第一章
翌日。
海外組が合流したこともあり、午前中から質の高い練習が続いていた。
シュート練習では、湊が何本もゴールを決め、仲間たちから声が飛ぶ。
「湊ー!めちゃくちゃ今のいいじゃん!」
フォワードの高岡修平(たかおか しゅうへい)が、湊に親指を立てる。
『ピーッ!』
ホイッスルが鳴った。
「ちょっと休憩しよう!」
監督が、遠くにいる選手たちにも聞こえるように声を張る。
すぐにスタッフが動き出し、飲料や補食が選手たちへ行き渡っていく。
「どうぞ」
湊も差し出された水を受け取った。
その時ーーー
ふわっ。
甘く、爽やかな香りが鼻先をかすめた。
(えっ……?)
湊は思わず顔を上げる。
外にいるのに、あの香りがした。
反射的に辺りを見渡す。
すると真琴が選手たちに水を渡していた。
(……野上さん?)
湊はしばらく真琴の姿を目で追った。
けれどーーー
もう一度、香りを感じることはなかった。
***
午前練習を終えた湊は、代表チーム専属のメンタルコーチとの面談を受けていた。
個室には穏やかな空気が流れている。
「コンディションはどう?」
「いい感じです。」
「睡眠は?」
「問題ないです。」
いつものような確認が続く。
そして雑談になった時、湊はふと思い出した。
「あの、ちょっと関係ない話なんですけど……。」
「うん?」
メンタルコーチがタブレットから湊の顔に目線を合わせる。
「ちょっと気になる匂いがあって……。」
照れ笑いを浮かべる。
「匂い?何の?」
「香水じゃ無いけど……何ていうか……。」
湊は自分でもまだはっきりわかっているわけじゃないので、説明するのが難しい。
「どこでその匂いがするの?」
「部屋……。あ、いや、でも外でも感じて……」
なんだかはっきりしない湊の様子にメンタルコーチは苦笑する。
「どんな香り?」
「甘いけど爽やかで……ジャスミンみたいな。」
「ふ〜ん。ジャスミンって結構いい匂いだよね。」
「そうなんです。」
湊の表情が柔らかく楽しそう。
メンタルコーチはタブレットにまた目線を落として意地悪そうに、こう言った。
「もしかして、誰かのフェロモンだったり?」
「えっ!?」
湊は一瞬驚いたがハハハと笑った。
「いやいやいや。俺、フェロモンなんて感じたことないですよ。」
2、3度小さく首を振った。
「いやー、匂いって遺伝子と関係があるっていう研究もあるよ。
理由は分からなくても、『この人の匂い、なんか好きだなぁ』って感じること、全然あるよ。」
「え……そうなんですか?」
「まぁ、そんなに深く考えないで。いい匂いなら良いじゃん。」
「まぁ、そうですね……。」
メンタルコーチが湊の方を見て笑った。
「とにかく今は体調を崩さず、ワールドカップに集中する。それが一番。」
「はーい。」
湊は立ち上がり、部屋を出ていった。
廊下を歩きながら考えていた。
(フェロモンって……。)
湊は思い出してフッと笑った。
しかし……さっき、外であの香りを感じた。
そして、真琴の顔が浮かぶ。
昨日の笑顔、不思議そうに首を傾げる仕草。
そして、『また明日。』と言った声が脳内で再生される。
(いや〜……。)
湊は首を振った。
そう思ったのに―――
気付けば足はケアステーションへ向いていた。
***
同じ頃。
直樹はジムで補強トレーニングを終えていた。
タオルで汗を拭きながら廊下を歩く。
角に差し掛かったその時。
「あっ!!」
「うわっ!」
走って来た真琴とぶつかった。
「うおっとっとっと……!!」
身長1m88cm近くの直樹とぶつかり、真琴はバランスを崩す。
倒れかけた身体に、直樹が反射的に手を伸ばした。
次の瞬間。
真琴を抱き寄せる形で、二人の距離が一気に近づく。
その時だった。
ふわりーーー。
あの香りがした。
昨日の夜。
初対面の時から何度も感じていた、甘くて、爽やかな香り。
直樹の動きが止まる。
(……この香り)
こんなに近くで感じるのは、初めてだった。
直樹は思わず、ほんの一瞬だけ意識を香りへ集中させた。
甘く、爽やかな香り。
間違いない。
(この人だったのか……。)
確かにあの香りがするとき、必ず近くに真琴がいた。
直樹の中でピースが繋がっていくーーー

「あっ、あの……柴原選手……?」
真琴の慌てた声に、直樹はハッと我に返った。
その瞬間、今さらながら、自分たちの距離の近さに気付く。
目の前には真琴の顔。
思わず視線が止まる。
「あっ……!!」
慌てて真琴を離す。
真琴は恥ずかしそうに視線を落とし、頭を下げた。
「ごめんなさい。」
「あ、いや……すいません……。」
二人の間に、気まずい空気が漂う。
それを割くように直樹が声を掛けた。
「大丈夫……ですか?」
「あ、はい、大丈夫です……。って、私より柴原選手は大丈夫ですか?」
今の接触でケガしたんじゃないかと、真琴が心配そうに尋ねる。
二人の視線がふと重なった。
直樹は一瞬だけ真琴の目を見つめると、すぐに視線を逸らした。
「大丈夫です……。」
直樹はぶつかった時に落としたタオルを拾った。
「良かった。……ほんとにすいません。」
直樹の無事がわかって安堵の表情を浮かべる。
そして、もう一度頭を下げた。
その時―――
少し離れた場所からこの状況を見ていた人がいる。
湊だった。
真琴と直樹の姿を見る。
二人は何かを話しているが声は聞こえない。
近い距離。
そして、どこか様子の違う直樹の表情。
湊は声を掛けられなかった。
先ほどの直樹の様子。
何かに気づいたような、あの一瞬の表情……。
そして、自分の中で否定しながらも、どうしても払拭できなかった一つの仮説が、急に現実味を帯びてきた。