第二章:彼らの戦い、彼女の葛藤
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
少し重たい頭をベッドから持ち上げ、なまえは辺りを見回す。曖昧な昨夜の記憶を辿り、男子部屋から女子部屋まで全員の移動が完了したことをなんとか思い出した。あのまま放っておけば朝まで飲み明かしていたに違いない。そんなことをすればチェックアウトの時間に間に合わなくなるばかりか、迎えの船に乗れなくなる。なまえはこんな趣味の悪い島からは早々に立ち去りたいと思っていた。しかし不思議なことに、その反面で多少の名残惜しさも感じていることに気づき、その矛盾に口元だけで笑う。
時刻は5時を少し回ったところ。チェックアウトの時間は10時。他の女性陣はまだ寝ている。任務のために早起きをすることが多かったため、その癖がここでも出たようだ。コーヒーを飲みたいところだがマシンを動かせば誰かしら起きてしまうかもしれない。彼女は仕方なく起こした体を再びベッドに沈め、ここ数日まともに使っていない通信機に触れた。
手首のそれは本来の機能として作動させなくても、持ち主のバイタルを自動的に本国へ送る仕組みになっている。生死の確認をするためだ。しかしそれは動揺や感動など、心が大きく動いた際も脈拍の乱れなどで知られてしまう。今回の任務中も、なまえにはいくつか思い当たる節があった。表情や言葉などで誤魔化せない分、余計に厄介だ。かといって、外してしまえば任務に支障が出たと見なされ強制転送で呼び戻される。任務中の安全確保のためという名目だが、実質は完璧な支配のためだった。
――通信をやめるぐらいじゃ不十分ね。……向こうがその気になれば、いつだって私を呼び戻せる。
なまえは深くため息をつき、手の甲を額にかざした。少し遮られた視界でそのまま呼吸を繰り返す。逃げも隠れもできない現状に焦りそうになったが、通信機をぎゅっと握りしめてゆっくりと息を吐いた。ゆっくりと、自分を落ち着かせるように。父親からの“ひとり立ち”を今、あちらに気取られるわけにはいかない。なまえは目を閉じたまま深呼吸を繰り返し、再び眠りの海へと身を委ねていった。
ホテルのロビーには、昨日まで開催されていた暗黒武術会の優勝メンバーが勢ぞろいしている。しかし大将である浦飯幽助は何やらいらだっているようで、腕を組んだりポケットに手を突っ込んだりと落ち着かない。
「はーあ、ったくよー。女ってのはなんでこうも時間がかかるんだよ」
朝食のレストランで女性陣と鉢合わせた彼らは、“朝ご飯の後にまたすぐ下りてくるから”という言葉を信じ、余裕をもってロビーへと来ていた。万が一こちらが遅れようものなら、処理しきれないほどの苦情を――ほとんどが螢子から幽助へのものだろうが――浴びせられるだろうからだ。しかし、レディたちの“すぐ”は男性陣が思っていたものとは違ったらしい。
「まぁまぁ幽助。女性は身支度に時間がかかるものなんだよ」
「んだよ蔵馬。一人だけ理解者の顔しやがって」
自分を横目でじっとりと見てくる幽助に再度「まぁまぁ。」と声をかけ、蔵馬はなまえを思い描いた。
この大会が終わったら話したいことがあると、自身の腕にそっと触れながら言っていた彼女。不慮の事故でこの世界にたどり着いたという女スパイは、その職業に相応しく嘘をついている。当初は、それを見て見ぬふりをしていた。しかしこちらが秘密を探る前に、自ら明かしてくれようとは。
笑顔を見れたことで一枚、本音を話そうとしてくれたことで一枚。そうやってなまえのまわりの壁が一枚一枚取り外されていくようで、蔵馬は妙な高揚感に包まれていた。エレベーターの扉が開く度、ふわりとした栗色の髪が見えないかと期待してしまうほどに。
「あの女を探してるのか?」
低い位置から、これまた低い声で問いかけられる。蔵馬はどきりとして咄嗟に言葉を返せなかった。
「フッ、ご執心だな。妖狐の次の獲物というわけか」
「飛影、オレは彼女をそんな風には……」
「彼女?さて、どいつのことだ?」
珍しく優位に立っているのが分かっているらしい。飛影は流れるように言葉を紡ぎ出す。“自分だって気にしてるくせに”と蔵馬が口を開こうとしたとき、電子音をさせてまたエレベーターが開いた。友とのちょっとした言い合いの最中でも、やはり無意識に“彼女”を探してしまう。しかし彼はぴくりとも目線を動かさなかった。意固地になっているようなその行動に、飛影はまたも鼻で笑う。邪眼など使わなくてもお見通しというわけだ。そう思うと今の自分はどれほど滑稽なのだろうと、蔵馬は急に馬鹿らしくなり肩の力を抜いた。
飛影は恋愛事に疎い。まだ若いからというのもそうだが、今までそういった機会がなかったせいだ。少なからず、蔵馬はそう思っていた。しかしなまえを見るときの彼はどうだろうか。気のせいであってほしいと思うが、その目に何かが見え隠れしている。本人に自覚はないにしろ、今の蔵馬と近しい感情を彼女に向けていることは明らかだった。
「おーい、こっちこっち!」
何度目かのエレベーターの昇降の後、やっと到着した女性陣に幽助が呼びかける。笑顔で何か雪菜と話しているなまえを見つけ、友がこのまま自分の想いに気づかぬようにと、蔵馬は密かに願った。
日の光を浴びてきらきらと揺らめく海面が、岸辺に着いた彼らを出迎える。もうだいぶ日が高くなってきたらしく、背後の森にも明るい日が差し込んでいた。来た時とは真逆ともいえる島の雰囲気は、暗黒武術会の終了を晴れ晴れと宣言しているようだ。
「ようやくこの島ともおさらばかー」
温子がやれやれといった調子で呟くと、タイミングを見計らったかのように海岸線から船が顔を出した。「行くか。」という幽助の声を筆頭に、選手たちも思い思いに帰還の意思を口にする。
「よっしゃ、いざ!!凱旋―――!!」
「おーーー!!」
意気揚々と拳を突き上げ皆が笑っている。陽光とは違うが確かにきらめくその輝きが、なまえには眩しい。目を細めながら眺めていると、ふいに遠くから声が聞こえた。
「おいおい、なんて冷たいんだろーね」
何度も聞いた声、しかし今では決して耳にすることのできないはずの声に、その場の全員が目を見開き固まる。
「その…声は」
やっとのことで振り返った幽助を筆頭に、なまえたちもわけが分からないまま振り返る。少し遠くで穏やかに微笑む彼女 は、確かにそこにいた。
「年寄りおいて帰る気かい?」
「ば……っ、ばーさん!?」
「ひーっ!」
まるで幽霊でも見たかのような反応をする一同とは逆に、なまえはその場に固まってしまう。なぜこの場に幻海がいるのかを考えようとしたが、うまく頭が働かないので早々に止めた。そのかわり、静流やぼたんたちと連れ立って歩いてきた張本人に質問を投げかける。
「ほんとに…幻海さん?」
なまえの脳内では、幻海が“何を言ってるんだ”と彼女の発言に呆れていた。きっとそう言われるだろうと思っていた。眼前の、現実の彼女が口を開く。
「あんた何言ってんだい。別人に見えるってのかい?」
ああ、やはりなとなまえはほっとした。そうして帰ってきたのだと実感できた。理由や手段などは分からない。死者がよみがえるなど聞いたこともない。しかしここは彼女からすれば異次元。常識が通用しないのはいつものことだと、妙に開き直った。もう考えるのを放棄したかった。今はただ、胸の奥から込み上げるものに身を任せたいだけなのだ。
「やれやれ…そんなに分かりやすいんじゃ、スパイ失格だねえ?」
静かに肩を震わせていると、幻海がいつものように小言を言った。だが言葉とは裏腹に、彼女の笑みは温かい。
「そう…ですね…っ」
ぐすんと鼻を鳴らしながら、今は言うつもりのなかったことを小さくこぼした。
「でも、もう……スパイは、…やめるので……」
涙で濡れた顔で彼女は嬉しそうに笑う。それを見て、幻海もまた笑う。
なまえは、これが任務での涙ならすぐに止められるのにと考えるが、今はそうでないのでどうしようもない。螢子がそっと渡してくれたハンカチをありがたく受け取り、目元の熱が収まるのを待った。
岸辺に着いたときには小さかった船が、気づけばもうすぐそばまで来ていたようだ。客を乗せる準備をしているのか、数名の船員がてきぱきと動いている。幽助たちも、乗り場まで移動することにした。
「……さ、オレたちも行きましょう」
まだ少し涙で視界がぼやけているなまえに、蔵馬がすっと手を差し出す。その手にもう一つの手が重ねられたことで、彼は優しく目を細めた。流れるような所作に仲間たちは“さすが”というような顔だが、内心、彼は焦っている。妖狐時代には何も感じなかったはずの女の涙に、まるで少年の様に動揺しているからだ。
「段差があります。気を付けて」
握る手にぐっと力を入れ、心をかき乱す張本人に乗船を促す。その過保護ともとれる言動に彼女は思わず吹き出し「ありがとう。」と答えた。先ほどとは違い明るくなった声色に、蔵馬も安心して笑みを返す。
客が全員乗り込んだのを確認し、ゆっくりと船が動き始める。波が穏やかなため揺れはそこまで大きくないが、岸辺にいたときよりも潮風の匂いが濃くなった。なまえは船べりに体を預け、だんだんと小さくなっていく特徴的な島のシルエットを眺めていた。
「考え事ですか?」
唐突に話しかけられ、島に置き去りにしていた意識が戻ってくる。船の進行方向を見ると、なびく髪を押さえる蔵馬がいた。いつの間にか、こうして側にいるのが当たり前のようになっている。その距離感を受け入れたなまえは、素直に答えた。
「ここに来て良かったって、思ってたの」
彼女の紛れもない本音だ。その晴れやかな表情からも見て取れる。しかし蔵馬は驚いたまま表情を固くし、「良かった?」と彼女の言葉を復唱する。
「ずいぶんとひどい目に遭ってたじゃないですか」
「ひどい目?」
渋い顔で自分の胸元をトントン、と人差し指で叩くのを見て、なまえはすぐに鴉との戦いのことだと分かった。
「それは、まぁ…怪我はひどかったわね。みんなにもけっこう心配かけちゃったし」
ベッドで目を覚ました時のことを思い出し、船上の彼女たちに目を向けた。そしてあの時思ったことと同じことを、蔵馬にも言う。
「でもね、あれは私にとって大切な決意だったの。今まで誰かの命令でしか戦えなかったのに――自分の意志で戦うことができた。それが全てなのよ」
「なまえさん……」
あまりにもすっきりとした顔をしているため、蔵馬は何も言えなくなる。だが、彼にはどうしても明らかにしたいことがあった。
「ひとつ、聞いても?」
「ええ」
その瞬間、ぴたりと風が止んだ気がした。同時に、蔵馬は“さすがだ”と思った。なるべく普段通りを心掛けたが、なまえは彼の些細な声の変化さえ読み取っている。互いの視線が絡み合った。
「先ほど、スパイをやめると言ってましたね。幻海師範に」
「……」
「船に乗る前です」
「…ええ、覚えてるわ」
なまえのにこやかな表情がわずかに固くなったのを見て、蔵馬は核心に触れたと直感する。このまま会話を続けていいものかと一瞬迷ったが、彼は拒絶も覚悟のうえでストレートに聞いた。
「それは職業としてですか?それとも」
蔵馬は一拍置き、彼女の反応を見る。無表情だった。
「行動――いや、“この世界に来た目的として”ですか?」
「……」
唇をわずかに開いたと思ったらまた閉じ、なまえは視線を落とした。
時刻は5時を少し回ったところ。チェックアウトの時間は10時。他の女性陣はまだ寝ている。任務のために早起きをすることが多かったため、その癖がここでも出たようだ。コーヒーを飲みたいところだがマシンを動かせば誰かしら起きてしまうかもしれない。彼女は仕方なく起こした体を再びベッドに沈め、ここ数日まともに使っていない通信機に触れた。
手首のそれは本来の機能として作動させなくても、持ち主のバイタルを自動的に本国へ送る仕組みになっている。生死の確認をするためだ。しかしそれは動揺や感動など、心が大きく動いた際も脈拍の乱れなどで知られてしまう。今回の任務中も、なまえにはいくつか思い当たる節があった。表情や言葉などで誤魔化せない分、余計に厄介だ。かといって、外してしまえば任務に支障が出たと見なされ強制転送で呼び戻される。任務中の安全確保のためという名目だが、実質は完璧な支配のためだった。
――通信をやめるぐらいじゃ不十分ね。……向こうがその気になれば、いつだって私を呼び戻せる。
なまえは深くため息をつき、手の甲を額にかざした。少し遮られた視界でそのまま呼吸を繰り返す。逃げも隠れもできない現状に焦りそうになったが、通信機をぎゅっと握りしめてゆっくりと息を吐いた。ゆっくりと、自分を落ち着かせるように。父親からの“ひとり立ち”を今、あちらに気取られるわけにはいかない。なまえは目を閉じたまま深呼吸を繰り返し、再び眠りの海へと身を委ねていった。
ホテルのロビーには、昨日まで開催されていた暗黒武術会の優勝メンバーが勢ぞろいしている。しかし大将である浦飯幽助は何やらいらだっているようで、腕を組んだりポケットに手を突っ込んだりと落ち着かない。
「はーあ、ったくよー。女ってのはなんでこうも時間がかかるんだよ」
朝食のレストランで女性陣と鉢合わせた彼らは、“朝ご飯の後にまたすぐ下りてくるから”という言葉を信じ、余裕をもってロビーへと来ていた。万が一こちらが遅れようものなら、処理しきれないほどの苦情を――ほとんどが螢子から幽助へのものだろうが――浴びせられるだろうからだ。しかし、レディたちの“すぐ”は男性陣が思っていたものとは違ったらしい。
「まぁまぁ幽助。女性は身支度に時間がかかるものなんだよ」
「んだよ蔵馬。一人だけ理解者の顔しやがって」
自分を横目でじっとりと見てくる幽助に再度「まぁまぁ。」と声をかけ、蔵馬はなまえを思い描いた。
この大会が終わったら話したいことがあると、自身の腕にそっと触れながら言っていた彼女。不慮の事故でこの世界にたどり着いたという女スパイは、その職業に相応しく嘘をついている。当初は、それを見て見ぬふりをしていた。しかしこちらが秘密を探る前に、自ら明かしてくれようとは。
笑顔を見れたことで一枚、本音を話そうとしてくれたことで一枚。そうやってなまえのまわりの壁が一枚一枚取り外されていくようで、蔵馬は妙な高揚感に包まれていた。エレベーターの扉が開く度、ふわりとした栗色の髪が見えないかと期待してしまうほどに。
「あの女を探してるのか?」
低い位置から、これまた低い声で問いかけられる。蔵馬はどきりとして咄嗟に言葉を返せなかった。
「フッ、ご執心だな。妖狐の次の獲物というわけか」
「飛影、オレは彼女をそんな風には……」
「彼女?さて、どいつのことだ?」
珍しく優位に立っているのが分かっているらしい。飛影は流れるように言葉を紡ぎ出す。“自分だって気にしてるくせに”と蔵馬が口を開こうとしたとき、電子音をさせてまたエレベーターが開いた。友とのちょっとした言い合いの最中でも、やはり無意識に“彼女”を探してしまう。しかし彼はぴくりとも目線を動かさなかった。意固地になっているようなその行動に、飛影はまたも鼻で笑う。邪眼など使わなくてもお見通しというわけだ。そう思うと今の自分はどれほど滑稽なのだろうと、蔵馬は急に馬鹿らしくなり肩の力を抜いた。
飛影は恋愛事に疎い。まだ若いからというのもそうだが、今までそういった機会がなかったせいだ。少なからず、蔵馬はそう思っていた。しかしなまえを見るときの彼はどうだろうか。気のせいであってほしいと思うが、その目に何かが見え隠れしている。本人に自覚はないにしろ、今の蔵馬と近しい感情を彼女に向けていることは明らかだった。
「おーい、こっちこっち!」
何度目かのエレベーターの昇降の後、やっと到着した女性陣に幽助が呼びかける。笑顔で何か雪菜と話しているなまえを見つけ、友がこのまま自分の想いに気づかぬようにと、蔵馬は密かに願った。
日の光を浴びてきらきらと揺らめく海面が、岸辺に着いた彼らを出迎える。もうだいぶ日が高くなってきたらしく、背後の森にも明るい日が差し込んでいた。来た時とは真逆ともいえる島の雰囲気は、暗黒武術会の終了を晴れ晴れと宣言しているようだ。
「ようやくこの島ともおさらばかー」
温子がやれやれといった調子で呟くと、タイミングを見計らったかのように海岸線から船が顔を出した。「行くか。」という幽助の声を筆頭に、選手たちも思い思いに帰還の意思を口にする。
「よっしゃ、いざ!!凱旋―――!!」
「おーーー!!」
意気揚々と拳を突き上げ皆が笑っている。陽光とは違うが確かにきらめくその輝きが、なまえには眩しい。目を細めながら眺めていると、ふいに遠くから声が聞こえた。
「おいおい、なんて冷たいんだろーね」
何度も聞いた声、しかし今では決して耳にすることのできないはずの声に、その場の全員が目を見開き固まる。
「その…声は」
やっとのことで振り返った幽助を筆頭に、なまえたちもわけが分からないまま振り返る。少し遠くで穏やかに微笑む
「年寄りおいて帰る気かい?」
「ば……っ、ばーさん!?」
「ひーっ!」
まるで幽霊でも見たかのような反応をする一同とは逆に、なまえはその場に固まってしまう。なぜこの場に幻海がいるのかを考えようとしたが、うまく頭が働かないので早々に止めた。そのかわり、静流やぼたんたちと連れ立って歩いてきた張本人に質問を投げかける。
「ほんとに…幻海さん?」
なまえの脳内では、幻海が“何を言ってるんだ”と彼女の発言に呆れていた。きっとそう言われるだろうと思っていた。眼前の、現実の彼女が口を開く。
「あんた何言ってんだい。別人に見えるってのかい?」
ああ、やはりなとなまえはほっとした。そうして帰ってきたのだと実感できた。理由や手段などは分からない。死者がよみがえるなど聞いたこともない。しかしここは彼女からすれば異次元。常識が通用しないのはいつものことだと、妙に開き直った。もう考えるのを放棄したかった。今はただ、胸の奥から込み上げるものに身を任せたいだけなのだ。
「やれやれ…そんなに分かりやすいんじゃ、スパイ失格だねえ?」
静かに肩を震わせていると、幻海がいつものように小言を言った。だが言葉とは裏腹に、彼女の笑みは温かい。
「そう…ですね…っ」
ぐすんと鼻を鳴らしながら、今は言うつもりのなかったことを小さくこぼした。
「でも、もう……スパイは、…やめるので……」
涙で濡れた顔で彼女は嬉しそうに笑う。それを見て、幻海もまた笑う。
なまえは、これが任務での涙ならすぐに止められるのにと考えるが、今はそうでないのでどうしようもない。螢子がそっと渡してくれたハンカチをありがたく受け取り、目元の熱が収まるのを待った。
岸辺に着いたときには小さかった船が、気づけばもうすぐそばまで来ていたようだ。客を乗せる準備をしているのか、数名の船員がてきぱきと動いている。幽助たちも、乗り場まで移動することにした。
「……さ、オレたちも行きましょう」
まだ少し涙で視界がぼやけているなまえに、蔵馬がすっと手を差し出す。その手にもう一つの手が重ねられたことで、彼は優しく目を細めた。流れるような所作に仲間たちは“さすが”というような顔だが、内心、彼は焦っている。妖狐時代には何も感じなかったはずの女の涙に、まるで少年の様に動揺しているからだ。
「段差があります。気を付けて」
握る手にぐっと力を入れ、心をかき乱す張本人に乗船を促す。その過保護ともとれる言動に彼女は思わず吹き出し「ありがとう。」と答えた。先ほどとは違い明るくなった声色に、蔵馬も安心して笑みを返す。
客が全員乗り込んだのを確認し、ゆっくりと船が動き始める。波が穏やかなため揺れはそこまで大きくないが、岸辺にいたときよりも潮風の匂いが濃くなった。なまえは船べりに体を預け、だんだんと小さくなっていく特徴的な島のシルエットを眺めていた。
「考え事ですか?」
唐突に話しかけられ、島に置き去りにしていた意識が戻ってくる。船の進行方向を見ると、なびく髪を押さえる蔵馬がいた。いつの間にか、こうして側にいるのが当たり前のようになっている。その距離感を受け入れたなまえは、素直に答えた。
「ここに来て良かったって、思ってたの」
彼女の紛れもない本音だ。その晴れやかな表情からも見て取れる。しかし蔵馬は驚いたまま表情を固くし、「良かった?」と彼女の言葉を復唱する。
「ずいぶんとひどい目に遭ってたじゃないですか」
「ひどい目?」
渋い顔で自分の胸元をトントン、と人差し指で叩くのを見て、なまえはすぐに鴉との戦いのことだと分かった。
「それは、まぁ…怪我はひどかったわね。みんなにもけっこう心配かけちゃったし」
ベッドで目を覚ました時のことを思い出し、船上の彼女たちに目を向けた。そしてあの時思ったことと同じことを、蔵馬にも言う。
「でもね、あれは私にとって大切な決意だったの。今まで誰かの命令でしか戦えなかったのに――自分の意志で戦うことができた。それが全てなのよ」
「なまえさん……」
あまりにもすっきりとした顔をしているため、蔵馬は何も言えなくなる。だが、彼にはどうしても明らかにしたいことがあった。
「ひとつ、聞いても?」
「ええ」
その瞬間、ぴたりと風が止んだ気がした。同時に、蔵馬は“さすがだ”と思った。なるべく普段通りを心掛けたが、なまえは彼の些細な声の変化さえ読み取っている。互いの視線が絡み合った。
「先ほど、スパイをやめると言ってましたね。幻海師範に」
「……」
「船に乗る前です」
「…ええ、覚えてるわ」
なまえのにこやかな表情がわずかに固くなったのを見て、蔵馬は核心に触れたと直感する。このまま会話を続けていいものかと一瞬迷ったが、彼は拒絶も覚悟のうえでストレートに聞いた。
「それは職業としてですか?それとも」
蔵馬は一拍置き、彼女の反応を見る。無表情だった。
「行動――いや、“この世界に来た目的として”ですか?」
「……」
唇をわずかに開いたと思ったらまた閉じ、なまえは視線を落とした。
20/20ページ