第一章
アイスランド戦前日練習は国立競技場で行う。
朝食後、監督、コーチ、選手たちは専用バスで移動する。
千葉での生活も終わりがやってきた。
真琴もケアステーションの片付けをしていると、背後から声がした。
「なんかちょっと寂しいですね。」
振り返ると湊が立っていた。
「あ、織田選手。」
真琴は手を止めふっと笑った。
風に乗ってあの香りが湊の鼻に届く。
湊は部屋を見渡す。
ソファ。
観葉植物。
ドリンクサーバー。
その隣には小さいプロテインバーも置いてある。
選手たちが少しでもリラックスできるようにと、真琴なりに工夫して作った空間だった。
「最初はみんなが気軽に入れるカフェみたいな場所にしたかったんです。」
「なってたじゃないですか。」
湊が言う。
真琴は苦笑した。
「でも結局、私の残業部屋っていう認識になっちゃいました。」
確かにそうだった。
遅い時間に通りかかると、いつも真琴がパソコンに向かっている。
そんな光景を何人もの選手が見ている。
「いや。」
湊が首を振る。
「俺は結構好きでした。」
真琴が顔を上げる。
「え?」
少し照れたように視線を逸らしながら湊が言う。
「なんか落ち着くし。」
少し間を置いて、
「もっと来たかったです。」
真琴は驚いたあと、柔らかく笑った。
「じゃあナッシュビルでも来てください。」
「え?」
「ナッシュビルでは、ケアステーションがあるのでこういう部屋また作りますから。」
真琴は段ボールを閉じながら続ける。
「気軽にみんなが集まれる場所にしたいですね。」
「良いね。」
湊の表情が少し明るくなる。
「俺、こういう場所があると助かります。」
「本当ですか?」
「はい。」
湊は部屋をもう一度見渡した。
ここに来れば、真琴がいる。
練習で疲れた時も、食事の後に少し話したい時も、何となく顔を出せば真琴が笑って迎えてくれた。
たった数日。
それなのに、思っていた以上にこの場所が好きになっていた。
その時だった。
「それなら。」
後ろから別の声。
振り返ると直樹が立っていた。
「ソファもっと大きくしてください。」
真琴が思わず笑う。
「え?これ小さいですか?」
真琴はソファに座った。
大人が座るには十分ゆったりしているように感じる。
その隣に直樹が座り、さらに湊も座る。
「小さいね。」
「二人が大き過ぎますよ。」
真琴は笑って、直樹と湊の顔を交互に見る。
湊は返事をしようとして、やめた。
こうして三人で座っているだけなのに、なぜか心地よかった。
ここで過ごす時間も、今日で終わる。
そう思うと、ほんの少しだけ名残惜しい。
甘く爽やかな香りがふわりと届く。
湊は思わず視線を逸らした。
直樹も何も言わない。
なぜか二人とも立ち上がろうとしない。
「おーい、そこの二人、置いてくぞ?」
はっと我に返る二人。
声を掛けてきたのは深澤だった。
直樹と湊は重い腰を上げて荷物を持った。
「真琴さんは?俺らと一緒?」
深澤がキャプテンらしく声をかける。
「私は片付けが終わり次第向かいます。」
「国立に来るよね?」
「はい、行きます。」
「オッケー!!じゃ、向こうで!!」
深澤はエントラスへ歩き出した。
その後に直樹が続く。
最後に部屋を出る直前、湊が振り返った。
誰もいなくなったケアステーション。
その中央で段ボールをまとめている真琴。
なぜだろう。
少しだけ寂しかった。
たった数日しかいなかったはずなのに。
外ではワッとファンの歓声が上がる。
その声に真琴が顔をあげる。
湊がまだ見ていた。
「先に行きます。」
「はい、あとで。」
名残惜しそうに湊が部屋を出ていった。
その直後だった。
外から、先ほどよりも一段と大きな歓声が上がった。
湊がエントランスに姿を現したのだろう。
真琴はその歓声を聞きながら、ふっと笑った。
そして、手を止めると外に出るガラス戸に手を掛けた。
全員がバスに乗り終えるとゆっくりと動き出した。
湊は何気なく窓の外へ視線を向けた。
その時だった。
「あ。」
ケアステーションのベランダ。
そこから真琴が手を振っていた。
どうやら片付けを中断して見送りをしているらしい。
バスの車体は大きく書かれたSAMURAI BLUEの文字。
外からは中の様子が見えない加工を施してある。
真琴は誰か特定の選手に向けてではなく、出発していくチーム全体に手を振っているのだろう。
それでも。
湊の視線は自然とそこへ向いていた。
手を振る真琴。
風で少し揺れる髪。
変わらない笑顔。
バスが角を曲がる。
エントランス前に集まったファンの歓声が少しずつ遠ざかっていく。
それでも湊は振り返ったまま窓の外を見ていた。
真琴の姿が見えなくなる、その瞬間まで。
「湊?」
通路を挟んだ隣の高岡の声で我に返る。
「……ん?」
「どうかした?」
「いや。」
湊は前を向き、背もたれに背中を預けた。
「なんでもない。」
そう言いながら、もう一度だけ窓の外を見る。
けれど、そこにはもう真琴の姿はなかった。
湊は小さく息を吐き、前を向く。
明日は、アイスランド戦。
そのことだけを考えようとした。
けれどーーー
さっきまで見えていた笑顔が、なかなか頭から離れなかった。

朝食後、監督、コーチ、選手たちは専用バスで移動する。
千葉での生活も終わりがやってきた。
真琴もケアステーションの片付けをしていると、背後から声がした。
「なんかちょっと寂しいですね。」
振り返ると湊が立っていた。
「あ、織田選手。」
真琴は手を止めふっと笑った。
風に乗ってあの香りが湊の鼻に届く。
湊は部屋を見渡す。
ソファ。
観葉植物。
ドリンクサーバー。
その隣には小さいプロテインバーも置いてある。
選手たちが少しでもリラックスできるようにと、真琴なりに工夫して作った空間だった。
「最初はみんなが気軽に入れるカフェみたいな場所にしたかったんです。」
「なってたじゃないですか。」
湊が言う。
真琴は苦笑した。
「でも結局、私の残業部屋っていう認識になっちゃいました。」
確かにそうだった。
遅い時間に通りかかると、いつも真琴がパソコンに向かっている。
そんな光景を何人もの選手が見ている。
「いや。」
湊が首を振る。
「俺は結構好きでした。」
真琴が顔を上げる。
「え?」
少し照れたように視線を逸らしながら湊が言う。
「なんか落ち着くし。」
少し間を置いて、
「もっと来たかったです。」
真琴は驚いたあと、柔らかく笑った。
「じゃあナッシュビルでも来てください。」
「え?」
「ナッシュビルでは、ケアステーションがあるのでこういう部屋また作りますから。」
真琴は段ボールを閉じながら続ける。
「気軽にみんなが集まれる場所にしたいですね。」
「良いね。」
湊の表情が少し明るくなる。
「俺、こういう場所があると助かります。」
「本当ですか?」
「はい。」
湊は部屋をもう一度見渡した。
ここに来れば、真琴がいる。
練習で疲れた時も、食事の後に少し話したい時も、何となく顔を出せば真琴が笑って迎えてくれた。
たった数日。
それなのに、思っていた以上にこの場所が好きになっていた。
その時だった。
「それなら。」
後ろから別の声。
振り返ると直樹が立っていた。
「ソファもっと大きくしてください。」
真琴が思わず笑う。
「え?これ小さいですか?」
真琴はソファに座った。
大人が座るには十分ゆったりしているように感じる。
その隣に直樹が座り、さらに湊も座る。
「小さいね。」
「二人が大き過ぎますよ。」
真琴は笑って、直樹と湊の顔を交互に見る。
湊は返事をしようとして、やめた。
こうして三人で座っているだけなのに、なぜか心地よかった。
ここで過ごす時間も、今日で終わる。
そう思うと、ほんの少しだけ名残惜しい。
甘く爽やかな香りがふわりと届く。
湊は思わず視線を逸らした。
直樹も何も言わない。
なぜか二人とも立ち上がろうとしない。
「おーい、そこの二人、置いてくぞ?」
はっと我に返る二人。
声を掛けてきたのは深澤だった。
直樹と湊は重い腰を上げて荷物を持った。
「真琴さんは?俺らと一緒?」
深澤がキャプテンらしく声をかける。
「私は片付けが終わり次第向かいます。」
「国立に来るよね?」
「はい、行きます。」
「オッケー!!じゃ、向こうで!!」
深澤はエントラスへ歩き出した。
その後に直樹が続く。
最後に部屋を出る直前、湊が振り返った。
誰もいなくなったケアステーション。
その中央で段ボールをまとめている真琴。
なぜだろう。
少しだけ寂しかった。
たった数日しかいなかったはずなのに。
外ではワッとファンの歓声が上がる。
その声に真琴が顔をあげる。
湊がまだ見ていた。
「先に行きます。」
「はい、あとで。」
名残惜しそうに湊が部屋を出ていった。
その直後だった。
外から、先ほどよりも一段と大きな歓声が上がった。
湊がエントランスに姿を現したのだろう。
真琴はその歓声を聞きながら、ふっと笑った。
そして、手を止めると外に出るガラス戸に手を掛けた。
全員がバスに乗り終えるとゆっくりと動き出した。
湊は何気なく窓の外へ視線を向けた。
その時だった。
「あ。」
ケアステーションのベランダ。
そこから真琴が手を振っていた。
どうやら片付けを中断して見送りをしているらしい。
バスの車体は大きく書かれたSAMURAI BLUEの文字。
外からは中の様子が見えない加工を施してある。
真琴は誰か特定の選手に向けてではなく、出発していくチーム全体に手を振っているのだろう。
それでも。
湊の視線は自然とそこへ向いていた。
手を振る真琴。
風で少し揺れる髪。
変わらない笑顔。
バスが角を曲がる。
エントランス前に集まったファンの歓声が少しずつ遠ざかっていく。
それでも湊は振り返ったまま窓の外を見ていた。
真琴の姿が見えなくなる、その瞬間まで。
「湊?」
通路を挟んだ隣の高岡の声で我に返る。
「……ん?」
「どうかした?」
「いや。」
湊は前を向き、背もたれに背中を預けた。
「なんでもない。」
そう言いながら、もう一度だけ窓の外を見る。
けれど、そこにはもう真琴の姿はなかった。
湊は小さく息を吐き、前を向く。
明日は、アイスランド戦。
そのことだけを考えようとした。
けれどーーー
さっきまで見えていた笑顔が、なかなか頭から離れなかった。
