第参章
夢小説名前設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
私は大隊長室の重い木製のドアの前に立ち、ドアノブに手をかけたまま深呼吸して、ノックを二回。思ったより鋭い音が響いた。「どうぞ」と、アーグ大隊長の落ち着いた声が返ってきた。私はドアを押し開け、部屋に足を踏み入る。
部屋は異様な雰囲気だった。アーグ大隊長の事務机の背後、窓だったはずの場所には、雑に貼られたビニールシートが風に揺れ、隙間から冷たい外気が忍び込む。崩れた壁の破片が床の隅に積まれ、埃が薄く舞っている。アーグ大隊長は部屋の中心に立ち、こちらを振り返り、ソファーに座るシンラは、硬い表情で私を見上げた。
「失礼します」と私は言い、ドアを閉めた。
「少し遅くなってしまいました」
「いや、構わないよ。隊員たちの様子はどうだった?」アーグ大隊長が静かに尋ねる。
「アーグ中隊長が意識は正常、外傷も問題ないと言っていました」
「そうか……すまないね、十二小隊長に報告を依頼して」
私はソファーに近づきながら、二人の様子を伺う。「それは構いませんが……」埃っぽい空気を吸い込み、咳き込みそうになるのを堪えた。
「あの、絵馬さん」シンラが突然口を開いた。彼の声は、普段の軽快さとは裏腹に、どこかためらいがちだった。
「なに?」私は彼の前に立ち、視線を合わせる。
シンラは一瞬目を伏せ、膝の上で手を握りしめた。「絵馬さんは……”アドラリンク”したこと、ありますか?」
その言葉に、私の心臓が一瞬強く締め付けられた。「えっ」思わず声が漏れる。シンラの目は、真っ直ぐに私を捉え、逃がさない。
「……俺と”アドラリンク”してきた女が、言ったんです。懐かしいな、って」彼は言葉を続ける。「絵馬さん、あいつと会ったことあるんですか?」
過去の断片がフラッシュバックした時、目の前にいた人物。顔がぼやけた人物は女だったのか。「ない……って、言いたいけど……」私は言葉を濁し、シンラの視線を避けた。
「けど?」シンラが食い下がる。
「多分、”アドラリンク”したことがあると思う」私の声は、自分でも驚くほど静かだった。「でも、はっきりとは覚えてない。シンラの暴走を止めていた時、記憶の奥で何か……断片が閃いて、その時に思い出したんだ。シンラに言われるまで、その人物が女だと気づかなかった。でも、私も感じた。懐かしいって」
私は目を伏せ、床の埃を見つめながら、シンラの呼吸がわずかに速まるのを耳にする。
「十二小隊長、いや、絵馬君」アーグ大隊長が口を開いた。その声には、どこか嬉しそうな響きがあった。「君も見たのか……天使を」
私は顔を上げ、彼の目をまっすぐに見つめた。「天使? アーグ大隊長は、あの人物を天使と呼ぶんですか?」
「ああ、そう呼ぶ。絵馬君、君は伝導者の一味、白装束と出会うまで、過去の記憶を消されていたそうだな」
「はい……」
「それが、君が”アドラリンク”した時の洗礼なのだろう。私の顔にある聖痕のように」アーグ大隊長の声は、確信に満ちていた。
否定したい。こんな曖昧な話、受け入れたくない。喉に詰まる感覚、記憶の欠片が、まるで私を裏切るように、確かにそこにあった。
シンラがソファーから身を乗り出した。「いつですか⁉︎いつ、”アドラリンク”したんですか⁉︎」
「ごめん、シンラ……私にもわからない」私は首を振る。「本当に、断片しか見えなかったんだ」
シンラは肩を落とし、ソファーに背を預けた。だが、すぐに顔を上げ、真剣な目で私を見据えた。「絵馬さん、”アドラリンク”してきた女が俺にこう言ってきました。”アドラバースト”を持つ人間が新たに生まれるって」
「”アドラバースト”を持つ者が⁉︎それ、本当なの?」私は思わず声を上げ、シンラに一歩近づいた。心臓が再び強く脈打つ。
「はい」シンラは力強く頷く。
アーグ大隊長が静かに口を開いた。「私も聞いている。その件について、伝導者も気づいているようだ。十二小隊長、君はどう考える?」
「私も一旦、第7にこの話を持ち帰ります」
「そうか」アーグ大隊長は低く呟き、視線をビニールシートに移した。
「では、私たちは今から第8に戻ります。行こうか、シンラ」私はシンラに視線を投げ、ドアの方へ歩き出す。
「はい」
シンラは立ち上がり、私の後に続いた。
大隊長室の重い木製のドアを押し開け、廊下の冷たい空気に足を踏み出した。私は振り返り、シンラが学生帽を手にぎこちなく頭を下げるのを見る。「本日は、ご迷惑をおかけしました。始末書は後日提出しますので」
「構わん。このぐらいはごまかしておくよ。お陰で、またアドラを垣間見ることができた」
シンラがふと足を止め、振り返った。「最後に、ひとついいですか?なんで、アドラを見たんだと思いますか?」
その言葉に私も立ち止まり、振り返る。
アーグ大隊長の眼鏡の奥の目が一瞬鋭く光り、すぐに柔らかくなった。「私は、あの大災害で真理に近づいたそれ故だろう……」彼はそれだけを言い、口を閉じた。言葉の後ろに隠された重さが、廊下の空気に沈殿する。
「そうですか」シンラは小さく呟いた。
私はシンラの肩を軽く叩き、廊下を歩き出した。靴音が廊下に小さく反響し、背後で大隊長室のビニールシートがバタリと鳴る音が遠ざかっていくのを感じた。
第4特殊消防所の門をくぐり、街路に足を踏み出した。空は少し茜色に染まり、遠くの家々が黒いシルエットに浮かぶ。アーグ中隊長が軽快な足取りで私たちと並び、四つ角の交差点でふと立ち止まった。「それでは、私はこれで」
私も足を止め、振り返った。「アーグ中隊長、シンラとアーサーの治療、本当にありがとうございました」私は軽く頭を下げ、言葉に心からの感謝を込めた。
「ご迷惑をおかけしました」シンラも私の横で足を止める。
「いえ、久しぶりに祖父に会えてよかったです。第6は、これからも皆さんに協力していきますよ!」
私たちはアーグ中隊長と別れ、第8へ向けて再び歩き出した。舗道の石畳が靴底に小さく響き、通りを行き交う人々のざわめきが遠くに聞こえる。シンラが先頭を歩き、アーサーが私の隣で長身を揺らしながら黙々と進む。
しばらく歩いたところで、アーサーがふと重いため息を吐き、先頭のシンラに声をかけた。
「面倒をかけやがって……。俺と絵馬がいなかったらどうなってたんだよ」
「アーサー……」私は小さく呟き、彼の横顔をちらりと見た。彼の言っていることは間違っていない。シンラのアドラバーストの暴発が、今日の騒動を引き起こしたのだから。
シンラは首だけ振り返り、意外にも素直な声で答えた。「……あぁ、今回は悪かった……」
その言葉に、アーサーの動きが一瞬止まった。次の瞬間、彼は目を大きく見開き、腰のエクスカリバーを抜き放つ。刃先がシンラの首元スレスレで止まる。
「シンラがそんなに素直なハズがない!まだ内に誰かいるのか!」
「は⁉︎ふざけんな‼︎俺は結構素直だよ!テメェみたいな嫌な奴以外にはな!」
「二人とも、病み上がりなんだから! 街中で喧嘩しないで!アーサー、エクスカリバーを下ろして」私は慌てて二人の肩に手を置き、少し強引に引き離した。
アーサーはエクスカリバーを鞘に戻す。シンラは、ズレた学生帽を整えながら呟いた。
「何が真実かは考えてもわからねェ」彼の声は、どこか遠くを見るように静かだった。「それでも、ショウと母さんを助ける!五人目の”アドラバースト”の持ち主も守る!」
彼は右手を顔の横に掲げ、親指で自分を勢いよく指差した。「俺は、ヒーローだからな!」その言葉には、迷いを振り切るような力強さと、少年らしい純粋さが宿っていた。