第壱章
夢小説名前設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
ーー午後二十時四十五分。
車に設置された置き時計の針が、静かに時を刻んでいる。浅草の門の少し手前で降り、私は足を踏み出す。門をくぐり、門番に軽く会釈をして詰所に向かって歩く。少し歩いた先に、修繕工事された家が数件と、抉られたような地面の跡が目に入る。
そう言えば、リィ中隊長と別れる前に、全消防隊の管轄地で“焔ビト”が同時発生したという連絡を受けたのを思い出す。リィ中隊長が言っていた、“いつもとは違った”焔ビト――。その言葉が耳に残る。今回は、いつもより大きな“焔ビト”だったのだろうか。
紅丸たちは大丈夫だろうか。
心配が胸をよぎり、足元が自然と速くなる。早足から駆け足へと、私は知らず知らずのうちに急いでいた。
詰所が見えた。灯りが点いているのを見て、誰かが作業していることがわかる。詰所の戸を開けると、浴衣姿の紅丸が土間近くの板敷に座っており、私に気づいた。
ホッと胸を撫で下ろす。紅丸は怪我していない様子だ。
しかし、紅丸は眉を顰め、少し怒ったように言った。
「遅ェぞ、絵馬」
その言葉に、私はハッとする。そうだった。桜備大隊長に書類を渡し、昼頃には浅草に戻るつもりだった。だが、星宮中隊長の件があったことで、気づけばこんな時間になってしまっていた。
「絵馬。今まで何処ほっついていやがった?」
紅丸の口調が強くなる。まるで、長い間いなくて心配をかけたことを責められているようだ。紺炉にも連絡せずにいなくなっていたから、紅丸が怒るのも当然だろう。
「た、ただいま、紅丸。……第1に用事が出来ちゃって……そのまま第1に……」
「第1にだと?」
紅丸の鋭い瞳が私を睨む。ああ、やっぱり彼は相当怒っている。詰所に一本電話を入れておけばよかったな、と思うが、もう遅い。仕方ない。私は素直に謝ることにした。
「う、うん。第1に……遅くなってごめんなさい、紅丸」
紅丸は何も言わず、板敷から腰を上げて立ち、こちらに近づいてきた。私の前に立つと、何も言わずに私の左腕に視線を落とした。
「……腕の血、どうした?」
「腕?」
私もその視線を追い、左腕を見ると、つなぎの肘辺りに乾いた血痕がこびりついているのを見つけた。ああ、これはリィ中隊長を支えた時に付いた血だろう。
紅丸に説明しようと口を開こうとした瞬間、思いもよらない言葉が口から飛び出した。
「えっ⁉︎ちょっ……紅丸ッ!⁉︎」
「じっとしてろ」
紅丸は私の左手首を掴み、もう片方の手でつなぎの袖口を掴んで、私の肘が見えるようにそっと下ろしていった。そして、私の左腕をじっと真剣に見つめた。
「……怪我はねェな」
「……ないよ。第1の隊員を介助した時についた血だと思うから……」
その瞬間、星宮中隊長の冷たく硬直した姿が脳裏に浮かぶ。あの光景が、鮮明に蘇る。胸が苦しくなり、真剣に見つめる紅丸の顔を直視できなくて、私は思わず目を伏せる。
星宮中隊長の死体を目の前にした後、私の心の中で何かが変わった。カリムと同じように、何かが違ってしまった気がした。そして、信じていた人が裏切るのではないかという不安が、ふと頭をよぎる。さっきまで笑っていた人が、明日には敵となって立ち向かってくるかもしれない。そう思うと、頭の中がドス黒い渦のようにぐるぐると回り続けている。
「聞いてんのかァ、絵馬」
紅丸の声が、やっと私を現実に引き戻した。私はハッとして、俯いていた顔を上げる。
「ご、ごめん……ちょっと色々とあって、考えごとしてた。次から気をつけるよ、紅丸」
そう言って、私は紅丸から左手首を離してもらおうと、彼の腕を掴む。紅丸は少し力を込めて私の手首をギュッと握り、そして離すと、私を見つめた。その後、突然、両手で私の頬を掴み、横に引っ張ってきた。紅丸の指先が熱くて、事件の冷たさが一瞬溶けた気がした。
「いふぁいよ‼︎ぶぇにィ‼︎」
私は思わず声を出して叫んだが、紅丸には無視されているようだ。
「絵馬!」
その時、廊下から紺炉の声が私に向かってかけられた。
「こぅろ!ふぁふぁいま」
「遅く帰ってくるなら、連絡してくれ!心配するからよォ」
「ほへん……」
息を吐きながら、紺炉が土間近くまで歩み寄ってきた。
「若、絵馬の頬を離してやってくれねェか」
「怒らねェのか?」
紅丸は首だけで紺炉を振り向く。ふっと、紺炉が表情を緩ませた。
「もう、若が絵馬に怒って言ってんだろ?それで充分だ」
「…………」
紅丸は何も言わず、私の頬を離すと、土間から板敷に上がり込んだ。私が引っ張られた頬を触ると、じんわりとした熱が広がり、少し痛みが走った。
「絵馬。明日、俺の部屋に来い。紺炉もだ」
「おゥよ」
紅丸は少しだけこちらを見た後、部屋へと戻っていった。
紺炉は、紅丸が見えなくなるのを確認すると、こちらを振り向いて言った。
「あぁ見えて、一番心配していたのは、紅だからな。絵馬」
「紅丸が⁉︎」
思わず声が出てしまった。それで、土間近くで一人で座っていた理由がわかる。
「だから、遅くなったりするときには、俺が紅に一本連絡してくれよ」
紺炉に注意され、私は素直に頷いた。そして、紅丸に引っ張られた頬を、もう一度優しくさすった。