第一章
その日の夕食会場。
真琴はいつものように、選手たちを迎えていた。
「お疲れ様でした。」
「お疲れー。」
「お疲れ様でーす。」
誰にでも同じ笑顔。
同じ声。
同じ優しさ。
しかし、湊と直樹だけは少し違った。
「あ、柴原選手。お疲れ様です。」
「お疲れ様です。」
その瞬間、直樹の鼻先を、あの香りがかすめた。
もう、その正体を知っている。
(やっぱり野上さんだ。)
「あの後、どこか痛めたりしてませんか?」
「あ、いえ、問題ないです。」
直樹はそう答え、真琴の顔を見た。
「良かった。」
真琴がホッとしたように笑う。
「今日も少し多めに食べてください。」
「わかりました。」
真琴は直樹の答えを聞くともう一度微笑んで、次の選手の元へ向かった。
直樹は無意識に真琴の姿を追っていた。
「直樹!」
ぼうっとしてる直樹に前に並んでいた梶尾俊介(かじお しゅんすけ)が声をかける。
「あ……。」
真琴に気を取られているうちに、気づけば料理を取る列で自分の前だけがかなり空いてしまっていた。
「どうかしたのか?」
「いや……。」
直樹は慌てて前へ進んだ。
その様子を配膳の列の後ろから見ていた湊。
すると真琴が今度は湊に気付いた。
「あ、織田選手。お疲れ様です。」
「お疲れ様です。」
真琴は、直樹の時と同じように笑顔で近付いてきた。
「織田選手、今日、デザートありますよ。」
まるで自分のことのように嬉しそうに告げる。
「え?……ほんとですか?」
「はい。甘さ控えめなんで気にせず食べてくださいね。」
真琴が微笑む。
その瞬間ーーー。
ふわり。
甘く、爽やかな香りが鼻先をくすぐった。
湊の表情が、ほんのわずかに止まる。
(……この香り。)
湊は、ほんの一瞬だけ言葉を失った。
ーーーその時。
視線を感じた。
顔を向けると、直樹が、こちらを見ていた。
湊も直樹を見る。
ほんの一瞬、二人の視線がぶつかる。
しかし、お互い何も言わず、視線を逸らした。
***
料理を取り終えた湊は、席について食べ始める。
すると、
「ここ、空いてる?」
トレーを持ったメンタルコーチがやって来た。
「どうぞ。」
空いていた席に腰を下ろす。
「そういえば……。」
メンタルコーチが箸を持ちながら言った。
「例の香り、どうなった?」
湊の動きが止まる。
「香り?」
隣の須藤康明(すどう やすあき)が反応した。
「何それ。」
「いや、湊が最近ずっと気になる匂いがあるらしくて。」
「へぇ。好きな人の香水じゃないの?」
須藤の一言に、周囲にいた選手たちが一斉に反応した。
「えっ、好きな人?」
「誰?」
ニヤニヤしながら秋庭勇大(あきば ゆうだい)が、湊と須藤の元にやって来た。
「あのモデル?」
秋庭は湊の顔を覗き込みながら聞いた。
「違う。」
即答だった。
「絶対違わないやつじゃん。」
笑いが起こる。
湊をからかうこの秋庭、チーム1のイケメン、と世間では話題になっている。
「で、どんな匂い?」
「知らない。」
「ジャスミンみたいな甘い匂いだって。」
メンタルコーチが代わりに答える。
「へぇ〜ジャスミン!!」
「で、誰?」
「知らない。」
「どこで匂うの?」
「知らない。」
「なんで全部知らないんだよ。」
湊は完全に面倒になって、何も答えず白米を口へ運んだ。
「気のせいでした。」
「絶対嘘。」
再び笑いが起きる。
しかし湊は、自分がこれほど気にしている香りを、直樹以外の誰も感じていないことに気づいた。
(俺と直樹だけか……。)

そして、その湊の様子を少し離れた場所から、直樹は黙って見ていた。
チームメンバーからの怒涛の質問攻めに、何も答えようとしない湊。
直樹は、その横顔をじっと見つめる。
(昨日まで、あの匂いの正体を突き止めようとしていたのに……)
ふと、先ほど交わした視線が脳裏をよぎる。
真琴と話していた湊。
その湊と、目が合った。
(……もしかして)
直樹の目が、わずかに細くなる。
(湊も、気づいた?)
答えを探るように、湊の表情を見つめる。
けれど、湊は何事もなかったかのように無表情を貫いている。
周囲に何を言われても、適当に受け流しているだけ。
何を考えているのか。
そこからは、何ひとつ読み取れない。
「……。」
直樹は、視線を落とした。
聞くつもりはない。
湊に直接、確かめるつもりもない。
そして、自分から話すつもりもなかった。
あの香りが、誰のものなのか。
それを自分が知っていることも。
でも、
(もし……湊も知っていたら?)
胸の奥に、わずかな違和感が生まれる。
真琴から漂う、あの甘く爽やかな香り。
それを湊も知っている。
そう考えただけで、妙に落ち着かなくなる。
(それなら……俺に言ってもいいんじゃないのか?)
そう思った直後。
直樹は、自分でその考えを打ち消した。
(いや……俺も言ってないしな……。)
自分だって、湊に何も話していない。
だったら、湊だけを責めることはできない。
そう思うのに。
それでも、胸の奥に残る小さな引っかかりは消えなかった。
直樹はテーブルの上にある夕食へ視線を戻す。
遅かれ早かれ、湊も気づくだろう。
そう、自分に言い聞かせる。
けれどーーー
(……なんで、こんなに気になるんだ。)
答えの出ない疑問を胸の奥にしまい込み、直樹は何事もなかったかのように、静かに箸を進めた。
真琴はいつものように、選手たちを迎えていた。
「お疲れ様でした。」
「お疲れー。」
「お疲れ様でーす。」
誰にでも同じ笑顔。
同じ声。
同じ優しさ。
しかし、湊と直樹だけは少し違った。
「あ、柴原選手。お疲れ様です。」
「お疲れ様です。」
その瞬間、直樹の鼻先を、あの香りがかすめた。
もう、その正体を知っている。
(やっぱり野上さんだ。)
「あの後、どこか痛めたりしてませんか?」
「あ、いえ、問題ないです。」
直樹はそう答え、真琴の顔を見た。
「良かった。」
真琴がホッとしたように笑う。
「今日も少し多めに食べてください。」
「わかりました。」
真琴は直樹の答えを聞くともう一度微笑んで、次の選手の元へ向かった。
直樹は無意識に真琴の姿を追っていた。
「直樹!」
ぼうっとしてる直樹に前に並んでいた梶尾俊介(かじお しゅんすけ)が声をかける。
「あ……。」
真琴に気を取られているうちに、気づけば料理を取る列で自分の前だけがかなり空いてしまっていた。
「どうかしたのか?」
「いや……。」
直樹は慌てて前へ進んだ。
その様子を配膳の列の後ろから見ていた湊。
すると真琴が今度は湊に気付いた。
「あ、織田選手。お疲れ様です。」
「お疲れ様です。」
真琴は、直樹の時と同じように笑顔で近付いてきた。
「織田選手、今日、デザートありますよ。」
まるで自分のことのように嬉しそうに告げる。
「え?……ほんとですか?」
「はい。甘さ控えめなんで気にせず食べてくださいね。」
真琴が微笑む。
その瞬間ーーー。
ふわり。
甘く、爽やかな香りが鼻先をくすぐった。
湊の表情が、ほんのわずかに止まる。
(……この香り。)
湊は、ほんの一瞬だけ言葉を失った。
ーーーその時。
視線を感じた。
顔を向けると、直樹が、こちらを見ていた。
湊も直樹を見る。
ほんの一瞬、二人の視線がぶつかる。
しかし、お互い何も言わず、視線を逸らした。
***
料理を取り終えた湊は、席について食べ始める。
すると、
「ここ、空いてる?」
トレーを持ったメンタルコーチがやって来た。
「どうぞ。」
空いていた席に腰を下ろす。
「そういえば……。」
メンタルコーチが箸を持ちながら言った。
「例の香り、どうなった?」
湊の動きが止まる。
「香り?」
隣の須藤康明(すどう やすあき)が反応した。
「何それ。」
「いや、湊が最近ずっと気になる匂いがあるらしくて。」
「へぇ。好きな人の香水じゃないの?」
須藤の一言に、周囲にいた選手たちが一斉に反応した。
「えっ、好きな人?」
「誰?」
ニヤニヤしながら秋庭勇大(あきば ゆうだい)が、湊と須藤の元にやって来た。
「あのモデル?」
秋庭は湊の顔を覗き込みながら聞いた。
「違う。」
即答だった。
「絶対違わないやつじゃん。」
笑いが起こる。
湊をからかうこの秋庭、チーム1のイケメン、と世間では話題になっている。
「で、どんな匂い?」
「知らない。」
「ジャスミンみたいな甘い匂いだって。」
メンタルコーチが代わりに答える。
「へぇ〜ジャスミン!!」
「で、誰?」
「知らない。」
「どこで匂うの?」
「知らない。」
「なんで全部知らないんだよ。」
湊は完全に面倒になって、何も答えず白米を口へ運んだ。
「気のせいでした。」
「絶対嘘。」
再び笑いが起きる。
しかし湊は、自分がこれほど気にしている香りを、直樹以外の誰も感じていないことに気づいた。
(俺と直樹だけか……。)

そして、その湊の様子を少し離れた場所から、直樹は黙って見ていた。
チームメンバーからの怒涛の質問攻めに、何も答えようとしない湊。
直樹は、その横顔をじっと見つめる。
(昨日まで、あの匂いの正体を突き止めようとしていたのに……)
ふと、先ほど交わした視線が脳裏をよぎる。
真琴と話していた湊。
その湊と、目が合った。
(……もしかして)
直樹の目が、わずかに細くなる。
(湊も、気づいた?)
答えを探るように、湊の表情を見つめる。
けれど、湊は何事もなかったかのように無表情を貫いている。
周囲に何を言われても、適当に受け流しているだけ。
何を考えているのか。
そこからは、何ひとつ読み取れない。
「……。」
直樹は、視線を落とした。
聞くつもりはない。
湊に直接、確かめるつもりもない。
そして、自分から話すつもりもなかった。
あの香りが、誰のものなのか。
それを自分が知っていることも。
でも、
(もし……湊も知っていたら?)
胸の奥に、わずかな違和感が生まれる。
真琴から漂う、あの甘く爽やかな香り。
それを湊も知っている。
そう考えただけで、妙に落ち着かなくなる。
(それなら……俺に言ってもいいんじゃないのか?)
そう思った直後。
直樹は、自分でその考えを打ち消した。
(いや……俺も言ってないしな……。)
自分だって、湊に何も話していない。
だったら、湊だけを責めることはできない。
そう思うのに。
それでも、胸の奥に残る小さな引っかかりは消えなかった。
直樹はテーブルの上にある夕食へ視線を戻す。
遅かれ早かれ、湊も気づくだろう。
そう、自分に言い聞かせる。
けれどーーー
(……なんで、こんなに気になるんだ。)
答えの出ない疑問を胸の奥にしまい込み、直樹は何事もなかったかのように、静かに箸を進めた。