第二章:彼らの戦い、彼女の葛藤
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雨が降って来た窓の外を、蔵馬はなんとなく沈んだ気分で眺める。雨がそうさせるのか、それともその手の中の止血剤のせいなのか。彼には分からなかった。桑原のシャワーを使う音と雨音が重なって聞こえるので、部屋の中にまで雨が入ってきている気分になる。
何気なく立ち上がりホテルの玄関前に視線を落とすと、見知った人影があった。
「飛影…、あんなところで何を……。」
彼は玄関前で雨に濡れるのもかまわず、じっとある方向を見つめている。その視線の先を辿ると、森の方からどきりとする人物が現れた。
彼女は濡れ髪をかき上げ、先に着いていた飛影の元へ駆け寄る。楽しそうに笑うその顔が、なぜか蔵馬の心を締め付けた。
――オレには今まで、あんな顔……。
それに加え、なまえを見る飛影の目がどことなく以前と違うような気がする。
玄関をくぐる彼らを、蔵馬は沈鬱な気持ちで眺めていた。
しばらくすると、びしょ濡れの飛影が部屋に戻って来る。彼はシャワー室がふさがっているのを見て、ひとまず上の服を脱ぎ始めた。
「めずらしいですね、あなたが女性を気にかけるなんて。」
涼しい顔をしている飛影がなんとなく気に障り、言わなくてもいいことを蔵馬は言った。
「……?ああ、あの女か。」壁にもたれて飛影が続ける。
「それは貴様の方だろう。」
「何?」
「こうやってオレに突っかかってくるのが、良い証拠だ。」
「……。」
フン、と鼻で笑う彼に返す言葉もなく、蔵馬は黙り込んでしまう。窓を打ち付ける雨の音がやけに大きく聞こえた。
「そんなに気になるなら、側についていてやれ。」
見かねた飛影が彼にしては優しい言葉をかけるが、答える蔵馬の声には覇気がない。
「……彼女は、オレの手なんて必要としていないさ。いつもね。」
そう、なまえはいつも一人で立ち上がる。いつかの手合わせの時のように。他者に頼らないところが彼女をより強く見せているのだとしたら、そんな強さはいいからもっと周りに頼れと言いたくなってしまう。そこまで考えて、確かに自分は飛影の言うとおりだと感じた。彼女が気になっている。
「それはどうか分からんぞ。」
「え?」
飛影の方を見ると、床の一点を見つめて何かを考えている。彼の頭にはつい先ほど見た、不安に満ちたなまえの表情が広がっていた。
彼らしからぬその目の色から誰のことを考えているのかが容易に分かって、蔵馬はまた何ともいえない感情になった。空気がどことなく息苦しい気もするが、もしかしたら自分だけかもしれない。彼は一つ、大きく深呼吸をした。
――ガチャ。
「蔵馬、お先―!お、飛影帰ってたんか。」
風呂を終えた桑原が顔を出し、蔵馬はなんとなく救われた気になる。彼に微笑みかけ、挨拶を返した。
「チッ、遅い。さっさとかわれ。」
「っかぁー!風呂ぐらいゆっくり入らせろよ、男の嗜みだぜ!」
「…くだらん。」
顔を合わせれば始まるこの軽口の言いあいも、恒例となったようなものだ。浴室へと消える飛影を複雑な思いで見つめ、蔵馬は桑原と準決勝の作戦を立てることにした。
「あー!やっぱりずぶ濡れ!心配してたんですよ?」
部屋へと戻ったなまえを迎えたのは、螢子の高い声だった。
「ごめんね、ちょうど飛影君と会ったから、彼に手合わせをお願いしてたの。」
「へぇー、あの飛影と?よく引き受けてくれたねぇ。」
ぼたんがタオルを持ってきながら、驚いたような顔をする。
「なんだか借りを返してくれたらしいわ。彼のじゃないらしいんだけど…。いったい誰の分かしら。」
その言葉に、ぼたんはぎくりとした。十中八九、雪菜のことだろう。だがそれを言うと命が危ない。勘のいい彼女なら飛影と雪菜の関係に気づくはずだ。己の言葉で真実にたどり着くのは避けたかったぼたんは「なんでかねぇ。」と不自然な笑顔で対応したが、それに気づかないなまえではない。苦笑を噛み殺し、荷物の中を探ったあとシャワー室へと向かった。
メイクを落とし、熱いシャワーを頭からかぶりながら、先ほど荷物から取って来たイヤホンを耳に付ける。彼女は二回タップした。
「報告です。」
シャワーの音でごまかしながら、小声でオペレーターと話す。幸い“お父様”は近くにいないようだ。そう、幸い。
「……以上です。エネルギーの正体はまだ分かりませんが、引き続き調査します。」
彼女は通信を切り、ボディソープを手に取る。泡を体に滑らせながら、彼のことを考えた。“お父様”のことを。
恋人の命を奪った彼を、なまえは憎んでもいいはずだった。今なら復讐を果たせる実力もじゅうぶんにある。だがなぜかそんな気にはなれなかった。彼の声を聞くと、不思議と感情が無気力になる。頭にモヤがかかったようで、考えられなくなる。“彼に従うのが正しい”。そう幼いころから教えられてきた彼女にとって、“お父様”の言葉から足を踏み外すのはおかしなことだった。そして、磔の彼を見ながら耳元で囁かれた言葉を、哀れにも信じた。自分のような者と関わったから、彼はこんな目に遭ったのだ…と。
「なまえさん?大丈夫かい?」
考え事をしていたら長く入りすぎたらしい。シャワーの音で時間の感覚が麻痺していた。
「ええ、もう出るわ。」
ノックしてきたぼたんに返し、蛇口を閉めた。
Tシャツにハーフパンツというラフな格好でスキンケアをしていたら、なにやら温子とぼたんが盛り上がっている。
「ね、ね、今から突撃しちゃおうか!」
「まーた温子さんは。その手のお酒は何ですか?」
「んー?前祝いってやつよ。雪菜ちゃんも行くでしょ?」
「はい、お邪魔じゃなければ。なまえさんもどうですか?」
話が振られたのでヘアオイルをつけながら聞き返すと、幽助たちの部屋だという。
「…邪魔じゃないかしら。」
「大丈夫よ。準決勝の前に、パーっとやりましょ。」
静流が煙草をふかしながらにこりとする。この様子からすると、全員行く気らしい。
「うーん、でもお化粧落としちゃったし……。」
「なまえさんならそのままでも綺麗だよ!…あ、さてはスッピンを見られたくない相手がいたりして……?」
「もう、そんなことないわよ!」
ぼたんが茶化すので否定するも、ふと脳裏に蔵馬が浮かぶ。慌てて目を瞑り、念入りに彼の顔を頭から消した。きっと、昼間にあんなことをしたからだ。彼女は気を紛らわすように、ドライヤーをしに洗面所へと向かう。
「髪の毛乾かしたら行くから、先に行ってて。」
「りょーかい!んじゃまた後でねー。」
温子が酒瓶を両手に持ち、ご機嫌で先陣を切っていく。彼女たちの後姿を見送りながら、どんな顔で会いに行くべきかとなまえは考えていた。
幽助たちの部屋。桑原と蔵馬は顔を突き合わせ、今後の試合の話をしていた。だが大将である肝心の幽助がおらず、桑原は心配を口にする。
「遅えな……どこ行っちまったんだ。」
幽助とともに消えた覆面も戻ってきていない。二人の視線は自然と窓の外へと向いた。ザァザァと降り続く雨が、彼らの心情を物語っているようだ。
「――なんだかんだで準決勝か。ここへ来てもう5日も経っちまったな。」
「準決勝からは闘場が変わるらしいからな。状況はより厳しくなると見て間違いない。」
蔵馬が手元のトランプに目をやりながら、桑原に答える。飛影も風呂から上がり、窓枠に器用に座りながら外を眺めていた。明後日の試合のことを考えているのだろう。
――ガチャリ。
「じゃんじゃじゃーん、遊びにきたよー!」
唐突にドアが開いたと思ったら、女性陣が部屋に入って来た。ハッとした蔵馬がそちらに目をやるが、なまえはいない。ほっとしたような残念なような気持ちになった。
「っだよキミタチ、シリアスに話してるときに。」
すかさず桑原が文句を言うが、ぼたんに手の中のトランプを見咎められる。雪菜からも怪我の具合を聞かれ、上機嫌で彼女をトランプに誘った。
飲むぞ、と騒ぐ温子の隣で「特にあんたはこの世で最後の宴になるかもね。」などと静流が桑原に物騒なことを言っている。実の姉とは思えないような発言だ。
「そういや、なまえさんはいねぇのか?」
がやがやと騒ぐ中、桑原が疑問を口にする。蔵馬はその名を聞いてどきりとしたが、同じように飛影のまわりの空気も変わったことに気づいた。
「なまえさんなら、少し身支度を整えてから来るそうです。先ほどまでお風呂に入ってらっしゃったので――。」
雪菜が桑原に答えていると、コンコン、とタイミングよくノックが聞こえた。
「開いてるよー!」
温子がコップを片手に大きな声で返事する。すでに部屋の主となっているようだ。
「お邪魔します。」
なまえが遠慮がちに入って来た。部屋の面々と目が合うと、照れたように苦笑いする。いつもとは違う彼女のいで立ちに、蔵馬はまたどきりとした。あまりじろじろと見るのは良くないと分かりつつも、つい見てしまう。ハーフパンツからすらりと伸びた白い脚、そして彼女の素顔。化粧をしていると妖艶な雰囲気だが、今の彼女はまた違った魅力を醸し出していた。
なまえがそのままトランプの輪に入る前に、蔵馬が彼女を呼び止める。先にゲームを始めてもらうよう桑原に言い、二人で壁際のちょっとしたスペースに向かった。
「これ、ありがとうございました。よく効きましたよ。」
そう言われてなまえの手の中に収まったのは、昼に渡した止血剤。それを見た途端、あのことが鮮明に思い出されて彼女は気まずくなった。だがきちんと掘り返し、大人として言わねばならない。覚悟を決めた。
「…蔵馬君ごめんなさい。ついムキになって、あんな…大人げないことしたわ。」
俯き加減で視線を泳がせるなまえを、驚いて見つめる。彼女のデリケートな部分に触れてしまったと感じていたので、謝るべきは自分のほうだと思っていたからだ。
「いえ、オレの方こそ……。あなたを軽んじるようなことを言ってしまいました。すみません。」
「そんな、いいのよ。私ね……、」
そのまま立ったままで話すつもりが、蔵馬に椅子へと誘導される。前までの彼女ならきっと意地を張って、笑顔でそれを拒否していただろう。だが素直にエスコートに従い、座ることにした。この島に来てから、人との付き合い方が変わってきた気がする。蔵馬も斜め向かいの椅子に座ったところで、話を始めた。
「ありがとう。…私ね、職業柄女性扱いされることに慣れてなくて。…っていうと、語弊ね。一般の女性と同じように大切に扱われるのに、慣れてないの。」
珍しく自分のことを話すなまえを、蔵馬は黙って見つめながら話を聞く。彼女の髪からだろうか、甘い香りがする。トランプをしている彼らの楽しそうな笑い声が聞こえた。
「あとね、心のどこかで…これは本当に申し訳ないんだけど、男性を軽蔑してたの。いつも簡単に色目に引っかかる、馬鹿で単純な奴らだって。」
「まぁ…それは、なんとなく思ってました。」
「……ごめんね。」
「いえ、大丈夫です。」
“大丈夫”。その言葉を聞いて、確かに彼は大丈夫そうだとなまえは思った。彼女の色香が効かないのは、幻海邸で確認済みだ。蔵馬は彼女を表面だけでは見ていない。
「だからね、男性にはどうしても頼りたくなくて。どんな任務でも一人でやりきるんだって……。でも今思うと、意地になってたのかもね。変なプライド、とも言えるかしら。」
背もたれに体を預けて上を向く彼女に、なんて声をかければいいのか分からない。続く沈黙に耐え兼ね、蔵馬は思ったことを口にした。
「…それは誇っていいことだと、オレは思います。なまえさんが自分の力で、今まで成し遂げたことだから。」
「蔵馬君……。」
「でも、頼るべき時はきちんと見極めて、周りの人間にも頼るべきだ。あなたが肉体的にも精神的にも強いことは、オレも分かってるつもりです。だけど、何事にも限度がある。この意味を、あなたなら分かるはずだ。」
蔵馬の真剣な瞳から、なまえは目を離せなくなっていた。彼は心配してくれている。彼女の実力を知っていて尚。
どんなに頑張っても限界があると、蔵馬は伝えたかった。赤子が大人を持ち上げられないように、その人の努力ではどうにもならないこともある。
「……言いたいことは、分かったわ。」
なまえは目を細めて彼に微笑みかけた。こんなに心の底から自分のことを考えてくれる人はいつぶりだろうと。それこそ昔、愛してくれた男のように。
不意に、蔵馬の顔と彼の顔が重なる。途端に、冷や汗が流れた。もし、また同じようなことが起こったらと、思ってしまったのだ。今回は次元を超えているため、そこまで心配はないかもしれない。あれから“お父様”の信用を取り戻すために、ことさら従順に接してきたし彼の求めにも欠かさず応じた。抜かりはないはずだったが、不安は拭えなかった。
様子の変わったなまえを、また心配そうな瞳で蔵馬が見つめている。何か言わなければと思った挙句、どうでもいいことを口走った。
「…蔵馬君は、私が魅力的に見えない?」
「へ?」
――しまった、これじゃめんどくさい女だわ。
彼にしては気の抜けた顔で、なまえを見つめ返している。ばっと顔を背けた後、何とか補足した。
「その、あんまり私の攻撃が効かないな、と。」
「攻撃?」
「んー、なんて言えばいいのかしら……。」
笑みを浮かべた彼女を前に冷静でいられる男など、なまえは今まであまり会ったことがない。大抵は顔を赤くして惚けるものである。彼女自身、そうなるように仕掛けているからだ。だが自分でそれを言えるはずもない。だんだんと顔をしかめて悩み始めた彼女に、なんとなく察した蔵馬は答えた。
「なまえさんのことは、美人だと思いますよ。だけど人を見た目だけで判断したくなくて。オレ自身、そういうので少し疲れてますから。」
その言葉に、なまえは蔵馬を改めて見る。初対面の時も思ったが、男性にしては綺麗な顔立ちをしている。普通の生活をしたくても周りが放っておかないだろう。それにこれで高校生だ。成長すればさらに魅力が増すのは間違いない。周りの女性たちから言い寄られて困っている蔵馬を想像し、なまえはくすりと笑った。
「あなたも大変なのね。」
久々に見るなまえの本心からの笑顔に、蔵馬がまたどきりとする。あの日手合わせして以来、またこの笑顔を見たいと思っていた彼は、胸のあたりがじわりとするのを感じた。
「あ、でも。」
くすぐったいような心を押し込めるように、蔵馬が小首をかしげてなまえを覗き込んだ。いたずらに光る翡翠色の瞳が綺麗だ。
「いきなりキスされたときは、さすがにドキッとしましたよ。」
「――!そ、そうよね……。」
この男は自分の顔の良さを分かっていて、こんな目で見てくるのだろうか?小声で話すために近づいてきた彼に不覚にも顔に熱が集まるのを感じたが、悟られないように前髪をかき上げてそっぽを向く。するとその目線の先で少し驚いた表情をした飛影と目が合ったが、彼のほうからふいと目を逸らした。それはなまえの背後の男の目が鋭かったからなのだが、彼女には違う風に捉えられたらしい。今の話を聞かれたかと危惧したがそうではないと勝手に判断し、彼女はそっと息を吐いた。
「なまえさん?」
声をかけてくる蔵馬を振り返ると、にこりと笑っている。先ほどのどこか色のある雰囲気はなくなっていた。
「あ、ごめんね、ぼうっとして。何だった?」
「いえ、これだけは言っておこうかなと思いまして。」
両手を組んで膝の上に置き、前かがみになって彼が言う。
「オレ、初めてがなまえさんで、良かったです。」
「え?…それって、」
どういう意味か、と聞こうとしたところで、唐突に第三者の声が降って来た。彼女の思考は強制的に中断される。
「ハーイ、お二人さん。話は終わったー?」
すでに出来上がっている様子の温子が二人に割って入る。
「なにちゃっかり二人の世界作ってんの?あっちで一緒にポーカーやるわよ!」
ぐいぐいと二人の腕を引っ張り、輪の中へと押し込んだ。ゲームはひと段落したらしく、ぼたんがカードをシャッフルしている。どうやら彼女が親らしい。
螢子と雪菜の間に座らされ、カードを配られる。蔵馬を見ると、いつもの顔で静流たちと話していた。あの言葉の意味は、その通りに受け取ってもいいのだろうか……。少しずつ頬に熱が集まるのを感じたが、まわりにバレないように呼吸を整える。
こうやって彼らの中に座っていると、本当に仲間になったようだ。気を緩めると、全てを話して謝りたくなる。大声で叫び、許しを請うのだ。自分はこの世界を利用するために来たのだと。
表情に出ないように気を付けていたはずだが、斜め前から視線を感じた。視線を上げるとやはり蔵馬だ。彼の観察眼には閉口する。これ以上何も気取られないようになまえはにこりと微笑んだが、彼の後ろで外を見ている人物に目が留まった。
「飛影く…、」言いかけて、彼に言われたことを思い出した。呼び方が気色悪い、と。心底嫌そうだった顔を思い出し、笑いを堪えて改めて呼んだ。
「飛影は?一緒にやらないの?」
なまえの視界の隅で蔵馬が一瞬ピクリと動いた。だが彼に目を向けると同時に、飛影の方を向いて呼びかける。表情が見えなくなった。
「楽しいですよ。」
「やらん。貴様は適応力がありすぎる!」
彼にフラれた蔵馬は肩をすくめてこちらに向き直った。その表情はまさにポーカーフェイスで、先ほどの一瞬の変化の理由を探るのは難しそうだった。
何気なく立ち上がりホテルの玄関前に視線を落とすと、見知った人影があった。
「飛影…、あんなところで何を……。」
彼は玄関前で雨に濡れるのもかまわず、じっとある方向を見つめている。その視線の先を辿ると、森の方からどきりとする人物が現れた。
彼女は濡れ髪をかき上げ、先に着いていた飛影の元へ駆け寄る。楽しそうに笑うその顔が、なぜか蔵馬の心を締め付けた。
――オレには今まで、あんな顔……。
それに加え、なまえを見る飛影の目がどことなく以前と違うような気がする。
玄関をくぐる彼らを、蔵馬は沈鬱な気持ちで眺めていた。
しばらくすると、びしょ濡れの飛影が部屋に戻って来る。彼はシャワー室がふさがっているのを見て、ひとまず上の服を脱ぎ始めた。
「めずらしいですね、あなたが女性を気にかけるなんて。」
涼しい顔をしている飛影がなんとなく気に障り、言わなくてもいいことを蔵馬は言った。
「……?ああ、あの女か。」壁にもたれて飛影が続ける。
「それは貴様の方だろう。」
「何?」
「こうやってオレに突っかかってくるのが、良い証拠だ。」
「……。」
フン、と鼻で笑う彼に返す言葉もなく、蔵馬は黙り込んでしまう。窓を打ち付ける雨の音がやけに大きく聞こえた。
「そんなに気になるなら、側についていてやれ。」
見かねた飛影が彼にしては優しい言葉をかけるが、答える蔵馬の声には覇気がない。
「……彼女は、オレの手なんて必要としていないさ。いつもね。」
そう、なまえはいつも一人で立ち上がる。いつかの手合わせの時のように。他者に頼らないところが彼女をより強く見せているのだとしたら、そんな強さはいいからもっと周りに頼れと言いたくなってしまう。そこまで考えて、確かに自分は飛影の言うとおりだと感じた。彼女が気になっている。
「それはどうか分からんぞ。」
「え?」
飛影の方を見ると、床の一点を見つめて何かを考えている。彼の頭にはつい先ほど見た、不安に満ちたなまえの表情が広がっていた。
彼らしからぬその目の色から誰のことを考えているのかが容易に分かって、蔵馬はまた何ともいえない感情になった。空気がどことなく息苦しい気もするが、もしかしたら自分だけかもしれない。彼は一つ、大きく深呼吸をした。
――ガチャ。
「蔵馬、お先―!お、飛影帰ってたんか。」
風呂を終えた桑原が顔を出し、蔵馬はなんとなく救われた気になる。彼に微笑みかけ、挨拶を返した。
「チッ、遅い。さっさとかわれ。」
「っかぁー!風呂ぐらいゆっくり入らせろよ、男の嗜みだぜ!」
「…くだらん。」
顔を合わせれば始まるこの軽口の言いあいも、恒例となったようなものだ。浴室へと消える飛影を複雑な思いで見つめ、蔵馬は桑原と準決勝の作戦を立てることにした。
「あー!やっぱりずぶ濡れ!心配してたんですよ?」
部屋へと戻ったなまえを迎えたのは、螢子の高い声だった。
「ごめんね、ちょうど飛影君と会ったから、彼に手合わせをお願いしてたの。」
「へぇー、あの飛影と?よく引き受けてくれたねぇ。」
ぼたんがタオルを持ってきながら、驚いたような顔をする。
「なんだか借りを返してくれたらしいわ。彼のじゃないらしいんだけど…。いったい誰の分かしら。」
その言葉に、ぼたんはぎくりとした。十中八九、雪菜のことだろう。だがそれを言うと命が危ない。勘のいい彼女なら飛影と雪菜の関係に気づくはずだ。己の言葉で真実にたどり着くのは避けたかったぼたんは「なんでかねぇ。」と不自然な笑顔で対応したが、それに気づかないなまえではない。苦笑を噛み殺し、荷物の中を探ったあとシャワー室へと向かった。
メイクを落とし、熱いシャワーを頭からかぶりながら、先ほど荷物から取って来たイヤホンを耳に付ける。彼女は二回タップした。
「報告です。」
シャワーの音でごまかしながら、小声でオペレーターと話す。幸い“お父様”は近くにいないようだ。そう、幸い。
「……以上です。エネルギーの正体はまだ分かりませんが、引き続き調査します。」
彼女は通信を切り、ボディソープを手に取る。泡を体に滑らせながら、彼のことを考えた。“お父様”のことを。
恋人の命を奪った彼を、なまえは憎んでもいいはずだった。今なら復讐を果たせる実力もじゅうぶんにある。だがなぜかそんな気にはなれなかった。彼の声を聞くと、不思議と感情が無気力になる。頭にモヤがかかったようで、考えられなくなる。“彼に従うのが正しい”。そう幼いころから教えられてきた彼女にとって、“お父様”の言葉から足を踏み外すのはおかしなことだった。そして、磔の彼を見ながら耳元で囁かれた言葉を、哀れにも信じた。自分のような者と関わったから、彼はこんな目に遭ったのだ…と。
「なまえさん?大丈夫かい?」
考え事をしていたら長く入りすぎたらしい。シャワーの音で時間の感覚が麻痺していた。
「ええ、もう出るわ。」
ノックしてきたぼたんに返し、蛇口を閉めた。
Tシャツにハーフパンツというラフな格好でスキンケアをしていたら、なにやら温子とぼたんが盛り上がっている。
「ね、ね、今から突撃しちゃおうか!」
「まーた温子さんは。その手のお酒は何ですか?」
「んー?前祝いってやつよ。雪菜ちゃんも行くでしょ?」
「はい、お邪魔じゃなければ。なまえさんもどうですか?」
話が振られたのでヘアオイルをつけながら聞き返すと、幽助たちの部屋だという。
「…邪魔じゃないかしら。」
「大丈夫よ。準決勝の前に、パーっとやりましょ。」
静流が煙草をふかしながらにこりとする。この様子からすると、全員行く気らしい。
「うーん、でもお化粧落としちゃったし……。」
「なまえさんならそのままでも綺麗だよ!…あ、さてはスッピンを見られたくない相手がいたりして……?」
「もう、そんなことないわよ!」
ぼたんが茶化すので否定するも、ふと脳裏に蔵馬が浮かぶ。慌てて目を瞑り、念入りに彼の顔を頭から消した。きっと、昼間にあんなことをしたからだ。彼女は気を紛らわすように、ドライヤーをしに洗面所へと向かう。
「髪の毛乾かしたら行くから、先に行ってて。」
「りょーかい!んじゃまた後でねー。」
温子が酒瓶を両手に持ち、ご機嫌で先陣を切っていく。彼女たちの後姿を見送りながら、どんな顔で会いに行くべきかとなまえは考えていた。
幽助たちの部屋。桑原と蔵馬は顔を突き合わせ、今後の試合の話をしていた。だが大将である肝心の幽助がおらず、桑原は心配を口にする。
「遅えな……どこ行っちまったんだ。」
幽助とともに消えた覆面も戻ってきていない。二人の視線は自然と窓の外へと向いた。ザァザァと降り続く雨が、彼らの心情を物語っているようだ。
「――なんだかんだで準決勝か。ここへ来てもう5日も経っちまったな。」
「準決勝からは闘場が変わるらしいからな。状況はより厳しくなると見て間違いない。」
蔵馬が手元のトランプに目をやりながら、桑原に答える。飛影も風呂から上がり、窓枠に器用に座りながら外を眺めていた。明後日の試合のことを考えているのだろう。
――ガチャリ。
「じゃんじゃじゃーん、遊びにきたよー!」
唐突にドアが開いたと思ったら、女性陣が部屋に入って来た。ハッとした蔵馬がそちらに目をやるが、なまえはいない。ほっとしたような残念なような気持ちになった。
「っだよキミタチ、シリアスに話してるときに。」
すかさず桑原が文句を言うが、ぼたんに手の中のトランプを見咎められる。雪菜からも怪我の具合を聞かれ、上機嫌で彼女をトランプに誘った。
飲むぞ、と騒ぐ温子の隣で「特にあんたはこの世で最後の宴になるかもね。」などと静流が桑原に物騒なことを言っている。実の姉とは思えないような発言だ。
「そういや、なまえさんはいねぇのか?」
がやがやと騒ぐ中、桑原が疑問を口にする。蔵馬はその名を聞いてどきりとしたが、同じように飛影のまわりの空気も変わったことに気づいた。
「なまえさんなら、少し身支度を整えてから来るそうです。先ほどまでお風呂に入ってらっしゃったので――。」
雪菜が桑原に答えていると、コンコン、とタイミングよくノックが聞こえた。
「開いてるよー!」
温子がコップを片手に大きな声で返事する。すでに部屋の主となっているようだ。
「お邪魔します。」
なまえが遠慮がちに入って来た。部屋の面々と目が合うと、照れたように苦笑いする。いつもとは違う彼女のいで立ちに、蔵馬はまたどきりとした。あまりじろじろと見るのは良くないと分かりつつも、つい見てしまう。ハーフパンツからすらりと伸びた白い脚、そして彼女の素顔。化粧をしていると妖艶な雰囲気だが、今の彼女はまた違った魅力を醸し出していた。
なまえがそのままトランプの輪に入る前に、蔵馬が彼女を呼び止める。先にゲームを始めてもらうよう桑原に言い、二人で壁際のちょっとしたスペースに向かった。
「これ、ありがとうございました。よく効きましたよ。」
そう言われてなまえの手の中に収まったのは、昼に渡した止血剤。それを見た途端、あのことが鮮明に思い出されて彼女は気まずくなった。だがきちんと掘り返し、大人として言わねばならない。覚悟を決めた。
「…蔵馬君ごめんなさい。ついムキになって、あんな…大人げないことしたわ。」
俯き加減で視線を泳がせるなまえを、驚いて見つめる。彼女のデリケートな部分に触れてしまったと感じていたので、謝るべきは自分のほうだと思っていたからだ。
「いえ、オレの方こそ……。あなたを軽んじるようなことを言ってしまいました。すみません。」
「そんな、いいのよ。私ね……、」
そのまま立ったままで話すつもりが、蔵馬に椅子へと誘導される。前までの彼女ならきっと意地を張って、笑顔でそれを拒否していただろう。だが素直にエスコートに従い、座ることにした。この島に来てから、人との付き合い方が変わってきた気がする。蔵馬も斜め向かいの椅子に座ったところで、話を始めた。
「ありがとう。…私ね、職業柄女性扱いされることに慣れてなくて。…っていうと、語弊ね。一般の女性と同じように大切に扱われるのに、慣れてないの。」
珍しく自分のことを話すなまえを、蔵馬は黙って見つめながら話を聞く。彼女の髪からだろうか、甘い香りがする。トランプをしている彼らの楽しそうな笑い声が聞こえた。
「あとね、心のどこかで…これは本当に申し訳ないんだけど、男性を軽蔑してたの。いつも簡単に色目に引っかかる、馬鹿で単純な奴らだって。」
「まぁ…それは、なんとなく思ってました。」
「……ごめんね。」
「いえ、大丈夫です。」
“大丈夫”。その言葉を聞いて、確かに彼は大丈夫そうだとなまえは思った。彼女の色香が効かないのは、幻海邸で確認済みだ。蔵馬は彼女を表面だけでは見ていない。
「だからね、男性にはどうしても頼りたくなくて。どんな任務でも一人でやりきるんだって……。でも今思うと、意地になってたのかもね。変なプライド、とも言えるかしら。」
背もたれに体を預けて上を向く彼女に、なんて声をかければいいのか分からない。続く沈黙に耐え兼ね、蔵馬は思ったことを口にした。
「…それは誇っていいことだと、オレは思います。なまえさんが自分の力で、今まで成し遂げたことだから。」
「蔵馬君……。」
「でも、頼るべき時はきちんと見極めて、周りの人間にも頼るべきだ。あなたが肉体的にも精神的にも強いことは、オレも分かってるつもりです。だけど、何事にも限度がある。この意味を、あなたなら分かるはずだ。」
蔵馬の真剣な瞳から、なまえは目を離せなくなっていた。彼は心配してくれている。彼女の実力を知っていて尚。
どんなに頑張っても限界があると、蔵馬は伝えたかった。赤子が大人を持ち上げられないように、その人の努力ではどうにもならないこともある。
「……言いたいことは、分かったわ。」
なまえは目を細めて彼に微笑みかけた。こんなに心の底から自分のことを考えてくれる人はいつぶりだろうと。それこそ昔、愛してくれた男のように。
不意に、蔵馬の顔と彼の顔が重なる。途端に、冷や汗が流れた。もし、また同じようなことが起こったらと、思ってしまったのだ。今回は次元を超えているため、そこまで心配はないかもしれない。あれから“お父様”の信用を取り戻すために、ことさら従順に接してきたし彼の求めにも欠かさず応じた。抜かりはないはずだったが、不安は拭えなかった。
様子の変わったなまえを、また心配そうな瞳で蔵馬が見つめている。何か言わなければと思った挙句、どうでもいいことを口走った。
「…蔵馬君は、私が魅力的に見えない?」
「へ?」
――しまった、これじゃめんどくさい女だわ。
彼にしては気の抜けた顔で、なまえを見つめ返している。ばっと顔を背けた後、何とか補足した。
「その、あんまり私の攻撃が効かないな、と。」
「攻撃?」
「んー、なんて言えばいいのかしら……。」
笑みを浮かべた彼女を前に冷静でいられる男など、なまえは今まであまり会ったことがない。大抵は顔を赤くして惚けるものである。彼女自身、そうなるように仕掛けているからだ。だが自分でそれを言えるはずもない。だんだんと顔をしかめて悩み始めた彼女に、なんとなく察した蔵馬は答えた。
「なまえさんのことは、美人だと思いますよ。だけど人を見た目だけで判断したくなくて。オレ自身、そういうので少し疲れてますから。」
その言葉に、なまえは蔵馬を改めて見る。初対面の時も思ったが、男性にしては綺麗な顔立ちをしている。普通の生活をしたくても周りが放っておかないだろう。それにこれで高校生だ。成長すればさらに魅力が増すのは間違いない。周りの女性たちから言い寄られて困っている蔵馬を想像し、なまえはくすりと笑った。
「あなたも大変なのね。」
久々に見るなまえの本心からの笑顔に、蔵馬がまたどきりとする。あの日手合わせして以来、またこの笑顔を見たいと思っていた彼は、胸のあたりがじわりとするのを感じた。
「あ、でも。」
くすぐったいような心を押し込めるように、蔵馬が小首をかしげてなまえを覗き込んだ。いたずらに光る翡翠色の瞳が綺麗だ。
「いきなりキスされたときは、さすがにドキッとしましたよ。」
「――!そ、そうよね……。」
この男は自分の顔の良さを分かっていて、こんな目で見てくるのだろうか?小声で話すために近づいてきた彼に不覚にも顔に熱が集まるのを感じたが、悟られないように前髪をかき上げてそっぽを向く。するとその目線の先で少し驚いた表情をした飛影と目が合ったが、彼のほうからふいと目を逸らした。それはなまえの背後の男の目が鋭かったからなのだが、彼女には違う風に捉えられたらしい。今の話を聞かれたかと危惧したがそうではないと勝手に判断し、彼女はそっと息を吐いた。
「なまえさん?」
声をかけてくる蔵馬を振り返ると、にこりと笑っている。先ほどのどこか色のある雰囲気はなくなっていた。
「あ、ごめんね、ぼうっとして。何だった?」
「いえ、これだけは言っておこうかなと思いまして。」
両手を組んで膝の上に置き、前かがみになって彼が言う。
「オレ、初めてがなまえさんで、良かったです。」
「え?…それって、」
どういう意味か、と聞こうとしたところで、唐突に第三者の声が降って来た。彼女の思考は強制的に中断される。
「ハーイ、お二人さん。話は終わったー?」
すでに出来上がっている様子の温子が二人に割って入る。
「なにちゃっかり二人の世界作ってんの?あっちで一緒にポーカーやるわよ!」
ぐいぐいと二人の腕を引っ張り、輪の中へと押し込んだ。ゲームはひと段落したらしく、ぼたんがカードをシャッフルしている。どうやら彼女が親らしい。
螢子と雪菜の間に座らされ、カードを配られる。蔵馬を見ると、いつもの顔で静流たちと話していた。あの言葉の意味は、その通りに受け取ってもいいのだろうか……。少しずつ頬に熱が集まるのを感じたが、まわりにバレないように呼吸を整える。
こうやって彼らの中に座っていると、本当に仲間になったようだ。気を緩めると、全てを話して謝りたくなる。大声で叫び、許しを請うのだ。自分はこの世界を利用するために来たのだと。
表情に出ないように気を付けていたはずだが、斜め前から視線を感じた。視線を上げるとやはり蔵馬だ。彼の観察眼には閉口する。これ以上何も気取られないようになまえはにこりと微笑んだが、彼の後ろで外を見ている人物に目が留まった。
「飛影く…、」言いかけて、彼に言われたことを思い出した。呼び方が気色悪い、と。心底嫌そうだった顔を思い出し、笑いを堪えて改めて呼んだ。
「飛影は?一緒にやらないの?」
なまえの視界の隅で蔵馬が一瞬ピクリと動いた。だが彼に目を向けると同時に、飛影の方を向いて呼びかける。表情が見えなくなった。
「楽しいですよ。」
「やらん。貴様は適応力がありすぎる!」
彼にフラれた蔵馬は肩をすくめてこちらに向き直った。その表情はまさにポーカーフェイスで、先ほどの一瞬の変化の理由を探るのは難しそうだった。