第二章:彼らの戦い、彼女の葛藤
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螢子は幽助と、雪菜は桑原と会っている頃だろう。懲りずに酒盛りを始めた大人二人を残し、なまえは浦飯チームの部屋へと向かった。
――コンコン。
ノックをすれば、中から声が聞こえる。
「開いてますよ。」
遠慮がちに扉を開ければ、蔵馬がちょうど自分で傷の手当てをしているところだった。初めて会った時も、こうやって自分で包帯を巻いていたな、となまえは思い出す。
「…止血剤を持ってきたの。……使う?」
「すみません、わざわざ。」
彼女が部屋へ入ると、窓枠に腰かけていた飛影がトン、と降りる。そのまま脇を通り過ぎそうになったので、慌てて礼を言った。
「待って!…あのときは、ありがとう。」
立ち止まり少しの間黙っていた彼は、目だけをこちらに向けて答えた。
「……勘違いするな。雪菜が気にかけていたからな。オレはたまたま来た幽助に貴様を預けただけだ。」
そしてそのまま、飛影はドアを開けたまま出て行く。その後姿を呆然と見ていると、「悪く思わないでください。」と蔵馬が声をかけた。
「あれでも、彼なりの挨拶なんです。」
「…シャイな子だってことは、分かったわ。」
くすりとすれば、蔵馬も頬を緩ませる。なまえはドアを閉め、彼の前に屈んだ。
「いちおう、うちの国でも即効性のある薬よ。…もしかしたら、あなたの薬草の方が効くかもしれないけど。」
「それ、毒じゃないですよね?」
「どうかしら?試せば分かるわ。」
蔵馬がおどけてみせたので、なまえも調子を合わせる。冗談を言う余裕は出てきたみたいだ。
傷に目をやると、そこから植物が生えてきている…ように見える。彼が手をかざしていたので注意深く見ていると、葉が徐々に枯れていった。妖怪同士の戦いは予想外のことが起きる、と、目の前の光景をどこか現実味のないままに見ていた。
「……ひどいわね。」
全身傷や痣だらけの蔵馬に、そっと触れる。背中側の傷を濡れタオルで拭こうとしていたので、なまえがその役目をかわった。
体の前面に比べると、そこまで傷は多くない。相手と正面からぶつかり合ったからだろう。近くで見ると思ったよりも広い背中に、その中性的な印象は彼女の中で覆った。
「一回戦が終わったとき、なまえさんを見つけてびっくりしましたよ。近くの妖怪を睨んでましたね。…あなたのあんな顔、初めて見ました。」
「だってあいつら、自分たちはリスクを冒さないくせに口だけ達者なんだもの……。」
くく、と楽しそうに笑う蔵馬。やはりあのとき気づかれていたのかと、少し気恥ずかしい。
「ところで、どうしてここへ?また霊界からの指示ですか?」
「また?」
「雪菜ちゃんのときみたいに。……っ、」
蔵馬がなまえから受け取った止血剤を、特に出血のひどかった部位へ自分で塗りこむ。よく効くが、傷に沁みるのが難点だ。
「ああ、それは違うわ。」
彼女の答えに、蔵馬が顔を上げる。
「私が自分で言ったのよ。危ない大会なら護衛するって。」
「護衛って…。彼女たちを?」
「何よ、いけない?」
「いけないというか……。」
腕を組んでじとりと見てくる彼女は、怪訝な表情を見せる。そうじゃない、と蔵馬は心の中で思う。オレが言いたいのは。
「あなたも彼女たちと同じ、女性ですよ。…無理は良くない。」
なまえは、目の前を突然見えない何かで遮断されたような感覚に陥った。
「……そうね。…そうかもしれない。」
それは、なまえがあまり聞きたくない言葉だった。それに彼の中では、彼女たちを守るのは“無理”という認識らしい。そう見られていることに純粋に腹が立ち、悲しくなった。蔵馬が彼女の表情の不穏な変化に気付くも、もう後の祭りだ。
彼女は自分を、他の非力な女たちと一緒にしてほしくなかった。それに、必要以上に男性から女性扱いされるのを嫌う。幼いころから何のために訓練に明け暮れていたのか。スパイという仕事…自分の役目を、誰にも頼らずに果たすためだ。特に、男性には頼りたくなかった。さんざんなまえに騙されてきた、愚かな性別だからだ。
――ムキになることないわ。…用が済めば、私はここを去るのよ。
ここへ来たのは任務を言い渡されたからだ。自分の意思じゃない。いつものようにしていればいいだけ……。感情を強制的にフラットにし、口元を歪めてフッと笑う。蔵馬が口を開きかけるが、何かを言う前に思い切り近づいた。彼に少し、自分がどういう人間なのかを見せてやろうと。
静寂。二人のシルエットに隙間がなくなる。閉じていた瞼を薄っすらと開けば、大きな翡翠色の瞳が見えた。
「……でも、私が女であるからこそ、男に勝ることもあるわ。…こうやってね。」
少し離れ、すう、と優しく頬を撫でる。なまえの目の前、視界一杯に広がる少年の綺麗な顔は、驚きを隠せないようだ。彼女が徐々に距離を取っていく間も、呆然として見上げるだけである。
ゆっくりとドアの前まで来て肩越しに振り返り、なまえは任務中の笑みを機械的に作った。
「私が今してるのが毒の口紅だったら、あなた…今頃どうなってたかしら。」
パタン、と音をさせ、黒づくめの女が出て行く。
取り残された傷だらけの男は、無意識に自分の唇に触れた。一般的には甘いはずのそれは、彼の心にほのかな苦さを残した。彼女の身を削るような生き様を、身をもって体感させられたような気がして胸がざわつく。
元の世界ではプロでも、この世界では違うかもしれない。ましてや自分以外の妖怪と対峙したこともないはずだ。蔵馬は、純粋になまえのことが心配だった。だがそれを上手く伝えられず、結果的に彼女を傷つけてしまった。いったいどうすれば伝えられるのか……。
「オレがこんなことで悩むとは…。」
何事もそつなくこなしてきた彼にとって、思わぬ難題となった。
手の中で止血剤を遊ばせ、もう片方で頭を抱える。ひとまずこれを返すところからスタートだと、蔵馬は天井を仰いだ。
「…やっちゃった。」
なまえはつい先ほどの自分の行動を大いに反省していた。蔵馬は大人びているが、まだ高校生だ。本来なら大人から守られる存在のはず。20代半ばの人間として、明らかに間違ったことをした。
「…謝らないと、いや、謝って済むようなことじゃ……。はぁ……。」
ぶつぶつと小声で呟き、俯きながら百面相をする彼女をホテルの客たちは避けてすれ違う。
しかし角を曲がったところで、必然ともいうべきか誰かにぶつかってしまった。
「っ、すみませ……、」
反射的に顔を上げて謝るも、相手の顔に見覚えのあるなまえは固まった。
「いいや、こっちも悪かったね。それにしても奇遇だねェ、こんなところで会うなんて。」
「……っ。…そうね、戸愚呂さん。」
全身の筋肉が緊張する。あの時と同じように冷や汗が流れた。隣には左京もいる。なんでこんなところに。逃げ出したいのに、彼らの威圧感がそれを許してはくれない。考え事などしていなければ、彼らの不穏な気配に気づけたかもしれない。なまえは数秒前の自分を呪った。
「キミは確か、垂金さんの元・ボディガードじゃないか。浦飯チームの応援ですか?」
左京がゆったりとした笑みで尋ねてくる。もしも彼との初対面があの賭けの場面でなかったら、この表情から彼の異常さを推し量ることはできなかっただろう。
「…いいえ、今回は浦飯チームの縁者の護衛よ。危ない大会だって、聞いたから。」
「ほう、それはいいことですね。あなたがいてくれれば、彼らも安心して戦えるだろう。」
いつの間にか握っていた拳を見て、左京がまたフッと笑う。恐怖を感じていることはバレているようだ。
「しかしやはり、変わった雰囲気をしているね。…生まれた世界が違うからかな?」
「……!!」
――バレてる。どうして。
「知ってて驚きましたか?情報というものはね、必ずどこかから漏れるものなんだよ。」
裏社会に精通している彼は、なまえがこの世界の人間でないことを知っていた。それこそ、垂金と賭けをしていたあの時から。彼女は驚きを隠すように、さらに拳を握りしめる。
「まぁいい。そんなことより、会えてよかった。明後日の準決勝のあと、あなたを我々のゲームに招待しようと思っていたんですよ。」
「…ゲーム?」
「ええ、大会にはエキシビジョンも必要だからね。試合が終わったあとも会場に残ってくれると嬉しい。」
「それ、お断りすることはできるのかしら。」
この雰囲気だと参加は強制的だろうが、念の為に聞いてみる。しかしその返答は、彼女の背筋を凍らせただけだった。
「もちろんそれは自由ですが……。しかしそうすると、キミの護衛対象が一人もいなくなることになりますよ。…では失礼。」
彼らは最後まで主導権を握ったまま、世間話でも終えたかのようにその場を離れていった。
一人取り残されたなまえは、その場を動けずにいた。まるで水を打ったような静けさだ。やはりあの男は異常だ。何の躊躇いもなく脅してきた。彼女は長い間息を止めていたかのように、深呼吸を繰り返した。彼らを前にし、どれだけ自分が緊張していたか分かる。ようやく新鮮な酸素を取り込めたようで、心臓が慌てたように拍動した。
いまだまとわりつく威圧的な気配を振り払うかのように、なまえは女子部屋のドアを開ける。
「あ、おかえりー!」
「なまえさん、おかえりなさい。」
「蔵馬君どうだった?」
そこはにこやかな笑顔であふれており、あんなに重かった背中が軽くなった気がした。彼女たちの顔を見るとほっとする自分に気づく。同時に先ほどの左京の言葉が思い出され、胸に鉛が落ちたようだった。誰にも彼女たちを傷つけさせるわけにはいかない。
「止血剤は渡してきたわ。ひどい傷だったけど、顔色はそこまで悪くなかったみたい。」
なまえが答えると、温子がずかずかと彼女に近寄る。
「で?そのまま帰ってきたってわけ?ダメよ、添い寝ぐらいしてこなきゃ!!」
「もー、温子さんたら。」
赤い顔で詰め寄られるも、酔っ払いのおふざけだとなまえは笑ってごまかす。実際は添い寝どころではないので、バレたら騒がしくなりそうだ。
そのままの流れで、一同は恋愛の話で盛り上がる。螢子と幽助の仲をじれったいと温子が騒いだり、静流のほろ苦いような話を聞いて雪菜が感動したり。酒の力も相まって、時間はどんどんと過ぎていった。ついに霊界案内人のぼたんにも話が振られたが、仕事ばかりでそんな暇はないと半泣きである。
「なまえさんはどうなんだい?」
「え、私?」
やけくそになったぼたんが、逃げるようになまえに話を振った。すると視線はいつの間にか一点に集中する。みな、謎めいた彼女の恋愛事情が気になるらしい。
彼女の頭には一人の男が浮かんでいたが、彼とは永遠の別れをしている。ここで話したら心優しい彼女たちは胸を痛めるだろう。
「……私も特にないわ。訓練と任務ばかりだったから。」
“なまえ、ずっと一緒にいよう――。”
「またまたぁー、なまえちゃんモテるでしょ?」
“俺と遠い国へ行こう。見つからないように――。”
「ふふっ…あいにく、温子さんが期待するような話は持ってないの。」
彼の幻影を振り払うように、にこりと微笑む。だがあの日々は紛れもなく真実で、なまえの大切な思い出だ。いつもと違うその見事な笑顔に、温子は初対面の時よりも穏やかな表情を見せる彼女を嬉しく思う。思わず静流を見ると彼女も温子の視線の意味が分かったらしく、煙草を指先で遊ばせながら微笑んできた。
「さて、私はちょっと鍛錬してくるわ。」
「またお出かけですか?なんだか雨が降りそうですけど…。」
立ち上がるなまえに雪菜が声をかける。蛍子も心配そうに目を向けた。窓の外を見ると確かに、どんよりとグレーの雲が広がっている。その陰鬱な様子に、彼女は先ほどの左京の真っ黒な瞳を思い出した。
「……詳しくは聞いてないけど、戸愚呂チームのオーナーが私と遊びたいんですって。」
「オーナーって、確か……。」
「左京さん、て人よ。顔に大きな傷のある人。」
「でもそいつが、いったいなまえさんに何の用だっていうのさ。」
納得のいっていない様子のぼたんに、困ったように息を吐きながら微笑む。この霊界案内人は、まわりの人間のことを深く考えすぎるところがある。なまえが異次元の人間だとバレていることは、今の彼女には伏せておいた方がいいだろう。余計に心配させてしまう。運よくコエンマに会えれば、彼には伝えておこうと思っていた。
「分からないわ。でも、備えておくに越したことはないでしょう?彼、なかなか思考が独特だから。」
心配そうなぼたんの頭を、なまえは優しく撫でてやった。
――コンコン。
ノックをすれば、中から声が聞こえる。
「開いてますよ。」
遠慮がちに扉を開ければ、蔵馬がちょうど自分で傷の手当てをしているところだった。初めて会った時も、こうやって自分で包帯を巻いていたな、となまえは思い出す。
「…止血剤を持ってきたの。……使う?」
「すみません、わざわざ。」
彼女が部屋へ入ると、窓枠に腰かけていた飛影がトン、と降りる。そのまま脇を通り過ぎそうになったので、慌てて礼を言った。
「待って!…あのときは、ありがとう。」
立ち止まり少しの間黙っていた彼は、目だけをこちらに向けて答えた。
「……勘違いするな。雪菜が気にかけていたからな。オレはたまたま来た幽助に貴様を預けただけだ。」
そしてそのまま、飛影はドアを開けたまま出て行く。その後姿を呆然と見ていると、「悪く思わないでください。」と蔵馬が声をかけた。
「あれでも、彼なりの挨拶なんです。」
「…シャイな子だってことは、分かったわ。」
くすりとすれば、蔵馬も頬を緩ませる。なまえはドアを閉め、彼の前に屈んだ。
「いちおう、うちの国でも即効性のある薬よ。…もしかしたら、あなたの薬草の方が効くかもしれないけど。」
「それ、毒じゃないですよね?」
「どうかしら?試せば分かるわ。」
蔵馬がおどけてみせたので、なまえも調子を合わせる。冗談を言う余裕は出てきたみたいだ。
傷に目をやると、そこから植物が生えてきている…ように見える。彼が手をかざしていたので注意深く見ていると、葉が徐々に枯れていった。妖怪同士の戦いは予想外のことが起きる、と、目の前の光景をどこか現実味のないままに見ていた。
「……ひどいわね。」
全身傷や痣だらけの蔵馬に、そっと触れる。背中側の傷を濡れタオルで拭こうとしていたので、なまえがその役目をかわった。
体の前面に比べると、そこまで傷は多くない。相手と正面からぶつかり合ったからだろう。近くで見ると思ったよりも広い背中に、その中性的な印象は彼女の中で覆った。
「一回戦が終わったとき、なまえさんを見つけてびっくりしましたよ。近くの妖怪を睨んでましたね。…あなたのあんな顔、初めて見ました。」
「だってあいつら、自分たちはリスクを冒さないくせに口だけ達者なんだもの……。」
くく、と楽しそうに笑う蔵馬。やはりあのとき気づかれていたのかと、少し気恥ずかしい。
「ところで、どうしてここへ?また霊界からの指示ですか?」
「また?」
「雪菜ちゃんのときみたいに。……っ、」
蔵馬がなまえから受け取った止血剤を、特に出血のひどかった部位へ自分で塗りこむ。よく効くが、傷に沁みるのが難点だ。
「ああ、それは違うわ。」
彼女の答えに、蔵馬が顔を上げる。
「私が自分で言ったのよ。危ない大会なら護衛するって。」
「護衛って…。彼女たちを?」
「何よ、いけない?」
「いけないというか……。」
腕を組んでじとりと見てくる彼女は、怪訝な表情を見せる。そうじゃない、と蔵馬は心の中で思う。オレが言いたいのは。
「あなたも彼女たちと同じ、女性ですよ。…無理は良くない。」
なまえは、目の前を突然見えない何かで遮断されたような感覚に陥った。
「……そうね。…そうかもしれない。」
それは、なまえがあまり聞きたくない言葉だった。それに彼の中では、彼女たちを守るのは“無理”という認識らしい。そう見られていることに純粋に腹が立ち、悲しくなった。蔵馬が彼女の表情の不穏な変化に気付くも、もう後の祭りだ。
彼女は自分を、他の非力な女たちと一緒にしてほしくなかった。それに、必要以上に男性から女性扱いされるのを嫌う。幼いころから何のために訓練に明け暮れていたのか。スパイという仕事…自分の役目を、誰にも頼らずに果たすためだ。特に、男性には頼りたくなかった。さんざんなまえに騙されてきた、愚かな性別だからだ。
――ムキになることないわ。…用が済めば、私はここを去るのよ。
ここへ来たのは任務を言い渡されたからだ。自分の意思じゃない。いつものようにしていればいいだけ……。感情を強制的にフラットにし、口元を歪めてフッと笑う。蔵馬が口を開きかけるが、何かを言う前に思い切り近づいた。彼に少し、自分がどういう人間なのかを見せてやろうと。
静寂。二人のシルエットに隙間がなくなる。閉じていた瞼を薄っすらと開けば、大きな翡翠色の瞳が見えた。
「……でも、私が女であるからこそ、男に勝ることもあるわ。…こうやってね。」
少し離れ、すう、と優しく頬を撫でる。なまえの目の前、視界一杯に広がる少年の綺麗な顔は、驚きを隠せないようだ。彼女が徐々に距離を取っていく間も、呆然として見上げるだけである。
ゆっくりとドアの前まで来て肩越しに振り返り、なまえは任務中の笑みを機械的に作った。
「私が今してるのが毒の口紅だったら、あなた…今頃どうなってたかしら。」
パタン、と音をさせ、黒づくめの女が出て行く。
取り残された傷だらけの男は、無意識に自分の唇に触れた。一般的には甘いはずのそれは、彼の心にほのかな苦さを残した。彼女の身を削るような生き様を、身をもって体感させられたような気がして胸がざわつく。
元の世界ではプロでも、この世界では違うかもしれない。ましてや自分以外の妖怪と対峙したこともないはずだ。蔵馬は、純粋になまえのことが心配だった。だがそれを上手く伝えられず、結果的に彼女を傷つけてしまった。いったいどうすれば伝えられるのか……。
「オレがこんなことで悩むとは…。」
何事もそつなくこなしてきた彼にとって、思わぬ難題となった。
手の中で止血剤を遊ばせ、もう片方で頭を抱える。ひとまずこれを返すところからスタートだと、蔵馬は天井を仰いだ。
「…やっちゃった。」
なまえはつい先ほどの自分の行動を大いに反省していた。蔵馬は大人びているが、まだ高校生だ。本来なら大人から守られる存在のはず。20代半ばの人間として、明らかに間違ったことをした。
「…謝らないと、いや、謝って済むようなことじゃ……。はぁ……。」
ぶつぶつと小声で呟き、俯きながら百面相をする彼女をホテルの客たちは避けてすれ違う。
しかし角を曲がったところで、必然ともいうべきか誰かにぶつかってしまった。
「っ、すみませ……、」
反射的に顔を上げて謝るも、相手の顔に見覚えのあるなまえは固まった。
「いいや、こっちも悪かったね。それにしても奇遇だねェ、こんなところで会うなんて。」
「……っ。…そうね、戸愚呂さん。」
全身の筋肉が緊張する。あの時と同じように冷や汗が流れた。隣には左京もいる。なんでこんなところに。逃げ出したいのに、彼らの威圧感がそれを許してはくれない。考え事などしていなければ、彼らの不穏な気配に気づけたかもしれない。なまえは数秒前の自分を呪った。
「キミは確か、垂金さんの元・ボディガードじゃないか。浦飯チームの応援ですか?」
左京がゆったりとした笑みで尋ねてくる。もしも彼との初対面があの賭けの場面でなかったら、この表情から彼の異常さを推し量ることはできなかっただろう。
「…いいえ、今回は浦飯チームの縁者の護衛よ。危ない大会だって、聞いたから。」
「ほう、それはいいことですね。あなたがいてくれれば、彼らも安心して戦えるだろう。」
いつの間にか握っていた拳を見て、左京がまたフッと笑う。恐怖を感じていることはバレているようだ。
「しかしやはり、変わった雰囲気をしているね。…生まれた世界が違うからかな?」
「……!!」
――バレてる。どうして。
「知ってて驚きましたか?情報というものはね、必ずどこかから漏れるものなんだよ。」
裏社会に精通している彼は、なまえがこの世界の人間でないことを知っていた。それこそ、垂金と賭けをしていたあの時から。彼女は驚きを隠すように、さらに拳を握りしめる。
「まぁいい。そんなことより、会えてよかった。明後日の準決勝のあと、あなたを我々のゲームに招待しようと思っていたんですよ。」
「…ゲーム?」
「ええ、大会にはエキシビジョンも必要だからね。試合が終わったあとも会場に残ってくれると嬉しい。」
「それ、お断りすることはできるのかしら。」
この雰囲気だと参加は強制的だろうが、念の為に聞いてみる。しかしその返答は、彼女の背筋を凍らせただけだった。
「もちろんそれは自由ですが……。しかしそうすると、キミの護衛対象が一人もいなくなることになりますよ。…では失礼。」
彼らは最後まで主導権を握ったまま、世間話でも終えたかのようにその場を離れていった。
一人取り残されたなまえは、その場を動けずにいた。まるで水を打ったような静けさだ。やはりあの男は異常だ。何の躊躇いもなく脅してきた。彼女は長い間息を止めていたかのように、深呼吸を繰り返した。彼らを前にし、どれだけ自分が緊張していたか分かる。ようやく新鮮な酸素を取り込めたようで、心臓が慌てたように拍動した。
いまだまとわりつく威圧的な気配を振り払うかのように、なまえは女子部屋のドアを開ける。
「あ、おかえりー!」
「なまえさん、おかえりなさい。」
「蔵馬君どうだった?」
そこはにこやかな笑顔であふれており、あんなに重かった背中が軽くなった気がした。彼女たちの顔を見るとほっとする自分に気づく。同時に先ほどの左京の言葉が思い出され、胸に鉛が落ちたようだった。誰にも彼女たちを傷つけさせるわけにはいかない。
「止血剤は渡してきたわ。ひどい傷だったけど、顔色はそこまで悪くなかったみたい。」
なまえが答えると、温子がずかずかと彼女に近寄る。
「で?そのまま帰ってきたってわけ?ダメよ、添い寝ぐらいしてこなきゃ!!」
「もー、温子さんたら。」
赤い顔で詰め寄られるも、酔っ払いのおふざけだとなまえは笑ってごまかす。実際は添い寝どころではないので、バレたら騒がしくなりそうだ。
そのままの流れで、一同は恋愛の話で盛り上がる。螢子と幽助の仲をじれったいと温子が騒いだり、静流のほろ苦いような話を聞いて雪菜が感動したり。酒の力も相まって、時間はどんどんと過ぎていった。ついに霊界案内人のぼたんにも話が振られたが、仕事ばかりでそんな暇はないと半泣きである。
「なまえさんはどうなんだい?」
「え、私?」
やけくそになったぼたんが、逃げるようになまえに話を振った。すると視線はいつの間にか一点に集中する。みな、謎めいた彼女の恋愛事情が気になるらしい。
彼女の頭には一人の男が浮かんでいたが、彼とは永遠の別れをしている。ここで話したら心優しい彼女たちは胸を痛めるだろう。
「……私も特にないわ。訓練と任務ばかりだったから。」
“なまえ、ずっと一緒にいよう――。”
「またまたぁー、なまえちゃんモテるでしょ?」
“俺と遠い国へ行こう。見つからないように――。”
「ふふっ…あいにく、温子さんが期待するような話は持ってないの。」
彼の幻影を振り払うように、にこりと微笑む。だがあの日々は紛れもなく真実で、なまえの大切な思い出だ。いつもと違うその見事な笑顔に、温子は初対面の時よりも穏やかな表情を見せる彼女を嬉しく思う。思わず静流を見ると彼女も温子の視線の意味が分かったらしく、煙草を指先で遊ばせながら微笑んできた。
「さて、私はちょっと鍛錬してくるわ。」
「またお出かけですか?なんだか雨が降りそうですけど…。」
立ち上がるなまえに雪菜が声をかける。蛍子も心配そうに目を向けた。窓の外を見ると確かに、どんよりとグレーの雲が広がっている。その陰鬱な様子に、彼女は先ほどの左京の真っ黒な瞳を思い出した。
「……詳しくは聞いてないけど、戸愚呂チームのオーナーが私と遊びたいんですって。」
「オーナーって、確か……。」
「左京さん、て人よ。顔に大きな傷のある人。」
「でもそいつが、いったいなまえさんに何の用だっていうのさ。」
納得のいっていない様子のぼたんに、困ったように息を吐きながら微笑む。この霊界案内人は、まわりの人間のことを深く考えすぎるところがある。なまえが異次元の人間だとバレていることは、今の彼女には伏せておいた方がいいだろう。余計に心配させてしまう。運よくコエンマに会えれば、彼には伝えておこうと思っていた。
「分からないわ。でも、備えておくに越したことはないでしょう?彼、なかなか思考が独特だから。」
心配そうなぼたんの頭を、なまえは優しく撫でてやった。