第二章:彼らの戦い、彼女の葛藤
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なまえが傷を負うも命を奪われるまでには至らず、観客席からは野次が飛んできていた。もちろん鴉は会場を去った後だ。彼が残っていれば、臆病な彼らはそんなことはできやしない。
「――なまえさん!」
転がったまま浅い呼吸を繰り返していると、先ほどと同じように蔵馬の呼び声が聞こえた気がした。彼女は自分の精神状態に失笑する。
――意識した途端、これだものね。
例え幻聴だとしても、薄れそうな彼女の意識を現実に繋ぎ止めているのは確かだ。もう少し体力が戻ったら治療をしようと、彼女は気を取り直して深呼吸した。
『以上でエキシビジョンは終了だ。なまえさん、お疲れさまでした。素晴らしい戦いをありがとう。観客も私も大満足だ』
唐突に穏やかな声が聞こえてきた。このブーイングのどこが大満足だと、彼女は上体だけを何とか起こしVIP席を睨みつける。
『この試合の勝者は…あなたですね。鴉はうちのチームの選手なので、参加要項を満たしていない。よって、賞金はあなたのものだ。おめでとう』
パチパチと拍手がスピーカーから聞こえてくるが、なまえは舌打ちをしたい気持ちを抑えて樹里に手を伸ばした。彼女は目をぱちくりさせていたが、意味が分かったので慌ててマイクを渡す。
『腐っても、受け取らないわよ…あなたからは何も』
『おや、随分と嫌われたようだ』
ふらつきそうになった体を樹里に支えられ、なんとか言葉を紡いだ。
『……それより、ちゃんと参加したわ。もう私の心配事は…なくなったと、考えていいわよね?』
『ああ、もちろん。彼女たちのことは安心してくれ』
『…どうも』
左京の姿が見えなくなったので、なまえは礼を言ってマイクを樹里に返す。よかった。自分はちゃんと彼女たちを守れたんだ。よかった――。安心した彼女は、その疲れも相まって抗えない眠気に襲われた。
だんだんと力の抜けていく彼女に焦っているのだろう。大丈夫ですか?としきりに樹里が声をかけ続ける。もう返事もできなかった。
このまま意識を飛ばすかと思っていたら、ふいに温かい何かに包まれ、ふわりと体が宙に浮かんだ。なまえが薄っすらと目を開けると、そこにあったのは鋭い翡翠色の瞳。安堵を通り越して懐かしさすら感じるその瞳に、無性に泣きたくなった。声が聞こえていたのは、気のせいではなかったのかもしれない。
「くら、ま…く……」
「……しゃべらないで。医務室に運びます」
彼女の肩を掴む手にぐっと力を入れ、蔵馬は厳しい目で前を見据えた。
あれからすぐに気を失ったなまえを腕に抱き、蔵馬は一人通路を歩く。他の者には先に医務室のベッドの確保と容体の報告、そして彼女の荷物を持ってきてもらうように頼んだ。もしかすると彼女の国の薬の方が効くかもしれないからだ。飛影は、彼女の傷を見ると溢れ出る殺気もそのままにどこかへと消えてしまった。彼のあんな顔を見たのは、以前、氷女を食ったと噂された妖怪と対峙したとき以来かもしれない。
すぐにでも医務室に連れて行きたいところだが、走ると傷に障るかもしれない。はやる気持ちをなんとか落ち着かせ、彼は一歩一歩を迅速かつ慎重に進んでいた。
通路をすれ違う妖怪たちの、二人を罵る声が聞こえる。蔵馬はそんな彼らには目もくれていなかったが、前方の影にぴたりと足を止めた。
「ずいぶんと献身的なものだな」
鴉だ。隣には武威もいる。腸が煮えくり返るようなどす黒い感情が、蔵馬を包もうとしていた。
「それに準決勝の観戦者はお前だけか……。自信たっぷりだな」
「そうでもないさ」
答えながら蔵馬は後ずさり、通路の端になまえを横たえた。彼らからできるだけ遠ざけるためだ。鴉は再び相まみえた彼女を見つめるが、すぐに見えなくなった。代わりに、こちらを睨む蔵馬の鋭い顔が映る。
「そう緊張するな、何もしない。お前たち4人が死ぬのは2日後だ」
「4人?」
決勝戦で戦うのは5人のはず。訝しむ蔵馬に構わず鴉が続けた。
「ひとりは今日死ぬ。誰かは…じきに分かる」
――ドガッ
いきなり武威が壁を叩いた。破片があたりに飛び散る。同時に、鴉がその場から消えていることに気づいた。ほんの少ししか目を離していないのにと、蔵馬は動揺して辺りをうかがう。
突然、彼の背を悪寒が駆け上がった。
「トリートメントはしているか?」
鴉が背後から蔵馬の髪を梳いていた。その手つきはまるで大切なものを扱うかのようだ。
「手入れはじゅうぶんにした方がいい。人間はいたみやすいからな」
「キサマ!!」
声を荒げた蔵馬が腕を力任せに振り上げる。しかし標的はすでにその場にいない。
「ククク…冗談だ。気を悪くするな」
再び一瞬のうちに武威の元へと戻っていた鴉が、蔵馬をからかうような眼差しで眺めていた。彼は、クールな反面かなり好戦的な蔵馬を、5人の中で一番好きだと告げる。
「好きなものを殺すとき…“自分は一体何のために生まれてきたのか”を考えるときの様に気持ちが沈む。だが、それが何とも言えず快感だ……。そこの女の時は叶わなかったがな」
「……彼女を傷つけることは、オレが許さない。もう二度と」
一気に眼光が鋭くなった蔵馬に、鴉はまた喉だけで笑う。
「二日後を楽しみにしている……」
靴音を響かせて去って行く二つの影を、彼は見えなくなるまで睨み続けていた。
「……」
ひりひりとする胸の痛みに顔をしかめて目を開ければ、真っ白な天井がなまえを出迎えた。垂金の屋敷から帰還し、幻海邸で初めて目を覚ました時もこんな風だったな、と彼女はぼーっと考える。ただ以前と少し違う点は、彼女を心配して覗き込む顔が今回はたくさんあるというところだ。
「なまえさん!」
「うっ……」
覆いかぶさってきたぼたんに、しかめていた顔の皺がますます深くなる。気持ちは嬉しいが、今は彼女を抱きしめ返す余裕がない。そんななまえの様子を見かねて、泣き笑いのような顔をしている螢子がそっとぼたんの肩に手を置いた。
反対側を見ると、呆然とした様子の雪菜が彼女を見つめ、胸に手をかざした状態で止まっている。ほんのりとそこが温かく感じることから、治癒能力を使ってくれていたのだろうと分かった。礼を言おうとしたところで、彼女の額に汗がにじんでいるのに気づく。
「雪菜ちゃ…。ありがと……」
口を開いた彼女に、雪菜の目がますます大きくなる。目覚めたことが信じられないと言った様子だ。
「なまえさん……。ああ、よかったです。私、わたし……」
彼女の美しい涙が、カツンと音を立てて床に落ちた。
「泣かないで。…もったいないわ」
なまえが包帯だらけの腕を伸ばし、微笑みながら彼女の涙を拭う。その隣には温子と静流もおり、二人ともほっとしたような表情をしている。起き上がる彼女を支え、座りやすいようにベッドを整えてくれた。
なまえは皆の顔を見渡し、意識を失う前に見た顔がいないことに気づいた。
「蔵馬…くんは?運んでくれた、のよね。ここまで」
「しばらくいたんだけどね。塗り薬とかいろいろ置いて、すぐに特訓しに出てったよ」
静流が答えてくれる。彼女は、部屋を出て行くときの蔵馬の表情を思い出す。表向きはいつもと変わらないような雰囲気だったが、彼を取り巻く空気はひどくピリついていた。そして、彼に言われたことを思い出して小振りの水筒をなまえに手渡す。
「はい、コレ。目を覚ましたら飲ませてくれってさ」
差し出されたそれを湯飲みに注ぐと、覚えのある匂いが彼女を包む。蔵馬の薬湯だ。一瞬飲むのをためらったが、よく効くのは分かっている。彼女は深呼吸すると、ゆっくりと飲み干した。しかしやはり苦い。
空の湯飲みを両手で包んだまま痛みとは別の意味で顔をしかめていると、ぼたんがいつもの彼女らしくない顔で口を開いた。
「ねぇなまえさん。今回あんたがエキシビジョンに参加したのって……、あたしたちのためだったんだろ?」
「……ぼたんちゃん」
試合直後の左京との会話。あれを聞かれていたのだろう。彼女たちが会場にいる可能性にまで気を回せなかった、先ほどの自分を悔やむ。
「…そうなんだろ?」
もう一度念を押すようにぼたんが告げた。それは質問というよりかは、彼女たちにとっては答え合わせに近かった。ここまで言われれば、隠すのも意味がない。なまえが静かに答えた。
「そうよ」
「やっぱり……!」
さらに暗い顔になるぼたんの手を取り、微笑みかけた。
「これも護衛の仕事のうち…って、前までの私なら言ってただろうけど、今回はそういうの抜きなの」
「……?」
「私が自分で決めたのよ。みんなをこの手で守りたいって」
「でも……!」
ぼたんたちから上がる抗議の声を柔らかな目線で制し、今の自分の気持ちを素直に伝えた。
「正直、この決断ができて嬉しかったわ」
なまえの予想外の言葉に、彼女らが目を瞬かせる。
「この仕事を始めてから、初めて自分の意思で戦うことを決められたのよ。今までは任務に駆り出されるだけの毎日で、まるで操り人形だったから……」
「なまえさん……」
雪菜が呟いた。牢に閉じ込められていた自分と重なった気がしたからだ。自分を救い出してくれた、気高く強い彼女。しかしそんな彼女もまた、形は違えど捕らわれの身だったのかもしれないと。
「だからそういう意味では、左京さんには感謝してるのよ。私を解放してくれたから」
穏やかに目を細めるなまえに、螢子もつられて笑顔になる。彼女は今、ほっとしていた。自分たちのせいで大怪我を負っているのにも関わらず、変わらぬ笑顔を向けてくれることに。
「……ああでも、鴉は嫌いよ。あのひと失礼だもの」
「ぷっ……なんだい、そりゃあ」
むくれて見せたなまえに、やっとぼたんが笑った。いつものようにとはまだいかないが、それでも表情を和らげてくれたことにほっとする。自分は彼女たちに心配をかけてばかりだと、少し反省した。
「なまえさん、入りますよ」
「!は、はい」
カーテンの向こうから声が聞こえる。聞き覚えのない声にその影を見つめていると、髪の長いセクシーな看護師が現れた。
「担当の瑠架ですわ。……ご気分はいかがかしら?」
「……」
「なまえさん?」
「あ…大丈夫です」
彼女は思わずその美人ナースを見つめ、ここは果たして本当に医務室なのかと疑った。ちょうどこちらを見ていた温子に目で訴えると、こちらの意思が伝わったようで深く二度頷く。どうやら彼女は本当に看護師らしい。
「もう少ししたらまた包帯の交換をしますわ。それまではゆっくりなさってね」
「ありがとうございます」
にっこりと微笑む彼女に、ぺこりと頭を下げるなまえ。そのまま瑠架はカーテンの外へ出て行った。
「このカーテンね、あの人が特別につけてくれたんだよ。しかも結界付き」
「結界?」
瑠架のヒールの音が遠ざかったのを確認し、静流が教えてくれた。
「なまえちゃんに敵意のある妖怪や人は入れないんだってさ。あと、ここは男ばっかだから、そのへんに対する配慮だって」
「へぇー、すごい」
予想以上の好待遇になまえは目を見張る。それに結界。どうやら彼女の肩書は、セクシー看護師だけではないようだ。
「じゃあ、そろそろ私たちはお暇しましょ。ちゃんと休ませてあげないと。ね、静流さん」
「そうね。…あ、そうそう」
気を遣う螢子にうなずき、静流がベッドわきの小さなテーブルに目を向けた。
「そこの薬湯ね、最低でも水筒の半分は飲むようにって蔵馬君が言ってたよ」
「え」
「…頑張れ」
固まるなまえにくすくすと雪菜が笑う。傷をできるだけ治そうと尽力したせいで疲労が顔に出ていたが、今は多少マシになったようだ。なまえは改めて礼を言った。
「雪菜ちゃん、ありがとう。おかげで痛みもだいぶなくなったわ」
微笑む彼女に、雪菜は慌てて首を横に振る。
「私にできることはこれぐらいですから。それに――あのとき助けていただいた恩を、まだ返せてなかったので」
「雪菜ちゃん……」
面会用の椅子から立ち上がり、彼女はにこりと笑う。兄妹そろって律儀な性格だと、見た目ではあまり似てない彼らの共通点を見つけたような気がした。うっかり“借りはもう返してもらった”なんて言いそうになったが、かろうじてそれを飲み込む。
手を振りカーテンの向こうへと消える彼女らを見送り、なまえは水筒を手に取った。
「…飲むか」
まだ少し熱く湯気が立ち上っている薬湯を、とぽぽ、と湯飲みに注ぐ。彼が置いていってくれたと考えただけで、まだ飲んでいないのに体が温かくなった気がする。彼女は少し背筋を伸ばすと、二杯目の薬湯を喉に流し込んだ。
「――なまえさん!」
転がったまま浅い呼吸を繰り返していると、先ほどと同じように蔵馬の呼び声が聞こえた気がした。彼女は自分の精神状態に失笑する。
――意識した途端、これだものね。
例え幻聴だとしても、薄れそうな彼女の意識を現実に繋ぎ止めているのは確かだ。もう少し体力が戻ったら治療をしようと、彼女は気を取り直して深呼吸した。
『以上でエキシビジョンは終了だ。なまえさん、お疲れさまでした。素晴らしい戦いをありがとう。観客も私も大満足だ』
唐突に穏やかな声が聞こえてきた。このブーイングのどこが大満足だと、彼女は上体だけを何とか起こしVIP席を睨みつける。
『この試合の勝者は…あなたですね。鴉はうちのチームの選手なので、参加要項を満たしていない。よって、賞金はあなたのものだ。おめでとう』
パチパチと拍手がスピーカーから聞こえてくるが、なまえは舌打ちをしたい気持ちを抑えて樹里に手を伸ばした。彼女は目をぱちくりさせていたが、意味が分かったので慌ててマイクを渡す。
『腐っても、受け取らないわよ…あなたからは何も』
『おや、随分と嫌われたようだ』
ふらつきそうになった体を樹里に支えられ、なんとか言葉を紡いだ。
『……それより、ちゃんと参加したわ。もう私の心配事は…なくなったと、考えていいわよね?』
『ああ、もちろん。彼女たちのことは安心してくれ』
『…どうも』
左京の姿が見えなくなったので、なまえは礼を言ってマイクを樹里に返す。よかった。自分はちゃんと彼女たちを守れたんだ。よかった――。安心した彼女は、その疲れも相まって抗えない眠気に襲われた。
だんだんと力の抜けていく彼女に焦っているのだろう。大丈夫ですか?としきりに樹里が声をかけ続ける。もう返事もできなかった。
このまま意識を飛ばすかと思っていたら、ふいに温かい何かに包まれ、ふわりと体が宙に浮かんだ。なまえが薄っすらと目を開けると、そこにあったのは鋭い翡翠色の瞳。安堵を通り越して懐かしさすら感じるその瞳に、無性に泣きたくなった。声が聞こえていたのは、気のせいではなかったのかもしれない。
「くら、ま…く……」
「……しゃべらないで。医務室に運びます」
彼女の肩を掴む手にぐっと力を入れ、蔵馬は厳しい目で前を見据えた。
あれからすぐに気を失ったなまえを腕に抱き、蔵馬は一人通路を歩く。他の者には先に医務室のベッドの確保と容体の報告、そして彼女の荷物を持ってきてもらうように頼んだ。もしかすると彼女の国の薬の方が効くかもしれないからだ。飛影は、彼女の傷を見ると溢れ出る殺気もそのままにどこかへと消えてしまった。彼のあんな顔を見たのは、以前、氷女を食ったと噂された妖怪と対峙したとき以来かもしれない。
すぐにでも医務室に連れて行きたいところだが、走ると傷に障るかもしれない。はやる気持ちをなんとか落ち着かせ、彼は一歩一歩を迅速かつ慎重に進んでいた。
通路をすれ違う妖怪たちの、二人を罵る声が聞こえる。蔵馬はそんな彼らには目もくれていなかったが、前方の影にぴたりと足を止めた。
「ずいぶんと献身的なものだな」
鴉だ。隣には武威もいる。腸が煮えくり返るようなどす黒い感情が、蔵馬を包もうとしていた。
「それに準決勝の観戦者はお前だけか……。自信たっぷりだな」
「そうでもないさ」
答えながら蔵馬は後ずさり、通路の端になまえを横たえた。彼らからできるだけ遠ざけるためだ。鴉は再び相まみえた彼女を見つめるが、すぐに見えなくなった。代わりに、こちらを睨む蔵馬の鋭い顔が映る。
「そう緊張するな、何もしない。お前たち4人が死ぬのは2日後だ」
「4人?」
決勝戦で戦うのは5人のはず。訝しむ蔵馬に構わず鴉が続けた。
「ひとりは今日死ぬ。誰かは…じきに分かる」
――ドガッ
いきなり武威が壁を叩いた。破片があたりに飛び散る。同時に、鴉がその場から消えていることに気づいた。ほんの少ししか目を離していないのにと、蔵馬は動揺して辺りをうかがう。
突然、彼の背を悪寒が駆け上がった。
「トリートメントはしているか?」
鴉が背後から蔵馬の髪を梳いていた。その手つきはまるで大切なものを扱うかのようだ。
「手入れはじゅうぶんにした方がいい。人間はいたみやすいからな」
「キサマ!!」
声を荒げた蔵馬が腕を力任せに振り上げる。しかし標的はすでにその場にいない。
「ククク…冗談だ。気を悪くするな」
再び一瞬のうちに武威の元へと戻っていた鴉が、蔵馬をからかうような眼差しで眺めていた。彼は、クールな反面かなり好戦的な蔵馬を、5人の中で一番好きだと告げる。
「好きなものを殺すとき…“自分は一体何のために生まれてきたのか”を考えるときの様に気持ちが沈む。だが、それが何とも言えず快感だ……。そこの女の時は叶わなかったがな」
「……彼女を傷つけることは、オレが許さない。もう二度と」
一気に眼光が鋭くなった蔵馬に、鴉はまた喉だけで笑う。
「二日後を楽しみにしている……」
靴音を響かせて去って行く二つの影を、彼は見えなくなるまで睨み続けていた。
「……」
ひりひりとする胸の痛みに顔をしかめて目を開ければ、真っ白な天井がなまえを出迎えた。垂金の屋敷から帰還し、幻海邸で初めて目を覚ました時もこんな風だったな、と彼女はぼーっと考える。ただ以前と少し違う点は、彼女を心配して覗き込む顔が今回はたくさんあるというところだ。
「なまえさん!」
「うっ……」
覆いかぶさってきたぼたんに、しかめていた顔の皺がますます深くなる。気持ちは嬉しいが、今は彼女を抱きしめ返す余裕がない。そんななまえの様子を見かねて、泣き笑いのような顔をしている螢子がそっとぼたんの肩に手を置いた。
反対側を見ると、呆然とした様子の雪菜が彼女を見つめ、胸に手をかざした状態で止まっている。ほんのりとそこが温かく感じることから、治癒能力を使ってくれていたのだろうと分かった。礼を言おうとしたところで、彼女の額に汗がにじんでいるのに気づく。
「雪菜ちゃ…。ありがと……」
口を開いた彼女に、雪菜の目がますます大きくなる。目覚めたことが信じられないと言った様子だ。
「なまえさん……。ああ、よかったです。私、わたし……」
彼女の美しい涙が、カツンと音を立てて床に落ちた。
「泣かないで。…もったいないわ」
なまえが包帯だらけの腕を伸ばし、微笑みながら彼女の涙を拭う。その隣には温子と静流もおり、二人ともほっとしたような表情をしている。起き上がる彼女を支え、座りやすいようにベッドを整えてくれた。
なまえは皆の顔を見渡し、意識を失う前に見た顔がいないことに気づいた。
「蔵馬…くんは?運んでくれた、のよね。ここまで」
「しばらくいたんだけどね。塗り薬とかいろいろ置いて、すぐに特訓しに出てったよ」
静流が答えてくれる。彼女は、部屋を出て行くときの蔵馬の表情を思い出す。表向きはいつもと変わらないような雰囲気だったが、彼を取り巻く空気はひどくピリついていた。そして、彼に言われたことを思い出して小振りの水筒をなまえに手渡す。
「はい、コレ。目を覚ましたら飲ませてくれってさ」
差し出されたそれを湯飲みに注ぐと、覚えのある匂いが彼女を包む。蔵馬の薬湯だ。一瞬飲むのをためらったが、よく効くのは分かっている。彼女は深呼吸すると、ゆっくりと飲み干した。しかしやはり苦い。
空の湯飲みを両手で包んだまま痛みとは別の意味で顔をしかめていると、ぼたんがいつもの彼女らしくない顔で口を開いた。
「ねぇなまえさん。今回あんたがエキシビジョンに参加したのって……、あたしたちのためだったんだろ?」
「……ぼたんちゃん」
試合直後の左京との会話。あれを聞かれていたのだろう。彼女たちが会場にいる可能性にまで気を回せなかった、先ほどの自分を悔やむ。
「…そうなんだろ?」
もう一度念を押すようにぼたんが告げた。それは質問というよりかは、彼女たちにとっては答え合わせに近かった。ここまで言われれば、隠すのも意味がない。なまえが静かに答えた。
「そうよ」
「やっぱり……!」
さらに暗い顔になるぼたんの手を取り、微笑みかけた。
「これも護衛の仕事のうち…って、前までの私なら言ってただろうけど、今回はそういうの抜きなの」
「……?」
「私が自分で決めたのよ。みんなをこの手で守りたいって」
「でも……!」
ぼたんたちから上がる抗議の声を柔らかな目線で制し、今の自分の気持ちを素直に伝えた。
「正直、この決断ができて嬉しかったわ」
なまえの予想外の言葉に、彼女らが目を瞬かせる。
「この仕事を始めてから、初めて自分の意思で戦うことを決められたのよ。今までは任務に駆り出されるだけの毎日で、まるで操り人形だったから……」
「なまえさん……」
雪菜が呟いた。牢に閉じ込められていた自分と重なった気がしたからだ。自分を救い出してくれた、気高く強い彼女。しかしそんな彼女もまた、形は違えど捕らわれの身だったのかもしれないと。
「だからそういう意味では、左京さんには感謝してるのよ。私を解放してくれたから」
穏やかに目を細めるなまえに、螢子もつられて笑顔になる。彼女は今、ほっとしていた。自分たちのせいで大怪我を負っているのにも関わらず、変わらぬ笑顔を向けてくれることに。
「……ああでも、鴉は嫌いよ。あのひと失礼だもの」
「ぷっ……なんだい、そりゃあ」
むくれて見せたなまえに、やっとぼたんが笑った。いつものようにとはまだいかないが、それでも表情を和らげてくれたことにほっとする。自分は彼女たちに心配をかけてばかりだと、少し反省した。
「なまえさん、入りますよ」
「!は、はい」
カーテンの向こうから声が聞こえる。聞き覚えのない声にその影を見つめていると、髪の長いセクシーな看護師が現れた。
「担当の瑠架ですわ。……ご気分はいかがかしら?」
「……」
「なまえさん?」
「あ…大丈夫です」
彼女は思わずその美人ナースを見つめ、ここは果たして本当に医務室なのかと疑った。ちょうどこちらを見ていた温子に目で訴えると、こちらの意思が伝わったようで深く二度頷く。どうやら彼女は本当に看護師らしい。
「もう少ししたらまた包帯の交換をしますわ。それまではゆっくりなさってね」
「ありがとうございます」
にっこりと微笑む彼女に、ぺこりと頭を下げるなまえ。そのまま瑠架はカーテンの外へ出て行った。
「このカーテンね、あの人が特別につけてくれたんだよ。しかも結界付き」
「結界?」
瑠架のヒールの音が遠ざかったのを確認し、静流が教えてくれた。
「なまえちゃんに敵意のある妖怪や人は入れないんだってさ。あと、ここは男ばっかだから、そのへんに対する配慮だって」
「へぇー、すごい」
予想以上の好待遇になまえは目を見張る。それに結界。どうやら彼女の肩書は、セクシー看護師だけではないようだ。
「じゃあ、そろそろ私たちはお暇しましょ。ちゃんと休ませてあげないと。ね、静流さん」
「そうね。…あ、そうそう」
気を遣う螢子にうなずき、静流がベッドわきの小さなテーブルに目を向けた。
「そこの薬湯ね、最低でも水筒の半分は飲むようにって蔵馬君が言ってたよ」
「え」
「…頑張れ」
固まるなまえにくすくすと雪菜が笑う。傷をできるだけ治そうと尽力したせいで疲労が顔に出ていたが、今は多少マシになったようだ。なまえは改めて礼を言った。
「雪菜ちゃん、ありがとう。おかげで痛みもだいぶなくなったわ」
微笑む彼女に、雪菜は慌てて首を横に振る。
「私にできることはこれぐらいですから。それに――あのとき助けていただいた恩を、まだ返せてなかったので」
「雪菜ちゃん……」
面会用の椅子から立ち上がり、彼女はにこりと笑う。兄妹そろって律儀な性格だと、見た目ではあまり似てない彼らの共通点を見つけたような気がした。うっかり“借りはもう返してもらった”なんて言いそうになったが、かろうじてそれを飲み込む。
手を振りカーテンの向こうへと消える彼女らを見送り、なまえは水筒を手に取った。
「…飲むか」
まだ少し熱く湯気が立ち上っている薬湯を、とぽぽ、と湯飲みに注ぐ。彼が置いていってくれたと考えただけで、まだ飲んでいないのに体が温かくなった気がする。彼女は少し背筋を伸ばすと、二杯目の薬湯を喉に流し込んだ。