克巳夢
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さみしい二人
病室に入ってまず目に入ったのは、ベッドに横たわる彼の姿だった。身体中に包帯が巻かれていたが意外と元気そうだなとのんきに思ったのもつかの間、私の視線は彼の右腕に釘付けになった。いや、その言い方は正しくない。
脇の下から伸びているはずの右腕がなかったのだ。
言葉もなくかつて右腕があった場所を凝視する私に、やさしく微笑みながら
「びっくりした?」
辛うじて残っている付け根をさすった。
「食われちまった、ここ」
食われた?
何で?
誰に?
『食われた』?
空手の試合じゃなかったの?
大事な試合があるとは聞いてはいたが、身体の一部を失くすほど危険なものだったなんて。
頭の中で疑問がぐるぐると渦を巻いて、何をどう聞けばよいのかわからない。
私がこんなに混乱しているのに、当の本人はどうしてこうも冷静なのか。
つい数日前に片腕を失くしたばかりだというのに。
「ピクルと闘った」
ピクル。
世界中を騒がせた、恐るべき原人。
そいつと闘った?
嘘でしょ?
「それって、白亜紀で恐竜食べてたっていう、あのピクル?」
「そう」
にわかには信じられなかったが、その眼は真剣だったから、きっと本当なんだろう。
空手や格闘技のことはよくわからないが、いくら彼が強いからといってあの原人に敵うはずがないことくらい素人の私にだってわかる。それなのに。
「何で?」
勝ち目がないとわかっていてどうして挑んだのか。最悪死ぬかもしれないのに。
「何でって……」
どう答えたらいいのやらと言いたげに首を捻ったが、また穏やかな、それでいて強い意志を伴った口調で、はっきりと告げた。
「俺は空手家だから」
彼の目は私をまっすぐに捉えていた。
「強い奴がいたら闘いたい。それだけだよ」
死ぬかもしれないとわかっていてピクルに挑んだ。
それほどの覚悟を持った試合だったのに、私は何も知らなかった、いや、知らされていなかった。
私は私の、彼には彼の仕事があり生活があり、お互いそれには干渉しないようにしてきた。まだ新米に毛が生えた程度だが教師の仕事に誇りを持っているし子供の頃からなりたかったし、そのことで彼にどうこう言われる筋合いはない。逆もまた然りだ。彼がどんな試合に立ち会おうと、私が口を挟む権利などあるわけがない。
わかっていたはずなのに。
彼の突き進む空手道の中に私は存在しないという事実は、容赦なく私を打ちのめした。
そしてさらに、もっと気づきたくないことに気づいてしまった。
空手と私のどちらかを取れと言われたら、この男は迷いなく空手を取るだろう。
そう悟った瞬間、目の前は真っ黒い緞帳に囲まれた。
その後、どれだけの時間を病室で過ごしてどうやって家に帰ったか覚えていない。
あの日以来、一度もお見舞いに行かなかった。そうこうしているうちに退院したと連絡が来たが、仕事が忙しいとか何のかんのと理由をつけて会わなかった。向こうも何となく察したのか、しばらくして音沙汰なくなった。
彼には全てを捨ててでも私を選んでくれることを望んでいる。
そのくせ自分は何も変えるつもりはない。今の仕事も生活も、23年間ずっと名乗ってきた名字も。
(こんなの、ただのわがままじゃない)
わがままだと気づいてしまったからには、これ以上付き合わせるわけにはいかない。
そう思いながらも、向こうからコンタクトを取ってこないのをいいことに結論を先延ばしにしていたら、夏も残暑の厳しい9月も終わり、10月になっていた。
生徒達が文化祭に向けて盛り上がっている頃、ようやく私の方から連絡を取った。
別れようと言うつもりだった。
だけど、待ち合わせ場所に5分遅れてやってきた彼と目が合って、やっぱり好きだと思ったら、何も言えなくなってしまった。
もう秋だというのに半袖Tシャツの右の袖口は風にあおられて、ひらひらと頼りなく揺れていた。
「私、どっち側を歩けばいい?」
「ん」
私の右手を取ってずんずん歩き始めた。
ご飯を食べて少し買い物して、いつも通りの時間を過ごした。
だけどやっぱり右腕を失くす前とはどこか違っていて。
彼が空手を選ぶのと同じように(などと同列にするのは失礼かもしれないが)、私もまた、仕事と彼のどちらかを選べと迫られたらきっと仕事を取る。
お互い見ている明日が違うことに気づいてしまった。
それでも一緒にいたいと思ったら、どうすればいいんだろう?
彼の家に向かう電車の中、連日の残業が堪えたのか強烈な眠気が襲ってきた。だんだんと意識が遠のく中、こんな台詞が聞こえてきた。
「ピクルと闘った時、死んでもいいつもりだったけど」
「そしたらみすずちゃんに会えなくなるから」
「やっぱり死ななくてよかった」
(ちょーしのいいこと言わないでよ)
(次も同じようなことがあったら、また私のことなんか構わずに闘うんでしょ)
そう返したような気がするが記憶は覚束なく、もしかしたら夢の中で言われたことだったかもしれない。
夢でも現実でも、ホントかよと思っても、それでもやっぱり好きなことには変わらなかった。
病室に入ってまず目に入ったのは、ベッドに横たわる彼の姿だった。身体中に包帯が巻かれていたが意外と元気そうだなとのんきに思ったのもつかの間、私の視線は彼の右腕に釘付けになった。いや、その言い方は正しくない。
脇の下から伸びているはずの右腕がなかったのだ。
言葉もなくかつて右腕があった場所を凝視する私に、やさしく微笑みながら
「びっくりした?」
辛うじて残っている付け根をさすった。
「食われちまった、ここ」
食われた?
何で?
誰に?
『食われた』?
空手の試合じゃなかったの?
大事な試合があるとは聞いてはいたが、身体の一部を失くすほど危険なものだったなんて。
頭の中で疑問がぐるぐると渦を巻いて、何をどう聞けばよいのかわからない。
私がこんなに混乱しているのに、当の本人はどうしてこうも冷静なのか。
つい数日前に片腕を失くしたばかりだというのに。
「ピクルと闘った」
ピクル。
世界中を騒がせた、恐るべき原人。
そいつと闘った?
嘘でしょ?
「それって、白亜紀で恐竜食べてたっていう、あのピクル?」
「そう」
にわかには信じられなかったが、その眼は真剣だったから、きっと本当なんだろう。
空手や格闘技のことはよくわからないが、いくら彼が強いからといってあの原人に敵うはずがないことくらい素人の私にだってわかる。それなのに。
「何で?」
勝ち目がないとわかっていてどうして挑んだのか。最悪死ぬかもしれないのに。
「何でって……」
どう答えたらいいのやらと言いたげに首を捻ったが、また穏やかな、それでいて強い意志を伴った口調で、はっきりと告げた。
「俺は空手家だから」
彼の目は私をまっすぐに捉えていた。
「強い奴がいたら闘いたい。それだけだよ」
死ぬかもしれないとわかっていてピクルに挑んだ。
それほどの覚悟を持った試合だったのに、私は何も知らなかった、いや、知らされていなかった。
私は私の、彼には彼の仕事があり生活があり、お互いそれには干渉しないようにしてきた。まだ新米に毛が生えた程度だが教師の仕事に誇りを持っているし子供の頃からなりたかったし、そのことで彼にどうこう言われる筋合いはない。逆もまた然りだ。彼がどんな試合に立ち会おうと、私が口を挟む権利などあるわけがない。
わかっていたはずなのに。
彼の突き進む空手道の中に私は存在しないという事実は、容赦なく私を打ちのめした。
そしてさらに、もっと気づきたくないことに気づいてしまった。
空手と私のどちらかを取れと言われたら、この男は迷いなく空手を取るだろう。
そう悟った瞬間、目の前は真っ黒い緞帳に囲まれた。
その後、どれだけの時間を病室で過ごしてどうやって家に帰ったか覚えていない。
あの日以来、一度もお見舞いに行かなかった。そうこうしているうちに退院したと連絡が来たが、仕事が忙しいとか何のかんのと理由をつけて会わなかった。向こうも何となく察したのか、しばらくして音沙汰なくなった。
彼には全てを捨ててでも私を選んでくれることを望んでいる。
そのくせ自分は何も変えるつもりはない。今の仕事も生活も、23年間ずっと名乗ってきた名字も。
(こんなの、ただのわがままじゃない)
わがままだと気づいてしまったからには、これ以上付き合わせるわけにはいかない。
そう思いながらも、向こうからコンタクトを取ってこないのをいいことに結論を先延ばしにしていたら、夏も残暑の厳しい9月も終わり、10月になっていた。
生徒達が文化祭に向けて盛り上がっている頃、ようやく私の方から連絡を取った。
別れようと言うつもりだった。
だけど、待ち合わせ場所に5分遅れてやってきた彼と目が合って、やっぱり好きだと思ったら、何も言えなくなってしまった。
もう秋だというのに半袖Tシャツの右の袖口は風にあおられて、ひらひらと頼りなく揺れていた。
「私、どっち側を歩けばいい?」
「ん」
私の右手を取ってずんずん歩き始めた。
ご飯を食べて少し買い物して、いつも通りの時間を過ごした。
だけどやっぱり右腕を失くす前とはどこか違っていて。
彼が空手を選ぶのと同じように(などと同列にするのは失礼かもしれないが)、私もまた、仕事と彼のどちらかを選べと迫られたらきっと仕事を取る。
お互い見ている明日が違うことに気づいてしまった。
それでも一緒にいたいと思ったら、どうすればいいんだろう?
彼の家に向かう電車の中、連日の残業が堪えたのか強烈な眠気が襲ってきた。だんだんと意識が遠のく中、こんな台詞が聞こえてきた。
「ピクルと闘った時、死んでもいいつもりだったけど」
「そしたらみすずちゃんに会えなくなるから」
「やっぱり死ななくてよかった」
(ちょーしのいいこと言わないでよ)
(次も同じようなことがあったら、また私のことなんか構わずに闘うんでしょ)
そう返したような気がするが記憶は覚束なく、もしかしたら夢の中で言われたことだったかもしれない。
夢でも現実でも、ホントかよと思っても、それでもやっぱり好きなことには変わらなかった。
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