第弐章
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強風が吹き、草木がざわざわと音を立てる。傾いた陽が影法師を細長く斜めに地を映す。空を見上げると、夕暮れの気配が薄れ、夜の気配がじわりと混じり始めていた。
「絵馬」
カリムに名を呼ばれ、私は空から彼へと視線を戻す。
「履歴書の漏洩について、漏洩の出どころを俺が探す」
「カリムには関係ないから、大丈夫だよ」
「俺には関係ないけど関係ないが、関係がある絵馬はどうやって漏洩の出どころを調べるつもりだ?」
「どうやって調べるか、まだ考えてないけど、とりあえず第1教会の事務所に……」
そう言った瞬間、カリムは呆れたように大きなため息をついた。そのため息に、私は少し苛立つ。
「何?事務所じゃないの?」
「間違ってないが……そうじゃない」
カリムは首を左右に軽く振り、口を開く。
「よく考えてみろ。仮に第1教会の事務所から履歴書が漏洩したとする。その間、もしワガママ女が事務所に入り続けていたら、どうなる?」
「入り続けたら……?そりゃあ、第1に関係ない第7の小隊長の私がいたら、周りは驚くだろうね」
私はそう言いながら、自分も第8に火華大隊長がいた時は少なからず驚いたことを思い出した。他の隊員は、私がいることで何らかの変化を感じるだろうと、自然に感じ取った。
「だろうな。それと、もう一つ……」
カリムは言葉を区切り、真剣な目で私を見つめる。
「その行動が、敵に俺たちの情報をバラしてしまうことになる」
「どういうこと?」
私は思わず声が大きくなってしまった。
「ワガママ女の履歴書は、すでに何枚かコピーされて、敵の手に渡っているはずだ。その事実については、敵しか知らないハズ。なのに、そこにワガママ女がその履歴書を探し、探すワガママ女の姿が注目されたら、どうなる?」
「……敵が漏洩していることに気づく」
カリムは私の返答に頷き、少し真剣な表情を浮かべた。
「そういうことだ。消防隊の中には、まだ敵が潜んでいるかもしれない。だから、迂闊な行動はせず、絵馬は今まで通りに過ごしていろ」
その言葉が、じわじわと私の心に染み込んでいく。行き来をむやみにするなと警告か。よく考えてみれば、よっぽどのことがない限り他の隊と交わることはない。私が第7と第8を普通に行き来していたから、その感覚を鈍らせていたのかもしれない。だからこそ、むやみに行動するよりも、カリムに任せたほうが賢明だろう。
「分かった。私の履歴書の件は、カリムに託すよ」
「任せろ。3日後の会議までには、何とか間に合わせるようにする」
カリムは神父服のポケットからハンドベルを取り出し、手に持つとリンと音を鳴らした。その音色が静かな空間に響き渡ると、ふと右頬が急にヒヤッとした。手でそっと触れると、そこには氷の薄い膜のような感触があった。冷たさが、急に肌を刺激する。
「家に帰ったら、消毒しとけよ」
カリムはそう言い残し、くるりと背を向けると、第1特殊消防大聖堂へと戻るためその場を後にした。その背中を見送りながら、私は彼が置いていった言葉の意味を改めて噛み締めた。
浅草に戻り、土間で防火靴を脱いでいると、目の前の戸が突然開き、紺炉が風呂敷を抱かえたまま詰所に入ってきた。彼は私を見つけると、
「絵馬、聞いたぜ。第3の大隊長とやり合ったらしいな」と言った。
「桜備大隊長から聞いたの?」
「あぁ、電話が入ったからな」
紺炉は板敷に腰を下ろし、隣に風呂敷を置いてから、私と同じように防火靴を脱ぎ始めた。紺炉とは目線を合わせず、ただじっと脱いだ防火靴を見つめ、そして、私はぽつりと呟いた。
「紺炉。確信はもてないけど、どうやら私は……Dr.ジョヴァンニに目をつけられたみたい」
「なんだと⁉︎絵馬、何があった?」
紺炉の声が急に低くなる。その時、ガララと戸が開く音が響いた。
「帰ったぜェ」
顔を見なくても分かる。紅丸が詰所に戻ってきたのだ。
「どうした、紺炉?険しい顔をして」
「若……それが……」
私は顔を上げて紺炉を見る。そして、ゆっくりと紅丸の方に視線を移した。心の中でざわめきが広がるのを感じながら、言葉を続ける。
「二人に話したいことがあるの」
私たちは静かに場所を変え、襖が少し開かれた一室の前にたどり着いた。襖に手をかけ、そっと中に入る。そこには、壁にかけられた第8の防火服や、墨絵で描かれた動物の水墨画、さらには掛け軸が飾られている。畳の上には、動物図鑑や水墨画の道具類、そして不出来な絵が端っこに追いやられていた。ここは私の部屋だ。
二人との距離が近づくように、向かい合う形で座布団を敷く。先に私が座ってから、紅丸と紺炉が一つずつその上に腰を下ろした。胡座をかく紅丸は、真っ直ぐに私の目を見据えた。
「それで、話してェことはなんだ?」
「今日のことなんだけど……」
私はヴァルカンの事件についてと、火華大隊長とカリムにから聞いた真実を正直に語る。二人は、私の告白が終わるまで、一言も発さずに神妙な面持ちで聞いてくれた。
「……ということなんだ」
話が終わると、しばしの沈黙が部屋を包んだ。その沈黙を破ったのは、腕を組んだままの紺炉だった。
「さっきお前ェさんが言っていた、”目をつけられた”とはそういう意味だったんだな?」
私は姿勢を正し、ゆっくりと頷く。
「それで合ってるよ」
「第1の中隊長って奴が絵馬の代わりに情報を集めてくれるらしいが、本当かァ?結局、嘘を言っているんじゃねェのか?」
第8とは兄弟の盃を交わした間柄だから、信頼はある。一方で、他の隊に対しては警戒心が強い。紅丸はカリムの言葉を疑う目で私をじっと見つめた。
「その中隊長はカリムで、この前の第1の事件で協力してくれた人だよ。大隊長会議の時も、私達を道案内してくれた」
「あいつか」
紅丸はカリムの顔を思い出したようで、少し表情が緩む。彼の疑念が薄れ始めているのを感じる。
「だから、信用してもいいと思うよ。それと、3日後に第5の大隊長と第1の中隊長のカリム、そして私たち第7と第8の合同会議があるって聞いている?」
「そんな話を、第8の大隊長さんが言ってたな」
紅丸がぽつりと呟くと、紺炉が片手を挙げて告げた。
「その会議には、紅の代わりに俺が参加しようと思う。絵馬はどうする?」
「私ももちろん、会議には参加したいと思ってたけど……いいかな?」
「構わねェよ。なら、決まりだな。若は留守番を頼む」
「……おう」
話は終わり、解散という流れに向かっていく。紅丸が座布団から腰を浮かせたのを、ぼーっと眺めていた。その瞬間、彼がこちらに手を伸ばしてきた。そして、右頬に体温を感じた。
「顔に傷ができているじゃねェか……。待ってろ、救急箱持ってくる」
紅丸の手が私の右頬を優しく包み込み、親指でそっと傷跡を撫でた。頬から手を離した紅丸は、何事もなかったかのように部屋を出て行く。
触れられた右頬が熱い。心臓が早鐘のように強く打っているのを感じ、ギギギと機械のように紺炉に視線を向ける。
「邪魔者は、さっさと退散するとするか」
紺炉はそう言いながら立ち上がった。その瞬間、私は咄嗟に、倒れ込むように両手で紺炉の片足首を掴んだ。
「まっ、待って!この状況で私を置いていかないで!」
「紅から待ってろと言われたんだろ?なら、待っとかねェとな」
紺炉は私の両手を軽くポンポンと叩いた。この手を離せというのか。血が頭に上り、顔が赤くなっていくのがわかる。
「ム、ムリィ!!紺炉、もう少しだけ一緒にいて!」
「絵馬、覚悟を決めろや、覚悟をォ」
紺炉は私の顔を見て微笑みながら、私の両手をゆっくりと解いていく。その笑みの裏に秘められた優しさを感じながらも、私の切実な願いを聞き入れてはくれなかった。