色づけば恋<番外編>
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【雨音を聞きながら】
薄暗い空、湿った土の匂い、耳に届く途切れることのない水音。
「雨だというのにあまり寒さを感じませんわ。もう春なのね」
「そうだな」
大きな藤の木のある屋敷の、庭に面した縁側のさらに奥。家具らしい家具もない簡素な和室で、お互いに体を預けあう男女がいた。
「チッ、こんな雨じゃどこにも行けん」
黒装束の小柄な男――飛影が不服そうに呟く。恋人である藤の精を遠出に誘うのは、彼にとってよほど意味のあることらしい。
「飛影ったら…。あなたが会いに来てくださるだけでじゅうぶんだと、いつも言っているのに」
NAMEは、そんな彼の様子を愛しく思いくすりと笑む。表情豊かとは言えない男だが、そんな彼の心が手に取るように分かる関係に、胸のあたりがじんわりと温かくなる。
しとしとと降る雨を眺めながら、二人はそれっきり口を噤む。話題がないのではない。互いの体温や呼吸、纏う空気を静かに感じているのだ。
NAMEは、少し体をずらして恋人の肩に頭をもたげてみた。彼は何も言わず、彼女の艶やかな黒紫色の髪を指で梳く。
「重くないかしら?」
「馬鹿を言え」
乙女の可愛らしい懸念を、飛影はフン、と軽く鼻であしらう。ぶっきらぼうな言い草だが、彼女を見つめる緋色の瞳には優しさしか映っていない。
「そういえば」
ふと彼が何かを思い出したように、そのまま言葉にする。だがまたすぐに何かを思い「いや…。」と視線を外した。途中で発言を撤回するなど彼らしくもない。不思議に思いじっとNAMEが見つめていると、その目をちらりと見返した飛影が小さく息を吐く。下手に誤魔化しても余計に彼女の興味をそそるだけだ。視線に耐えきれなくなったらしく、畳の目を意味もなくつつきながらぽつりと言った。
「……俺を初めて見たとき、どう思った」
「どうって……」
NAMEは返答に困った。何故なら、思っていた通りの姿だったからだ。特段に驚きもない。見てすぐに飛影だと直感できるほどだった。氷の様に鋭いようで、炎のような優しい熱を持つ彼。どう答えようかと考えていると、緋色の瞳がじっと彼女を見据えた。その瞳に見つめられるだけで、息が止まりそうになる。彼女は、初めて彼の瞳を間近で覗き込んだときを思い返していた。藤の花のヴェールの中、口付けを交わそうとして鳥の羽ばたきに邪魔をされた、あの時のことを。
いつまで経っても返事が返ってこないのを見て、飛影は諦めたように上を向く。そこには木目の天井があった。人の顔に見える箇所が自分を笑っているように見え、無機物とは分かっているが少しむっとした。
「飛影は飛影だと…そう感じましたわ。どんな姿形であれ関係ありません。わたしを大切に思ってくださるのが分かりますもの」
隣の男が天井と睨めっこしているとは露知らず、NAMEは自分の想いを整理して話し始めた。飛影は、長い沈黙を破った彼女に意識を戻す。
「わたしは、あなたのすべてに恋をしたのよ」
「すべて?」
「ええ。あなたを全部好きになったの」
怪訝そうに眉根を寄せているだろう恋人を確認するために、少し顔を上げてみる。そこには今まさに脳内で思い浮かべていた飛影がいて、彼女はくすりと笑みを浮かべた。
「わたしをいつも気遣ってくださるでしょう?目が見えずとも、その視線は感じ取れましたわ」
「……」
口ごもる飛影の手を取り、そのまま続ける。
「ほら、この掌も温かい。何度この手に肩を支えていただいたか分からないわ。それに、あなたの声。紡ぐ言葉こそ鋭いけれど、優しさをはらんでいて……」
「おい、ちょっと待て。さっきからそれは誰のことだ」
「あら心外ですわ。わたしがあなた以外に心を奪われると思って?」
「……」
またも黙ってしまった飛影に、NAMEも先ほどと同じようにくすりと笑う。その様がやはり美しく、彼は目を逸らした。
“この清らかな花の精の隣にいるのが自分でいいのか”。飛影は、彼女と恋仲になってからも幾度となく自問自答してきた。しかしその度に、途中で考えを放棄してしまう。愛を知らずに生きてきた彼が、自分の内にあるそれが愛なのだと知ってしまったからだ。自分に欠けていたものがNAMEなのだと気づいたあの感覚が、紛れもなくそうなのだろうと。そしてそれは、彼女を愛していなかった自分には戻れないということに等しい。
飛影はNAMEを見る。穢れを知らない綺麗な瞳が彼を見返す。彼女の真っ白な心をそのまま映したような瞳に、飛影は唐突に恐ろしくなった。恐れるものなど何もなかった彼が感じた、腹の底が冷えるような恐怖。途端に、雨音が強まった気がした。とめどなく地面に打ち付ける水音が、彼の思考を閉じ込める。自分のしたことは大変に愚かなことだったのではないか?いくつもの命を奪ってきた手で、果たして触れていい存在だったのだろうか?守りたいと思っていた彼女を、自ら壊してているのではないか――。飛影の瞳が微かに揺れる。頬にNAMEの指先が触れ、思わず肩をびくりと震わせた。
「何を考えてらっしゃるの?」
そのまま覗き込むように近づき、至近距離で顔を突き合わせる。ぼやけた焦点をどうにかしようと思っていると、彼女の唇が柔らかく押し付けられ、そっと離れていった。去っていくその薄紅色の温もりを名残惜しく見送るが、何度か意識的に瞬きをし自分に喝を入れる。飛影はずっと胸に潜んでいたわだかまりを吐露することにした。まさかあの質問からこんな話に発展すると思わなかったが、これもいい機会だと思った。
「勘違いをしているようだから、この際言っておく。……俺がどんなヤツなのかをな」
飛影は、悩み事とは無縁の人生を送ってきた。もし何か思うことがあっても、悩む前に結論を出す。きっぱりと自分の生き方を決め、果てには死に方すらも決めるような男だ。しかしそこにNAMEが絡むと、そうはいかなくなる。
外からは相変わらず、薄い膜の上を砂粒が転がるような軽やかな音がしている。世界に二人だけだと錯覚するほどで、その静けさが彼の背中を押した。
「俺は目的を達するためなら手段を選ばない。邪魔になるヤツらはみんな殺してきた。迷いなどなかったし、いくらでも残酷になれた。……今でもな」
「飛影……」
NAMEの顔は見ることができず、目線は畳に固定されたままだ。吐き出した黒い感情は見えずともそこにある気がして、いつまでも消えないことに気まずさを感じていた。その気の焦りが、きっと言わない方がいいだろうことを彼に言わせる。
「……お前が慕う男は本当に俺か?お前の作り出した都合のいい幻想なんじゃないか」
雨音が途切れた錯覚を覚えるほど、それを言った本人が動揺した。NAMEの想いを痛いほど分かっているはずなのに、無礼なことを言った自覚はあった。分かった上で彼女の愛を試すような真似をし、なんて姑息なんだと自嘲する。さぞ失望と非難に満ちた目でこちらを見ているだろうと顔を上げれば、NAMEはいつもと変わらず微笑んでいた。愛と思いやりを瞳に宿し、真っ白に、美しく。
「飛影ったら、先ほどのわたしの話を聞いてらしたの?」
しかし、わずかに唇をすぼめて咎めるように言うところを見るに、多少なりとも思うところはあるようだ。
「あなたがしてくださった過去のお話も全部含めて、わたしは好きになったのよ。魔界で生まれたあなたにとって、命のやり取りは当たり前の事でしょう?飛影には飛影の生き方があると理解したつもりでしたのよ。……ああもう、どうすれば伝わるかしら。いい?すべてってことは、全部なのよ」
彼女にしては勢いのある物言いに、飛影は後ずさりする思いだ。現に体重は少し後ろにかかっており、突っ張っている腕が限界を迎えそうである。“ちゃんと聞いてらっしゃるの?”と藤色の瞳が問うてくるので、そのままの体勢でぎこちなく頷いた。
「それに、飛影の温かさは手に取るように分かるのよ。もちろん、目が見えなかった時の方がより鮮明だったけれど……。今もちゃんと伝わってくるのよ、見くびられては困りますわ」
彼女は困ったように眉尻を下げながら、再び飛影の頬に触れた。
「わたしがどれほど飛影を想っているか、ちゃんとお分かりでしょう?あなた以外で心に踏み入る者は誰一人としておりませんし、それをわたしが許すはずもありません。それなのにあなたったらあんなこと……少し意地悪がすぎますわ」
ついにはすっかり口を尖らせてしまったNAMEを見て、柄にもなく焦った飛影は抱きしめようと腕を上げる。雨音に心をかき乱され、つい口から出てしまっただけだと。ただ、二人分の体重がかかっていることを忘れていた。どさりと音を立て、そのまま畳の上に倒れ込んでしまう。
「ひゃっ」
飛影の上に寝そべるような形になり、NAMEは慌てて起き上がろうとする。飛影が小さく謝罪したのが聞こえたが、至近距離にある緋色の瞳を見て、先ほどの彼の“意地悪”な発言に仕返しをしようと思った。
「あぁ、そうでしたわ。一つだけ、この目に映して後悔したものがありましたの」
「……後悔、か」
「ええ、後悔」
「……」
飛影が探るような視線を向けてくる。ふふ、と小さくこぼし、あまり焦らさず正解を教えることにした。
「あなたの瞳よ」
「、な……」
普段は鋭い目が丸くなるほど大きく見開いた彼を見るに、NAMEの“仕返し”は成功を収めたらしい。満足した彼女は、これ以上誤解が膨らまないように早々に補足説明をする。飛影の肩に手を置き上体を少し起こすと、自身の長い髪で彼とまわりの世界が遮られた。二つの緋色がより深く濃くなる。
「といっても、悪い意味ではありませんわ。……あなたのその、燃えるような瞳がとても魅力的で。見つめられるといつも心臓がもたないの」
はにかみながら笑いかけると、強張っていた飛影の表情が徐々に緩み始める。
「……なんだそれは」
「ふふ、知らなかったでしょう?」
「当然だろう。そんなこと、考えたこともない」
身構えて損したと言わんばかりに、飛影が大きく息を吐く。何故か一気に疲れた気がして、目の前でいたずらっぽく微笑む恋人を抱きしめた。
「あ…」
そろそろ上から退こうとしていたNAMEは、また胸板の上に逆戻りしたことに慌てる。なんとか顔を上げるとあの目が待ち構えていたかのように彼女を見ていて、鋭く射貫くような視線に何も言えなくなった。
飛影に邪眼があることは知っていた。はるか遠くのものを視たり、他者を操ることもできるという魔の眼。しかし彼女にとって、邪眼があろうとなかろうと関係なかった。その力を行使せずともいつだって彼に心を奪われ、目を逸らすことすらかなわなくなるからだ。今もNAMEが動けずにいることをいいことに、飛影の唇が彼女の喉元で遊んでいる。くすぐったくて身をよじるが、それすらも愛おしいと言わんばかりに飛影が小さく笑う。彼を苛んでいた懸念は雨と一緒に流されたらしい。それはそれでNAMEにとっても喜ばしいことだが、このまま彼に身を任せるわけにはいかなかった。
「ねぇ飛影……」
「なんだ」
恋人の抗議にも聞こえる声に飛影が顔を上げれば、彼女の視線は外の庭に注がれている。部屋から縁側に繋がる障子が開いているのが気になるのだろう。庭に塀があるとはいえ、いつもの場所より開放的なのは確かだ。
「俺はこのままでも構わんぞ」
「もう、困った人ね」
にやりと笑う飛影を嗜めるように、縁側のほうへNAMEが手をかざす。すると、板張りの床からするすると藤の枝が上がってきた。それはあっという間に広がり、簡易的な幕となる。薄紫色の花たちが外の世界を追い出し、そこは二人だけの空間となった。
「……見事だな」
「恐縮ですわ」
さらに薄暗くなった室内に、変わらず雨音は響く。飛影は、心の内を話したのが今日でよかったと、NAMEを見上げながら漠然と思った。きらりと輝く藤色の瞳が美しい。彼女は飛影の瞳が魅力的だと言ったが、彼にとっても同じことだった。慈愛に満ちた瞳は、彼の心に安らぎをもたらしてくれる。途端に燃え上がる胸の炎をどうにかしたくて、飛影はNAMEの髪に手を差し入れ引き寄せる。動いた拍子に藤の花の香りが濃くなった気がした。それは縁側に垂れている藤の花から香ってくるものなのか、それとも……。
飛影は、悩み事とは無縁の人生を送ってきた。もし何か思うことがあっても、悩む前に結論を出す。ましてや答えが目の前にあるならなおさらだ。
確かめるべく、彼は目の前で弧を描く薄紅色の唇に口づけをした。
薄暗い空、湿った土の匂い、耳に届く途切れることのない水音。
「雨だというのにあまり寒さを感じませんわ。もう春なのね」
「そうだな」
大きな藤の木のある屋敷の、庭に面した縁側のさらに奥。家具らしい家具もない簡素な和室で、お互いに体を預けあう男女がいた。
「チッ、こんな雨じゃどこにも行けん」
黒装束の小柄な男――飛影が不服そうに呟く。恋人である藤の精を遠出に誘うのは、彼にとってよほど意味のあることらしい。
「飛影ったら…。あなたが会いに来てくださるだけでじゅうぶんだと、いつも言っているのに」
NAMEは、そんな彼の様子を愛しく思いくすりと笑む。表情豊かとは言えない男だが、そんな彼の心が手に取るように分かる関係に、胸のあたりがじんわりと温かくなる。
しとしとと降る雨を眺めながら、二人はそれっきり口を噤む。話題がないのではない。互いの体温や呼吸、纏う空気を静かに感じているのだ。
NAMEは、少し体をずらして恋人の肩に頭をもたげてみた。彼は何も言わず、彼女の艶やかな黒紫色の髪を指で梳く。
「重くないかしら?」
「馬鹿を言え」
乙女の可愛らしい懸念を、飛影はフン、と軽く鼻であしらう。ぶっきらぼうな言い草だが、彼女を見つめる緋色の瞳には優しさしか映っていない。
「そういえば」
ふと彼が何かを思い出したように、そのまま言葉にする。だがまたすぐに何かを思い「いや…。」と視線を外した。途中で発言を撤回するなど彼らしくもない。不思議に思いじっとNAMEが見つめていると、その目をちらりと見返した飛影が小さく息を吐く。下手に誤魔化しても余計に彼女の興味をそそるだけだ。視線に耐えきれなくなったらしく、畳の目を意味もなくつつきながらぽつりと言った。
「……俺を初めて見たとき、どう思った」
「どうって……」
NAMEは返答に困った。何故なら、思っていた通りの姿だったからだ。特段に驚きもない。見てすぐに飛影だと直感できるほどだった。氷の様に鋭いようで、炎のような優しい熱を持つ彼。どう答えようかと考えていると、緋色の瞳がじっと彼女を見据えた。その瞳に見つめられるだけで、息が止まりそうになる。彼女は、初めて彼の瞳を間近で覗き込んだときを思い返していた。藤の花のヴェールの中、口付けを交わそうとして鳥の羽ばたきに邪魔をされた、あの時のことを。
いつまで経っても返事が返ってこないのを見て、飛影は諦めたように上を向く。そこには木目の天井があった。人の顔に見える箇所が自分を笑っているように見え、無機物とは分かっているが少しむっとした。
「飛影は飛影だと…そう感じましたわ。どんな姿形であれ関係ありません。わたしを大切に思ってくださるのが分かりますもの」
隣の男が天井と睨めっこしているとは露知らず、NAMEは自分の想いを整理して話し始めた。飛影は、長い沈黙を破った彼女に意識を戻す。
「わたしは、あなたのすべてに恋をしたのよ」
「すべて?」
「ええ。あなたを全部好きになったの」
怪訝そうに眉根を寄せているだろう恋人を確認するために、少し顔を上げてみる。そこには今まさに脳内で思い浮かべていた飛影がいて、彼女はくすりと笑みを浮かべた。
「わたしをいつも気遣ってくださるでしょう?目が見えずとも、その視線は感じ取れましたわ」
「……」
口ごもる飛影の手を取り、そのまま続ける。
「ほら、この掌も温かい。何度この手に肩を支えていただいたか分からないわ。それに、あなたの声。紡ぐ言葉こそ鋭いけれど、優しさをはらんでいて……」
「おい、ちょっと待て。さっきからそれは誰のことだ」
「あら心外ですわ。わたしがあなた以外に心を奪われると思って?」
「……」
またも黙ってしまった飛影に、NAMEも先ほどと同じようにくすりと笑う。その様がやはり美しく、彼は目を逸らした。
“この清らかな花の精の隣にいるのが自分でいいのか”。飛影は、彼女と恋仲になってからも幾度となく自問自答してきた。しかしその度に、途中で考えを放棄してしまう。愛を知らずに生きてきた彼が、自分の内にあるそれが愛なのだと知ってしまったからだ。自分に欠けていたものがNAMEなのだと気づいたあの感覚が、紛れもなくそうなのだろうと。そしてそれは、彼女を愛していなかった自分には戻れないということに等しい。
飛影はNAMEを見る。穢れを知らない綺麗な瞳が彼を見返す。彼女の真っ白な心をそのまま映したような瞳に、飛影は唐突に恐ろしくなった。恐れるものなど何もなかった彼が感じた、腹の底が冷えるような恐怖。途端に、雨音が強まった気がした。とめどなく地面に打ち付ける水音が、彼の思考を閉じ込める。自分のしたことは大変に愚かなことだったのではないか?いくつもの命を奪ってきた手で、果たして触れていい存在だったのだろうか?守りたいと思っていた彼女を、自ら壊してているのではないか――。飛影の瞳が微かに揺れる。頬にNAMEの指先が触れ、思わず肩をびくりと震わせた。
「何を考えてらっしゃるの?」
そのまま覗き込むように近づき、至近距離で顔を突き合わせる。ぼやけた焦点をどうにかしようと思っていると、彼女の唇が柔らかく押し付けられ、そっと離れていった。去っていくその薄紅色の温もりを名残惜しく見送るが、何度か意識的に瞬きをし自分に喝を入れる。飛影はずっと胸に潜んでいたわだかまりを吐露することにした。まさかあの質問からこんな話に発展すると思わなかったが、これもいい機会だと思った。
「勘違いをしているようだから、この際言っておく。……俺がどんなヤツなのかをな」
飛影は、悩み事とは無縁の人生を送ってきた。もし何か思うことがあっても、悩む前に結論を出す。きっぱりと自分の生き方を決め、果てには死に方すらも決めるような男だ。しかしそこにNAMEが絡むと、そうはいかなくなる。
外からは相変わらず、薄い膜の上を砂粒が転がるような軽やかな音がしている。世界に二人だけだと錯覚するほどで、その静けさが彼の背中を押した。
「俺は目的を達するためなら手段を選ばない。邪魔になるヤツらはみんな殺してきた。迷いなどなかったし、いくらでも残酷になれた。……今でもな」
「飛影……」
NAMEの顔は見ることができず、目線は畳に固定されたままだ。吐き出した黒い感情は見えずともそこにある気がして、いつまでも消えないことに気まずさを感じていた。その気の焦りが、きっと言わない方がいいだろうことを彼に言わせる。
「……お前が慕う男は本当に俺か?お前の作り出した都合のいい幻想なんじゃないか」
雨音が途切れた錯覚を覚えるほど、それを言った本人が動揺した。NAMEの想いを痛いほど分かっているはずなのに、無礼なことを言った自覚はあった。分かった上で彼女の愛を試すような真似をし、なんて姑息なんだと自嘲する。さぞ失望と非難に満ちた目でこちらを見ているだろうと顔を上げれば、NAMEはいつもと変わらず微笑んでいた。愛と思いやりを瞳に宿し、真っ白に、美しく。
「飛影ったら、先ほどのわたしの話を聞いてらしたの?」
しかし、わずかに唇をすぼめて咎めるように言うところを見るに、多少なりとも思うところはあるようだ。
「あなたがしてくださった過去のお話も全部含めて、わたしは好きになったのよ。魔界で生まれたあなたにとって、命のやり取りは当たり前の事でしょう?飛影には飛影の生き方があると理解したつもりでしたのよ。……ああもう、どうすれば伝わるかしら。いい?すべてってことは、全部なのよ」
彼女にしては勢いのある物言いに、飛影は後ずさりする思いだ。現に体重は少し後ろにかかっており、突っ張っている腕が限界を迎えそうである。“ちゃんと聞いてらっしゃるの?”と藤色の瞳が問うてくるので、そのままの体勢でぎこちなく頷いた。
「それに、飛影の温かさは手に取るように分かるのよ。もちろん、目が見えなかった時の方がより鮮明だったけれど……。今もちゃんと伝わってくるのよ、見くびられては困りますわ」
彼女は困ったように眉尻を下げながら、再び飛影の頬に触れた。
「わたしがどれほど飛影を想っているか、ちゃんとお分かりでしょう?あなた以外で心に踏み入る者は誰一人としておりませんし、それをわたしが許すはずもありません。それなのにあなたったらあんなこと……少し意地悪がすぎますわ」
ついにはすっかり口を尖らせてしまったNAMEを見て、柄にもなく焦った飛影は抱きしめようと腕を上げる。雨音に心をかき乱され、つい口から出てしまっただけだと。ただ、二人分の体重がかかっていることを忘れていた。どさりと音を立て、そのまま畳の上に倒れ込んでしまう。
「ひゃっ」
飛影の上に寝そべるような形になり、NAMEは慌てて起き上がろうとする。飛影が小さく謝罪したのが聞こえたが、至近距離にある緋色の瞳を見て、先ほどの彼の“意地悪”な発言に仕返しをしようと思った。
「あぁ、そうでしたわ。一つだけ、この目に映して後悔したものがありましたの」
「……後悔、か」
「ええ、後悔」
「……」
飛影が探るような視線を向けてくる。ふふ、と小さくこぼし、あまり焦らさず正解を教えることにした。
「あなたの瞳よ」
「、な……」
普段は鋭い目が丸くなるほど大きく見開いた彼を見るに、NAMEの“仕返し”は成功を収めたらしい。満足した彼女は、これ以上誤解が膨らまないように早々に補足説明をする。飛影の肩に手を置き上体を少し起こすと、自身の長い髪で彼とまわりの世界が遮られた。二つの緋色がより深く濃くなる。
「といっても、悪い意味ではありませんわ。……あなたのその、燃えるような瞳がとても魅力的で。見つめられるといつも心臓がもたないの」
はにかみながら笑いかけると、強張っていた飛影の表情が徐々に緩み始める。
「……なんだそれは」
「ふふ、知らなかったでしょう?」
「当然だろう。そんなこと、考えたこともない」
身構えて損したと言わんばかりに、飛影が大きく息を吐く。何故か一気に疲れた気がして、目の前でいたずらっぽく微笑む恋人を抱きしめた。
「あ…」
そろそろ上から退こうとしていたNAMEは、また胸板の上に逆戻りしたことに慌てる。なんとか顔を上げるとあの目が待ち構えていたかのように彼女を見ていて、鋭く射貫くような視線に何も言えなくなった。
飛影に邪眼があることは知っていた。はるか遠くのものを視たり、他者を操ることもできるという魔の眼。しかし彼女にとって、邪眼があろうとなかろうと関係なかった。その力を行使せずともいつだって彼に心を奪われ、目を逸らすことすらかなわなくなるからだ。今もNAMEが動けずにいることをいいことに、飛影の唇が彼女の喉元で遊んでいる。くすぐったくて身をよじるが、それすらも愛おしいと言わんばかりに飛影が小さく笑う。彼を苛んでいた懸念は雨と一緒に流されたらしい。それはそれでNAMEにとっても喜ばしいことだが、このまま彼に身を任せるわけにはいかなかった。
「ねぇ飛影……」
「なんだ」
恋人の抗議にも聞こえる声に飛影が顔を上げれば、彼女の視線は外の庭に注がれている。部屋から縁側に繋がる障子が開いているのが気になるのだろう。庭に塀があるとはいえ、いつもの場所より開放的なのは確かだ。
「俺はこのままでも構わんぞ」
「もう、困った人ね」
にやりと笑う飛影を嗜めるように、縁側のほうへNAMEが手をかざす。すると、板張りの床からするすると藤の枝が上がってきた。それはあっという間に広がり、簡易的な幕となる。薄紫色の花たちが外の世界を追い出し、そこは二人だけの空間となった。
「……見事だな」
「恐縮ですわ」
さらに薄暗くなった室内に、変わらず雨音は響く。飛影は、心の内を話したのが今日でよかったと、NAMEを見上げながら漠然と思った。きらりと輝く藤色の瞳が美しい。彼女は飛影の瞳が魅力的だと言ったが、彼にとっても同じことだった。慈愛に満ちた瞳は、彼の心に安らぎをもたらしてくれる。途端に燃え上がる胸の炎をどうにかしたくて、飛影はNAMEの髪に手を差し入れ引き寄せる。動いた拍子に藤の花の香りが濃くなった気がした。それは縁側に垂れている藤の花から香ってくるものなのか、それとも……。
飛影は、悩み事とは無縁の人生を送ってきた。もし何か思うことがあっても、悩む前に結論を出す。ましてや答えが目の前にあるならなおさらだ。
確かめるべく、彼は目の前で弧を描く薄紅色の唇に口づけをした。
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