第二章:彼らの戦い、彼女の葛藤
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「この辺りでいいかしら……。」
ホテルを出たなまえは、森の中を歩いていた。少し開けたところを見つけ、そこを今日の鍛錬場所に決める。本当は誰か相手がいてくれるとありがたいのだが、誰も頼む相手がいない以上は仕方がない。一瞬彼女の頭に蔵馬の顔が浮かんだが、彼はケガ人だ。それに、まだ会うには覚悟が足りていなかった。
彼女はひとまず、体のストレッチを始める。そして次第に動きを大きくし、ナイフによる突きや蹴りを取り入れていく。両手首のグラップリングフックを作動させたときには、その動きは彼女独特の華麗で大胆な動きになっていた。木から木へと飛び移りながら、空中で体を捻ったり曲げ伸ばししたり。空中にいるとどうしても狙い撃ちされてしまうので、それを回避するための動きを研究する。
なまえは空を舞いながら、先ほどのことを考えていた。彼女が唯一愛した男のことを。
あの頃は確かに幸せだった。彼のどこまでも深い優しさに触れ、潜入中であることを忘れて初めての恋をした。彼には外の世界の常識をたくさん教わった。逆に、自分の身の上や父との関係がどれだけ異常なのかも理解できた。知ってしまうと、もう無知だった自分には戻れない。彼女は“お父様”が自身を歪んだ愛情で縛り付けているのだと察し、彼を警戒するようになった。
しかしどこからか、二人の仲のことが知られてしまった。当時のなまえは頭が回っていなかったが、あとで冷静に考えれば簡単に分かった。組織からもう一人、彼女の動向を監視する人物が送り込まれていたのだ。初めての長期任務ということで、“お父様”が心配して見張りをつけたらしい。しかし、何が心配だというのか。彼は単純に、なまえが手元を離れるのが我慢ならないだけだった。可愛いお人形に、悪い虫がつかないか。それだけが彼の心配事だった。
全てを知った“お父様”の憤慨は凄まじいものだった。彼女の任務を途中で解き、手元に呼び戻して閉じ込める。だがそれだけでは飽き足らず、彼女の心を砕く方法を嬉々として選択した。
それが、男の死だった。
彼と引き離され反抗心を見せる彼女に、贈り物があると言いある部屋に案内する。嫌がる彼女を引きずって部屋に押し込むと、正面の壁に磔にされた“彼”がいた。
一目見てなまえは分かった。もう息はないと。それからのことはよく覚えていない。もう全てがどうでもよくなっていた。だが耳元で囁く“お父様”の声はよく聞こえた。
『お前が関わらなければ、彼はこうならずに済んだんだ。だって一般人だ。お前の生きる世界とは合わないよ。……かわいそうに、泣いているのかい?おいで、僕がついてる。…はは、大丈夫だよなまえ。今回は許してあげるから。……いつものように、抱きしめてあげようね。』
なまえは力の入らない体をベッドに投げ出し、“お父様”の愛を一身に受けた。いつものように――。
そこまで思い出したと思えば、気づけば地面に叩きつけられていた。かろうじて受け身は取ったが、しばらく動けそうにない。グラップルをひっかけるのに失敗し、転落したのだ。
「っはぁ、はぁ……。」
なまえはそのまま仰向けで寝転がり、肩から背中にかけての痛みを感じていた。両腕を投げ出すその姿は、磔になった彼と残酷にも重なる。心臓がぎゅっと掴まれたような感じがして、彼女は両手で胸のあたりを押さえてうずくまった。地面から湿った土の匂いがする。空が泣き出すのも時間の問題だった。
しばらく横になっていると、背後に気配を感じた。慌てて上体を起こすと、小柄な少年が森の奥からこちらを見つめている。
「…飛影君。」
彼も森の中で鍛錬をしていたが、意外にもなまえの気配が近くにあったので木の上から彼女を観察をしていた。どこか遠くを見つめるような瞳で、木々の間を舞う彼女。時折地面に降りて見えない敵をナイフで切り刻んだと思ったら、また飛び上がる。その伸びやかな体の使い方に、いつの間にか目を離せなくなっていた。
「何をしている。」
話しかけるつもりはなかった。見ていたのを気づかれたところで、立ち去ればいいだけのこと。しかしその表情を見て思いとどまった。この大会で人間たちの護衛を買って出るほどの彼女が、ひどく弱々しく見える。
「鍛錬よ。ここに来て、まともに体動かしてないから。」
「一人でか。」
「…誰もいないんだもの。」
なまえの脳裏にはまた蔵馬の顔が浮かび上がったが、軽く頭を振って追い出した。
「そうだ飛影君、私と手合わせしてくれないかしら。」
「ふざけるな。なんでオレが……。」
一気に不機嫌になる飛影だったが、ここで“ある事実”を思い出す。目の前の人間が、彼の妹を垂金の銃弾から救ったことを。
「いや、いい。…オレは借りを作るのが嫌いだ。少しなら相手してやってもいいぜ。」
「借り?私あなたに何かしたかしら。」
「オレじゃない。」
「……?」
彼でないのなら、誰の借りなのか。なまえが考えているとしびれを切らしたように飛影が口を開いた。
「……やらんのなら帰るぞ。」
そのままホテルの方へ足を向けたので、彼女は慌てて彼に追いすがった。
じめじめとした不快な空気の中、なまえは飛影と向き合っていた。妖怪と手合わせをするのは彼女の人生においてたったの二度目である。一瞬で決まった蔵馬との勝負を思い出し、彼女の手は汗ばんできた。
「一つだけ、お願いがあるの。」
「なんだ。」
「きっと大丈夫だと思うけど、殺さない程度にしてちょうだい。」
飛影はその言葉に口の端を上げ、フン、と小馬鹿にしたように笑う。それが果たして承知なのか拒否なのか、どちらの意味なのかが絶妙に分からない。彼女が一抹の不安を感じたとき、彼の姿が消えた。
「!!」
なまえが目を見張る暇もなく、彼の右拳が左腕に入る。
――ズザァ!
彼からしたら軽いパンチだっただろうが、彼女は砂埃を上げながら滑っていく。倒れなかったのが幸いだ。
なまえは背中の双錘を手に取り、体の正面で構えた。意識を改め、飛影を“敵である”と脳にインプットする。この少年は蔵馬のように泳がせてはくれない――。そう感じたからだ。その表情がぎらりと変わった彼女に満足そうにし、飛影は再び地を蹴る。左の裏拳がまた彼女の左腕に入った。――そう思ったが、右手の双錘でガードされている。そのまま上へと振り上げ、体を開いた飛影に追い打ちをかけるように左手の双錘が下から彼を狙う。
――人間の女にしては動けるようだな。それにしてもこの動き……。
なまえの攻撃を次々とかわしながら、力の弱さをカバーするような彼女の柔らかな動きを目で追う。飛影はその戦闘スタイルに興味を持ち始めていた。
だが、次第にポツポツと雨が降って来る。これ以上はもういいだろうと、飛影はスピードを上げた。
急に目で追えなくなったことに、やはり本気ではなかったのだとなまえは奥歯を噛みしめる。だが実力が上の者に相手をしてもらえることは、武術を志す者としてはプラスでしかない。できるだけ両脚に力を込め、瞬発力を上げて食らいついていった。
「…悪くないが、これで終わりだ。」
少ししてそう聞こえたと思ったら、なまえは地面に仰向けで倒れていた。だが不思議とどこも痛くない。倒れる際に彼が気を回してくれたのだろうと漠然と思った。
優しい雨を降らせる灰色の雲が、飛影の後ろに見える。彼は彼女にまたがるように上に乗り、首に手をかけていた。そのまま少しでも力を込めれば、簡単に窒息させられるだろう。
試合を見ていたなまえは彼のスピードを知っているつもりだったが、いざ対峙してみると面白いほどに敵わない。降参の意を込めて寝たまま両手を挙げれば、少年はゆっくりと離れていった。
「やっぱり、あなたたち妖怪ってすごいのね。……私がまるで歯が立たないわ。」
ゆっくりと立ち上がりながら腰に片手を当てうつむいた。次元の向こうの世界には、彼女の国よりも優れた技術や能力、人材がまだまだある。
「……貴様は、女にしては動けるほうだ。また遊んでやらんこともない。」
「え?」
ばっと顔を上げると、意外にも機嫌の良さそうな飛影がいた。雰囲気も幾分か柔らかい。なまえは嬉しくなりついはしゃぎそうになる。
「ね、私のことどう思う?少しは認めてくれたでしょ。」
「もういいだろう、行くぞ。」
「あら、ホテルまで送ってくれるのね。嬉しいわ。」
「…口の減らん女だ。」
彼の憎まれ口を聞きながら、なまえは昔のことで沈んでいた心が、いつの間にか晴れていることに気づいた。明らかに飛影のおかげだ。
「飛影君、ありがとう。…さっきまで嫌なこと思い出して凹んでたんだけど、思いっきり体を動かしたら気分が晴れたわ。」
先ほどまでの弱々しい雰囲気がなくなった様子に、感情の忙しい奴だと飛影は呆れと安心の半々の気持ちだ。だが彼はどうしても、彼女に言いたいことがあった。
「どうでもいいが、その呼び方はどうにかならんのか。気色が悪い。」
「え?何よ、嫌だったの?」
気色悪いなどと、彼女が生きてきておよそ言われたことのない言葉に、心外だと腕を組む。
「じゃあなんて呼べばいいのよ。」
「知らん、好きにすればいいだろう。」
「…分かったわ。」
話しているうちに雨が段々と本降りになって来た。もう本当にホテルへ戻ろうと飛影がなまえを見たとき。
「飛影。」
雨に濡れた艶のある唇で、名を呼ばれた。一瞬、彼女から目が離せなくなる。
その微笑みは容赦なく男たちを魅了し、動きを封じるのだろう。まるで蛇だ。自分に向けられる視線を見返し、飛影はどこか他人事のように考えていた。しかし唐突に、原因不明の焦燥感が彼を襲う。そのまま彼女を見ていることができず、意味もなく足元に視線を落とした。
ホテルを出たなまえは、森の中を歩いていた。少し開けたところを見つけ、そこを今日の鍛錬場所に決める。本当は誰か相手がいてくれるとありがたいのだが、誰も頼む相手がいない以上は仕方がない。一瞬彼女の頭に蔵馬の顔が浮かんだが、彼はケガ人だ。それに、まだ会うには覚悟が足りていなかった。
彼女はひとまず、体のストレッチを始める。そして次第に動きを大きくし、ナイフによる突きや蹴りを取り入れていく。両手首のグラップリングフックを作動させたときには、その動きは彼女独特の華麗で大胆な動きになっていた。木から木へと飛び移りながら、空中で体を捻ったり曲げ伸ばししたり。空中にいるとどうしても狙い撃ちされてしまうので、それを回避するための動きを研究する。
なまえは空を舞いながら、先ほどのことを考えていた。彼女が唯一愛した男のことを。
あの頃は確かに幸せだった。彼のどこまでも深い優しさに触れ、潜入中であることを忘れて初めての恋をした。彼には外の世界の常識をたくさん教わった。逆に、自分の身の上や父との関係がどれだけ異常なのかも理解できた。知ってしまうと、もう無知だった自分には戻れない。彼女は“お父様”が自身を歪んだ愛情で縛り付けているのだと察し、彼を警戒するようになった。
しかしどこからか、二人の仲のことが知られてしまった。当時のなまえは頭が回っていなかったが、あとで冷静に考えれば簡単に分かった。組織からもう一人、彼女の動向を監視する人物が送り込まれていたのだ。初めての長期任務ということで、“お父様”が心配して見張りをつけたらしい。しかし、何が心配だというのか。彼は単純に、なまえが手元を離れるのが我慢ならないだけだった。可愛いお人形に、悪い虫がつかないか。それだけが彼の心配事だった。
全てを知った“お父様”の憤慨は凄まじいものだった。彼女の任務を途中で解き、手元に呼び戻して閉じ込める。だがそれだけでは飽き足らず、彼女の心を砕く方法を嬉々として選択した。
それが、男の死だった。
彼と引き離され反抗心を見せる彼女に、贈り物があると言いある部屋に案内する。嫌がる彼女を引きずって部屋に押し込むと、正面の壁に磔にされた“彼”がいた。
一目見てなまえは分かった。もう息はないと。それからのことはよく覚えていない。もう全てがどうでもよくなっていた。だが耳元で囁く“お父様”の声はよく聞こえた。
『お前が関わらなければ、彼はこうならずに済んだんだ。だって一般人だ。お前の生きる世界とは合わないよ。……かわいそうに、泣いているのかい?おいで、僕がついてる。…はは、大丈夫だよなまえ。今回は許してあげるから。……いつものように、抱きしめてあげようね。』
なまえは力の入らない体をベッドに投げ出し、“お父様”の愛を一身に受けた。いつものように――。
そこまで思い出したと思えば、気づけば地面に叩きつけられていた。かろうじて受け身は取ったが、しばらく動けそうにない。グラップルをひっかけるのに失敗し、転落したのだ。
「っはぁ、はぁ……。」
なまえはそのまま仰向けで寝転がり、肩から背中にかけての痛みを感じていた。両腕を投げ出すその姿は、磔になった彼と残酷にも重なる。心臓がぎゅっと掴まれたような感じがして、彼女は両手で胸のあたりを押さえてうずくまった。地面から湿った土の匂いがする。空が泣き出すのも時間の問題だった。
しばらく横になっていると、背後に気配を感じた。慌てて上体を起こすと、小柄な少年が森の奥からこちらを見つめている。
「…飛影君。」
彼も森の中で鍛錬をしていたが、意外にもなまえの気配が近くにあったので木の上から彼女を観察をしていた。どこか遠くを見つめるような瞳で、木々の間を舞う彼女。時折地面に降りて見えない敵をナイフで切り刻んだと思ったら、また飛び上がる。その伸びやかな体の使い方に、いつの間にか目を離せなくなっていた。
「何をしている。」
話しかけるつもりはなかった。見ていたのを気づかれたところで、立ち去ればいいだけのこと。しかしその表情を見て思いとどまった。この大会で人間たちの護衛を買って出るほどの彼女が、ひどく弱々しく見える。
「鍛錬よ。ここに来て、まともに体動かしてないから。」
「一人でか。」
「…誰もいないんだもの。」
なまえの脳裏にはまた蔵馬の顔が浮かび上がったが、軽く頭を振って追い出した。
「そうだ飛影君、私と手合わせしてくれないかしら。」
「ふざけるな。なんでオレが……。」
一気に不機嫌になる飛影だったが、ここで“ある事実”を思い出す。目の前の人間が、彼の妹を垂金の銃弾から救ったことを。
「いや、いい。…オレは借りを作るのが嫌いだ。少しなら相手してやってもいいぜ。」
「借り?私あなたに何かしたかしら。」
「オレじゃない。」
「……?」
彼でないのなら、誰の借りなのか。なまえが考えているとしびれを切らしたように飛影が口を開いた。
「……やらんのなら帰るぞ。」
そのままホテルの方へ足を向けたので、彼女は慌てて彼に追いすがった。
じめじめとした不快な空気の中、なまえは飛影と向き合っていた。妖怪と手合わせをするのは彼女の人生においてたったの二度目である。一瞬で決まった蔵馬との勝負を思い出し、彼女の手は汗ばんできた。
「一つだけ、お願いがあるの。」
「なんだ。」
「きっと大丈夫だと思うけど、殺さない程度にしてちょうだい。」
飛影はその言葉に口の端を上げ、フン、と小馬鹿にしたように笑う。それが果たして承知なのか拒否なのか、どちらの意味なのかが絶妙に分からない。彼女が一抹の不安を感じたとき、彼の姿が消えた。
「!!」
なまえが目を見張る暇もなく、彼の右拳が左腕に入る。
――ズザァ!
彼からしたら軽いパンチだっただろうが、彼女は砂埃を上げながら滑っていく。倒れなかったのが幸いだ。
なまえは背中の双錘を手に取り、体の正面で構えた。意識を改め、飛影を“敵である”と脳にインプットする。この少年は蔵馬のように泳がせてはくれない――。そう感じたからだ。その表情がぎらりと変わった彼女に満足そうにし、飛影は再び地を蹴る。左の裏拳がまた彼女の左腕に入った。――そう思ったが、右手の双錘でガードされている。そのまま上へと振り上げ、体を開いた飛影に追い打ちをかけるように左手の双錘が下から彼を狙う。
――人間の女にしては動けるようだな。それにしてもこの動き……。
なまえの攻撃を次々とかわしながら、力の弱さをカバーするような彼女の柔らかな動きを目で追う。飛影はその戦闘スタイルに興味を持ち始めていた。
だが、次第にポツポツと雨が降って来る。これ以上はもういいだろうと、飛影はスピードを上げた。
急に目で追えなくなったことに、やはり本気ではなかったのだとなまえは奥歯を噛みしめる。だが実力が上の者に相手をしてもらえることは、武術を志す者としてはプラスでしかない。できるだけ両脚に力を込め、瞬発力を上げて食らいついていった。
「…悪くないが、これで終わりだ。」
少ししてそう聞こえたと思ったら、なまえは地面に仰向けで倒れていた。だが不思議とどこも痛くない。倒れる際に彼が気を回してくれたのだろうと漠然と思った。
優しい雨を降らせる灰色の雲が、飛影の後ろに見える。彼は彼女にまたがるように上に乗り、首に手をかけていた。そのまま少しでも力を込めれば、簡単に窒息させられるだろう。
試合を見ていたなまえは彼のスピードを知っているつもりだったが、いざ対峙してみると面白いほどに敵わない。降参の意を込めて寝たまま両手を挙げれば、少年はゆっくりと離れていった。
「やっぱり、あなたたち妖怪ってすごいのね。……私がまるで歯が立たないわ。」
ゆっくりと立ち上がりながら腰に片手を当てうつむいた。次元の向こうの世界には、彼女の国よりも優れた技術や能力、人材がまだまだある。
「……貴様は、女にしては動けるほうだ。また遊んでやらんこともない。」
「え?」
ばっと顔を上げると、意外にも機嫌の良さそうな飛影がいた。雰囲気も幾分か柔らかい。なまえは嬉しくなりついはしゃぎそうになる。
「ね、私のことどう思う?少しは認めてくれたでしょ。」
「もういいだろう、行くぞ。」
「あら、ホテルまで送ってくれるのね。嬉しいわ。」
「…口の減らん女だ。」
彼の憎まれ口を聞きながら、なまえは昔のことで沈んでいた心が、いつの間にか晴れていることに気づいた。明らかに飛影のおかげだ。
「飛影君、ありがとう。…さっきまで嫌なこと思い出して凹んでたんだけど、思いっきり体を動かしたら気分が晴れたわ。」
先ほどまでの弱々しい雰囲気がなくなった様子に、感情の忙しい奴だと飛影は呆れと安心の半々の気持ちだ。だが彼はどうしても、彼女に言いたいことがあった。
「どうでもいいが、その呼び方はどうにかならんのか。気色が悪い。」
「え?何よ、嫌だったの?」
気色悪いなどと、彼女が生きてきておよそ言われたことのない言葉に、心外だと腕を組む。
「じゃあなんて呼べばいいのよ。」
「知らん、好きにすればいいだろう。」
「…分かったわ。」
話しているうちに雨が段々と本降りになって来た。もう本当にホテルへ戻ろうと飛影がなまえを見たとき。
「飛影。」
雨に濡れた艶のある唇で、名を呼ばれた。一瞬、彼女から目が離せなくなる。
その微笑みは容赦なく男たちを魅了し、動きを封じるのだろう。まるで蛇だ。自分に向けられる視線を見返し、飛影はどこか他人事のように考えていた。しかし唐突に、原因不明の焦燥感が彼を襲う。そのまま彼女を見ていることができず、意味もなく足元に視線を落とした。