第弐章
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「じゃあな、姉さん」
「浅草まで送ってくれてありがとう、ヴァルカン」
そう言って私は、ヴァルカンが運転しているマッチボックスから降りた。マッチボックスが街の風景に溶け込むように静かに停まる。ヴァルカンは言葉で答える代わりに、窓を少しだけ下げて軽く手を振った。
「絵馬さん、お見舞いありがとうございました」
「シンラ、第8に着いたら、まずは部屋でしっかり休むんだよ。無理は絶対ダメだからね」
「はい!」
助手席に座るシンラがこちらを見下ろして頷く。その声にはまだ疲れが残っているものの、どこか元気を取り戻したような明るさがあった。
ヴァルカンがエンジンをかけ直すと、マッチボックスは静かに再び動き出した。車の音が徐々に遠ざかり、私の耳に残るのは浅草の喧騒だけ。見送る私の視線は、車が町の風景に溶け込むまでその後ろ姿を追い続けた。
振り返ると、目の前に雷門がそびえ立っていた。大きな赤い提灯が、そよ風にゆらゆらと揺れている。私は両手を頬に当て、パンと軽く叩いた。「よし、絵馬、気合いを入れろ」と自分に言い聞かせる。
「紅丸と……これからデートだ。いや、これはデートだげどデートじゃない。七曜表、ヌードカレンダーで1位を取るための作戦だ。平常心、平常心……」
心を落ち着けながら、私は雷門をくぐった。
詰所の戸をガララと開け、のれんを捲ると、静かな空間に私の声が響いた。
「ただいまーー」
その声は、まるで町の喧騒を切り裂くように大きく、しかしどこか温かく響いた。部屋の中では、紅丸が土間近くの板敷に座り、目を細めてこちらを見上げていた。紺炉も作業の手を止めて顔を上げ、私の帰還を確認するようにじっと見つめた。
「おう、おかえり」と紅丸が、いつものぶっきらぼうな口調で言った。
「ただいま、紅丸、紺炉!紅丸、すぐ着替えてくるから、少し待っててね!」私はそう告げると、急いで部屋に戻る準備を始めた。心の中では、すでに次の行動を計画しつつあった。
「おう」と紅丸は短く答えたが、その様子には何の疑いもなさそうだった。
「若、俺はこれから夕飯の準備をしてくる」と言って、紺炉は作業場から立ち上がる。
私は紺炉と一瞬だけ目を合わせ、暗黙の了解を交わした。その瞬間、私たちの間に流れる空気は、まるで秘密の契約を結ぶような緊張感に満ちていた。
「良いか、絵馬」
「うん、分かっている」私は口の中で念を押すように答える。
台所では、紺炉が夕飯の準備を始めていた。私はその隣にそっと並び、手を洗うふりをしながら、頭の中で次の行動を整理した。紺炉の声が、低く、しかし確信に満ちた口調で私の耳に届いた。
「絵馬と若と出かけてしばらくしたら、俺もカメラを持って後を追う。ある程度楽しんだところで、絵馬、若を銭湯に誘導してくれ。銭湯に入ったら、隙を見て真正面から若の鍛え上げられた肉体美をバッチリ撮るからよ」
「任せたよ、紺炉」私は小さく頷き、彼の言葉に力を込めて答えた。
その時、台所ののれんが捲れる音がした。ほぼ同時に、紅丸の声が部屋に響き渡った。
「おい、絵馬。まだか?」
私は一瞬、心臓が跳ね上がるような驚きを感じた。だが、すぐに冷静さを取り戻す。紺炉も手を止め、私をちらりと見る。顔に焦りが浮かばないよう、意識的に深呼吸を一つ。心臓の鼓動が速くなるのを抑えながら、平静を装って答えた。
「すぐに行くから待ってて」
紺炉もまた、普通を装いながら声を上げた。「気ぃつけろよーー」
「はーい、行ってくるね!」私は明るく答え、紅丸の手首を軽く掴んだ。動きは自然に、無理なく。無駄な感情を見せないよう、細心の注意を払った。目配せで紺炉に合図を送り、計画が順調に進むことを確認する。
紅丸が気づく前に、この状況をなんとか切り抜けなければならない。心の中でその言葉を繰り返し、台所を離れる。何事もなかったかのように、紅丸の手を引いて部屋を出た。
紅丸の手首を掴んだまま、私は詰所を飛び出し、足早に浅草の通りを進んだ。
「絵馬、何処に行きてぇんだ?」紅丸の声には、ほんの少し疑念が混じっているように感じられた。その鋭い視線が、私の背中に突き刺さるようだった。
「そうだね、まずはお婆ちゃんの大福を食べに行きたい!」私は何気ない口調で答えたが、内心では別のことを考えていた。計画を進めるための、自然な流れを作らなければならない。
「ババアの大福好きだな……」紅丸は呆れたように呟いたが、足取りは変わらず私の後をついてくる。その反応に、私は内心でほっと息をついた。
「だって、最初に紅丸と出会った場所だし、お婆ちゃんの大福は浅草一だよ!」
私は顔を上げ、紅丸に微笑みかけた。その瞬間、彼の口元がほんの少し緩んだ気がした。
「そうだな」紅丸の言葉には、どこか安堵したような響きがあった。
「あっ、紅丸、笑った!」
「ジロジロ人の顔を見んじゃねェよ」紅丸は少し照れ隠しをして、顔をそむける。
その反応に、私は小さく笑いながら、さらに歩を進めた。
「寄ってらっしゃい、見てらっしゃい!美味しい団子だよ‼︎」
街角に小さな屋台が目に入った。見慣れたその屋台には、「団子」と大きく書かれた流れ旗が揺れている。私はそれを指差し、紅丸に言った。
「紅丸!団子屋だよ!大福の前に、ちょっと団子でも食べていこうよ」
「好きにしろ」紅丸は淡々と答えたが、その表情には反対する気配はなかった。
私はその言葉に甘え、紅丸の手首を引っ張って屋台に駆け寄った。足取りを軽くしながら、屋台の近くまで走る。
「おじさん!団子を一つ、ちょうだい!」
「ああ、若とお嬢じゃねえか。今日は二人で巡回か?」店主は私たちを交互に見ながら、にやりと笑った。
「あっ、えーっと……。巡回じゃなくてーー」私は慌てて訂正しようとしたが、紅丸が冷静に割り込んだ。
「今日は非番だ」
「そうか、たまには息抜きも必要だな」店主は大きく頷くと、私たちに串団子を二つ手渡した。
「はいよ」
「えっ、団子を一つって……」
「いつも浅草を守ってくれてんだろ。今日は1個オマケだ。気にすんな」
店主の温かい言葉に、私は少し戸惑いながらも、串団子を二つ受け取った。
「だとよ」
紅丸は、私の手首を軽く引き寄せ、串団子をひとつ、またひとつと食べていく。途中で、私の手からも串団子を受け取ると、そのまま黙って食べ続けた。
その一連の動作に、私は一瞬、言葉を失った。
「悪くねェ」紅丸は、冷静に感想を漏らす。
「あいよ」店主は嬉しそうに笑った。その笑顔が、どこか温かい。
「絵馬、食わねェのか?」
「えっ⁉︎た、食べるよ!もちろん!」
私は、紅丸に見とれていた自分に気づき、急いで団子を食べることにした。あまりにも無意識に見入っていたことを、少し恥ずかしく感じていた。
団子を口に運びながら、私は何気なく思った。彼の振る舞いが、あまりにも自然すぎて、私の心を知らぬ間に占めていくことに、少しだけ驚いていた。
「よく来たね、紅丸ちゃん、絵馬ちゃん」
お婆ちゃんが、笑顔で私たちを迎え入れてくれた。その笑顔には、長年の付き合いがあるからこその温かさが感じられ、私は自然と安心感に包まれる。紅丸は、店内に入らず、外に設置された長椅子に腰を下ろすと言った。私はお婆ちゃんに注文を伝えることにした。
「お婆ちゃん、遊びに来たよ!いつもの大福を二つちょうだい!」
「はいはい。お茶も用意するから、ちょっと待っててね」
お婆ちゃんは嬉しそうに言いながら、店の奥へと向かう。その後ろ姿に、私は思わず微笑んでしまう。彼女は本当に、いつも変わらず、優しく迎えてくれる。
その温かな感情を胸に抱きながら、私は急ぐことなく、レジから後ろを振り返った。何気なく視線を移動させると、町内の様子が目に入る。少しだけ、目を止めた。
その時、私の視線がある物陰に吸い寄せられた。かなりの距離を置いて、こちらをじっと見守っている影が一つ。背筋がぴんと伸びる。
「紺炉だ……。カメラの準備が出来たんだね」呟きが、空気の中に溶けていく。
店外で紅丸が座っているのを見ても、彼はその影に気づいていないようだった。目の前を行き交う子供たちを、ただぼんやりと見守っている。その表情には、何も感じていないような無防備さが漂っている。
心の中で、少し息を呑む。紺炉が準備を整えたということは、計画通りに進めるということ。大福を食べ終わったら、紅丸を銭湯に誘う。それが私の今の目的だ。
「絵馬ちゃん」
お婆ちゃんの呼び声で、ふと我に返る。レジの方で、笑顔を浮かべたお婆ちゃんが私を見ていた。
「はい、大福2個とお茶ね」
「ありがとう、お婆ちゃん」
私はお盆を受け取り、そのまま店の戸を開けて外に出る。紅丸のところに向かうために、一歩踏み出した。
「紅丸、お待たせ!大福だよ」
「おぅ」紅丸は相変わらず、目の前を行き交う人々を眺めている。
私はその横にお盆を置いてから、隣に腰を下ろした。大福を手に取ると、無意識に息を吸い、口に運ぶ。
「んーー!美味しい〜!」
「そうか、それは良かったな」
紅丸は、湯呑みを手に取ってお茶をすする。彼の表情は何も変わらない。それでも、紅丸の言葉にはどこか穏やかな響きがあった。
大福を食べていると、店の外で仕事終わりの火消しの三人が私たちに気づき、近寄ってくるのが見えた。自然に顔を上げ、彼らを目で追った。
「若、絵馬小隊長!お疲れ様です」
「今日は若と絵馬ちゃんの二人か?紺ちゃんはどした?」
壮年の火消しが、紺炉がいないことに気づいて尋ねてきた。紅丸が、少しだけ間をおいてから答える。
「紺炉は詰所で夕飯を作っている」
「おお、そうか!これから、俺たちは銭湯に行こうと思ってんだが……若たちも来るか?」
その提案に、私は瞬時に反応した。チャンスだ。自然に紅丸を誘える流れが来た。
「いいね、行きたい!紅丸、銭湯に行こう!」
「おい、まだーー」紅丸が、少し驚いたようにこちらを見た。
「じゃあ、俺らは先に行くから二人で楽しんでから来いよ」
壮年の火消しは、笑いながら、青年の火消しの肩を組んで銭湯へと向かっていった。もう一人の青年の火消しは、詰所へと戻るようだ。
私は、急いで残りの大福を口に運び、紅丸の手首を掴んだ。
「紅丸、行こう!」
紅丸は少しだけ力を入れて、私の手を振り払うことなく立ち上がり、そのまま私に続いて歩き始めた。
「おい、絵馬」
「ん?なに……って、ちょっ⁉︎」
その呼び声に、私は足を止めて振り返った。だが、瞬時に何かが違うことに気づく。紅丸が無言で、強引に私の手を引いて家同士の狭い隙間へと引きずり込んだ。
「なにを隠していやがる?」
向かい合うように立つ紅丸。突然、冷徹な視線を向けられ、私はその問いに戸惑った。紅丸の目は、何かを見抜くように鋭く、私の動揺を察しているようだ。私は必死に言葉を絞り出す。
「えっ⁉︎……なにも、隠してないけどーー」
「目が泳いでいるぞ」
その一言で、私は自分の目がどこか定まっていないことに気づく。無意識に目を伏せ、焦りが隠しきれない。どうにか誤魔化そうとするが、言葉が出てこない。
「気のせいだよ、紅丸!私は、ただ一緒に紅丸と出掛けたいだけだよ」
「そうか。……じゃあ、俺らの後ろをさっきからコソコソとついて来る紺炉は、どう説明するんだ?」
「えー……っと、そ、それはーー」私は言い訳をしようと口を開いたその瞬間、紅丸の手が口元を覆い隠した。
「静かにしてろ」
紅丸の声が、低く、しかし確固たるものだった。私はその指示に従い、無言でうなずく。すると、外で聞こえてきた紺炉の声に、再び冷や汗が流れた。
「オイ、若はどこだ?」
「絵馬小隊長と一緒に、銭湯に行きましたよ」
青年の火消しが答えた。紺炉がカメラを持っていることに気づいた彼が、さらに尋ねる。
「今年も七曜表の時期ですかい?」
「どんなもんであれ皇国のクソッたれどもに、第7が負けるわけにはいかねェ。俺が、こいつでいい写真を撮ってくるぜ」
「期待してますぜ、紺炉中隊長!」
青年の火消しの声が次第に遠ざかる。足音が近づくのがわかる。その音が紺炉だと確信できた時、紅丸が突然、私から手を離して言った。
「オイ……」紅丸は紺炉をじっと見つめ、言葉を続けた。
「去年は、よくもやってくれたな……。絵馬と共犯しやがって、気がついてねェと思ったか?あ⁉︎」
「紺炉、ごめん……」私は紺炉に、作戦が失敗したことを謝るが、それはもう遅い。
「みんな、待ってんだよ……。誰もが納得する肝っ玉のでっけェ男をよ。この浅草で、そんな男、一人しかいねェーー……。迷うだけ時間の無駄だ‼︎」
紺炉が急に振り向き、紅丸の胸ぐらを掴んだ。二人の額が激しくぶつかる。
「お前がやるんだよ‼︎紅丸‼︎」
「俺が……」紅丸はその言葉に、驚きと戸惑いの色を見せる。しかしすぐに、反応が返ってきた。
「って、ふざけんな!そのカメラよこせ‼︎俺が撮ってやる‼︎」
「ダメだ、若‼︎若じゃなきゃダメなんだ‼︎わかるだろ⁉︎」
紅丸は紺炉の手からカメラを奪おうとするが、紺炉は必死にそのカメラを頭上で持ち上げ、死守しようとする。紺炉の目は、本気でカメラを守ろうとしている。その強い意志に、紅丸も一歩も引かず、二人の間に緊張が走った。
「絵馬‼︎」
突然、紺炉がカメラを投げてきた。私はそれを受け取ると、同時にシャッター音が響いた。カメラが動き、ジジジという音と共に、写真が現れた。その瞬間、時間が一瞬止まったように感じた。
その手に取った写真を見ていると、隙を狙って紅丸が私からカメラを奪い取った。
「若ッ!」
「今年は諦めるんだな、紺炉!」
紅丸はカメラを片手に持ち、もう片方の手で纏を取り出し、火をつけると、空に飛び上がっていった。私の視線は、その後ろ姿をただ見送るしかなかった。
「……ハァ、仕方ねェ。今日は諦めてまた出直すとするか。すまねェな、絵馬。また次も頼む……絵馬?」
「見て、紺炉」
私は手に持った写真を彼に見せた。紺炉はその写真を覗き込み、目を見開いた。
写真には、紅丸と紺炉が激しく取っ組み合っている瞬間が映っていた。お互いに法被を片肌ずつ脱ぎ、紅丸の肉体美と、包帯でぐるぐる巻きにされた紺炉の鍛え上げられた体が、まさに一瞬を切り取ったものだった。
「この写真、よく撮れていない?」
「そうだが……いや、ダメだ!若だけの写真を撮らねェと」
「じゃあ、この写真もらっても良い?」
「ああ、構わねェよ」
紺炉から許可を得た私は、嬉しさがこみ上げてきて、そのまま写真を法被のポケットに大切にしまい、心の中で、今日の出来事をそっと刻み込んだ。
ーーーーーー二章 完