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『軍司くん』
いつからか、登校してまず美術室に向かうのが習慣になっていた。気分次第で授業を受ける日もあれば、そのまま美術室でダラダラ過ごす時もある。今日は家にいても街をぶらついても鬱屈した気分が晴れなくて、何となく学校に来てしまった。
美術室や音楽室が集まる校舎に足を踏み入れる。昼間でも薄暗くて人気がなく、幽霊でも出るんじゃないかと思ってしまう。血の気の多いカラスたちの喧騒もここでは聞こえない。
教室に入って目につくのは壁に貼られたデッサン画。鈴蘭にも美術部が存在していた時期があったのだろうか。これを描いた生徒達は、今はどこで何をしているのか。
絵の上手い下手はよくわからないが、ヘルメットをかぶった像のデッサン画が一番気に入っている。いつだったか、その話を亜紀にしたら、軍神マルスの像だと教えてくれたっけ……。
「来てたんですか」
不意に背後から声をかけられた。
振り返らなくても声の主はわかる。
今は十希夫の顔を見たくなかった。見てしまえば、昨日の十希夫と亜紀の姿を思い出してしまうからだ。
亜紀とはとっくに別れていた。男と一緒にいても自分には関係のないことだ。
にもかかわらず、いざその光景を目の当たりにしたら、頭をぶん殴られたような衝撃を覚えた。
亜紀が自分以外の男と肩を並べ、楽しそうに笑っていたこと。
その相手が十希夫だったこと。
そして何より、二人を見て動揺してしまったこと。
目が合った時、きっと自分は死ぬほど情けない顔をしていたに違いない。亜紀の方も何か言いたげに表情を歪めたが、ふいと目をそらして踵を返したか思うとすたすたと歩いていった……。
回想を遮るように、再び呼びかけられる。
「軍司くん」
思わず後ろを振り向く。16歳の十希夫に、亜紀と二人で自分の後ろにくっついていた頃の十希夫の顔が重なる。
「勝負しよう、軍司くん」
耳を疑った。
勝負とはタイマンのことか。小学生の時に取っ組み合いのけんかになって負かして以来、十希夫と殴り合ったことなどない。
「俺はあんたに勝って、亜紀ちゃんに好きだって言う」
「……何?」
喧嘩に明け暮れ、ともすれば彼女のことなどほったらかしになりがちな中で、二人の間を取り持ってくれたのが、ほかならぬ十希夫だった。ある時は亜紀の誕生日が近いことを教えてくれたり、ある時はデートの約束をすっぽかしてしまった軍司に『素直に謝るしかないっスよ』と助言してくれたり。
「もっと早く、こうすればよかったんだ」
「何言ってるんだ、お前……」
覚悟を決めたような晴れ晴れとした面持ちの十希夫とは対照的に、軍司は明らかに狼狽えている。
亜紀のことが好きだって?
どうして今まで黙っていたんだ。
どうして今になって……。
「だから、あんたが勝ったらちゃんと自分の気持ち伝えろよ」
「……そんなこと」
やっとの思いで声を絞り出す。
「俺に勝つとか勝たないとか関係ないだろう」
いつもは低くよく通る声も、鉛を飲み込んだように重く沈んでいる。
「亜紀とはとっくに別れて……」
次の瞬間には左頬に右ストレートが叩き込まれた。不意を突かれたため防ぎようもなく、ぐらりと身体が傾く。体勢を立て直す間もなく、腹に膝蹴りを食らい、椅子を巻き添えにして床に倒れこんだ。
「ぐっ……」
まだ事態を飲み込めず、のろのろと顔を上げる。いつになく険しい表情の十希夫が見下ろしている。
「未練タラタラのくせにすかしてんじゃねーよ」
その一言で目が覚めた。
腹を押さえながらもゆっくり立ち上がると、鈴蘭に入学して間もない頃のようなぎらぎらした目で十希夫を睨みつけた。
「軍司と十希夫が!?」
「マジで!?」
「み、見世物じゃねーぞ!」
どこから聞きつけたのか、野次馬たちが美術室の前に群がっている。軍司一派の者たちも、野次馬たちが室内に入ることだけは何とか食い止めてながらも内心は戸惑いを隠せない。十希夫は軍司の一の舎弟じゃないか。『マジで?』と言いたいのはこっちの方だ。
「バッカヤロー! 鈴蘭で喧嘩っつったら見世物だろーが!」
「うるせーな! 中の音聞こえねーじゃねーか!」
「今、どうなってんだー!?」
教室のドアががらりと開いた。
先ほどまでの喧騒が嘘のように一瞬でシンと静まり返り、全員がそちらに注目する。
扉の前に立っているのは軍司だった。顔のところどころが腫れているのを見ると、かなりてこずったようだ。
「邪魔だ」
まだ気が立っているのか、いつも以上にどすの効いた低い声で呟く。
その一言に全員が肝を冷やしさっと道を開けると、軍司は何も言わずに立ち去った。
軍司一派の一人がおそるおそる中を覗き込むと、奥の方で倒れている十希夫の姿が見えた。
「おう、十希夫。いつまで寝とるんや」
カラスたちはとうに解散した。ブッチャーのダミ声に促されても、十希夫は倒れたまま起き上がってこない。
今頃軍司は亜紀の家に向かっているに違いない。
昨日、街で偶然亜紀に会った。最初はお互いぎこちなかったものの、近況報告や幼いころの思い出話に花を咲かせているところを、これも偶然通りかかった軍司に見られてしまった。
その時、はっきり気づいてしまった。
口には出さないものの、軍司は亜紀を忘れていないことに。
そして亜紀も同じ気持ちであることに。
だけど。
(俺だって好きだったんだ)
軍司とつきあうずっと前から。
黙って身を引いたのがそもそも間違いだったのだ。
もっと早く、こうすればよかった。
(……バカだ)
(俺も、軍司くんも)
殴られなきゃ踏ん切りつけられないなんて。
ひょっとしたらと微かな望みを抱いていたがやっぱり軍司には勝てなかった悔しさと、自分の気持ちを伝えられないままに恋が終わってしまう悲しみと、でも心のどこかでこれでよかったんだと安堵する気持ちが入り混じって涙に変わり、目尻に滲む。
「……泣いとるんか?」
「……うるせーよ腐れチャーシュー」
「腐っとらんわ! ぶっ殺すぞてめー!」
ブッチャーの怒声が美術室の中でこだました。
いつからか、登校してまず美術室に向かうのが習慣になっていた。気分次第で授業を受ける日もあれば、そのまま美術室でダラダラ過ごす時もある。今日は家にいても街をぶらついても鬱屈した気分が晴れなくて、何となく学校に来てしまった。
美術室や音楽室が集まる校舎に足を踏み入れる。昼間でも薄暗くて人気がなく、幽霊でも出るんじゃないかと思ってしまう。血の気の多いカラスたちの喧騒もここでは聞こえない。
教室に入って目につくのは壁に貼られたデッサン画。鈴蘭にも美術部が存在していた時期があったのだろうか。これを描いた生徒達は、今はどこで何をしているのか。
絵の上手い下手はよくわからないが、ヘルメットをかぶった像のデッサン画が一番気に入っている。いつだったか、その話を亜紀にしたら、軍神マルスの像だと教えてくれたっけ……。
「来てたんですか」
不意に背後から声をかけられた。
振り返らなくても声の主はわかる。
今は十希夫の顔を見たくなかった。見てしまえば、昨日の十希夫と亜紀の姿を思い出してしまうからだ。
亜紀とはとっくに別れていた。男と一緒にいても自分には関係のないことだ。
にもかかわらず、いざその光景を目の当たりにしたら、頭をぶん殴られたような衝撃を覚えた。
亜紀が自分以外の男と肩を並べ、楽しそうに笑っていたこと。
その相手が十希夫だったこと。
そして何より、二人を見て動揺してしまったこと。
目が合った時、きっと自分は死ぬほど情けない顔をしていたに違いない。亜紀の方も何か言いたげに表情を歪めたが、ふいと目をそらして踵を返したか思うとすたすたと歩いていった……。
回想を遮るように、再び呼びかけられる。
「軍司くん」
思わず後ろを振り向く。16歳の十希夫に、亜紀と二人で自分の後ろにくっついていた頃の十希夫の顔が重なる。
「勝負しよう、軍司くん」
耳を疑った。
勝負とはタイマンのことか。小学生の時に取っ組み合いのけんかになって負かして以来、十希夫と殴り合ったことなどない。
「俺はあんたに勝って、亜紀ちゃんに好きだって言う」
「……何?」
喧嘩に明け暮れ、ともすれば彼女のことなどほったらかしになりがちな中で、二人の間を取り持ってくれたのが、ほかならぬ十希夫だった。ある時は亜紀の誕生日が近いことを教えてくれたり、ある時はデートの約束をすっぽかしてしまった軍司に『素直に謝るしかないっスよ』と助言してくれたり。
「もっと早く、こうすればよかったんだ」
「何言ってるんだ、お前……」
覚悟を決めたような晴れ晴れとした面持ちの十希夫とは対照的に、軍司は明らかに狼狽えている。
亜紀のことが好きだって?
どうして今まで黙っていたんだ。
どうして今になって……。
「だから、あんたが勝ったらちゃんと自分の気持ち伝えろよ」
「……そんなこと」
やっとの思いで声を絞り出す。
「俺に勝つとか勝たないとか関係ないだろう」
いつもは低くよく通る声も、鉛を飲み込んだように重く沈んでいる。
「亜紀とはとっくに別れて……」
次の瞬間には左頬に右ストレートが叩き込まれた。不意を突かれたため防ぎようもなく、ぐらりと身体が傾く。体勢を立て直す間もなく、腹に膝蹴りを食らい、椅子を巻き添えにして床に倒れこんだ。
「ぐっ……」
まだ事態を飲み込めず、のろのろと顔を上げる。いつになく険しい表情の十希夫が見下ろしている。
「未練タラタラのくせにすかしてんじゃねーよ」
その一言で目が覚めた。
腹を押さえながらもゆっくり立ち上がると、鈴蘭に入学して間もない頃のようなぎらぎらした目で十希夫を睨みつけた。
「軍司と十希夫が!?」
「マジで!?」
「み、見世物じゃねーぞ!」
どこから聞きつけたのか、野次馬たちが美術室の前に群がっている。軍司一派の者たちも、野次馬たちが室内に入ることだけは何とか食い止めてながらも内心は戸惑いを隠せない。十希夫は軍司の一の舎弟じゃないか。『マジで?』と言いたいのはこっちの方だ。
「バッカヤロー! 鈴蘭で喧嘩っつったら見世物だろーが!」
「うるせーな! 中の音聞こえねーじゃねーか!」
「今、どうなってんだー!?」
教室のドアががらりと開いた。
先ほどまでの喧騒が嘘のように一瞬でシンと静まり返り、全員がそちらに注目する。
扉の前に立っているのは軍司だった。顔のところどころが腫れているのを見ると、かなりてこずったようだ。
「邪魔だ」
まだ気が立っているのか、いつも以上にどすの効いた低い声で呟く。
その一言に全員が肝を冷やしさっと道を開けると、軍司は何も言わずに立ち去った。
軍司一派の一人がおそるおそる中を覗き込むと、奥の方で倒れている十希夫の姿が見えた。
「おう、十希夫。いつまで寝とるんや」
カラスたちはとうに解散した。ブッチャーのダミ声に促されても、十希夫は倒れたまま起き上がってこない。
今頃軍司は亜紀の家に向かっているに違いない。
昨日、街で偶然亜紀に会った。最初はお互いぎこちなかったものの、近況報告や幼いころの思い出話に花を咲かせているところを、これも偶然通りかかった軍司に見られてしまった。
その時、はっきり気づいてしまった。
口には出さないものの、軍司は亜紀を忘れていないことに。
そして亜紀も同じ気持ちであることに。
だけど。
(俺だって好きだったんだ)
軍司とつきあうずっと前から。
黙って身を引いたのがそもそも間違いだったのだ。
もっと早く、こうすればよかった。
(……バカだ)
(俺も、軍司くんも)
殴られなきゃ踏ん切りつけられないなんて。
ひょっとしたらと微かな望みを抱いていたがやっぱり軍司には勝てなかった悔しさと、自分の気持ちを伝えられないままに恋が終わってしまう悲しみと、でも心のどこかでこれでよかったんだと安堵する気持ちが入り混じって涙に変わり、目尻に滲む。
「……泣いとるんか?」
「……うるせーよ腐れチャーシュー」
「腐っとらんわ! ぶっ殺すぞてめー!」
ブッチャーの怒声が美術室の中でこだました。
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