第一章
湊は結局、ケアステーションへは行かなかった。
トレーニングルームに入ると、ドリンクケースから冷たいミネラルウォーターを取り出し、口に含む。
突然入ってきた湊の様子を、水瀬伸司(みなせ しんじ)がストレッチをしながらちらりと見た。
けれど、湊は気にする様子もなく、さっき目にした光景を頭の中で整理していた。
直樹の腕の中にいた真琴。
廊下の角でぶつかり、転びそうになった真琴を、直樹がとっさに支えただけ。
それ自体は、何もおかしなことではない。
ただーーー
「あんなにガッツリ抱き締めなくてもいいだろ。」
「え?何?」
思わず漏れた湊の呟きに、水瀬が不思議そうに声を掛ける。
しかし、湊には届いていない。
もう一度、冷たい水を口に含む。
そのとき、ふと午前中の出来事が蘇った。
外で、あの香りを感じた。
真琴からペットボトルを受け取った時だ。
初めて会ったときにも感じていた。
ケアステーションでも感じた。
湊はペットボトルを手にしたまま、記憶を辿る。
(……。)
そして、ついさっきーーー。
直樹が真琴を支えた瞬間、直樹の表情が、ほんのわずかに変わった。
まるで何かを確かめたような反応だった。
そこまで思い返したとき。
湊の中で、これまでの記憶が一本につながった。
(……あの香りの正体、野上さんだ。)
これまで何度も感じながら、どこから漂ってくるのか分からなかった香り。
甘く、爽やかで、風に乗るようにふわりと届く香り。
その正体が、ようやく分かった。
「……。」
湊は小さく息を吐く。
残りの水を飲み干すと、空になったペットボトルをゴミ箱へ投げ入れた。
そして、何事もなかったようにトレーニングルームを後にした。
水瀬はストレッチを止め、出ていく湊の背中をしばらく見つめていた。

同じ頃。
直樹はシャワーを浴びていた。
温かな湯が、トレーニングで火照った肩をゆっくりと流れていく。
今日の練習を振り返ろうとした、そのときだった。
ふいに、さっきの出来事が脳裏をよぎる。
廊下の角でぶつかった真琴。
バランスを崩した身体を、とっさに抱きとめた。
ほんの一瞬の出来事だった。
直樹はシャワーを止めた。
水音が消え、静寂が戻る。
ーーーあの香り。
甘く、爽やかな香り。
強く主張するわけでもなく、香水のように残るわけでもない。
近付いた瞬間にふわりと感じる香り。
(……野上さんからだったのか。)
直樹はタオルを頭から被り、短く息を吐いた。
そして、抱きとめた時のこと。
腕の中で驚いたように見上げてきた真琴の顔。
「……何考えてるんだ、俺。」
小さく呟き、顔を拭う。
別に、大したことじゃない。
偶然ぶつかって、支えただけ。
それだけのこと。
そう思いながら、着替えを終える。
けれどーーー
さっき感じた香りだけは、なぜか妙にはっきりと残っていた。
シャワールームのドアノブに手を掛けたとき、
(これは湊に言うべきなのか?)
そんな疑問が頭をよぎった。
トレーニングルームに入ると、ドリンクケースから冷たいミネラルウォーターを取り出し、口に含む。
突然入ってきた湊の様子を、水瀬伸司(みなせ しんじ)がストレッチをしながらちらりと見た。
けれど、湊は気にする様子もなく、さっき目にした光景を頭の中で整理していた。
直樹の腕の中にいた真琴。
廊下の角でぶつかり、転びそうになった真琴を、直樹がとっさに支えただけ。
それ自体は、何もおかしなことではない。
ただーーー
「あんなにガッツリ抱き締めなくてもいいだろ。」
「え?何?」
思わず漏れた湊の呟きに、水瀬が不思議そうに声を掛ける。
しかし、湊には届いていない。
もう一度、冷たい水を口に含む。
そのとき、ふと午前中の出来事が蘇った。
外で、あの香りを感じた。
真琴からペットボトルを受け取った時だ。
初めて会ったときにも感じていた。
ケアステーションでも感じた。
湊はペットボトルを手にしたまま、記憶を辿る。
(……。)
そして、ついさっきーーー。
直樹が真琴を支えた瞬間、直樹の表情が、ほんのわずかに変わった。
まるで何かを確かめたような反応だった。
そこまで思い返したとき。
湊の中で、これまでの記憶が一本につながった。
(……あの香りの正体、野上さんだ。)
これまで何度も感じながら、どこから漂ってくるのか分からなかった香り。
甘く、爽やかで、風に乗るようにふわりと届く香り。
その正体が、ようやく分かった。
「……。」
湊は小さく息を吐く。
残りの水を飲み干すと、空になったペットボトルをゴミ箱へ投げ入れた。
そして、何事もなかったようにトレーニングルームを後にした。
水瀬はストレッチを止め、出ていく湊の背中をしばらく見つめていた。

同じ頃。
直樹はシャワーを浴びていた。
温かな湯が、トレーニングで火照った肩をゆっくりと流れていく。
今日の練習を振り返ろうとした、そのときだった。
ふいに、さっきの出来事が脳裏をよぎる。
廊下の角でぶつかった真琴。
バランスを崩した身体を、とっさに抱きとめた。
ほんの一瞬の出来事だった。
直樹はシャワーを止めた。
水音が消え、静寂が戻る。
ーーーあの香り。
甘く、爽やかな香り。
強く主張するわけでもなく、香水のように残るわけでもない。
近付いた瞬間にふわりと感じる香り。
(……野上さんからだったのか。)
直樹はタオルを頭から被り、短く息を吐いた。
そして、抱きとめた時のこと。
腕の中で驚いたように見上げてきた真琴の顔。
「……何考えてるんだ、俺。」
小さく呟き、顔を拭う。
別に、大したことじゃない。
偶然ぶつかって、支えただけ。
それだけのこと。
そう思いながら、着替えを終える。
けれどーーー
さっき感じた香りだけは、なぜか妙にはっきりと残っていた。
シャワールームのドアノブに手を掛けたとき、
(これは湊に言うべきなのか?)
そんな疑問が頭をよぎった。