第二章:彼らの戦い、彼女の葛藤
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翌朝。雨は止んでいるが、また降り出しそうな雲がどんよりと広がっている。皆より一足早く起きたなまえは、静かに身支度をしていた。
――みんなよく寝てるわね。
ボディスーツを着て、装備の一つ一つをチェックする。彼女は昨日のことを思い出していた。
左京の“ゲーム”に招待されている以上、明日も朝から鍛錬はしたい。そう思い早々に部屋に戻ろうとしたところ、蔵馬に呼び止められた。仕方なく理由を話すと難しい顔をしていたので何事かと尋ねる。聞けば、準決勝後にエキシビジョンが開催されることは、選手たちには伝えられていたとのこと。当事者である自分にだけ知らされていなかったことを不快に思うが、浦飯チームの家族を人質にすれば必ず参加すると思われていたのだろう。それはそうなのだが、掌で転がされているようでいい気はしない。
「エキシビジョン……まさかなまえさんが絡んでいるとは。」
「危ねーモンじゃねーだろうな!?」
「……。」
蔵馬と桑原の顔が険しいものになり、飛影の目つきも鋭くなる。だんだんと重苦しくなる部屋の空気に、なまえは必死に「大丈夫だ」と主張した。誰もその言葉を信用してはいなかったが。
頑なに参加の意思を曲げない彼女に辞退するように皆が説得するも、参加せざるを得ない理由がある。だがそれを本人たちの前で明かすわけにはいかない。このまま部屋にいても埒が明かないと、半ば逃げるように男子部屋を飛び出したのだった。
少し無理があっただろうかと、彼女たちの寝顔を見ながら苦笑する。しかしこのまま部屋でのんびりしていて、また参加を止められても困る。なまえは忍び足で部屋を出た。
昨日と同じ場所辺りで鍛錬しようと歩いていたら、地響きのような音が聞こえてきた。歩みを進めるたびに音が大きくなるため、近づいているらしい。
何が起こっているのかと様子を窺っていると、森の奥、小さな人影が見えた。とっさに身を隠すが、目を凝らしてみるとよく知った人物である。
「幻海さん!?なんでこの島へ……。」
声をかけながら駆け寄ると、服装が覆面の選手と同じだったため合点がいった。謎の選手の正体は幻海だった。
「なまえか。どうしたんだい、こんな朝早くから。」
「それは、幻海さんだって……。」
――ドゴォォン
なまえが口を開くのとほぼ同時、幻海の背後からまた地響きのような音が聞こえた。
あれは何の音かと聞こうと彼女を見下ろすと、ハッとする。どこかがいつもと違う。直感でそう思った。あんなにもパワフルだった雰囲気が、今日はまるで感じられない。
「あの、大丈夫ですか?…なんだか疲れてるみたい。」
なまえは何故だか寂しくなり、少し屈んで彼女の手を取った。
“なめんじゃないよ、誰に口聞いてんだい。”
そんな言葉が返って来るかと思ったが、幻海は少し目を見開いたかと思えば優しく目を細めただけだった。なまえにはその笑顔が儚く見え、余計に胸に何かが支えたような気持ちになる。
その表情に何も言えなくなっていると、幻海が口を開いた。
「ちょっとこっち来て座りな。」
握った手はそのままなので、先を行く彼女に手を引かれているような気分になる。祖母がいたらこんな感じかと、なまえはなんとなく思っていた。
そのまま木にもたれ、二人で何を話すでもなく座る。しばらくすると、唐突に幻海が口を開いた。
「なまえ、あんた向こうの世界と連絡取り合ってるだろ。通信機が壊れたなんて、下手な嘘もいいとこだよ。」
「!?」
ぎくりとした。ごまかして取り繕うにも、彼女の目がそれを許さない。少しの間見つめ合っていたが、どうにもならないと判断して白状した。
「もう…いつから気づいてたんです?」
「最初っからだよ。」
「……恐れ入りました。」
風に撫でられてさわさわと木々が囁いている。雲の流れも速いようだ。雷のような地響きは、また空気を震わせていた。
「あんたがどんな事情でこの世界に来たのかなんて、あたしには関係ないけどね。」
静かに話し始めた幻海に、なまえは耳を傾ける。
「もう小さなガキじゃないんだ。自分の頭でしっかり考えて、その上で物事を判断しな。誰かの言いなりになるもんじゃない。」
「え……?」
途端に、目の前が明るくなった気がした。思わず彼女の顔をじっと見つめる。単純な言葉に聞こえるが、なまえにはこれ以上ないほどの衝撃だった。
自分の頭で考える。任務を言い渡される日々の彼女にとって、すっかり抜け落ちていた考え方だった。言われるがまま動いた方が組織には都合がいいので、半ばそうするように仕向けられていたのかもしれない。一瞬、脳をいじられたかと頭を過ぎるが、そんなことはないだろう。もしそうなら、今の幻海の言葉で我に返るはずもない。このまま操り人形のままでいたくないと、彼女の中に小さな火が灯った。
「幻海さんありがとう。まるで盲点でした。…そうか、そうですよね。自分で……。」
自分の掌を見つめ、ぼうぜんとするなまえ。だがその瞳はきらきらと輝いていて、新しい物を見つけた子供のようだった。
そのまま二人は座っていたが、無言であることが気にならないほどになまえの心は穏やかだった。大切なことに気づかせてくれた幻海と、このまま何をするでもなく一緒にいたい。いつの間にか彼女にとって、幻海は家族に近しい存在になっていた。
しかしついに雨が降ってきたため、なまえは立ちあがる。昨日から天気は安定していないようだ。一緒にホテルへ戻らないかと幻海にも声をかけたが、彼女はそれを断った。そしてそのまま地響きの方へとまた歩いていくが、その瞳が少し揺れていたのがふと気になる。思わずいつもより大きな声で礼を言うと、彼女は背を向けたまま後ろ手に手を振ってくれた。
ひとりなまえは森の中を歩きながら、自分はどうしたいのか、どうすべきなのかを考えていた。
この世界のどこかにあるはずの、巨大なエネルギー源。魔界や霊界などという突飛な単語が出てくる以上、コエンマや妖怪たちの側にあるのが一番怪しい。だが一向に見つかる気配はない。なまえは、手首に巻かれている特殊な計器を見つめた。この世界に来る際に“お父様”に持たされた、エネルギーを検知できるものだ。ボディスーツを着ていない間も装備していたが、誰と会っても反応しない。それこそ、幻海やコエンマ、そして戸愚呂と会った際もだ。一般人よりも多少強く反応は出たが、それでも“お父様”がどうしても欲するほどのレベルではなかった。
しかしそのモノが何であれ、組織に身を置く限りは持って帰らなければならない。――組織に身を置く限りは。
なまえは、今までの自分と今の自分とで、任務に対する考え方が大きく変わってきているのに気づいた。
――やっぱり、あの人たちとは敵になりたくないわ。
彼女の脳裏にはこの世界で出会った面々が次々と浮かび、ため息をつきながらとぼとぼと歩く。自分の内なる感情に気づかないふりをするのも、もう限界だった。
人というものは大抵、考え事をしていれば他のことは手に付かないものだ。それが深刻なものであればあるほど、その傾向は顕著になる。スパイとして厳しい訓練を受けてきたなまえも例外ではないが、それでも一般人よりは遥かに気を張れるほうだった。
ホテルの外観がもう少しで見えるあたり。雨に濡れたこんな姿で戻ったらまた螢子に心配をかけると、急ぐためにグラップリングを構えた瞬間。
嫌な感じがした。いつかの手合わせの際に蔵馬に背後を取られたときと似ているが、それよりももっと生死の危機に直結するような感覚。そして唐突に、誰かにするりと首元を撫でられた。
触れられる瞬間まで気づかなかった彼女は、血の気が引いて一気に振り返る。見ると、そこには特殊なマスクをした長い黒髪の男が立っていた。異様なその出で立ちに、人間でないことはすぐに分かった。
「…女性に許可なく触れるなんて、失礼だとは思わない?」
嫌な汗が流れたが、なるべく気丈に振舞う。なまえはベルトの背面に手をかけ、すぐにナイフを取り出せるように構えた。心臓が暴れている。
「クク…まぁそういきり立つな。」
感情の読めない表情で笑うこの男。なまえが警戒心をむき出しにするも、それを気にもかけず彼女の頬を撫でる。続けてうわごとのように呟かれた言葉が、さらに彼女に恐怖を与えた。
「ああ、やはり美しいな……。」
それは、否応なしに“お父様”を思い出させた。人の心に無理やり押し入って来るような、無遠慮な仕草。違和感を自覚するとこんなにも恐ろしいものなのだと、なまえは寒気をごまかすようにその手を払い除けた。
「っ、言ったでしょ、不躾に触らないでちょうだい。」
ぱしん、と乾いた音。
すると、ざわりとその場の空気が変わる。なまえはびくりと身を震わせ、かろうじて一歩後ろに下がった。狩人に狙われる動物たちはこんな気分なのだろうか。
すると、彼女と男の間に、ばさりとマントをなびかせて誰かが割って入った。
「トラブルは困るな。彼女は霊界の客なんだ。」
「あなたは……!」
思わぬ人物になまえは目を丸くした。振り返る彼の額には“Jr”の文字。コエンマだ。
「どうしてここに…。」
「幻海に会いに来たんじゃが、その前にお前らを見つけてしまってな。」
できるなら関わりたくなかった、という彼の気持ちが前面に出ていた。だがこの際そんなことはどうでもいい。この状況を打破してくれるのであれば。
「コエンマか……。そうだったな、異次元からの訪問者は丁重に扱わなくては。」
「なっ…鴉、お主!」
この男は鴉という名らしく、真っ黒なその姿にふさわしい。彼がコエンマに伝えてくれたので、なまえが次元を超えてきたことが知られていることをわざわざ話さずに済んだ。しかしその驚き方からするに、霊界としては予想外だったのだろう。左京の情報網の広さが窺い知れる。
「決めたぞ。明日は私も参加しよう。…お前と殺し合いがしたくなった。」
瞠目するコエンマを尻目に、鴉は目を細めてうっとりとなまえを見つめる。彼の口ぶりから、明日のエキシビジョンは誰かと戦わされるのだろう。
――それに彼も参加する、というわけね。
捕食者の目をしている。そう思うと、彼女はまた身震いをした。
気が済んだのかその場を立ち去る男に、姿が見えなくなるまで警戒を続ける。完全に見えなくなるとやっと、なまえは大きくため息をついた。
「厄介なやつに目をつけられたもんだな。」
肩の力を抜いた彼女に、ふう、と息を吐きながらコエンマが言う。どうやら彼も緊張はしていたらしい。
「でも、保護してくれるのよね?霊界が。」
「まぁ…そうじゃなぁ…。」
うーん、と煮え切らない返答に不安は拭いきれない。
「あの、コエンマさん?」
しびれを切らしたなまえが笑顔で念を押すと、焦った彼はまぁまぁとそれをいなす。
「あいつは戸愚呂チームのメンバーだ。ということは、上に左京がいる。さすがのあやつでも、霊界を相手取って揉め事を起こすようなことはすまい。面倒だからな。」
ははは、と笑うコエンマは、どうしてもごまかしているようにしか見えない。自分の力で乗り切るしかないか、とため息をつき、そこでなまえはふと気づく。それは今までの自分がやってきたことではないか、と。この世界に来て誰かに頼ることを覚えてしまったらしい。そんな自分をまずいと思いつつもどこかくすぐったいような、心地よい気分になっていた。
――みんなよく寝てるわね。
ボディスーツを着て、装備の一つ一つをチェックする。彼女は昨日のことを思い出していた。
左京の“ゲーム”に招待されている以上、明日も朝から鍛錬はしたい。そう思い早々に部屋に戻ろうとしたところ、蔵馬に呼び止められた。仕方なく理由を話すと難しい顔をしていたので何事かと尋ねる。聞けば、準決勝後にエキシビジョンが開催されることは、選手たちには伝えられていたとのこと。当事者である自分にだけ知らされていなかったことを不快に思うが、浦飯チームの家族を人質にすれば必ず参加すると思われていたのだろう。それはそうなのだが、掌で転がされているようでいい気はしない。
「エキシビジョン……まさかなまえさんが絡んでいるとは。」
「危ねーモンじゃねーだろうな!?」
「……。」
蔵馬と桑原の顔が険しいものになり、飛影の目つきも鋭くなる。だんだんと重苦しくなる部屋の空気に、なまえは必死に「大丈夫だ」と主張した。誰もその言葉を信用してはいなかったが。
頑なに参加の意思を曲げない彼女に辞退するように皆が説得するも、参加せざるを得ない理由がある。だがそれを本人たちの前で明かすわけにはいかない。このまま部屋にいても埒が明かないと、半ば逃げるように男子部屋を飛び出したのだった。
少し無理があっただろうかと、彼女たちの寝顔を見ながら苦笑する。しかしこのまま部屋でのんびりしていて、また参加を止められても困る。なまえは忍び足で部屋を出た。
昨日と同じ場所辺りで鍛錬しようと歩いていたら、地響きのような音が聞こえてきた。歩みを進めるたびに音が大きくなるため、近づいているらしい。
何が起こっているのかと様子を窺っていると、森の奥、小さな人影が見えた。とっさに身を隠すが、目を凝らしてみるとよく知った人物である。
「幻海さん!?なんでこの島へ……。」
声をかけながら駆け寄ると、服装が覆面の選手と同じだったため合点がいった。謎の選手の正体は幻海だった。
「なまえか。どうしたんだい、こんな朝早くから。」
「それは、幻海さんだって……。」
――ドゴォォン
なまえが口を開くのとほぼ同時、幻海の背後からまた地響きのような音が聞こえた。
あれは何の音かと聞こうと彼女を見下ろすと、ハッとする。どこかがいつもと違う。直感でそう思った。あんなにもパワフルだった雰囲気が、今日はまるで感じられない。
「あの、大丈夫ですか?…なんだか疲れてるみたい。」
なまえは何故だか寂しくなり、少し屈んで彼女の手を取った。
“なめんじゃないよ、誰に口聞いてんだい。”
そんな言葉が返って来るかと思ったが、幻海は少し目を見開いたかと思えば優しく目を細めただけだった。なまえにはその笑顔が儚く見え、余計に胸に何かが支えたような気持ちになる。
その表情に何も言えなくなっていると、幻海が口を開いた。
「ちょっとこっち来て座りな。」
握った手はそのままなので、先を行く彼女に手を引かれているような気分になる。祖母がいたらこんな感じかと、なまえはなんとなく思っていた。
そのまま木にもたれ、二人で何を話すでもなく座る。しばらくすると、唐突に幻海が口を開いた。
「なまえ、あんた向こうの世界と連絡取り合ってるだろ。通信機が壊れたなんて、下手な嘘もいいとこだよ。」
「!?」
ぎくりとした。ごまかして取り繕うにも、彼女の目がそれを許さない。少しの間見つめ合っていたが、どうにもならないと判断して白状した。
「もう…いつから気づいてたんです?」
「最初っからだよ。」
「……恐れ入りました。」
風に撫でられてさわさわと木々が囁いている。雲の流れも速いようだ。雷のような地響きは、また空気を震わせていた。
「あんたがどんな事情でこの世界に来たのかなんて、あたしには関係ないけどね。」
静かに話し始めた幻海に、なまえは耳を傾ける。
「もう小さなガキじゃないんだ。自分の頭でしっかり考えて、その上で物事を判断しな。誰かの言いなりになるもんじゃない。」
「え……?」
途端に、目の前が明るくなった気がした。思わず彼女の顔をじっと見つめる。単純な言葉に聞こえるが、なまえにはこれ以上ないほどの衝撃だった。
自分の頭で考える。任務を言い渡される日々の彼女にとって、すっかり抜け落ちていた考え方だった。言われるがまま動いた方が組織には都合がいいので、半ばそうするように仕向けられていたのかもしれない。一瞬、脳をいじられたかと頭を過ぎるが、そんなことはないだろう。もしそうなら、今の幻海の言葉で我に返るはずもない。このまま操り人形のままでいたくないと、彼女の中に小さな火が灯った。
「幻海さんありがとう。まるで盲点でした。…そうか、そうですよね。自分で……。」
自分の掌を見つめ、ぼうぜんとするなまえ。だがその瞳はきらきらと輝いていて、新しい物を見つけた子供のようだった。
そのまま二人は座っていたが、無言であることが気にならないほどになまえの心は穏やかだった。大切なことに気づかせてくれた幻海と、このまま何をするでもなく一緒にいたい。いつの間にか彼女にとって、幻海は家族に近しい存在になっていた。
しかしついに雨が降ってきたため、なまえは立ちあがる。昨日から天気は安定していないようだ。一緒にホテルへ戻らないかと幻海にも声をかけたが、彼女はそれを断った。そしてそのまま地響きの方へとまた歩いていくが、その瞳が少し揺れていたのがふと気になる。思わずいつもより大きな声で礼を言うと、彼女は背を向けたまま後ろ手に手を振ってくれた。
ひとりなまえは森の中を歩きながら、自分はどうしたいのか、どうすべきなのかを考えていた。
この世界のどこかにあるはずの、巨大なエネルギー源。魔界や霊界などという突飛な単語が出てくる以上、コエンマや妖怪たちの側にあるのが一番怪しい。だが一向に見つかる気配はない。なまえは、手首に巻かれている特殊な計器を見つめた。この世界に来る際に“お父様”に持たされた、エネルギーを検知できるものだ。ボディスーツを着ていない間も装備していたが、誰と会っても反応しない。それこそ、幻海やコエンマ、そして戸愚呂と会った際もだ。一般人よりも多少強く反応は出たが、それでも“お父様”がどうしても欲するほどのレベルではなかった。
しかしそのモノが何であれ、組織に身を置く限りは持って帰らなければならない。――組織に身を置く限りは。
なまえは、今までの自分と今の自分とで、任務に対する考え方が大きく変わってきているのに気づいた。
――やっぱり、あの人たちとは敵になりたくないわ。
彼女の脳裏にはこの世界で出会った面々が次々と浮かび、ため息をつきながらとぼとぼと歩く。自分の内なる感情に気づかないふりをするのも、もう限界だった。
人というものは大抵、考え事をしていれば他のことは手に付かないものだ。それが深刻なものであればあるほど、その傾向は顕著になる。スパイとして厳しい訓練を受けてきたなまえも例外ではないが、それでも一般人よりは遥かに気を張れるほうだった。
ホテルの外観がもう少しで見えるあたり。雨に濡れたこんな姿で戻ったらまた螢子に心配をかけると、急ぐためにグラップリングを構えた瞬間。
嫌な感じがした。いつかの手合わせの際に蔵馬に背後を取られたときと似ているが、それよりももっと生死の危機に直結するような感覚。そして唐突に、誰かにするりと首元を撫でられた。
触れられる瞬間まで気づかなかった彼女は、血の気が引いて一気に振り返る。見ると、そこには特殊なマスクをした長い黒髪の男が立っていた。異様なその出で立ちに、人間でないことはすぐに分かった。
「…女性に許可なく触れるなんて、失礼だとは思わない?」
嫌な汗が流れたが、なるべく気丈に振舞う。なまえはベルトの背面に手をかけ、すぐにナイフを取り出せるように構えた。心臓が暴れている。
「クク…まぁそういきり立つな。」
感情の読めない表情で笑うこの男。なまえが警戒心をむき出しにするも、それを気にもかけず彼女の頬を撫でる。続けてうわごとのように呟かれた言葉が、さらに彼女に恐怖を与えた。
「ああ、やはり美しいな……。」
それは、否応なしに“お父様”を思い出させた。人の心に無理やり押し入って来るような、無遠慮な仕草。違和感を自覚するとこんなにも恐ろしいものなのだと、なまえは寒気をごまかすようにその手を払い除けた。
「っ、言ったでしょ、不躾に触らないでちょうだい。」
ぱしん、と乾いた音。
すると、ざわりとその場の空気が変わる。なまえはびくりと身を震わせ、かろうじて一歩後ろに下がった。狩人に狙われる動物たちはこんな気分なのだろうか。
すると、彼女と男の間に、ばさりとマントをなびかせて誰かが割って入った。
「トラブルは困るな。彼女は霊界の客なんだ。」
「あなたは……!」
思わぬ人物になまえは目を丸くした。振り返る彼の額には“Jr”の文字。コエンマだ。
「どうしてここに…。」
「幻海に会いに来たんじゃが、その前にお前らを見つけてしまってな。」
できるなら関わりたくなかった、という彼の気持ちが前面に出ていた。だがこの際そんなことはどうでもいい。この状況を打破してくれるのであれば。
「コエンマか……。そうだったな、異次元からの訪問者は丁重に扱わなくては。」
「なっ…鴉、お主!」
この男は鴉という名らしく、真っ黒なその姿にふさわしい。彼がコエンマに伝えてくれたので、なまえが次元を超えてきたことが知られていることをわざわざ話さずに済んだ。しかしその驚き方からするに、霊界としては予想外だったのだろう。左京の情報網の広さが窺い知れる。
「決めたぞ。明日は私も参加しよう。…お前と殺し合いがしたくなった。」
瞠目するコエンマを尻目に、鴉は目を細めてうっとりとなまえを見つめる。彼の口ぶりから、明日のエキシビジョンは誰かと戦わされるのだろう。
――それに彼も参加する、というわけね。
捕食者の目をしている。そう思うと、彼女はまた身震いをした。
気が済んだのかその場を立ち去る男に、姿が見えなくなるまで警戒を続ける。完全に見えなくなるとやっと、なまえは大きくため息をついた。
「厄介なやつに目をつけられたもんだな。」
肩の力を抜いた彼女に、ふう、と息を吐きながらコエンマが言う。どうやら彼も緊張はしていたらしい。
「でも、保護してくれるのよね?霊界が。」
「まぁ…そうじゃなぁ…。」
うーん、と煮え切らない返答に不安は拭いきれない。
「あの、コエンマさん?」
しびれを切らしたなまえが笑顔で念を押すと、焦った彼はまぁまぁとそれをいなす。
「あいつは戸愚呂チームのメンバーだ。ということは、上に左京がいる。さすがのあやつでも、霊界を相手取って揉め事を起こすようなことはすまい。面倒だからな。」
ははは、と笑うコエンマは、どうしてもごまかしているようにしか見えない。自分の力で乗り切るしかないか、とため息をつき、そこでなまえはふと気づく。それは今までの自分がやってきたことではないか、と。この世界に来て誰かに頼ることを覚えてしまったらしい。そんな自分をまずいと思いつつもどこかくすぐったいような、心地よい気分になっていた。