯に応えることの重さが、心の中で静かに反響している。
そこへ、バーテミウス・クラウチ・ジュニアがふいに現れ、軽やかな口調で声をかけてきた。
「モテる男は大変だね、レギュラス。」
レギュラスはそっと肩をすくめ、目を細める。
その言い回しに、どこか茶化すような響きが含まれているのが、聞き取れた。
「……立ち聞きですか?」
押し殺した声色には、ほんの少し棘が混ざった。
少女の振り絞った勇気、その真っ直ぐな想いを、こうして冗談のように口に出されるのは、レギュラスにとって心外だった。
人の感情を、軽くあしらうような真似はしたくない。
だが、バーテミウスは飄々と肩をすくめるだけだった。
「いやいや、通りかかっただけだよ。……まあ、セシール嬢じゃなくて、何よりだと思っただけさ。」
その名前が出た瞬間、レギュラスの鼓動が、ほんの一瞬だけ強く打った。
アランが――もしこの場にいたら、どうしただろうか。
想像してみる。
彼女は、きっと淡く微笑むのだろう。嫉妬などしない。
いや、むしろ祝福すらしそうな、そんな静かな優しさで。
そして――
思い出した。
あれは、まだ彼女とまともに想いを交わす前のこと。
「これは政略結婚なのだから、あなたが自由に生きるなら、それを止めはしないわ。」
確かに、そう言われたのだった。
そのときは何気なく受け止めたその言葉が、今、胸の奥で再び冷たく広がる。
あれがアランの本心なのだ。
きっと彼女は今も同じように思っているのだろう。
自分ひとりが彼女を好きで、彼女を見つめて、
一歩ずつ、心に近づこうと願っている。
けれどアランの心は、どこか遠くを見ていて、
自分には届かないものを静かに宿している。
そんな、片想いのような日々。
手が届いているようで、どこか触れられない距離に、胸が苦しくなる。
「なぜ、自分だけが追いかけているのだろう。」
その問いが、静かに胸に滲んだ。
バーテミウスは深くは立ち入らず、ほのかな皮肉だけを残して去っていった。
レギュラスは静かにその背を見送った。
光が差し込む窓の向こうで、赤く染まる空が夜の始まりを告げている。
アランと過ごした、ほんのひとときの静けさと優しさ、
それが今は、どこか遠い過去のように思えた。
廊下の静けさの中で、レギュラスは一歩、また一歩と歩き出した。
その足取りは凛としていたが、胸の奥に潜む寂しさは、誰にも知られぬよう、静かに抱えられたままだった。
窓から差し込む午前の陽光が、ゆるやかに石造りの床を照らし、教室全体を淡い金色に包んでいた。
魔法薬学の授業。静まり返った空気の中で、ページをめくる音だけが控えめに響いていた。
レギュラスは、アランと隣り合って机を並べていた。
開かれた教科書をふたりで共有しながら、複雑な調合手順をなぞるように見つめていたが、途中から彼の視線は自然に隣へと流れていた。
アランの指先。
白くしなやかで、触れるときだけわずかに本頁を押すような柔らかい仕草。
指の節の美しい曲線や、目立たない小さな爪の先まで繊細で、まるで何かに触れれば壊してしまいそうな儚さを感じさせた。
――綺麗だな。
ただそれだけの理由で、レギュラスはアランの指先に目を奪われていた。
その時、不意にアランが小さく囁いた。
「……まだ、見てる?」
レギュラスは、はっとして瞬きする。
「……え?」
アランは軽く微笑んで、指先を教科書の中央に止めたまま言った。
「このページ、レギュラスがまだ読んでるのかなって思って。次へ進んでいいのか、迷ってたの。」
その声は、まるで春先に吹く風のように柔らかだった。
ああ、まさかそんなふうに思っていたとは――思わず、レギュラスの頬にほんの僅か熱が差した。
「……いえ、平気です。めくってください。」
平静を装ってそう答えたけれど、内心ではとてもじゃないが言えなかった。
アランの指先があまりにも綺麗で、ただそれに見とれていただけだったなんて。
そんな理由は、あまりにも惹かれすぎていて、言葉にすればたちまち崩れてしまいそうだった。
アランは安心したように、そっと次のページをめくる。
また、その指が本の紙をなぞるように滑り、光を受けてほのかに白く輝いた。
ふたりの距離は、ほんの肩が触れるようなわずかなもの。
けれど、その隣に座っていられるのが、レギュラスにとってはかけがえのない時間だった。
外の木々が揺れる音を聞きながら、レギュラスは読書するふりをして、しばらくページの端に映る指先の影をそっと追っていた。
それが、自分の胸に灯る特別な感情の証なのだと、静かに確信している。
授業の合間、ホグワーツの中庭には昼の光がやわらかく差し込んでいた。
噴水のそばで風に揺れる草花の香りを感じながら、ジェームズとシリウスは石造りの縁に腰を下ろしていた。
周囲には、何人かの女生徒たちがさりげなく距離をとって佇み、視線だけはこちらへと注がれている。
誰もが気づかぬふりをしていたが、その視線の先にあるのは、他でもない、シリウス・ブラックの背中だった。
「君たちブラック兄弟は本当に、絵に描いたようなモテモテコンビだね」
ジェームズが軽やかに笑いながら言った言葉に、シリウスは鼻で笑った。
「アイツは外面がいいだけだよ」
吐き捨てるようなその声音には、明確な棘があった。
「中身は陰気臭ぇ純潔主義なんか掲げてるクソ野郎だ。こっちは迷惑してんだよ。」
言葉こそ軽く投げ渡されたものの、その奥にあるのは、まぎれもない強い嫌悪だった。
一緒にされるのが、許せなかった。
あの“レギュラス”と、同じ「モテる兄弟」として並べて語られることが。
シリウスには感じ取れていた。
レギュラスが、アランに向けている想い――言葉にせずとも、視線や態度の端々に滲む、あの息の詰まるような感情を。
おそらくそれは、本人にさえ抑えきれないほどのもので。
だが、それがひどく我慢ならなかった。
くだらない純血思想をかざし、親の命令に忠実に従い、
与えられた役割を何の疑問も持たずに演じているくせに。
口先では「好ましい」と言いながら、本当に人を愛し、人生を懸けて守る覚悟などあるとは思えない。
そんな人間が、アランに想いを向けている。
ただそれだけで、シリウスの胸にはどうしようもない怒りと、焦りのようなものが込みあげた。
自分は違う。
ただの憧れや、ままごとのような夢ではない。
アランへの想いは、ただ「好き」では足りない。
その人を一生、そして死ぬまで隣に置いて、喜びも憎しみも全部、引き受ける覚悟――
そう思えるほど、確かな「愛」だった。
息を吐くように、シリウスは空を仰ぐ。
光が、視界にまぶしかった。
切実で、鋭いほどのこの想いは、まだ言葉にして誰にも伝えていない。
けれど、アランの姿が見えた瞬間、胸の奥がそのたびに張り裂けそうになる。
この想いが、いつか真正面から彼女に届く日がくるのだろうか。
そうでなければ、自分は何のために、ここにいるのか――
ふいに吹いた風が、シリウスの髪を揺らした。
その中に、アランの香りが混じっていたような気がして、彼はそっと眼差しを遠くへ向けた。
レギュラスには絶対に渡せない。
この想いは、誰より深く、誰より本気なのだから。
