第二章:彼らの戦い、彼女の葛藤
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いつの間にか眠っていたらしいなまえは、近くにいる誰かの気配で目を覚ました。医務室は相変わらず負傷者の治療で忙しそうだ。霞むその目が映したのは、小柄な黒い影だった。
「…飛影?」
「……」
呼びかけても何も答えない彼を不思議に思い、体を起こそうと腕と腹筋に力を入れる。
――どさっ
だが彼女の体は、またベッドに逆戻りしていた。飛影が無言で肩を押さえている。
「えぇ…っと?」
「寝てろ」
「……」
なまえの体調を気遣ったのだろうが、何とも不器用な男だ。だがあの飛影が来てくれたことが嬉しくて、つい饒舌になる。
「もしかしてお見舞いに来てくれたの?」
「……」
「優しいのね、ありがとう」
「…たまたまだ」
「そう?他には何をしに来たのかしら」
「ちっ…うるさい女だ。口にも包帯を巻いてやろうか」
飛影は、なまえの顔を見たらすぐに帰ろうと思っていた。しかし彼女の寝顔を見ていたら、なぜかその場から離れられなくなっていた。あの雨の中、初めて名前を呼ばれたときと同じ感覚だ。おかげで目を覚ました彼女に見つかり、特訓の合間に様子を見に来たことをからかわれる始末である。
くるりと体の向きを変えた飛影に、なまえが冗談を言った。ほんの出来心だ。
「あら、もう帰っちゃうの?寂しいじゃない」
「――っ、口の減らんヤツだな。少しは黙っていられんのか」
「ふふっ、はいはい」
体がどくんと脈打ったのをごまかすように、飛影はため息をついて一歩を踏み出す。だがこちらに向かってくる一つの妖気に気づき、彼はそのまま足を止めた。なぜかその者と彼女を残して去りたくない。自身の中に燻るその感情をどうにかしたくて、おそらく元凶であろうなまえを見下ろした。
「どうしたの?」
「……」
「…飛影?」
――コツ、コツ。
靴音が聞こえる。飛影のその様子を訝しんだ彼女は、再び上体を起こした。
飛影は葛藤していた。なまえに触れたい気がして手を伸ばし、躊躇いながらも彼女の髪を撫でる。予想よりも滑らかなその感触に促され、その指がわずかに頬に触れた。
「、ひえ……」
“どうしたのか”。もう一度聞こうとした彼女の唇は、半端に開いたまま動きを止めた。なんて目をしているのだろう。なまえは思った。そのせいでどうすることもできず、彼の瞳を見つめたまま固まってしまう。
靴音が止まった。
「――やぁ、飛影」
唐突に聞こえた声に、彼女はびくりと肩を揺らす。
「……蔵馬か」
「貴方もなまえさんのお見舞いですか?…あとはオレがついてるから、大丈夫だよ」
「……」
彼の口調は有無を言わさぬと言った具合だ。飛影は何事もなかったかのように頬から手を離す。タイミング的に見られていたはずだが、蔵馬はいつもと変わらない。それが良かったのかは分からないが、なまえはなぜかホッとしていた。
そのまま彼らは視線を交わし、その一瞬で会話を終えたらしい飛影が、なまえに背を向けた。そのままカーテンを開ける彼の背中に、ハッとした彼女は慌てたように声をかける。
「飛影!ありがとう、来てくれて」
「……フン。たまたまだと言っただろう」
いつもの憎まれ口を叩き、彼は去って行った。
ベッドわきに立っていた蔵馬に座るよう促し、なまえは目を合わせて微笑んだ。飛影との、あの形容しがたい空気を見られていたことに多少の気まずさは感じるものの、彼女は礼を言うべく口を開く。
「蔵馬君、薬湯ありがとう。やっぱり苦いけど、効いてる感じがするわ」
「…それは良かった」
にこりと微笑んだ蔵馬が、持ってきていた袋の中身をがさごそと探った。
「新しい薬を持ってきたんです。次の包帯交換のときに、瑠架にそれを使うように言ってください」
なまえが手渡された容器を開けると、灰色と緑を混ぜたようなジェル状のものが入っている。だがその禍々しい色に反してほんのりと爽やかな香りがし、彼女は頬を緩ませた。
「ありがとう。……まさかとは思うけど、毒じゃないわよね?」
「さぁ?試せば分かりますよ」
いつかのやりとりを再現し、二人はくすくすと笑いあう。
「冗談です。…これは、傷を綺麗に治すための薬。雪菜ちゃんのおかげでだいぶ良くなったと思うけど、もしかしたら跡が残るかもしれないので」
「そうね。…でも仕方ないわ、あれだけ派手にやられたもの」
何でもないように言った彼女の手を、蔵馬がぱっと握る。驚いたなまえが顔を上げると、そこにはいつになく真剣な目をした蔵馬がいた。鋭いその眼差しは、彼が高校生であることを忘れさせる。
「ダメだ」
「え?」
「…オレが絶対、綺麗に治しますから」
有無を言わせぬその物言いに、なまえはどきりとする。
「っ――あら、そんなに傷跡が残るのが嫌?ずいぶん大事にしてくれるじゃない」
そのきらりと輝く翡翠色の瞳から逃げたくて、彼女は笑ってふざけてみせた。なるべく動揺を悟られないように。しかし彼から返って来た言葉は意外なもので、彼女はいつもの自分を取り繕うのを忘れてしまった。
「はい。オレはヤツを許さない。…あなたのために、必ず倒します」
「蔵馬君……」
あまりにも真っ直ぐこちらを見て言い切る姿に、なまえは再びどきりと胸を高鳴らせる。一度気持ちを自覚してしまった以上、握られたその手を意識せずにいるのは不可能だった。そのまま彼の甘い世界に連れて行かれそうになったところを、すんでのところで耐える。握られていた手からも、ついでにさりげなく逃げる。
「……驚いた。あなたってほんとに高校生?」
意識していつもの調子で口を開いた。そうでなければ崩れてしまいそうだ。彼ほどの美貌でそんなことを言われれば、口説かれていると錯覚する女性も少なくないだろう。任務でのなまえは色を仕掛ける側だが、先ほどのセリフにはぐっと喉を詰まらせた。
「ええ、正真正銘。今はないけど、ちゃんと学生証もありますよ」
「あなた、才能あるわね。…将来が恐ろしいわ」
「何の才能ですか…」
勝手に話を進めるなと、蔵馬が額に手を当てやれやれと首を振る。しかし目の前の女性が思ったより元気そうで、彼は心底ほっとしていた。
鴉に身体を爆破されてから自身の手でなまえに触れるまで、蔵馬は気が気ではなかった。リングの上の出来事がどこか遠い場所で起きているような気がしたのも、それを現実だと思いたくなかったからかもしれない。
並みの女性なら立つこともままならないほどの爆発を何度もその身に受け、最後まで鴉に食らいついていたなまえ。雪菜の時もそうだ。自ら銃弾を受けるなど、特殊スーツの効果を信用していたとしてもやはりたじろぐのが普通だ。
しかし彼女は躊躇わなかった。諦めなかった。今、自分にできる最大限の力をいつも出している。
蔵馬はもう一度なまえを見た。ほどよく筋肉がついているにしろ、体は普通の女性だ。他と何ら変わりない。しかし彼女はその体でいくつもの命を救い、または奪ってきたのだろう。蔵馬は彼女の人生に思いを馳せた。きっと今までにも過酷な任務をこなしてきただろう。上司の指示に忠実に、滞りなく。しかしそこに、なまえの感情が入るスペースはあったのだろうか?そう思った途端、ふいに蔵馬の胸がチリ、と痛む。彼女の表情が、技術が、何気ない仕草が、すべて訓練によって培われていたのだとしたら?あの柔らかいキスの時の、扇情的な瞳さえも――。そこまで考え、蔵馬は軽く頭を振った。
「どうしたの?」
水筒から薬湯を注いでいたなまえが顔を上げ、不思議そうに声をかけた。思ったより思考に集中していたらしい。蔵馬は笑顔で取り繕う。
「いえ、なんでもありません」
そう?と目線で相槌を打ちながら彼女が湯飲みに口をつける。やはり苦いらしく、眉根がぎゅっと寄った。
――今は、何も考えないでおこう。……彼女がこの世界に来た本当の目的も、何もかも。
蔵馬は、幻海との会話で彼女が国と連絡を取っていることを知っている。つまり、彼女が嘘をついていることも。
しかしそれを追求すれば今の関係ではいられなくなる。彼はそれを避けたかった。ふとした瞬間に、やっと心からの笑みを向けてくれるまでになったのだ。蔵馬は、目を細めて彼女の顔を眺めていた。
翌日。
「もう…平気だって言ったのに」
腕と胸にぐるぐると包帯を巻きシャツを軽く羽織ったなまえは、蔵馬と共にホテルの廊下を歩いていた。
「ダメです。しっかり部屋まで送りますから」
朝方いきなり瑠架から退院指示が出され――雪菜と蔵馬のおかげで、彼女は驚異的に回復した――一人で部屋に向かっていたところ、蔵馬とばったり出くわしたのだ。送ってくれるのはありがたいが、決勝前の大事な時間を無駄に使わせるわけにはいかない。なんとか特訓に戻ってほしい彼女が頭を悩ませていると、少し前を見知った人物が歩いているのを見つけた。
「ぼたんちゃん!」
「――あれ、なまえさん!なんでこっちに!?」
丁度いいタイミングだ。これ幸いにと彼女に駆け寄る。
「瑠架さんに、もう部屋に戻っていいって言われてね。あとは自分で薬塗るだけだし、喜んで出て来たところよ」
力こぶを作る仕草をしながら話す彼女に、蔵馬が苦言を呈す。
「部屋に戻るのは構わないが、今日はしっかり体を休めてくださいね」
「はいはい、ちゃんと大人しくしてるわ。蔵馬君たらお母さんみたいよ?」
「…そこはせめてお父さんでは」
二人が他愛のない話をしているのを前に、初めこそにこにこしていたぼたんだったが、だんだんと心ここにあらずといった状態になってきていた。
「ぼたんちゃん大丈夫?ぼーっとして」
気づいたなまえが話しかけ、蔵馬も何か思案顔で彼女を見つめる。ぼたんはハッとしたように笑顔を作り「大丈夫。」とだけ答えた。その笑顔が偽りであると二人は見抜いたが、彼女の醸し出す空気がいつもと違うためそれ以上聞くことは出来なかった。
「…飛影?」
「……」
呼びかけても何も答えない彼を不思議に思い、体を起こそうと腕と腹筋に力を入れる。
――どさっ
だが彼女の体は、またベッドに逆戻りしていた。飛影が無言で肩を押さえている。
「えぇ…っと?」
「寝てろ」
「……」
なまえの体調を気遣ったのだろうが、何とも不器用な男だ。だがあの飛影が来てくれたことが嬉しくて、つい饒舌になる。
「もしかしてお見舞いに来てくれたの?」
「……」
「優しいのね、ありがとう」
「…たまたまだ」
「そう?他には何をしに来たのかしら」
「ちっ…うるさい女だ。口にも包帯を巻いてやろうか」
飛影は、なまえの顔を見たらすぐに帰ろうと思っていた。しかし彼女の寝顔を見ていたら、なぜかその場から離れられなくなっていた。あの雨の中、初めて名前を呼ばれたときと同じ感覚だ。おかげで目を覚ました彼女に見つかり、特訓の合間に様子を見に来たことをからかわれる始末である。
くるりと体の向きを変えた飛影に、なまえが冗談を言った。ほんの出来心だ。
「あら、もう帰っちゃうの?寂しいじゃない」
「――っ、口の減らんヤツだな。少しは黙っていられんのか」
「ふふっ、はいはい」
体がどくんと脈打ったのをごまかすように、飛影はため息をついて一歩を踏み出す。だがこちらに向かってくる一つの妖気に気づき、彼はそのまま足を止めた。なぜかその者と彼女を残して去りたくない。自身の中に燻るその感情をどうにかしたくて、おそらく元凶であろうなまえを見下ろした。
「どうしたの?」
「……」
「…飛影?」
――コツ、コツ。
靴音が聞こえる。飛影のその様子を訝しんだ彼女は、再び上体を起こした。
飛影は葛藤していた。なまえに触れたい気がして手を伸ばし、躊躇いながらも彼女の髪を撫でる。予想よりも滑らかなその感触に促され、その指がわずかに頬に触れた。
「、ひえ……」
“どうしたのか”。もう一度聞こうとした彼女の唇は、半端に開いたまま動きを止めた。なんて目をしているのだろう。なまえは思った。そのせいでどうすることもできず、彼の瞳を見つめたまま固まってしまう。
靴音が止まった。
「――やぁ、飛影」
唐突に聞こえた声に、彼女はびくりと肩を揺らす。
「……蔵馬か」
「貴方もなまえさんのお見舞いですか?…あとはオレがついてるから、大丈夫だよ」
「……」
彼の口調は有無を言わさぬと言った具合だ。飛影は何事もなかったかのように頬から手を離す。タイミング的に見られていたはずだが、蔵馬はいつもと変わらない。それが良かったのかは分からないが、なまえはなぜかホッとしていた。
そのまま彼らは視線を交わし、その一瞬で会話を終えたらしい飛影が、なまえに背を向けた。そのままカーテンを開ける彼の背中に、ハッとした彼女は慌てたように声をかける。
「飛影!ありがとう、来てくれて」
「……フン。たまたまだと言っただろう」
いつもの憎まれ口を叩き、彼は去って行った。
ベッドわきに立っていた蔵馬に座るよう促し、なまえは目を合わせて微笑んだ。飛影との、あの形容しがたい空気を見られていたことに多少の気まずさは感じるものの、彼女は礼を言うべく口を開く。
「蔵馬君、薬湯ありがとう。やっぱり苦いけど、効いてる感じがするわ」
「…それは良かった」
にこりと微笑んだ蔵馬が、持ってきていた袋の中身をがさごそと探った。
「新しい薬を持ってきたんです。次の包帯交換のときに、瑠架にそれを使うように言ってください」
なまえが手渡された容器を開けると、灰色と緑を混ぜたようなジェル状のものが入っている。だがその禍々しい色に反してほんのりと爽やかな香りがし、彼女は頬を緩ませた。
「ありがとう。……まさかとは思うけど、毒じゃないわよね?」
「さぁ?試せば分かりますよ」
いつかのやりとりを再現し、二人はくすくすと笑いあう。
「冗談です。…これは、傷を綺麗に治すための薬。雪菜ちゃんのおかげでだいぶ良くなったと思うけど、もしかしたら跡が残るかもしれないので」
「そうね。…でも仕方ないわ、あれだけ派手にやられたもの」
何でもないように言った彼女の手を、蔵馬がぱっと握る。驚いたなまえが顔を上げると、そこにはいつになく真剣な目をした蔵馬がいた。鋭いその眼差しは、彼が高校生であることを忘れさせる。
「ダメだ」
「え?」
「…オレが絶対、綺麗に治しますから」
有無を言わせぬその物言いに、なまえはどきりとする。
「っ――あら、そんなに傷跡が残るのが嫌?ずいぶん大事にしてくれるじゃない」
そのきらりと輝く翡翠色の瞳から逃げたくて、彼女は笑ってふざけてみせた。なるべく動揺を悟られないように。しかし彼から返って来た言葉は意外なもので、彼女はいつもの自分を取り繕うのを忘れてしまった。
「はい。オレはヤツを許さない。…あなたのために、必ず倒します」
「蔵馬君……」
あまりにも真っ直ぐこちらを見て言い切る姿に、なまえは再びどきりと胸を高鳴らせる。一度気持ちを自覚してしまった以上、握られたその手を意識せずにいるのは不可能だった。そのまま彼の甘い世界に連れて行かれそうになったところを、すんでのところで耐える。握られていた手からも、ついでにさりげなく逃げる。
「……驚いた。あなたってほんとに高校生?」
意識していつもの調子で口を開いた。そうでなければ崩れてしまいそうだ。彼ほどの美貌でそんなことを言われれば、口説かれていると錯覚する女性も少なくないだろう。任務でのなまえは色を仕掛ける側だが、先ほどのセリフにはぐっと喉を詰まらせた。
「ええ、正真正銘。今はないけど、ちゃんと学生証もありますよ」
「あなた、才能あるわね。…将来が恐ろしいわ」
「何の才能ですか…」
勝手に話を進めるなと、蔵馬が額に手を当てやれやれと首を振る。しかし目の前の女性が思ったより元気そうで、彼は心底ほっとしていた。
鴉に身体を爆破されてから自身の手でなまえに触れるまで、蔵馬は気が気ではなかった。リングの上の出来事がどこか遠い場所で起きているような気がしたのも、それを現実だと思いたくなかったからかもしれない。
並みの女性なら立つこともままならないほどの爆発を何度もその身に受け、最後まで鴉に食らいついていたなまえ。雪菜の時もそうだ。自ら銃弾を受けるなど、特殊スーツの効果を信用していたとしてもやはりたじろぐのが普通だ。
しかし彼女は躊躇わなかった。諦めなかった。今、自分にできる最大限の力をいつも出している。
蔵馬はもう一度なまえを見た。ほどよく筋肉がついているにしろ、体は普通の女性だ。他と何ら変わりない。しかし彼女はその体でいくつもの命を救い、または奪ってきたのだろう。蔵馬は彼女の人生に思いを馳せた。きっと今までにも過酷な任務をこなしてきただろう。上司の指示に忠実に、滞りなく。しかしそこに、なまえの感情が入るスペースはあったのだろうか?そう思った途端、ふいに蔵馬の胸がチリ、と痛む。彼女の表情が、技術が、何気ない仕草が、すべて訓練によって培われていたのだとしたら?あの柔らかいキスの時の、扇情的な瞳さえも――。そこまで考え、蔵馬は軽く頭を振った。
「どうしたの?」
水筒から薬湯を注いでいたなまえが顔を上げ、不思議そうに声をかけた。思ったより思考に集中していたらしい。蔵馬は笑顔で取り繕う。
「いえ、なんでもありません」
そう?と目線で相槌を打ちながら彼女が湯飲みに口をつける。やはり苦いらしく、眉根がぎゅっと寄った。
――今は、何も考えないでおこう。……彼女がこの世界に来た本当の目的も、何もかも。
蔵馬は、幻海との会話で彼女が国と連絡を取っていることを知っている。つまり、彼女が嘘をついていることも。
しかしそれを追求すれば今の関係ではいられなくなる。彼はそれを避けたかった。ふとした瞬間に、やっと心からの笑みを向けてくれるまでになったのだ。蔵馬は、目を細めて彼女の顔を眺めていた。
翌日。
「もう…平気だって言ったのに」
腕と胸にぐるぐると包帯を巻きシャツを軽く羽織ったなまえは、蔵馬と共にホテルの廊下を歩いていた。
「ダメです。しっかり部屋まで送りますから」
朝方いきなり瑠架から退院指示が出され――雪菜と蔵馬のおかげで、彼女は驚異的に回復した――一人で部屋に向かっていたところ、蔵馬とばったり出くわしたのだ。送ってくれるのはありがたいが、決勝前の大事な時間を無駄に使わせるわけにはいかない。なんとか特訓に戻ってほしい彼女が頭を悩ませていると、少し前を見知った人物が歩いているのを見つけた。
「ぼたんちゃん!」
「――あれ、なまえさん!なんでこっちに!?」
丁度いいタイミングだ。これ幸いにと彼女に駆け寄る。
「瑠架さんに、もう部屋に戻っていいって言われてね。あとは自分で薬塗るだけだし、喜んで出て来たところよ」
力こぶを作る仕草をしながら話す彼女に、蔵馬が苦言を呈す。
「部屋に戻るのは構わないが、今日はしっかり体を休めてくださいね」
「はいはい、ちゃんと大人しくしてるわ。蔵馬君たらお母さんみたいよ?」
「…そこはせめてお父さんでは」
二人が他愛のない話をしているのを前に、初めこそにこにこしていたぼたんだったが、だんだんと心ここにあらずといった状態になってきていた。
「ぼたんちゃん大丈夫?ぼーっとして」
気づいたなまえが話しかけ、蔵馬も何か思案顔で彼女を見つめる。ぼたんはハッとしたように笑顔を作り「大丈夫。」とだけ答えた。その笑顔が偽りであると二人は見抜いたが、彼女の醸し出す空気がいつもと違うためそれ以上聞くことは出来なかった。