第一章:落ちた世界は
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あれから数日、幻海の霊波動のおかげですっかり動けるようになったなまえは、自身の鍛錬をしながら掃除や料理をこなす日々を送っていた。
幼いころからスパイとして養成機関で訓練されていたなまえたちは、今までまともに家事というものをしたことがない。メイドや料理人がいて、身の回りのことは何でもやってくれていたからだ。しかしそれは善意ではなく、任務に専念させるためである。
長い廊下の隅。彼女は今、掃除を終えて少し休んでいるところだった。幻海はテレビゲームをしているらしく、近くにはいない。
こちらに来てからまだ一度も本国に連絡をしていない。そろそろ報告をしないとまずい頃だ。なまえは仕舞い込んでいた通信機を取り出すと、耳に装着して2度タップした。
「こちらなまえ。定期連絡です。」
『こちらオペレーター。現状の報告を……きゃっ』
オペレーターの気配が消え、ノイズが聞こえる。次に聞こえてきたのは久々に陥る、皮膚の裏側を触られるような感覚の声だった。
『やあなまえ、僕の可愛い娘。連絡をくれるのをずっと待っていたよ。』
「ごめんなさい、お父様。着いて早々いろいろあったの。」
自身の中に芽生えた違和感を無視し、愛する父との会話を続ける。
『それでどうだ。何か分かったかい?』
「この世界には、霊界と魔界、二つの世界があるらしいわ。それに、霊力という未知の力を使う人も。……ただ、科学力は全然よ。多次元の存在も分かってなかったもの。」
『僕が検知したエネルギーの正体は?』
「いやだわお父様、無理言わないで。私まだこの世界に来たばかりよ?」
『何を言うんだい、なまえ。』
次元を超えているのに、まるで彼の腕の中に包まれているような錯覚に陥る。声色が変わったことに、彼女はぞわりとした。
『お前はいい子だ、できるだろう?』
またこの感覚。頭がぐらぐらする。拷問されている雪菜がふと思い浮かび、それがいつの間にか自分になっていた。
愛しい娘、とうわごとのように囁きながら、父はベッドになまえを縛り付ける。彼の舌が、肌をねっとりと這う。
――大丈夫。
なまえは頭を強く振った。彼は今、ここにはいないんだから。
「分かったわ、お父様。私、頑張るわね。」
『それでこそ我が娘だ。……期待しているよ。』
通信が切れる。なまえはぴくりとも動けない。心だけどこか違う場所に置いてきたように。
そんな彼女の様子を、幻海は廊下の奥から険しい顔で見つめていた。
幻海の許しを得て天井の梁からロープを数本垂らしたなまえは、それを使いトレーニングをしていた。腕の力だけで登ったり、何本か体に巻き付けて静止したり。全身の筋力やバランス力、柔軟性を鍛えるにはうってつけの、彼女お気に入りのトレーニング方法だ。
「精が出ますね。」
「……!」
いきなり声をかけられ、上の方まで上り詰めていたなまえはバランスを崩しかける。
「おっと、…すみません。」
「あなた、なんで気配がないのよ。」
持ちこたえたなまえは廊下にいる訪問者――蔵馬を軽く睨み、くるりと宙返りをして着地した。
「言ってませんでしたっけ?オレも妖怪なんです。」
部屋にあったタオルを彼女に渡し、衝撃発言をさらりと言ってのける。
「嘘ね、って言いたいところだけど、本当のようね。……今日はどうしたの?学校帰りに。幻海さんに用事?」
「いえ、なまえさんの具合を見に来たんです。」
「あら、わざわざ来てくれたの?ありがと。」
ぱちりとウインクをする彼女は、彼が来たのは監視のようなものだろうと推測する。気づかないふりをしているなまえに、蔵馬は遠慮がちに聞いてみた。
「……驚かないんですね、オレが人間じゃないってことに。」
なまえは汗を拭いながら、障子を開けて縁側に座る。風が気持ちいい。
「もうすでに、ぼたんちゃんや雪菜ちゃんに会ってるからね。……それよりも私は、蔵馬君が自分のことを話したことにびっくりよ。」
「オレが?」
「ええ。」
少し声が高くなった彼に、くすりと振り返る。
「だってあなた、私のこと信用してないじゃない。それなのに、傷の手当てもしてくれたし……。そっちのほうがびっくり。」
「……。」
自分のことを信用していない相手と話すのは、いささか緊張するものだ。しかしなまえからは、それが感じられない。それとも、上手く隠しているのか。彼女の生きてきた世界を想像した。
「……なぜ雪菜ちゃんをかばったのか、聞いても?」
蔵馬は、彼女のことが分からなかった。笑顔の仮面をつけていると思ったら、偶然落ちただけの世界の妖怪の少女を、命を懸けて守る彼女が。
「保護対象を守るのは、プロとして当然のことよ。それに、あのスーツは頑丈だから。」
「それでも、あなたの内臓はダメージを負った。そうなることも分かっていたんでしょう?」
「……。」
「冷たく聞こえるかもしれないが、ここはあなたのいた世界じゃない。……自分を犠牲にしてまで、」
ふとこちらを振り返ったなまえに、蔵馬は言葉を失った。彼女がつらそうに顔を歪めていたからだ。
「…あれぐらいの女の子が虐げられているのが、一番許せないのよ。くだらない大人たちの、くだらない理由のせいで……。」
「なまえさん……。」
初めて本心を話した様子の彼女に驚き、蔵馬はその場を動くことができない。静寂の中、そういえば最初に会った時からぼたんと蛍子を助けていたと思い出す。
つい自我を出してしまったことにハッとし、なまえは話題を変えることにした。
「そうだ、あなた妖怪だって言ってたけど、幽助君とかは?」
「彼は人間ですよ。桑原君も。今回の関係者で言うと、あと妖怪なのは飛影と……戸愚呂兄弟ですね。」
「ああ、あの人……。どうりで体の底から震えるような威圧感が――。でも、蔵馬君は怖くないわね。」
いつもの仮面のような笑顔に戻り、なまえがおどけたように言う。
「妖怪がみんな、普段から殺気を漏らしてるわけじゃないですよ。ただオレも、大切な人を傷つけられるようなことがあれば、黙っちゃいませんが。」
「あら怖い。」
くすくすと笑うなまえに、蔵馬は複雑な心境になる。
――この人は、どうなんだろうか。
敵に、なり得るのだろうか。ぼたんや幽助の恋人、そして飛影の妹を命がけで守った彼女だ。彼は、できれば敵になりたくないと思っていた。
「おや、こんなところで油売ってたのかい。」
「幻海さん!」
「師範、お邪魔してます。」
縁側の反対、廊下側から声をかけられ、なまえは慌てて立ち上がる。てっきり次の家事を言いつけられると思っていたのだが、幻海の口から出たのは予想とは違うものだった。
「なまえあんた、たまには蔵馬に手合わせしてもらいな。いつもあたしとやるんじゃつまらないだろ。」
「え、彼に?」
「師範、お言葉ですが、オレより師範のほうが……。」
「あたしはこれから見たいテレビがあるんだよ。」
幻海らしい理由だ。
名指しされた彼も驚いたが、なまえはもっと驚いた。
――妖怪と手合わせなんて……。
体が満足に動けるようになってから、彼女は幻海に頼み込んで体術の特訓相手になってもらっていた。幻海の方も、違う世界の住人がどんな動きをするのか見てみたかったらしく利害は一致したらしい。霊光波動拳というものが何なのかは分からないが、並みの武道家でないことはなまえにもすぐに分かった。本国では負けなしだった彼女が、この老婆にいいように遊ばれているからだ。若いころに出会っていたらまるで相手になっていなかっただろう。
だがそれでも人間だった。人間として正しい関節の動きをしており、霊力以外の攻撃ならある程度は予想できる。だが蔵馬は妖怪だ。そもそもどんな生き物かが分からない以上、予想も何もできやしない。
ちらりと蔵馬を見ると、彼は幻海の提案を承諾したらしく、目線でなまえを誘いながら玄関の方へと向かっていた。彼女は腹を括る。予測不可能な攻撃をしてくる敵との対峙など、そうそうできるものじゃない。
「……着替えたらすぐに行くわ。」
彼女は、あの日からたたんだままのボディスーツに目をやった。
幻海邸の裏山。蔵馬となまえはお互いを正面に見据えて立っていた。二人ともまだ武器を手にしてはいない。
「なまえさんの背中のそれ、双錘ですよね。」
「ええ。知ってるの?」
「昔、その武器を使う妖怪と対峙したことがありまして。確か中国の武器だったかな。」
「詳しいわね。……不思議ね、私たち違う世界の住人なのに。」
じりり、とお互いの間合いを図り、二人はゆっくりと歩きだす。
「もしかしたら、オレたちの世界は共通点が多いのかも。」
「でもこっちじゃ、妖怪はいなかったわよ……!」
なまえが地を蹴り飛び出した。彼女の目まぐるしい双錘の打撃を次々とかわしながら、蔵馬は髪から一輪のバラを取り出す。それをひと振りすると、茨の鞭へと変化した。
「バラが鞭に……!」
「今度はこちらから行きます。」
彼は巧みに鞭を操りなまえを捕えようとするが、なかなか上手くいかない。手首から繰り出すグラップリングフックを木の枝に巻き付け、宙を舞うように彼女は逃げていた。
「なるほど、機動力はありますね。それにそのスーツ、次は何が出てくるかってヒヤヒヤしますよ。」
「あら、余裕なくせに。」
木の上から蔵馬を見下ろし、なまえはベルトから何かを取り出す。地面に叩きつけると白い煙が広がった。
「煙幕か……。」
蔵馬の視界を奪い一気に距離を詰め、双錘を喉元に突き付けた。
――捕らえた。
そう彼女が思った瞬間。
「!?」
何か鋭いものが首に当たった。ぴたりと動きを止める。少しだけ下を見て確認すると、それはその辺りに生えている雑草のように見えた。
「オレは、植物に妖気を通して武器にすることができるんです。これは、ナイフと同じだと思った方がいい。」
後ろから、耳元で声がした。気配も何も感じられなかったことに、なまえは動揺を隠せない。彼から香るバラの香りがこの状況に似合わず、彼女は妙な焦燥感を覚えた。
「……っ、参ったわ。」
双錘を手放し両手を挙げ、これ以上戦う意思がないことを示した。蔵馬がそっと離れていく。
「とてもいい動きをしますね。体の柔軟性も相まって、一見、無理な姿勢からの攻撃に見えて無駄がない。逃げているときでも最短距離で攻撃に転じられますね。」
「あっさり負けちゃったけどね。」
なまえが肩をすくめると、彼女が地に捨てた双錘を拾い蔵馬が微笑む。
「あなたの武器は、これの他にもまだあるでしょう。なぜ使わなかったんですか?」
「……どうして、他にもあると?」
毒のことだと、彼女はすぐにピンときた。だがすぐには答えず、手渡された自身の武器を背中に収めて彼の回答を待つ。
「オレ、鼻が利くんですよ。」
「……?」
「あなたから微かに薬品のような匂いがして。職業柄、薬というより毒だろうと思ったんです。」
「……匂いが漏れるようなものじゃないはずよ。」
「まぁ、妖怪ですから。」
さらりと言う蔵馬に、やはり妖怪は予測不可能だとなまえは思った。
二人は手合わせをやめ、ちょうど転がっていた丸太に座り少し話すことにした。
「それは、あなたの国の?」
蔵馬はなまえの手にある小さな瓶を指さし、彼女に尋ねた。それには透明な液体が入っていて、おそらく香水だと言われても不自然はないだろう。
「国のというより…私の、かしら。自分で作ったの。他にも、口紅に混ぜ込んであったり、タブレット型のもあるのよ。」
“口紅”。蔵馬は、それがどういった経路でターゲットの体内に入るのかを簡単に想像できた。
「蔵馬君も薬に詳しいの?薬湯くれたじゃない。」
「オレは植物に詳しいので、薬草にも必然的に詳しくなったんです。」
「ああ、それで……。ふふ、良薬口に苦し、ね。」
味を思い出したのか、目を細めて困ったように笑うなまえ。蔵馬は、一瞬目を奪われた。
「なまえさんは、そうやって笑ってる方がいいですね。」
「……私はいつも笑顔のつもりよ?」
思わず、余計なことを口走ったと後悔した。すると案の定、先ほどの眩い笑顔がいつもの仮面に隠れる。彼は名残惜しいな、とふと思った。だがその思いを振り払うようにすっと立ち上がり、彼女に手を差し出す。
「では、そろそろ戻りましょうか。師範が待ってますよ。」
「私はもう少し、体を動かしてから戻るわ。夕飯の準備までまだ時間があるし。」
「分かりました。」
蔵馬は、宙に浮いた手をどうすればいいか分からず、ぎこちなく制服のポケットに入れた。
「おや、あんただけかい。」
「ええ、もう少し体を動かしたいと。」
先に戻った蔵馬は、幻海の背中を見つめる。そして、今日ここに来た理由の半分を訪ねることにした。
「……それでですが師範、彼女の様子は?」
体の具合を見に来たというのも嘘ではないが、それがすべてではない。霊界の保護対象である彼女を、蔵馬なりに観察していた。
「大体は何かしらの鍛錬をしてるようだが、時折……どこかへ連絡を取ってるね。たぶん自分の国なんだろう。」
「そうですか……。」
“通信機器も壊れちゃってるし……。”
敵になりたくない。そう思っていた矢先だ。彼女の嘘を見破る羽目になり、蔵馬は自分の胸がもやりとしたのに気づいた。
幻海はそんな蔵馬を一瞥し、なまえのもう一つの顔を思い出す。
この家は広い上に山中にあるため、夜になると昼間よりも静かになる。居候の女が少しの物音で起きてしまうことにも、幻海は気づいていた。それに、なかなか眠れずにうなされていることも。
「しかしねぇ……。」
「何か気になりますか?」
腕を組み難しい顔をする幻海に、蔵馬が再び尋ねる。
「いや、あいつもまだガキだと思ってね。ツラの皮の厚さは一人前だが……。」
「……。」
幻海は、通信を切った後のなまえの顔を思い出す。何かに怯えているのは確かなのに、それを自分で気づかないふりをしている。まるで考えることを放棄しているように見えた。そんな彼女が、幻海には危うく映ったのだ。
「……よく見ててやれって、コエンマには伝えときな。」
遠い目をしてそれだけ言い、蔵馬をその場に残して幻海は去っていった。
幼いころからスパイとして養成機関で訓練されていたなまえたちは、今までまともに家事というものをしたことがない。メイドや料理人がいて、身の回りのことは何でもやってくれていたからだ。しかしそれは善意ではなく、任務に専念させるためである。
長い廊下の隅。彼女は今、掃除を終えて少し休んでいるところだった。幻海はテレビゲームをしているらしく、近くにはいない。
こちらに来てからまだ一度も本国に連絡をしていない。そろそろ報告をしないとまずい頃だ。なまえは仕舞い込んでいた通信機を取り出すと、耳に装着して2度タップした。
「こちらなまえ。定期連絡です。」
『こちらオペレーター。現状の報告を……きゃっ』
オペレーターの気配が消え、ノイズが聞こえる。次に聞こえてきたのは久々に陥る、皮膚の裏側を触られるような感覚の声だった。
『やあなまえ、僕の可愛い娘。連絡をくれるのをずっと待っていたよ。』
「ごめんなさい、お父様。着いて早々いろいろあったの。」
自身の中に芽生えた違和感を無視し、愛する父との会話を続ける。
『それでどうだ。何か分かったかい?』
「この世界には、霊界と魔界、二つの世界があるらしいわ。それに、霊力という未知の力を使う人も。……ただ、科学力は全然よ。多次元の存在も分かってなかったもの。」
『僕が検知したエネルギーの正体は?』
「いやだわお父様、無理言わないで。私まだこの世界に来たばかりよ?」
『何を言うんだい、なまえ。』
次元を超えているのに、まるで彼の腕の中に包まれているような錯覚に陥る。声色が変わったことに、彼女はぞわりとした。
『お前はいい子だ、できるだろう?』
またこの感覚。頭がぐらぐらする。拷問されている雪菜がふと思い浮かび、それがいつの間にか自分になっていた。
愛しい娘、とうわごとのように囁きながら、父はベッドになまえを縛り付ける。彼の舌が、肌をねっとりと這う。
――大丈夫。
なまえは頭を強く振った。彼は今、ここにはいないんだから。
「分かったわ、お父様。私、頑張るわね。」
『それでこそ我が娘だ。……期待しているよ。』
通信が切れる。なまえはぴくりとも動けない。心だけどこか違う場所に置いてきたように。
そんな彼女の様子を、幻海は廊下の奥から険しい顔で見つめていた。
幻海の許しを得て天井の梁からロープを数本垂らしたなまえは、それを使いトレーニングをしていた。腕の力だけで登ったり、何本か体に巻き付けて静止したり。全身の筋力やバランス力、柔軟性を鍛えるにはうってつけの、彼女お気に入りのトレーニング方法だ。
「精が出ますね。」
「……!」
いきなり声をかけられ、上の方まで上り詰めていたなまえはバランスを崩しかける。
「おっと、…すみません。」
「あなた、なんで気配がないのよ。」
持ちこたえたなまえは廊下にいる訪問者――蔵馬を軽く睨み、くるりと宙返りをして着地した。
「言ってませんでしたっけ?オレも妖怪なんです。」
部屋にあったタオルを彼女に渡し、衝撃発言をさらりと言ってのける。
「嘘ね、って言いたいところだけど、本当のようね。……今日はどうしたの?学校帰りに。幻海さんに用事?」
「いえ、なまえさんの具合を見に来たんです。」
「あら、わざわざ来てくれたの?ありがと。」
ぱちりとウインクをする彼女は、彼が来たのは監視のようなものだろうと推測する。気づかないふりをしているなまえに、蔵馬は遠慮がちに聞いてみた。
「……驚かないんですね、オレが人間じゃないってことに。」
なまえは汗を拭いながら、障子を開けて縁側に座る。風が気持ちいい。
「もうすでに、ぼたんちゃんや雪菜ちゃんに会ってるからね。……それよりも私は、蔵馬君が自分のことを話したことにびっくりよ。」
「オレが?」
「ええ。」
少し声が高くなった彼に、くすりと振り返る。
「だってあなた、私のこと信用してないじゃない。それなのに、傷の手当てもしてくれたし……。そっちのほうがびっくり。」
「……。」
自分のことを信用していない相手と話すのは、いささか緊張するものだ。しかしなまえからは、それが感じられない。それとも、上手く隠しているのか。彼女の生きてきた世界を想像した。
「……なぜ雪菜ちゃんをかばったのか、聞いても?」
蔵馬は、彼女のことが分からなかった。笑顔の仮面をつけていると思ったら、偶然落ちただけの世界の妖怪の少女を、命を懸けて守る彼女が。
「保護対象を守るのは、プロとして当然のことよ。それに、あのスーツは頑丈だから。」
「それでも、あなたの内臓はダメージを負った。そうなることも分かっていたんでしょう?」
「……。」
「冷たく聞こえるかもしれないが、ここはあなたのいた世界じゃない。……自分を犠牲にしてまで、」
ふとこちらを振り返ったなまえに、蔵馬は言葉を失った。彼女がつらそうに顔を歪めていたからだ。
「…あれぐらいの女の子が虐げられているのが、一番許せないのよ。くだらない大人たちの、くだらない理由のせいで……。」
「なまえさん……。」
初めて本心を話した様子の彼女に驚き、蔵馬はその場を動くことができない。静寂の中、そういえば最初に会った時からぼたんと蛍子を助けていたと思い出す。
つい自我を出してしまったことにハッとし、なまえは話題を変えることにした。
「そうだ、あなた妖怪だって言ってたけど、幽助君とかは?」
「彼は人間ですよ。桑原君も。今回の関係者で言うと、あと妖怪なのは飛影と……戸愚呂兄弟ですね。」
「ああ、あの人……。どうりで体の底から震えるような威圧感が――。でも、蔵馬君は怖くないわね。」
いつもの仮面のような笑顔に戻り、なまえがおどけたように言う。
「妖怪がみんな、普段から殺気を漏らしてるわけじゃないですよ。ただオレも、大切な人を傷つけられるようなことがあれば、黙っちゃいませんが。」
「あら怖い。」
くすくすと笑うなまえに、蔵馬は複雑な心境になる。
――この人は、どうなんだろうか。
敵に、なり得るのだろうか。ぼたんや幽助の恋人、そして飛影の妹を命がけで守った彼女だ。彼は、できれば敵になりたくないと思っていた。
「おや、こんなところで油売ってたのかい。」
「幻海さん!」
「師範、お邪魔してます。」
縁側の反対、廊下側から声をかけられ、なまえは慌てて立ち上がる。てっきり次の家事を言いつけられると思っていたのだが、幻海の口から出たのは予想とは違うものだった。
「なまえあんた、たまには蔵馬に手合わせしてもらいな。いつもあたしとやるんじゃつまらないだろ。」
「え、彼に?」
「師範、お言葉ですが、オレより師範のほうが……。」
「あたしはこれから見たいテレビがあるんだよ。」
幻海らしい理由だ。
名指しされた彼も驚いたが、なまえはもっと驚いた。
――妖怪と手合わせなんて……。
体が満足に動けるようになってから、彼女は幻海に頼み込んで体術の特訓相手になってもらっていた。幻海の方も、違う世界の住人がどんな動きをするのか見てみたかったらしく利害は一致したらしい。霊光波動拳というものが何なのかは分からないが、並みの武道家でないことはなまえにもすぐに分かった。本国では負けなしだった彼女が、この老婆にいいように遊ばれているからだ。若いころに出会っていたらまるで相手になっていなかっただろう。
だがそれでも人間だった。人間として正しい関節の動きをしており、霊力以外の攻撃ならある程度は予想できる。だが蔵馬は妖怪だ。そもそもどんな生き物かが分からない以上、予想も何もできやしない。
ちらりと蔵馬を見ると、彼は幻海の提案を承諾したらしく、目線でなまえを誘いながら玄関の方へと向かっていた。彼女は腹を括る。予測不可能な攻撃をしてくる敵との対峙など、そうそうできるものじゃない。
「……着替えたらすぐに行くわ。」
彼女は、あの日からたたんだままのボディスーツに目をやった。
幻海邸の裏山。蔵馬となまえはお互いを正面に見据えて立っていた。二人ともまだ武器を手にしてはいない。
「なまえさんの背中のそれ、双錘ですよね。」
「ええ。知ってるの?」
「昔、その武器を使う妖怪と対峙したことがありまして。確か中国の武器だったかな。」
「詳しいわね。……不思議ね、私たち違う世界の住人なのに。」
じりり、とお互いの間合いを図り、二人はゆっくりと歩きだす。
「もしかしたら、オレたちの世界は共通点が多いのかも。」
「でもこっちじゃ、妖怪はいなかったわよ……!」
なまえが地を蹴り飛び出した。彼女の目まぐるしい双錘の打撃を次々とかわしながら、蔵馬は髪から一輪のバラを取り出す。それをひと振りすると、茨の鞭へと変化した。
「バラが鞭に……!」
「今度はこちらから行きます。」
彼は巧みに鞭を操りなまえを捕えようとするが、なかなか上手くいかない。手首から繰り出すグラップリングフックを木の枝に巻き付け、宙を舞うように彼女は逃げていた。
「なるほど、機動力はありますね。それにそのスーツ、次は何が出てくるかってヒヤヒヤしますよ。」
「あら、余裕なくせに。」
木の上から蔵馬を見下ろし、なまえはベルトから何かを取り出す。地面に叩きつけると白い煙が広がった。
「煙幕か……。」
蔵馬の視界を奪い一気に距離を詰め、双錘を喉元に突き付けた。
――捕らえた。
そう彼女が思った瞬間。
「!?」
何か鋭いものが首に当たった。ぴたりと動きを止める。少しだけ下を見て確認すると、それはその辺りに生えている雑草のように見えた。
「オレは、植物に妖気を通して武器にすることができるんです。これは、ナイフと同じだと思った方がいい。」
後ろから、耳元で声がした。気配も何も感じられなかったことに、なまえは動揺を隠せない。彼から香るバラの香りがこの状況に似合わず、彼女は妙な焦燥感を覚えた。
「……っ、参ったわ。」
双錘を手放し両手を挙げ、これ以上戦う意思がないことを示した。蔵馬がそっと離れていく。
「とてもいい動きをしますね。体の柔軟性も相まって、一見、無理な姿勢からの攻撃に見えて無駄がない。逃げているときでも最短距離で攻撃に転じられますね。」
「あっさり負けちゃったけどね。」
なまえが肩をすくめると、彼女が地に捨てた双錘を拾い蔵馬が微笑む。
「あなたの武器は、これの他にもまだあるでしょう。なぜ使わなかったんですか?」
「……どうして、他にもあると?」
毒のことだと、彼女はすぐにピンときた。だがすぐには答えず、手渡された自身の武器を背中に収めて彼の回答を待つ。
「オレ、鼻が利くんですよ。」
「……?」
「あなたから微かに薬品のような匂いがして。職業柄、薬というより毒だろうと思ったんです。」
「……匂いが漏れるようなものじゃないはずよ。」
「まぁ、妖怪ですから。」
さらりと言う蔵馬に、やはり妖怪は予測不可能だとなまえは思った。
二人は手合わせをやめ、ちょうど転がっていた丸太に座り少し話すことにした。
「それは、あなたの国の?」
蔵馬はなまえの手にある小さな瓶を指さし、彼女に尋ねた。それには透明な液体が入っていて、おそらく香水だと言われても不自然はないだろう。
「国のというより…私の、かしら。自分で作ったの。他にも、口紅に混ぜ込んであったり、タブレット型のもあるのよ。」
“口紅”。蔵馬は、それがどういった経路でターゲットの体内に入るのかを簡単に想像できた。
「蔵馬君も薬に詳しいの?薬湯くれたじゃない。」
「オレは植物に詳しいので、薬草にも必然的に詳しくなったんです。」
「ああ、それで……。ふふ、良薬口に苦し、ね。」
味を思い出したのか、目を細めて困ったように笑うなまえ。蔵馬は、一瞬目を奪われた。
「なまえさんは、そうやって笑ってる方がいいですね。」
「……私はいつも笑顔のつもりよ?」
思わず、余計なことを口走ったと後悔した。すると案の定、先ほどの眩い笑顔がいつもの仮面に隠れる。彼は名残惜しいな、とふと思った。だがその思いを振り払うようにすっと立ち上がり、彼女に手を差し出す。
「では、そろそろ戻りましょうか。師範が待ってますよ。」
「私はもう少し、体を動かしてから戻るわ。夕飯の準備までまだ時間があるし。」
「分かりました。」
蔵馬は、宙に浮いた手をどうすればいいか分からず、ぎこちなく制服のポケットに入れた。
「おや、あんただけかい。」
「ええ、もう少し体を動かしたいと。」
先に戻った蔵馬は、幻海の背中を見つめる。そして、今日ここに来た理由の半分を訪ねることにした。
「……それでですが師範、彼女の様子は?」
体の具合を見に来たというのも嘘ではないが、それがすべてではない。霊界の保護対象である彼女を、蔵馬なりに観察していた。
「大体は何かしらの鍛錬をしてるようだが、時折……どこかへ連絡を取ってるね。たぶん自分の国なんだろう。」
「そうですか……。」
“通信機器も壊れちゃってるし……。”
敵になりたくない。そう思っていた矢先だ。彼女の嘘を見破る羽目になり、蔵馬は自分の胸がもやりとしたのに気づいた。
幻海はそんな蔵馬を一瞥し、なまえのもう一つの顔を思い出す。
この家は広い上に山中にあるため、夜になると昼間よりも静かになる。居候の女が少しの物音で起きてしまうことにも、幻海は気づいていた。それに、なかなか眠れずにうなされていることも。
「しかしねぇ……。」
「何か気になりますか?」
腕を組み難しい顔をする幻海に、蔵馬が再び尋ねる。
「いや、あいつもまだガキだと思ってね。ツラの皮の厚さは一人前だが……。」
「……。」
幻海は、通信を切った後のなまえの顔を思い出す。何かに怯えているのは確かなのに、それを自分で気づかないふりをしている。まるで考えることを放棄しているように見えた。そんな彼女が、幻海には危うく映ったのだ。
「……よく見ててやれって、コエンマには伝えときな。」
遠い目をしてそれだけ言い、蔵馬をその場に残して幻海は去っていった。