第二章:彼らの戦い、彼女の葛藤
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闘技場へ戻るとすでに戸愚呂チームの試合は終わった後で、まさに今、リング上の遺体が片付けられているところだった。凄惨なその様子を見るに、彼らが一方的に嬲られる形となったのだろうと顔をしかめる。これでは開始までにまだしばらく時間がかかりそうだ。観覧席の奥の通路に体を預けていると、ちょうどそこへ蔵馬が駆け寄ってきた。
「なまえさん…やっぱり来たんですね。」
その言葉からは“来てほしくなかった”という彼の本音が透けて見える。彼女は苦笑し、彼には話しておいてもいいかと口を開いた。
「これに参加しないと、私の護衛対象がいなくなるらしいわ。」
「それは、つまり……。」
「そう。…だから、彼女たちに手を出させるわけにはいかないの。これは私の望みでもあるのよ。」
「…あなたって人は。」
蔵馬の顔が複雑な色で歪んだ。優しい彼のことだ。誰にも言えないまま当日を迎えた彼女を気にかけているのだろう。どこか覚悟を決めたようななまえの様子が、たくましくも儚く見え、蔵馬は言いようのない不安に駆られた。
彼は思わず腕を伸ばした。珍しく思考抜きで、心の赴くままに。彼は高校生でありながら、すでに成人であるなまえよりも少し背が高い。彼女は眼前の翡翠の瞳を見上げる形となった。
ゆっくりとしたその動きはどこか現実味がない。そう感じるほどに、彼の手が彼女の頬に届くまでの時間が長く感じる。
あと数センチ。数ミリ。空気を伝って蔵馬の体温を頬に感じる。その時。
『運営本部からのお知らせです。ただいまより、エキシビジョンを開始いたします。出場者の方はリングへ降りてきていただくように、お願い申し上げます。繰り返します。ただいまより――。』
ぴたりと蔵馬の動きが止まった。そして時間が急に進んだかのように、さっと手を降ろしてなまえに微笑みかける。
「…呼ばれましたね。」
「そう、ね…。」
今のは、どう捉えればいいのだろうか。なまえの心臓は今さらながらどきどきと忙しなく動き始めた。だがぎゅっとその拳を握りしめ、何かを考えている彼に聞けるはずもない。こうしている時間が長く感じ、いたたまれなくなった彼女が逃げるようにリングへと向かう。そのとき視界の隅で、はじかれたようにこちらへ手を伸ばす蔵馬が映った。
――ふわり。
唐突に感じる温かさ。それが後ろから抱きしめられているからだと気づいたのは、しばらくした後だった。
「……オレ、なまえさんの事…しっかり見ておきます。」
少し高い位置から、いつもよりも低い声でつぶやかれる。送り出したくない気持ちを抑えているからこその言葉なのだと分かった。彼らしい、相手を最大限に思いやった言葉だ。なまえはそっと彼の腕に触れた。
彼女がリングへと降りて行った直後。通路の奥――闇の中から、飛影が現れる。
「けっきょく、あの女はくだらんお遊びに付き合うのか。」
「飛影、彼女は……。」
「分かっている。」
なまえが雪菜や蛍子たちの身の安全を確保するために出場することは、飛影にも分かっていた。だからこそ納得がいかないらしい。彼の眼光はいつにも増して鋭かった。
「そんなことが起きないように、オレが左京とやらをこの大会ごと焼き尽くしてやってもよかったんだ。」
「……。」
飛影の憤りは蔵馬の予想を上回るものだった。だがそれは、妹を盾に取られていることに対してか、またはなまえが危険な目に遭う可能性があることに対してか。今の時点では分からない。しかし蔵馬は、あえてどちらかは聞かなかった。
「いずれにしても、なまえさんは出場の意志を固めている。……オレたちは見守るしかない。」
いつものポーカーフェイスを気取っているが、その表情は心なしか強張っている。それぞれに思うところはあるが、ひとまずは無事に終わることを祈っていた。
なまえがリングへと降りると、観客席からざわめきが聞こえる。
「なんだ?あの女。」
「人間か?」
「人間が何しに来たんだよ。」
「オレ知ってるぞ!あいつ浦飯チームの女だ!」
“浦飯チーム”。そう誰かが叫ぶと、会場内はブーイングの嵐となった。
「なんでエキシビジョンがその女なんだ!」
「引っ込め―!」
「お呼びじゃねぇぞ!」
渦中のなまえは涼しい顔で立っている。いつも単身で任務に向かっていた彼女だ。誰一人味方のいない環境に、懐かしさすら感じていた。
『まぁそう言わずに。かくいう私も人間なのでね、そこは大目に見ていただきたい。』
唐突にスピーカーから響く声に、あれだけ騒いでいた妖怪たちが少し大人しくなる。どこかから、左京だ…と怯えるような声が聞こえた。
『では今から、エキシビジョンを開始する。今年は趣向を変えて、観客の皆さんも参加できるものにしたんだよ。』
静かになった会場が、再び囁き声でざわめき始めた。
『ルールは簡単だ。開始の合図から7分。7分で、そこにいる女性をダウンさせた観客の勝利。それだけだ。』
「なんだと!?」
「チッ、クソが。」
左京の口から出ためちゃくちゃなルールに、蔵馬と飛影は悪態をつく。相手の人数は指定されていない。ということは、束になって襲いかかってもいいということだ。
『念のため言っておくが、彼女への手助けは一切認めない。もしこのルールが破られるようなことがあればどうなるか……。なまえさんが一番よく分かっているだろう。』
目の色を変えた彼らに気づき、左京が付け足した。
――なるほど。誰かが助っ人に入ろうものなら、同じように彼女たちを……。
VIP席から見下ろす左京を、なまえは腕を組んで見据える。彼女の頭の中では、すでに対・多数での戦闘シミュレーションが組み立てられようとしていた。
しかし、なぜ自分に白羽の矢が立ったのかが分からない彼女は、リングにいる樹里から半ば奪うようにマイクを手に取る。
『左京さん、ひとついいかしら。』
『どうぞ。』
上品な彼らのやり取りからは、これが暗黒武術会の一幕とは思えない。
『なぜ私なの?』
上と下で、二人の視線が交わる。左京はゆっくりとマイクを口に当て、なまえの疑問に答えた。
『見てみたくてね。異次元の人間が――それも、戦いに身を置く女性がどれほどのものなのか。要は、私の興味ですよ。』
呆気にとられる彼女と同じく、VIP席にいるコエンマも驚きを隠せなかった。もちろん、会場内の妖怪たちもだ。まさか大会の催し物を自身の好奇心を満たす為だけに使うとは。
『さぁ、そろそろ始めようか。勝者には賞金も用意してますよ。彼女を倒した者が複数の場合は、もちろん山分けも可能だ。』
なまえが浦飯チームの関係者だと分かった途端、妖怪たちは目の色を変えて罵声を浴びせていた。それこそ殺してやりたいと言わんばかりに。だが、あの左京が――戸愚呂チームのオーナーが――エキシビジョンに選んだ女ということで、早々にリングに降りる者はなかなか現れない。彼女の実力が分からずに警戒しているのだ。これでもし人間に負けたとなれば、間違いなく笑いものになる。
しかしその空気を破り、ちらほらとリングに降りて来る妖怪たちがいた。
「…へっ、異次元だか何だか知らねぇが、たかが人間じゃねぇか!オレが切り裂いてやるよ!」
「待て、賞金を手にするのはオレだ!」
「そうだ、賞金だ。何人かでまとめてやっちまえば……。」
力自慢の大柄の妖怪がほとんどだったが、山分けの賞金目当てに大人数で攻めようとする者も。一人、また一人と現れて参加者が20人弱になったころには、なまえの脳内シミュレーションは完了していた。
『よし、ではそろそろ始めよう。審判、合図を。』
「はえ?…はっ、はい!」
急に左京に指示され、審判の樹里は意識を仕事モードへと戻す。
「みなさーん、準備はいいですかぁ?それでは…「ちょっと待って。」…はい?」
今度はなまえに声をかけられ、樹里は腰に手を当てて不満そうだ。だが彼女から何かを耳打ちされ、目を見開いて勢いよくこくこくと首を縦に振る。彼女との密談が終わった樹里は、リングの外へと移動した。
「えっとー、今回は人数が多いため、審判の私が邪魔になるといけないので隅っこにいまーす。」
ごほん、と大きく咳ばらいをし、仕切り直すようにマイクを握った。
「じゃあ今度こそいきますよー!それではエキシビジョン、はじめ!」
樹里の合図とともに、まず大柄な妖怪が考えなしに突っ込んできた。腕を大きく振りかぶり、その鋭い爪で引き裂こうというのだ。他はじっとして動かない。先にその者を行かせ、なまえの力量を図ろうとしている。仲間意識など皆無である彼らは、こういう戦法を取ることが多いようだ。
「死ねぇー!」
ぶん、と風を切る音と共に、爪がなまえをかすめる。しかし彼女はこれを軽々と避けた。
「もう、せっかちね。」
ふわりと着地し、あたりを囲む妖怪たちに微笑む。
「こんな大きな晴れ舞台、人生でもう二度と立てないわ。香水だけでもつけさせてほしいんだけど、ダメかしら?」
『えー、なまえ選手。なんと試合開始早々、まさかの香水?これはいったい……?』
小兎が実況席で首を傾げるのを視界に入れながら、なまえは胸ポケットから小瓶を取り出す。人差し指と親指で挟み、それをちゃぷちゃぷと中身が分かるように振った。
「はっはっはっ!こいつ、狂ってんのか?!」
「いいぜぇ姉ちゃん。どうせすぐあの世生きだ!」
「そんなのつけたって、人間臭さは取れねぇけどなぁ!」
“残り6分37秒”
馬鹿にしたように笑う彼らに、口元だけで笑うなまえ。蔵馬は彼女の手の小瓶に、見覚えがあった。
「なるほど、やっと本領発揮というわけか。」
「……?」
滅多に表情を崩さない蔵馬が、百面相で彼女の試合を見つめていると思ったらぽそりと呟いた。飛影にはその意味が分からず、少し見上げて目だけで問う。
「彼女の強みは柔らかい身のこなしや隠し持っている武器だけじゃない。“あれ”もなんだ。」
「フン、もったいつけた言い方を。…ずいぶん分かったようなことを言うんだな。」
「まさか。オレも実際に見るのは初めてだよ。」
「……。」
「ひとまず今は、彼女を見守りましょう。」
飛影の勘ぐるような瞳をかいくぐり、蔵馬は視線をなまえへと移す。彼女は小瓶のふたを開け、ばっと豪快に空中に振りまいた。きらきらと細かくしぶきが舞う様は、まるで夏の日に水遊びでもしているかのようだ。
「ハッ、準備できたかよ?」
「ええ…ばっちりよ。」
「それじゃあ、さっそく死んでもらうぜぇ!」
棍棒や刀を振り回し、四方から突進してくる。
今のくだりもどうせ時間稼ぎだろうと、妖怪たちの彼女への警戒心は薄まっていた。7分耐え抜けばいいこの試合で、開始早々に香水の話など不自然すぎる。強がってはいるが、実力のない者が苦し紛れに言ったこと…そのように彼らは捉えていた。
そんな中なまえは武器を手にすることもなく静かに俯いている。重力に素直な髪が、彼女の表情を隠していた。その佇まいがますます妖怪たちを奮い立たせる。彼らから見れば、すでに戦いを諦めたように映っているのだ。
――バタ…。
向かってくる妖怪たちの内の一人が、唐突に倒れた。今のところは蔵馬以外、何が起こったのかを把握できていない。なぜなら、対するなまえは指先ひとつ動かしていないからだ。
『これはいったい……、どういうことでしょう!』
小兎のアナウンスが響き渡る中、一人、そしてまた一人と、示し合わせたように次々と倒れていく。
『攻撃の手が届かず、その場に倒れこむ者が多数です!しかし、なまえ選手は一歩も動いていません!』
やっと顔を上げたなまえの口元は、綺麗に弧を描いていた。
「な、なんだよおい!てめぇ、いったい何したんだよ!」
倒れた者の顔を覗き込んだ妖怪が、半ば怒鳴るように彼女に叫んだ。足元の彼は口から泡を吹いて苦しみ、悶えている。
「……約半径2メートル。」
「は…?」
じりじりと後ずさりする妖怪たちを見据えながら、なまえが口を開いた。
「私が今振りまいた“香水”の効果範囲よ。空気中に滞在する時間は少し短いけど、吸うと肺が麻痺するの。つまり、息ができなくなる。もとは人間用に開発した毒だけど、妖怪にも効くのね。」
「なんだと……!」
彼女の言葉にたじろぐ妖怪を、さも意外だと言うようにわざとらしく肩をすくめる。
「まさかリングに降りてきておいて、命を張る覚悟がなかったなんて…言わないわよね?」
なまえの目が厳しく光った。
「私は、そんな覚悟…大昔にとっくに出来てるのよ。」
『毒です!なんとなまえ選手、毒を使った攻撃!これはうかつに近づけない!』
――なるほど、審判に何かを耳打ちしていたのはこのためか。
VIP席から下を眺めるコエンマが、試合開始前の一幕を思い出す。リングの端に目を走らせると、きっちりとなまえから距離を取っている樹里が見えた。空気中に毒が撒かれているとなると、近接戦で彼女を倒すのは難しい。これは問題なくなまえが勝つだろうと、彼は無意識に全身に入っていた力を抜いた。
“残り5分13秒”
「気を付けた方がいいわよ。まだその辺りに漂ってるはずだから。」
余裕の笑みで告げるなまえを、妖怪たちは心底苦々し気に睨む。その言葉の真偽が分からない以上は、小兎の言う通りうかつに近づけない。彼らには、彼女と心理戦を繰り広げられるほどの知力と胆力はなかった。
このまま余計な体力を使わずに残り3分くらいまでは時間を稼げる。彼女がそう思っていた矢先。
――ゴォッ
後ろから突風が吹いた。なまえの延長線上にいる妖怪たちは、その風に運ばれた毒を吸って苦しみ倒れる。観客席の妖怪たちも逃げ出した。振り返ると、他よりも一回り大きな妖怪が長く息を吐いていた。その光景に彼女は面食らう。
会場が屋外であることから、時間経過とともに毒が薄まることは覚悟していた。しかしそれでも大半には効くと判断して気化毒を使ったのだ。しかしその場の空気を一瞬にして吹き飛ばすほどの肺活量が、彼女の計画を狂わせた。風下にいた者はほとんど今のでやられたが、反応が早かった者はこれを回避している。最初の人数の3分の1くらいにはなったが、中でも彼らは手強い部類に入るだろう。ここに残っているということは、警戒心が強いということ。つまり、今までの奴らのように一筋縄ではいかないということだ。
「……妖怪って、ほんと未知数だわ。」
今度はなまえが苦々しく呟き、背中の双錘に両手を伸ばした。
「なまえさん…やっぱり来たんですね。」
その言葉からは“来てほしくなかった”という彼の本音が透けて見える。彼女は苦笑し、彼には話しておいてもいいかと口を開いた。
「これに参加しないと、私の護衛対象がいなくなるらしいわ。」
「それは、つまり……。」
「そう。…だから、彼女たちに手を出させるわけにはいかないの。これは私の望みでもあるのよ。」
「…あなたって人は。」
蔵馬の顔が複雑な色で歪んだ。優しい彼のことだ。誰にも言えないまま当日を迎えた彼女を気にかけているのだろう。どこか覚悟を決めたようななまえの様子が、たくましくも儚く見え、蔵馬は言いようのない不安に駆られた。
彼は思わず腕を伸ばした。珍しく思考抜きで、心の赴くままに。彼は高校生でありながら、すでに成人であるなまえよりも少し背が高い。彼女は眼前の翡翠の瞳を見上げる形となった。
ゆっくりとしたその動きはどこか現実味がない。そう感じるほどに、彼の手が彼女の頬に届くまでの時間が長く感じる。
あと数センチ。数ミリ。空気を伝って蔵馬の体温を頬に感じる。その時。
『運営本部からのお知らせです。ただいまより、エキシビジョンを開始いたします。出場者の方はリングへ降りてきていただくように、お願い申し上げます。繰り返します。ただいまより――。』
ぴたりと蔵馬の動きが止まった。そして時間が急に進んだかのように、さっと手を降ろしてなまえに微笑みかける。
「…呼ばれましたね。」
「そう、ね…。」
今のは、どう捉えればいいのだろうか。なまえの心臓は今さらながらどきどきと忙しなく動き始めた。だがぎゅっとその拳を握りしめ、何かを考えている彼に聞けるはずもない。こうしている時間が長く感じ、いたたまれなくなった彼女が逃げるようにリングへと向かう。そのとき視界の隅で、はじかれたようにこちらへ手を伸ばす蔵馬が映った。
――ふわり。
唐突に感じる温かさ。それが後ろから抱きしめられているからだと気づいたのは、しばらくした後だった。
「……オレ、なまえさんの事…しっかり見ておきます。」
少し高い位置から、いつもよりも低い声でつぶやかれる。送り出したくない気持ちを抑えているからこその言葉なのだと分かった。彼らしい、相手を最大限に思いやった言葉だ。なまえはそっと彼の腕に触れた。
彼女がリングへと降りて行った直後。通路の奥――闇の中から、飛影が現れる。
「けっきょく、あの女はくだらんお遊びに付き合うのか。」
「飛影、彼女は……。」
「分かっている。」
なまえが雪菜や蛍子たちの身の安全を確保するために出場することは、飛影にも分かっていた。だからこそ納得がいかないらしい。彼の眼光はいつにも増して鋭かった。
「そんなことが起きないように、オレが左京とやらをこの大会ごと焼き尽くしてやってもよかったんだ。」
「……。」
飛影の憤りは蔵馬の予想を上回るものだった。だがそれは、妹を盾に取られていることに対してか、またはなまえが危険な目に遭う可能性があることに対してか。今の時点では分からない。しかし蔵馬は、あえてどちらかは聞かなかった。
「いずれにしても、なまえさんは出場の意志を固めている。……オレたちは見守るしかない。」
いつものポーカーフェイスを気取っているが、その表情は心なしか強張っている。それぞれに思うところはあるが、ひとまずは無事に終わることを祈っていた。
なまえがリングへと降りると、観客席からざわめきが聞こえる。
「なんだ?あの女。」
「人間か?」
「人間が何しに来たんだよ。」
「オレ知ってるぞ!あいつ浦飯チームの女だ!」
“浦飯チーム”。そう誰かが叫ぶと、会場内はブーイングの嵐となった。
「なんでエキシビジョンがその女なんだ!」
「引っ込め―!」
「お呼びじゃねぇぞ!」
渦中のなまえは涼しい顔で立っている。いつも単身で任務に向かっていた彼女だ。誰一人味方のいない環境に、懐かしさすら感じていた。
『まぁそう言わずに。かくいう私も人間なのでね、そこは大目に見ていただきたい。』
唐突にスピーカーから響く声に、あれだけ騒いでいた妖怪たちが少し大人しくなる。どこかから、左京だ…と怯えるような声が聞こえた。
『では今から、エキシビジョンを開始する。今年は趣向を変えて、観客の皆さんも参加できるものにしたんだよ。』
静かになった会場が、再び囁き声でざわめき始めた。
『ルールは簡単だ。開始の合図から7分。7分で、そこにいる女性をダウンさせた観客の勝利。それだけだ。』
「なんだと!?」
「チッ、クソが。」
左京の口から出ためちゃくちゃなルールに、蔵馬と飛影は悪態をつく。相手の人数は指定されていない。ということは、束になって襲いかかってもいいということだ。
『念のため言っておくが、彼女への手助けは一切認めない。もしこのルールが破られるようなことがあればどうなるか……。なまえさんが一番よく分かっているだろう。』
目の色を変えた彼らに気づき、左京が付け足した。
――なるほど。誰かが助っ人に入ろうものなら、同じように彼女たちを……。
VIP席から見下ろす左京を、なまえは腕を組んで見据える。彼女の頭の中では、すでに対・多数での戦闘シミュレーションが組み立てられようとしていた。
しかし、なぜ自分に白羽の矢が立ったのかが分からない彼女は、リングにいる樹里から半ば奪うようにマイクを手に取る。
『左京さん、ひとついいかしら。』
『どうぞ。』
上品な彼らのやり取りからは、これが暗黒武術会の一幕とは思えない。
『なぜ私なの?』
上と下で、二人の視線が交わる。左京はゆっくりとマイクを口に当て、なまえの疑問に答えた。
『見てみたくてね。異次元の人間が――それも、戦いに身を置く女性がどれほどのものなのか。要は、私の興味ですよ。』
呆気にとられる彼女と同じく、VIP席にいるコエンマも驚きを隠せなかった。もちろん、会場内の妖怪たちもだ。まさか大会の催し物を自身の好奇心を満たす為だけに使うとは。
『さぁ、そろそろ始めようか。勝者には賞金も用意してますよ。彼女を倒した者が複数の場合は、もちろん山分けも可能だ。』
なまえが浦飯チームの関係者だと分かった途端、妖怪たちは目の色を変えて罵声を浴びせていた。それこそ殺してやりたいと言わんばかりに。だが、あの左京が――戸愚呂チームのオーナーが――エキシビジョンに選んだ女ということで、早々にリングに降りる者はなかなか現れない。彼女の実力が分からずに警戒しているのだ。これでもし人間に負けたとなれば、間違いなく笑いものになる。
しかしその空気を破り、ちらほらとリングに降りて来る妖怪たちがいた。
「…へっ、異次元だか何だか知らねぇが、たかが人間じゃねぇか!オレが切り裂いてやるよ!」
「待て、賞金を手にするのはオレだ!」
「そうだ、賞金だ。何人かでまとめてやっちまえば……。」
力自慢の大柄の妖怪がほとんどだったが、山分けの賞金目当てに大人数で攻めようとする者も。一人、また一人と現れて参加者が20人弱になったころには、なまえの脳内シミュレーションは完了していた。
『よし、ではそろそろ始めよう。審判、合図を。』
「はえ?…はっ、はい!」
急に左京に指示され、審判の樹里は意識を仕事モードへと戻す。
「みなさーん、準備はいいですかぁ?それでは…「ちょっと待って。」…はい?」
今度はなまえに声をかけられ、樹里は腰に手を当てて不満そうだ。だが彼女から何かを耳打ちされ、目を見開いて勢いよくこくこくと首を縦に振る。彼女との密談が終わった樹里は、リングの外へと移動した。
「えっとー、今回は人数が多いため、審判の私が邪魔になるといけないので隅っこにいまーす。」
ごほん、と大きく咳ばらいをし、仕切り直すようにマイクを握った。
「じゃあ今度こそいきますよー!それではエキシビジョン、はじめ!」
樹里の合図とともに、まず大柄な妖怪が考えなしに突っ込んできた。腕を大きく振りかぶり、その鋭い爪で引き裂こうというのだ。他はじっとして動かない。先にその者を行かせ、なまえの力量を図ろうとしている。仲間意識など皆無である彼らは、こういう戦法を取ることが多いようだ。
「死ねぇー!」
ぶん、と風を切る音と共に、爪がなまえをかすめる。しかし彼女はこれを軽々と避けた。
「もう、せっかちね。」
ふわりと着地し、あたりを囲む妖怪たちに微笑む。
「こんな大きな晴れ舞台、人生でもう二度と立てないわ。香水だけでもつけさせてほしいんだけど、ダメかしら?」
『えー、なまえ選手。なんと試合開始早々、まさかの香水?これはいったい……?』
小兎が実況席で首を傾げるのを視界に入れながら、なまえは胸ポケットから小瓶を取り出す。人差し指と親指で挟み、それをちゃぷちゃぷと中身が分かるように振った。
「はっはっはっ!こいつ、狂ってんのか?!」
「いいぜぇ姉ちゃん。どうせすぐあの世生きだ!」
「そんなのつけたって、人間臭さは取れねぇけどなぁ!」
“残り6分37秒”
馬鹿にしたように笑う彼らに、口元だけで笑うなまえ。蔵馬は彼女の手の小瓶に、見覚えがあった。
「なるほど、やっと本領発揮というわけか。」
「……?」
滅多に表情を崩さない蔵馬が、百面相で彼女の試合を見つめていると思ったらぽそりと呟いた。飛影にはその意味が分からず、少し見上げて目だけで問う。
「彼女の強みは柔らかい身のこなしや隠し持っている武器だけじゃない。“あれ”もなんだ。」
「フン、もったいつけた言い方を。…ずいぶん分かったようなことを言うんだな。」
「まさか。オレも実際に見るのは初めてだよ。」
「……。」
「ひとまず今は、彼女を見守りましょう。」
飛影の勘ぐるような瞳をかいくぐり、蔵馬は視線をなまえへと移す。彼女は小瓶のふたを開け、ばっと豪快に空中に振りまいた。きらきらと細かくしぶきが舞う様は、まるで夏の日に水遊びでもしているかのようだ。
「ハッ、準備できたかよ?」
「ええ…ばっちりよ。」
「それじゃあ、さっそく死んでもらうぜぇ!」
棍棒や刀を振り回し、四方から突進してくる。
今のくだりもどうせ時間稼ぎだろうと、妖怪たちの彼女への警戒心は薄まっていた。7分耐え抜けばいいこの試合で、開始早々に香水の話など不自然すぎる。強がってはいるが、実力のない者が苦し紛れに言ったこと…そのように彼らは捉えていた。
そんな中なまえは武器を手にすることもなく静かに俯いている。重力に素直な髪が、彼女の表情を隠していた。その佇まいがますます妖怪たちを奮い立たせる。彼らから見れば、すでに戦いを諦めたように映っているのだ。
――バタ…。
向かってくる妖怪たちの内の一人が、唐突に倒れた。今のところは蔵馬以外、何が起こったのかを把握できていない。なぜなら、対するなまえは指先ひとつ動かしていないからだ。
『これはいったい……、どういうことでしょう!』
小兎のアナウンスが響き渡る中、一人、そしてまた一人と、示し合わせたように次々と倒れていく。
『攻撃の手が届かず、その場に倒れこむ者が多数です!しかし、なまえ選手は一歩も動いていません!』
やっと顔を上げたなまえの口元は、綺麗に弧を描いていた。
「な、なんだよおい!てめぇ、いったい何したんだよ!」
倒れた者の顔を覗き込んだ妖怪が、半ば怒鳴るように彼女に叫んだ。足元の彼は口から泡を吹いて苦しみ、悶えている。
「……約半径2メートル。」
「は…?」
じりじりと後ずさりする妖怪たちを見据えながら、なまえが口を開いた。
「私が今振りまいた“香水”の効果範囲よ。空気中に滞在する時間は少し短いけど、吸うと肺が麻痺するの。つまり、息ができなくなる。もとは人間用に開発した毒だけど、妖怪にも効くのね。」
「なんだと……!」
彼女の言葉にたじろぐ妖怪を、さも意外だと言うようにわざとらしく肩をすくめる。
「まさかリングに降りてきておいて、命を張る覚悟がなかったなんて…言わないわよね?」
なまえの目が厳しく光った。
「私は、そんな覚悟…大昔にとっくに出来てるのよ。」
『毒です!なんとなまえ選手、毒を使った攻撃!これはうかつに近づけない!』
――なるほど、審判に何かを耳打ちしていたのはこのためか。
VIP席から下を眺めるコエンマが、試合開始前の一幕を思い出す。リングの端に目を走らせると、きっちりとなまえから距離を取っている樹里が見えた。空気中に毒が撒かれているとなると、近接戦で彼女を倒すのは難しい。これは問題なくなまえが勝つだろうと、彼は無意識に全身に入っていた力を抜いた。
“残り5分13秒”
「気を付けた方がいいわよ。まだその辺りに漂ってるはずだから。」
余裕の笑みで告げるなまえを、妖怪たちは心底苦々し気に睨む。その言葉の真偽が分からない以上は、小兎の言う通りうかつに近づけない。彼らには、彼女と心理戦を繰り広げられるほどの知力と胆力はなかった。
このまま余計な体力を使わずに残り3分くらいまでは時間を稼げる。彼女がそう思っていた矢先。
――ゴォッ
後ろから突風が吹いた。なまえの延長線上にいる妖怪たちは、その風に運ばれた毒を吸って苦しみ倒れる。観客席の妖怪たちも逃げ出した。振り返ると、他よりも一回り大きな妖怪が長く息を吐いていた。その光景に彼女は面食らう。
会場が屋外であることから、時間経過とともに毒が薄まることは覚悟していた。しかしそれでも大半には効くと判断して気化毒を使ったのだ。しかしその場の空気を一瞬にして吹き飛ばすほどの肺活量が、彼女の計画を狂わせた。風下にいた者はほとんど今のでやられたが、反応が早かった者はこれを回避している。最初の人数の3分の1くらいにはなったが、中でも彼らは手強い部類に入るだろう。ここに残っているということは、警戒心が強いということ。つまり、今までの奴らのように一筋縄ではいかないということだ。
「……妖怪って、ほんと未知数だわ。」
今度はなまえが苦々しく呟き、背中の双錘に両手を伸ばした。