第一章

国立競技場での前日練習を終えた日本代表一行は、都内のホテルへ戻っていた。

翌日のアイスランド戦を控え、夕食会場にはどこか試合前独特の緊張感が漂っている。
とはいえ、食事を終えた選手たちは比較的リラックスした表情だった。

真琴も最後まで選手たちの食事量や体調を確認し、ようやく一息つく。

「ふぅ……。」

今日はホテルの一室がそのまま仕事部屋になっている。
資料整理や翌日の補食準備も残っているため、自室へ戻ることにした。

ロビー奥のエレベーターホールへ向かうと、直樹と梶尾が、エレベーターの到着を待っていた。

「あ、お疲れ様です。」

聞き慣れた声に、直樹が振り返る。

「お疲れ様です。」

その隣にいた梶尾も、真琴に気付いて声をかけた。

「お疲れさまです。」

真琴が笑顔で返す。

「今日はもう終わりですか?」

梶尾が尋ねる。

「いえ、まだあと少しだけ……。」

「大変ですね。」

「結構楽しんでやってますよ。」

直樹と梶尾が笑った。

そんな何気ない会話をしているうちにエレベーターが到着した。

扉が開く。
直樹が先に乗って【開】ボタンを押す。
梶尾がその後に続き、最後に真琴が乗った。

そのとき、

「梶尾選手、すいません、ちょっといいですか……。」

走ってきたスタッフが梶尾を呼び止めた。

「あ、はい。」

梶尾は「悪い、先に行ってくれ。」と言ってエレベーターを降りると、スタッフと消えていった。

直樹は【閉】のボタンを押した。

扉がゆっくり閉まり、エレベーターは静かに上昇を始める。

狭い空間。
お互いの息遣いも聞こえそうな距離。

そして、
ふわりと甘く爽やかな香りが漂った。

直樹は思わず真琴へ視線を向けた。
すると、真琴も同じタイミングで直樹の方を振り返った。

不意に目が合い、直樹は少しだけドキッとした。

「明日、いい試合になるといいですね。」

真琴はそう言って、直樹に柔らかな笑顔を向けた。

「修平や湊の調子が良いから、期待できると思います。」

「楽しみです!ゴールもたくさん決まればいいな。」

その言葉に、直樹の表情がほんの少し曇った。
もちろん、ストライカーが注目されることくらい、直樹だってわかっている。

それでもーーー。

自分も、少しくらい見てもらいたい。

そんな気持ちが胸の奥に湧いてきて、直樹は面白くなさそうに息を吐いた。

「はぁ……。」

直樹は、わざとらしく大きなため息をついて、壁に背中を当てて真琴の方を見た。

「ディフェンスなんて見ないですよね?」

「え?」

「俺、ディフェンダーですから。」

直樹は、少しだけ口を尖らせてみせる。

「みんな勇大や湊ばっかり見るんでしょ?」

「え?そんなことないです。選手全員応援してます。」

「いいんです。ディフェンスなんて、そんなもんですから。」

「えー、そんなこと言わないでください!」

真琴が慌てたように否定して、直樹に視線を送る。
それでもまだ膨れっ面の直樹。

「柴原選手!!」

真琴の反応が面白くて、直樹は思わず笑った。

「ごめんなさい、冗談です。」

「もう……。」

真琴も小さく笑う。
その笑顔を見ながら、直樹はふと視線を逸らした。

もしかしたら、冗談ではなかったかもしれない。
明日の試合で、自分のプレーも見てもらえたら……。
そんなことを、ほんの少しだけ期待したのかもしれない。

「じゃあ……。」

直樹が真琴を見る。

「俺のディフェンスも見てください。」

「もちろんです。」

あまりにも迷いなく返ってきた言葉に、直樹は一瞬黙った。

「……ほんとですか?」

「はい。」

「明日、俺がいいプレーしたら?」

「ちゃんと喜びます。」

「ミスしたら?」

「……それは、頑張ってくださいって応援します。」

「ははは!」

直樹が笑う。

真琴もつられるように笑った。

「じゃあ、明日頑張らないとな。」

「はい。頑張ってください。」

短いやり取り。
それだけなのに、直樹の胸には妙に温かいものが残った。

【ポーン】

エレベーターが到着を知らせる音を響かせる。

扉が開くと、真琴は軽く会釈した。

「ありがとうございます。」

そう言ってエレベーターを降りる。
そして、数歩進んだところで振り返った。

「柴原選手。」

「はい?」

「ほんとに応援してます!」

まっすぐな笑顔。

直樹は一瞬、言葉を失った。

「……はい。ありがとうございます。」     

なんとかそう返して、フッと笑う。

「じゃあ、おやすみなさい。」

「おやすみなさい。」

真琴は手を振って直樹を見送る。
直樹もつられるように手を上げた。

扉がスーッと閉まって、直樹は小さく息を吐いた。

さっきの言葉が、なぜか頭に残っている。

『ほんとに応援してます。』

直樹は気持ちを切り替えるように顔を上げた。

「……よし!」

明日は試合だ。

自分のプレーも、ちゃんと見てもらえるように。
そう思うと、不思議と気持ちが引き締まった。

エレベーターは、ジャスミンの香りを残して、静かにさらに上の階へ向かっていった。

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