第弐章
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目を覚ますと、壁に掛けていた第8小隊の防火服を両肩に羽織っていた。静かに深呼吸をし、少しだけ意識を研ぎ澄ます。部屋の時計が狂っていなければ、三十分後には私は第8小隊と共に地下へ向かうことになる。枕元に置かれたバンダナと腰ベルト、それに槍伸縮型を手に取って、腰に装着する。ヴァルカンから貰った雷火鼬を両手にはめ、口の中で小さく「よしっ」と呟く。心を静め、部屋を後にした。
階段を下り、玄関でかがみ込む。履き慣れた防火靴を手に取り、しっかりと足を入れたその時だった。
「行くのか?」
背後から声がして、思わず振り返る。そこには法被を着た紅丸が立っていた。その近くに紺炉も見えた。
「起こしちゃってごめんね。食堂に置き手紙を書いたけど」
「別にかまわねェよ。手紙は後で見る」
そう言うと、紅丸がこちらに歩み寄ってきた。昨日の出来事もあり、私はつい視線を逸らしてしまった。「そう」とだけ呟く。
「絵馬」
名前を呼ばれて、私は少し顔を上げた。
「俺が地下に行かずに、ここにいろと言ったら……お前はいてくれるか?」
「えっ……」
その問いに、少しだけ思考が止まった。どうして今、そんなことを言うのか。どうしてその顔を見せるのか。周りから見れば、きっと紅丸の顔はいつも通り冷徹で無表情だろうが、その目は、何かを訴えているようにも感じられた。寂しげで、心配しているような、どちらとも捉えることのできる表情。
紅丸から視線をずらし、紺炉の方を見ると、目が合った瞬間、紺炉は何かに気づいたような顔をして「紅ッ」と口を動かした。
紅丸は一瞬深い息を吐き、そして言った。
「わーってるよ、紺炉。……絵馬、気ィつけろよ」
その言葉に、何かが胸の中で押し寄せてくる。紅丸は背を向け、歩き出そうとしていた。名残惜しさが突然湧き上がる。すぐにでもその場に引き止めたい気持ちがこみ上げてくる。
私は無意識に紅丸の法被の袖を掴んでいた。
「紅丸。絶対に帰ってくるから……その時は『おかえり』って、言ってね」
その言葉が、驚くほど自然に口から出た。自分でも信じられないほど、本心がそのまま表れた。
紅丸は一瞬だけ沈黙し、その後、静かに答えた。
「……ああ」
その一言を耳にした瞬間、胸が少しだけ軽くなった気がした。いってきますと思いを込めて、私はそっと紅丸の袖を静かに放した。
「俺たち初出動だな」
「きんちょーするッスね」
第8教会の車庫に足を踏み入れた瞬間、ヴァルカンとリヒトが防火服を着て話しているのが耳に入り、私は二人に声をかけた。
「初出動って、凄く緊張するよね!その気持ちわかる」
「姉さん!」
「法被しか見てなかったスけど、十二小隊長も僕たちと同じの持っていたんスね」
その言葉に少しだけ気恥ずかしくなりながらも、私は答える。
「基本は法被で行動していますけど、第8で出動する際はつなぎと防火服を着るようにしていますので」
「律儀ッすね〜」
「そういうリヒトは、似合ってねェな」
ヴァルカンは私からリヒトへ視線を向ける。リヒトは防火服のボタンを外し、服を広げながら言った。
「インナーに、ちゃんと白衣着てるんで」
「なんか意味あんの……?」
ヴァルカンの困惑した問いに、私は思わず乾いた笑いが漏れた。
「ヴァルカン。マッチボックスの運転は任せていいのか」
声がする方へ視線を向けると、ヴァルカンの背後に火縄中隊長がゆっくりと近づいてくるのが見えた。ヴァルカンが振り返り、うなずいた。
「ああ。自分でマシンを運転しないとわからないこともあるしね」
「誰かさんみたいにスピード出しすぎないように、安全運転で頼むね」
「なんで僕を見るんスか、十二小隊長」
リヒトが戸惑いながら答える。私の言葉が、自分に向けられたものだと気づいたようだ。確かに、その通りだ。だが、わざと彼に答えることはなかった。
視線をヴァルカンに戻すと、目が合った瞬間、ヴァルカンがにんまりと笑った。
「任せてくれ!」
その笑顔に、少し安堵の気持ちが湧いてきた。
その時、桜備大隊長がこちらに向かって歩いてきて、私たちの顔を交互に見ながら鼻をすすった。
「やっと、消防官隊らしくなってきたな……」
「……ホントに……」
火縄中隊長が、少し鼻声で呟く。彼もまた、どこか温かみのある雰囲気を漂わせていた。
初めての出動を思い出す。桜備大隊長と火縄中隊長の二人だけで第8小隊は結成され、私は半年後に仮入隊した。私はその二人の間に大きな壁を感じていた。それが少しずつ崩れていき、今では、信頼できる上司と部下の関係になった。そして、茉希、アイリス、シンラ、アーサー、リヒト、ヴァルカン、タマキ。最初は三人だった小隊が、今では、十人の小隊に成長している。
ふと、桜備大隊長に言う。
「三人で勤務していた時期を考えると、頼もしい仲間が増えましたね」
「ああ、そうだな」
桜備大隊長は、静かに頷きながら笑顔を見せた。その表情に、私もまた少しだけ心が温かくなった。
準備を整え、マッチボックスに乗り込む一人一人を確認してから、最後に私も足を踏み入れた。車内はまだ少し慌ただしさが残っている。
「人が増えたんだから奥に行けよ。絵馬さんが入らねェだろ」
シンラが軽くアーサーに注意を促す。アーサーは肩をすくめて仕方なく奥へと移動する。その後に続いて、シンラとリヒトも席を移動し、最終的にリヒトの隣に空いた一つの隙間に私は座ることに決めた。
ブロロロロ。ヴァルカンの運転で、マッチボックスは地下へと走り出した。エンジン音が耳に響く中、私は無意識に手袋を見つめていた。指先を開いたり閉じたりして、その感触に集中しながら、到着の時を待つ。
「地下は、教会から特別に許可をもらってやっと入ることのできる場所……普段入ることは不可能だ」
桜備大隊長が口を開く。その低く落ち着いた声に、私は顔を上げ、自然と彼に視線を向けた。シンラがつぶやく。
「地下に電車が走ってたなんて信じられないな……」
「まぁ、それは大災害が起こる前の話らしいけどね」
私が付け加えるように答えると、アイリスが突然、暗い話を持ち出した。
「聖陽教では、太陽神さまの光が届かない地下は”地獄”と繋がっていると言われています。人ならざる者が住まう”不浄の地”です……。ちょーこわいんです……」
「地獄ねェ……本当にあるのかな」
そのまま、私の独り言として、無意識に口をついて出てしまった。向かい側に座っていたアイリスが私に鋭く視線を投げる。
「絵馬さん!信じていないんですね!聖陽教ではそう言われているんですよ!」
アイリスの声に、私は反射的に体をすこしだけ引いてしまう。言葉の強さに少し圧倒されながら、私は焦ったように右手を挙げて振る。
「別に否定しているわけじゃないって!」
右手を上げて軽く振る。その動作が、逆に自分の焦りを強調しているように感じる。アイリスの顔にはわずかな不満が浮かび、一拍の後、私は続けて言った。
「聖陽教の教えですからね」
その言葉が出た瞬間、アイリスは顔を少ししかめて、それでも強く言い返す。
「そうですよ!聖陽教の教えは間違ってないのです」
その強い言葉に、私はただ静かにうなずくしかなかった。
ヴァルカンが運転するマッチボックスは、静かにスピードを落として停車した。車から降り、荒れた道を歩き始める。足元の土は湿っていて、踏みしめるたびに微かな音が響く。
しばらく歩いた後、下り坂が視界に入る。そこで、ふと目に入ったのが、錆びつき、草木に覆われた巨大な扉だった。元々の色は赤だっただろうが、今ではすっかり焦げ茶色に変わり、その表面に十字架模様が刻まれている。聖陽教会が管理している証だ。頑丈に閉ざされたその扉には、壊れた線路が土に埋もれながら続いており、まるで時間に埋もれた記憶のようだった。
「これが地下(ネザー)の入り口ですか?」シンラの顔が固まる。視線を合わせた瞬間、その不安げな表情に気づく。
アーサーは振り返り、シンラの顔を見ると、軽く鼻で笑った。
「ビビってんのか」
その言葉に、シンラは軽く笑いながら答える。「ご冗談を……」
「ふッ」
アーサーはその反応を楽しむかのように笑った。次に彼の目が私に向けられた。
「絵馬。怖くなったら、俺の背に隠れてもいいぞ」
「あー……。その時は、お願いしようかな」
地下に入ること自体は、正直言ってそれほど怖くはない。ただ、そこに潜んでいるかもしれない「伝導者」のことを考えると、自然と手が震えてくる。拳を握り締めて、震えをこらえるようにする。
アーサーはその微かな震えに気づき、勘違いしたのだろう。ニヤリと笑い、「絵馬の頼みだからな」と嬉しそうに頷き、私の肩を軽く叩いた。まるで自分が頼られているかのように、得意げな表情を浮かべていた。
その時、背後で茉希の震える声が響いた。
「……本当に入るんですか……?すごく暗いんですよね……」
「こんな所に近づいたらママに怒られちゃう……」
タマキも、茉希に感化されたのか、その声が震えているのがわかる。
「ヴァルカン君は、平気そうだね」
「ああ。別に得意では、ないけど。浄水施設の検査で何度か入ったことはあるしな……得意ではないけど」
普段通りのヴァルカンの声に、少しだけ力が感じられなかった。リヒトは何も変わらず、普段通りに落ち着いた声だった。
突然、茉希が叫ぶ。
「私たち本当に入っていいんですか!?」
「あんまり騒がないでくれ。俺まで怖くなってくるだろ……!!」
桜備大隊長が先頭で立ち、首だけを振り返りながら、冷や汗をひとしずく流す。その姿には、普段の冷静さが欠けていた。最後尾に並んでいた火縄中隊長が冷静に言った。
「今回の調査で地下に入ることを許可されたのは第8だけだ……。聖陽教会は、穢れた”不浄の地”へ大人数で入ることを許していない。そして、ピーピー騒ぐな」
その冷徹な一言に、茉希はピタリと黙り込む。他のメンバーも、口を閉ざして静かになる。その沈黙を破るように、アイリスが前に歩み出し、扉に近づいていった。
「……では今から祝詞を捧げます」
「お願いします」
桜備大隊長が静かに頷き、アイリスが扉に視線を戻した。彼女の表情は、まるで神聖な儀式に臨むような緊張感を帯びている。
アイリスは深く息を吸い込み、両手を合わせて祝詞を唱え始めた。
「永久ニ日ノ出拝ムラン。穢レナキ魂ニ光与エタマエヨ。ラートム」
その言葉が終わると、ゴゴと音を立てて、大扉がゆっくりと開き始めた。錆びた金属の重みを感じながら、その扉が私たちを招くように、静かに、開かれていった。