花山夢
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春の嵐
今年も葉桜の季節になった。
志信は、勤め先の料亭の中庭に植えられた桜の木を見ながら、12年前のことを思い起こす。花山の家に来たのも、ちょうどこれくらいの時節だった。
15歳で花山家に引き取られた少女は12年経ち、普通の女になった。
当時7歳だった花山家の一人息子は12年経ち、普通じゃない男になった。
ある日、職場から帰ってきた志信は、自分に見合い話が来たことを女中頭の三枝から聞かされた。
相手は資産家の次男坊。父親が志信の勤め先の常連客で、志信を気に入ったという。
言われたみれば何度か接客した覚えはあり、やたら自分のことを褒めてくれるなあ、と思ったことはあった。息子には会ったこともない。
上司である店長が仲介人とあっては無下に断るわけにもいかないし、特に断る理由もない。
ひと通りの説明を聞き終えると、志信はおずおずと三枝に尋ねた。
「このこと、薫は…」
「もちろんご存知です」
三枝のメガネがきらりと光った。
志信は三枝に弱い。母親が三枝の指導の下で働いていたこと、12年前に最初は誰も取り合わなかった祖母の話を三枝だけが信じてくれたことを祖母から聞かされており、どうにも頭が上がらないのである。
きっと、見合いの話も三枝から言うようにと花山から指示があったのだろう。自分が言うよりも三枝からの方が聞いてもらえるだろうと。
(薫、逃げたな…)
「こちらが先方からお預かりした資料です。お写真と、釣書、家族書、親族書、健康診断書です」
目の前でばさばさと紙を広げられた。それらに目を通しながら
「こういう時って本当のこと書いた方がいいですよね?」
「?」
「私が父親から認知されてないとか、身内に暴力団関係者がいるってこととか…」
「隠していてもいずれわかることですから、最初からお伝えした方がよろしいかと」
「ですよね…」
「ではお嬢様も資料を用意することでよろしゅうございますね?」
「はい…」
「写真はカメラマンを手配するとして…釣書は家内で達筆な者…西根か木野にでも書かせましょうか…」
三枝の頭の中は早くも資料準備に取りかかっている。
乗り気なところ申し訳ないが、身内に暴力団関係者がいると知ったら先方もすぐさま断ってくるだろう、と志信はたかをくくっていたが、そうは問屋が卸さなかった。
見合い用の写真を用意するのに思ったより時間がかかり、先方に志信の資料が渡ったのは、それから数週間も後になってしまった。
三枝から「先方から『ぜひお会いしたい』とのお返事があったそうです」と聞いた時は思わず「ええっ!?」と大声を張り上げてしまった。
「そこまで驚かれなくても…」
「いや、絶対断られると思ってたから…」
「では日取りを決めることでよろしゅうございますね?」
「はあ…」
志信の見合い話が着々と進んでいく中、花山は落ち着かなかった。
見合い話を三枝から聞かされた時、頭を強く殴られたような衝撃を受けた。
志信はずっとこの家に、自分のそばにいるものだと思い込んでいたことに気がつく。
考えるまでもなく志信は27歳の適齢期(死語)、いつ結婚の話になってもおかしくはない。しかもやくざ者の私生児とわかっていながら会いたいということは、向こうも相当本気のようだ。
志信が結婚するかもしれない。そう思うと居ても立っても居られなくなり、家から新宿の事務所まで全速力で駆け抜けたい衝動に駆られる。
なぜだ?
甥として喜ぶべきことだ。
それなのにちっとも喜ばしくない。
…結婚したらこの家を出ていくのだろうか?
それは困る。
…何で困るんだ?
「ずっと一緒にいる」と約束したじゃないか。
…忘れてしまったのだろうか。
答えの出ない自問自答を延々と繰り返している。
志信と向かい合って夕食を取っている今も。
「お見合いのことなんだけどさあ」
内心を見透かされたような話題を振られ、一瞬食事の手が止まってしまった。
「…」
花山は何事もなかったように、食事を続ける。
志信は、ちょっとコンビニまで牛乳買ってきて、と頼むのと同じくらいの軽い口調で続ける。
「一緒に来てくれない?」
「…?」
「だから、お見合いの時」
その真意を図りかねて思わず顔を上げた。志信はもしゃもしゃとハンバーグを食べている。
「本人だけじゃなくて、付添人が必要なんだって。ふつうは両親らしいんだけど、ほら、私、親いないし。それに、薫のことも知っといてもらった方がいいかなーと思って。…たった一人の身内なんだし」
身内。
その言葉がぐさりと胸に突き刺さる。
「…わかった」
「ありがとう。じゃあ後で候補日言うから、予定教えて」
花山は黙って頷いた。
お見合い当日。
いつも通り朝食を取り、花山は身支度を整えた。
今日はいつもの白いスーツではなく、ダークグレーのスーツに着替える。
髭の剃り残しはない。
爪は昨日切った。
タバコを吸うのはやめておこう。
もやもやと抱いていた思いも、見合いに同席することが決まったら吹っ切れた。
俺は志信の唯一の親族だ。
自分のせいで見合いが破談にならないよう、先方に対して失礼がないように振る舞うこと、これが俺の役割だ。
女中が志信も支度が終わったと伝えに来たので、花山は部屋を出て玄関に向かった。
玄関にはよく磨かれた茶色の革靴の横に、女ものの草履が置かれている。
「お待たせ…」
振り向くと、水色の訪問着を着た志信が立っていた。いつも垂らしている髪がアップでまとめられているため、白い首筋が露わになっている。
着物姿は毎年正月に見ているが、初めて見る訪問着だった。
志信もいつもと違ういでたちの花山に、
「そんなスーツ持ってたんだ。似合ってるよ」
「…行くか」
「うん」
送りの車の中で、二人はしばらく無言だった。
見合いもだが、花山と二人きりになったかと思うと、志信はそっちの方に緊張してきた。
厳密には二人きりではないが、ドライバーの椋本は口が堅いので、車内の会話を誰かに漏らすことはないだろう。
「一緒に出かけるの、久しぶりだね」
「…そうだな」
最後に二人で外出したのがいつだったか思い出せないくらいの久しぶりだ。
会話が途切れた。
次に口を開いたのは花山だった。
「…結婚したら、家を出るのか?」
「え? まだ結婚するって決まったわけじゃ…」
と言いながら、志信の頭の中にあることが浮かんだが、それには気づかないふりをして
「…そうだね。でも、離れて暮らしたって付き合いは続くよ。身内なんだし」
自分の求めていた答えとは違っていたが、花山は「…そうか」と答えるしかなかった。
ホテルのラウンジは異様な空気に包まれていた。
見合い相手も、付添いの両親も、仲介人である志信の上司も、ラウンジの他の利用客までも、花山の巨体と威圧感に圧倒されていた。
無理もない。190.5センチ、166キロと人並み外れた体格に、顔に深く刻まれた二つの疵。
花山の家のことは包み隠さず先方に伝えていたが、まさかここまですごいのが来るとは思っていなかっただろう。本日の主役である志信のことなどまるで眼中に入っていないようだった。
志信は思い出した。花山と一緒に外出しなくなった理由を。
目立ちすぎるからだ。
本人は気にしていないようだが、志信の方が周りの視線に耐えられなくなったのだ。
共に寝起きするうちにすっかり見慣れてしまったが、よそ様にとってはそうではない。花山家の日常は、家の外では非日常なのだった。
重苦しい雰囲気の中、無理やり見合いは進行していった。顔を引きつらせながら場を仕切る上司の姿に、志信は恐縮するしかなかった。
その間、花山は二言だけしゃべった。
一度目は付添人の紹介の時に「こちら、甥御さんの花山薫さん…」と振られた時に「…今日はよろしくお願いします」、二度目は最後の挨拶の時に「…志信をよろしくお願いします」と、二回とも丁寧に頭を下げた。
ごめん。
頭まで下げてくれたけど、このお見合いはナシです。
志信は心の中で謝った。
迎えの車に乗り込むと、どっと疲れが襲ってきた。
「あー、疲れたっ」
座席にもたれかかり、うーんと伸びをする。車が出発してほどなく、花山がポツリと呟いた。
「…うまくいくといいな」
「何が?」
「今日の見合い…」
志信は耳を疑った。
こいつ、お見合いの間寝てたのか?
そうじゃなかったらあの小一時間、自分以外の全員がお前にドン引きしてたのに気付いてなかったのか?
(…信じられない)
志信は窓の外に目を移した。初夏のまぶしい日差しが車内に差し込んでくる。
「…その着物、今日のために買ったのか?」
「おばさんの訪問着なんだって。三枝さんが出してくれた」
志信は花山の父母を「おじさん」「おばさん」と呼んでいる。
「…綺麗だな」
「ね、綺麗な色だよね。それとこの辺の模様が…」
珍しく花山が服装を褒めてくれたと思って嬉しそうに説明を始める志信だったが、
「いや、着物もそうだが、お前のこと…」
「……」
顔に血が昇っていくのが自分でもわかった。
「……『お前』って呼ぶなって言ってるでしょ」
誤魔化すように甥っ子の頭を小突く。
「……」
花山はジャケットの内ポケットからスマートフォンを取り出し電話をかけた。不思議そうに見ている志信に構わず「もしもし。…昼飯は食って帰る」とだけ言って電話を切った。
(え、今、家にかけたの?)
「せっかくだからどっかで昼飯食うか」
(……先に私に聞いてから電話するだろ、ふつう…)
志信は花山の強引さに言葉もなかったが、確かにこのまま帰るのも味気ないし、せっかくだから二人だけの時間を楽しもう、と思い直した。
「何か食いたいものあるか?」
「…お寿司食べたい」
「築地に行くか」
「個室のあるお店がいい。あんたと一緒だと目立つから」
花山は椋本に「築地までな」と告げると、腕を組んで目を閉じた。
志信は花山を横目で見つつ、
(相変わらずマイペースなお坊ちゃんですこと)
(そういうところも含めて好きなんだけどさー…)
(…綺麗って言われちゃった)
(これ、来年のお正月も着ようかな)
(今日のスーツ、またどっかで着てくれないかな…)
(店長に悪いことしたわ…ごめんなさい…)
とりとめなく思いを巡らせているうちに、うとうとと眠り始め、やがて花山の肩にもたれかかった。
花山はうっすらと目を開けて少しの間志信の顔を見つめて、また目を閉じた。
今年も葉桜の季節になった。
志信は、勤め先の料亭の中庭に植えられた桜の木を見ながら、12年前のことを思い起こす。花山の家に来たのも、ちょうどこれくらいの時節だった。
15歳で花山家に引き取られた少女は12年経ち、普通の女になった。
当時7歳だった花山家の一人息子は12年経ち、普通じゃない男になった。
ある日、職場から帰ってきた志信は、自分に見合い話が来たことを女中頭の三枝から聞かされた。
相手は資産家の次男坊。父親が志信の勤め先の常連客で、志信を気に入ったという。
言われたみれば何度か接客した覚えはあり、やたら自分のことを褒めてくれるなあ、と思ったことはあった。息子には会ったこともない。
上司である店長が仲介人とあっては無下に断るわけにもいかないし、特に断る理由もない。
ひと通りの説明を聞き終えると、志信はおずおずと三枝に尋ねた。
「このこと、薫は…」
「もちろんご存知です」
三枝のメガネがきらりと光った。
志信は三枝に弱い。母親が三枝の指導の下で働いていたこと、12年前に最初は誰も取り合わなかった祖母の話を三枝だけが信じてくれたことを祖母から聞かされており、どうにも頭が上がらないのである。
きっと、見合いの話も三枝から言うようにと花山から指示があったのだろう。自分が言うよりも三枝からの方が聞いてもらえるだろうと。
(薫、逃げたな…)
「こちらが先方からお預かりした資料です。お写真と、釣書、家族書、親族書、健康診断書です」
目の前でばさばさと紙を広げられた。それらに目を通しながら
「こういう時って本当のこと書いた方がいいですよね?」
「?」
「私が父親から認知されてないとか、身内に暴力団関係者がいるってこととか…」
「隠していてもいずれわかることですから、最初からお伝えした方がよろしいかと」
「ですよね…」
「ではお嬢様も資料を用意することでよろしゅうございますね?」
「はい…」
「写真はカメラマンを手配するとして…釣書は家内で達筆な者…西根か木野にでも書かせましょうか…」
三枝の頭の中は早くも資料準備に取りかかっている。
乗り気なところ申し訳ないが、身内に暴力団関係者がいると知ったら先方もすぐさま断ってくるだろう、と志信はたかをくくっていたが、そうは問屋が卸さなかった。
見合い用の写真を用意するのに思ったより時間がかかり、先方に志信の資料が渡ったのは、それから数週間も後になってしまった。
三枝から「先方から『ぜひお会いしたい』とのお返事があったそうです」と聞いた時は思わず「ええっ!?」と大声を張り上げてしまった。
「そこまで驚かれなくても…」
「いや、絶対断られると思ってたから…」
「では日取りを決めることでよろしゅうございますね?」
「はあ…」
志信の見合い話が着々と進んでいく中、花山は落ち着かなかった。
見合い話を三枝から聞かされた時、頭を強く殴られたような衝撃を受けた。
志信はずっとこの家に、自分のそばにいるものだと思い込んでいたことに気がつく。
考えるまでもなく志信は27歳の適齢期(死語)、いつ結婚の話になってもおかしくはない。しかもやくざ者の私生児とわかっていながら会いたいということは、向こうも相当本気のようだ。
志信が結婚するかもしれない。そう思うと居ても立っても居られなくなり、家から新宿の事務所まで全速力で駆け抜けたい衝動に駆られる。
なぜだ?
甥として喜ぶべきことだ。
それなのにちっとも喜ばしくない。
…結婚したらこの家を出ていくのだろうか?
それは困る。
…何で困るんだ?
「ずっと一緒にいる」と約束したじゃないか。
…忘れてしまったのだろうか。
答えの出ない自問自答を延々と繰り返している。
志信と向かい合って夕食を取っている今も。
「お見合いのことなんだけどさあ」
内心を見透かされたような話題を振られ、一瞬食事の手が止まってしまった。
「…」
花山は何事もなかったように、食事を続ける。
志信は、ちょっとコンビニまで牛乳買ってきて、と頼むのと同じくらいの軽い口調で続ける。
「一緒に来てくれない?」
「…?」
「だから、お見合いの時」
その真意を図りかねて思わず顔を上げた。志信はもしゃもしゃとハンバーグを食べている。
「本人だけじゃなくて、付添人が必要なんだって。ふつうは両親らしいんだけど、ほら、私、親いないし。それに、薫のことも知っといてもらった方がいいかなーと思って。…たった一人の身内なんだし」
身内。
その言葉がぐさりと胸に突き刺さる。
「…わかった」
「ありがとう。じゃあ後で候補日言うから、予定教えて」
花山は黙って頷いた。
お見合い当日。
いつも通り朝食を取り、花山は身支度を整えた。
今日はいつもの白いスーツではなく、ダークグレーのスーツに着替える。
髭の剃り残しはない。
爪は昨日切った。
タバコを吸うのはやめておこう。
もやもやと抱いていた思いも、見合いに同席することが決まったら吹っ切れた。
俺は志信の唯一の親族だ。
自分のせいで見合いが破談にならないよう、先方に対して失礼がないように振る舞うこと、これが俺の役割だ。
女中が志信も支度が終わったと伝えに来たので、花山は部屋を出て玄関に向かった。
玄関にはよく磨かれた茶色の革靴の横に、女ものの草履が置かれている。
「お待たせ…」
振り向くと、水色の訪問着を着た志信が立っていた。いつも垂らしている髪がアップでまとめられているため、白い首筋が露わになっている。
着物姿は毎年正月に見ているが、初めて見る訪問着だった。
志信もいつもと違ういでたちの花山に、
「そんなスーツ持ってたんだ。似合ってるよ」
「…行くか」
「うん」
送りの車の中で、二人はしばらく無言だった。
見合いもだが、花山と二人きりになったかと思うと、志信はそっちの方に緊張してきた。
厳密には二人きりではないが、ドライバーの椋本は口が堅いので、車内の会話を誰かに漏らすことはないだろう。
「一緒に出かけるの、久しぶりだね」
「…そうだな」
最後に二人で外出したのがいつだったか思い出せないくらいの久しぶりだ。
会話が途切れた。
次に口を開いたのは花山だった。
「…結婚したら、家を出るのか?」
「え? まだ結婚するって決まったわけじゃ…」
と言いながら、志信の頭の中にあることが浮かんだが、それには気づかないふりをして
「…そうだね。でも、離れて暮らしたって付き合いは続くよ。身内なんだし」
自分の求めていた答えとは違っていたが、花山は「…そうか」と答えるしかなかった。
ホテルのラウンジは異様な空気に包まれていた。
見合い相手も、付添いの両親も、仲介人である志信の上司も、ラウンジの他の利用客までも、花山の巨体と威圧感に圧倒されていた。
無理もない。190.5センチ、166キロと人並み外れた体格に、顔に深く刻まれた二つの疵。
花山の家のことは包み隠さず先方に伝えていたが、まさかここまですごいのが来るとは思っていなかっただろう。本日の主役である志信のことなどまるで眼中に入っていないようだった。
志信は思い出した。花山と一緒に外出しなくなった理由を。
目立ちすぎるからだ。
本人は気にしていないようだが、志信の方が周りの視線に耐えられなくなったのだ。
共に寝起きするうちにすっかり見慣れてしまったが、よそ様にとってはそうではない。花山家の日常は、家の外では非日常なのだった。
重苦しい雰囲気の中、無理やり見合いは進行していった。顔を引きつらせながら場を仕切る上司の姿に、志信は恐縮するしかなかった。
その間、花山は二言だけしゃべった。
一度目は付添人の紹介の時に「こちら、甥御さんの花山薫さん…」と振られた時に「…今日はよろしくお願いします」、二度目は最後の挨拶の時に「…志信をよろしくお願いします」と、二回とも丁寧に頭を下げた。
ごめん。
頭まで下げてくれたけど、このお見合いはナシです。
志信は心の中で謝った。
迎えの車に乗り込むと、どっと疲れが襲ってきた。
「あー、疲れたっ」
座席にもたれかかり、うーんと伸びをする。車が出発してほどなく、花山がポツリと呟いた。
「…うまくいくといいな」
「何が?」
「今日の見合い…」
志信は耳を疑った。
こいつ、お見合いの間寝てたのか?
そうじゃなかったらあの小一時間、自分以外の全員がお前にドン引きしてたのに気付いてなかったのか?
(…信じられない)
志信は窓の外に目を移した。初夏のまぶしい日差しが車内に差し込んでくる。
「…その着物、今日のために買ったのか?」
「おばさんの訪問着なんだって。三枝さんが出してくれた」
志信は花山の父母を「おじさん」「おばさん」と呼んでいる。
「…綺麗だな」
「ね、綺麗な色だよね。それとこの辺の模様が…」
珍しく花山が服装を褒めてくれたと思って嬉しそうに説明を始める志信だったが、
「いや、着物もそうだが、お前のこと…」
「……」
顔に血が昇っていくのが自分でもわかった。
「……『お前』って呼ぶなって言ってるでしょ」
誤魔化すように甥っ子の頭を小突く。
「……」
花山はジャケットの内ポケットからスマートフォンを取り出し電話をかけた。不思議そうに見ている志信に構わず「もしもし。…昼飯は食って帰る」とだけ言って電話を切った。
(え、今、家にかけたの?)
「せっかくだからどっかで昼飯食うか」
(……先に私に聞いてから電話するだろ、ふつう…)
志信は花山の強引さに言葉もなかったが、確かにこのまま帰るのも味気ないし、せっかくだから二人だけの時間を楽しもう、と思い直した。
「何か食いたいものあるか?」
「…お寿司食べたい」
「築地に行くか」
「個室のあるお店がいい。あんたと一緒だと目立つから」
花山は椋本に「築地までな」と告げると、腕を組んで目を閉じた。
志信は花山を横目で見つつ、
(相変わらずマイペースなお坊ちゃんですこと)
(そういうところも含めて好きなんだけどさー…)
(…綺麗って言われちゃった)
(これ、来年のお正月も着ようかな)
(今日のスーツ、またどっかで着てくれないかな…)
(店長に悪いことしたわ…ごめんなさい…)
とりとめなく思いを巡らせているうちに、うとうとと眠り始め、やがて花山の肩にもたれかかった。
花山はうっすらと目を開けて少しの間志信の顔を見つめて、また目を閉じた。