第弐章
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強風が吹き、草木がざわざわと音を立てる。傾いた陽が影法師を細長く斜めに地に映す。空を見上げると、夕暮れの気配が薄れ、夜の気配がじわりと混じり始めていた。その静けさが、どこか不穏な空気を帯びているように感じられた。
「絵馬」
カリムの声が、風に掻き消されそうになりながらも、私の耳に届く。私は空から彼へと視線を戻した。
「履歴書の漏洩について、漏洩の出どころを俺が探す」
「カリムには関係ないから、大丈夫だよ」
「俺には関係ないけど関係ないが、関係がある絵馬はどうやって漏洩の出どころを調べるつもりだ?」
カリムの言葉は冷徹だが、そこに少しの優しさが感じられる。私は少しの間、考え込み、ゆっくりと口を開く。
「どうやって調べるか、まだ考えてないけど、とりあえず第1教会の事務所に……」
その言葉を発した瞬間、カリムは大きなため息をついた。まるで、私の考えが予想以上に浅はかだったことを伝えるかのようだった。そのため息が、私の中に小さな苛立ちを引き起こす。
「何?事務所じゃないの?」
「間違ってないが……そうじゃない」
カリムは首を左右に振り、冷静な目で私を見つめる。
「よく考えてみろ。仮に第1教会の事務所から履歴書が漏洩したとする。その間、もしワガママ女が事務所に入り続けていたら、どうなる?」
「入り続けたら……?そりゃあ、第1に関係ない第7の小隊長の私がいたら、周りは驚くだろうね」
自分でもその答えが正しいと思う。だが、それはほんの一部の答えに過ぎないと、どこかで感じていた。
「だろうな。それと、もう一つ……」
カリムは言葉を区切り、真剣な目で私を見つめる。
「その行動が、敵に俺たちの情報をバラしてしまうことになる」
「どういうこと?」
思わず声が大きくなってしまった。その言葉に、私の心は一気に焦りを増した。
「ワガママ女の履歴書は、すでに何枚かコピーされて、敵の手に渡っているはずだ。その事実については、敵しか知らないハズ。なのに、そこにワガママ女がその履歴書を探し、探すワガママ女の姿が注目されたら、どうなる?」
「……敵が漏洩していることに気づく」
カリムは私の返答を待っていたように、静かに頷いた。その後、少しの間をおいて、真剣な表情がさらに深くなる。
「そういうことだ。消防隊の中には、まだ敵が潜んでいるかもしれない。だから、迂闊な行動はせず、絵馬は今まで通りに過ごしていろ」
その言葉が、まるで冷水を浴びたように私の心に染み渡った。行動を慎むべきだという警告。私が何も考えずに動いてしまえば、敵に気づかれ、さらなる事態を招くかもしれないという事実。よく考えれば、私はずっと第7と第8を自由に行き来していた。それに甘えていた自分がいたのかもしれない。だが、これからはもっと慎重に動くべきだと心の中で決めた。
「分かった。私の履歴書の件は、カリムに託すよ」
「あぁ、任せろ」
カリムは神父服のポケットからハンドベルを取り出し、音を鳴らした。その音が静かな空間に響き渡ると、ふと右頬に冷たい感触を覚えた。手で触れると、そこには氷の薄い膜のようなものが張っていた。冷たさが肌を刺すように感じられる。
「家に帰ったら、消毒しとけよ」
カリムは軽く言い捨てると、くるりと背を向け、その場を去る。その姿を見送りながら、私は彼の残した言葉が心に深く残るのを感じていた。
それが、単なる軽い言葉ではないことを、私はすぐに理解した。そして、彼が今まで以上に私を気にしていることを、強く感じ取ることができた。
浅草に戻り、土間で防火靴を脱いでいると、目の前の戸が突然開いた。紺炉が風呂敷を抱えて、詰所に入ってきた。彼は私を見つけると、声をかけてきた。
「絵馬、聞いたぜ。第3の大隊長とやり合ったらしいな」と言った。
「桜備大隊長から聞いたの?」
「まぁな、電話が入ったからな」
紺炉は板敷に腰を下ろし、風呂敷を隣に置くと、同じように防火靴を脱ぎ始めた。その動きは、まるで何もかもが平常であるかのように自然だったが、私の心はざわついていた。目線を合わせることなく、私はただじっと脱いだ防火靴を見つめていた。
そして、口を開く。
「紺炉。確信はもてないけど、どうやら私は……Dr.ジョヴァンニに目をつけられたみたい」
「なんだと⁉︎絵馬、何があった?」
紺炉が一瞬で私に注目し、声を低くしてきた。その時、ガララと戸が開く音が響いた。
「帰ったぜェ」
その声を聞くと、私は顔を見なくても、紅丸が詰所に戻ってきたことが分かった。彼の足音が、さらにその確信を強める。
「どうした、紺炉?険しい顔をして」その声には何かを察したような鋭さが隠れているのが感じ取れた。
「若……それが……」
紺炉は言葉を切り、目を伏せた。その姿を見て、私はふと顔を上げ、ゆっくりと紅丸の方に視線を移した。
その瞬間、心の中でざわめきが広がるのを感じた。言葉を続けるべきか、どうすべきか。だが、結局、私は自分の考えを口にする決心を固めた。
「二人に話したいことがあるの」
私たちは静かに場所を変え、襖が少し開かれた一室の前にたどり着いた。襖に手をかけると、わずかな軋み音とともに、ゆっくりと中に入った。そこには、壁にかけられた第8の防火服、墨絵で描かれた動物たちの水墨画、さらには掛け軸が飾られていた。畳の上には、動物図鑑や水墨画の道具類、そして不出来な絵が端に追いやられている。ここは私の部屋だ。
私たちが向かい合う形で座布団を敷くと、最初に私が座り、その後に紅丸と紺炉が一つずつその上に腰を下ろした。紅丸は胡座をかいて、私をじっと見つめていた。目の前にあるのは、いままで何度も見た光景だが、今日はその視線に何かが違っていた。
「それで、話してェことはなんだ?」
「今日のことなんだけど……」
私は、ヴァルカンの事件と、火華大隊長とカリムから聞いた真実を、ありのままに語った。二人は、私の告白が終わるまで一言も発さず、静かな表情で聞き入っていた。
「……ということなんだ」
話が終わると、部屋はしばしの沈黙に包まれた。その沈黙を破ったのは、腕を組んだままの紺炉だった。
「さっきお前ェさんが言っていた、”目をつけられた”とはそういう意味だったんだな?」
私は姿勢を正し、ゆっくりと頷く。
「それで合ってるよ」
「第1の中隊長って奴が絵馬の代わりに情報を集めてくれるらしいが、本当かァ?結局、嘘を言っているんじゃねェのか?」
紅丸がカリムを疑っていることは明らかだった。第7と第8の間には、兄弟の盃を交わした信頼がある。しかし、それ以上に、他の隊に対しては警戒心が強い。紅丸は私をじっと見つめ、確証を求める目を向けてきた。
「その中隊長はカリムで、この前の第1の事件で協力してくれた人だよ。大隊長会議の時も、私たちを道案内してくれた」
「あいつか」
紅丸は少しだけ表情を緩め、カリムの顔を思い出したようだ。疑念が薄れ始めるのを、私は感じ取った。
「だから、信用してもいいと思うよ。それと、3日後に第5の大隊長と第1の中隊長のカリム、それに私たち第7と第8の合同会議があるって聞いている?」
「そんな話を、第8の大隊長さんが言ってたなァ」
紅丸がぽつりと呟くと、紺炉が片手を挙げて告げた。
「その会議には、若の代わりに俺が参加しようと思う。絵馬はどうする?」
「私ももちろん、会議には参加したいと思ってたけど……いいかな?」
「構わねェよ。なら、決まりだな。若は留守番を頼む」
「……おう」
話は終わり、解散へと向かっていった。紅丸が座布団から腰を浮かせたのを、ぼーっと眺めていた。突然、彼が手を伸ばしてきた。その手が、私の右頬に触れると、彼の体温とともに痛みがじんわりと広がった。
「顔に傷ができているじゃねェか……。待ってろ、救急箱持ってくる」
紅丸の手が私の頬を優しく包み込む。その温もりが体に広がる。親指で傷を撫でられ、思わず息を呑んだ。
その後、彼は何事もなかったかのように部屋を出て行った。右頬がまだ熱い。心臓が、まるでそれとは無関係のように早鐘を打ち、私の体を包み込む。ギギギと機械のように動く私の体は、何もできずにただ紺炉を見ていた。
「邪魔者は、さっさと退散するとするか」
紺炉はそう言いながら立ち上がった。私は咄嗟に倒れ込むように、紺炉の足首を掴んだ。
「まっ、待って!この状況で私を置いていかないで!」
「紅から待ってろと言われたんだろ?なら、待っとかねェとな」
紺炉は私の両手を軽くポンポンと叩いた。この手を離せというのか。血が上り、顔が熱くなった。それでも、手を離せなかった。
「ムリィ!! 紺炉、もうちょっとだけ一緒にいてくれよ!」
「覚悟決めろや、絵馬」
紺炉は私の顔を見て、微笑みながら私の両手を解いていった。その笑みの裏に優しさが滲む。それが、今の私には耐えられなかった。