克巳夢
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名前で呼んでよ
始業のチャイムが鳴り教室の中の生徒たちはバタバタと各自の席に着く。とある高校のいつもの朝の風景。しかしいつもと違ってがらりと扉を開けて入ってきたのは、1時間目の物理担当の教師ではなく見慣れない若い女教師だった。
方々から「誰?」「知らなーい」「あんな先生いたっけ?」と囁き合う声が聞こえる。
教師は意に介さずにっこりと笑い、
「おはようございます。今週は青山先生がお休みなので、私が代わりを務めることになりました。よろしくお願いします」
教壇の上からぺこりと頭を下げた。
それでもほぼ全員が合点のいかない顔をしていることに気づいたようで、簡単な自己紹介を付け加える。
「この4月から日比野高校から異動になった、川原みすずです。担当教科は地学ですが、この学校は地学は1年生に教わるから皆さんとはなかなか接点がないけど、せっかくの機会なので……。実は私、人の顔と名前を覚えるのが苦手なので、今日は一人でも多く皆さんのことを覚えられたらいいなと思ってます。……じゃあ、前回の小テストを返します」
みすずは答案に書かれた名前を読み上げていき、名前と顔を確かめるように、取りに来た生徒の顔と手元の答案を交互に見比べる。
しかしある生徒の答案になると、困ったような顔で首を傾げた。少し考えてから半分疑問形で名前を呼んだ。
「……グチ、カツミくん?」
次の瞬間、教室中でどっと笑いが起こった。
みすずは爆笑の意味を図りかねて戸惑っている。
笑い声の渦の中、一番後ろの席に座っている、一際体格のいい男子生徒がおもむろに立ち上がり、ずんずんと前まで来て憮然としながら答案を受け取ると「……オロチカツミです」と訂正した。
それからしばらく、2年1組の一部の男子生徒の間である遊びが流行った。二人で組になり、みすずに「俺の名前わかります?」と質問し、みすずに覚えられている方が勝ち、というものだった。
本人も自覚しているだけあって正答率はかなり低く、どちらも答えられないということも多かったが。
「先生! こいつの名前はわかるでしょ!?」
渋い顔をした克巳が引っ張りだされた時は、必ずといっていいほど少し不安げに首を傾げ、
「……グチ、カツミくん?」
と答えるのだった。
昔から、知らない相手でも向こうが自分のことを知っていることなどざらだった。空手や格闘技に詳しくなくても「神心会」「愚地」の名前を出せば一発なのに。
他人から名前を覚えてもらえないことが、目立ちたがり屋で自己顕示欲の強い克巳にはおもしろくなかった。
(ぬぁーにが『グチカツミくん』だよ。教師なら生徒の名前くらいちゃんと覚えろっつーの)
道場からの帰り道、心の中で毒づいてしまう。
金曜日の夜の新宿は、帰路につく者とこれから街に繰り出す者で溢れている。人の流れを縫うように歩いていたが、向こうから足早に歩いてくる女と正面から激突してしまった。
「ぼふっ」
女は克巳の胸に顔を埋める格好になり、慌てて「すみません」と顔を上げたが、克巳と目があうなりぎょっとした。
「えっ?」
「あっ……」
東京の街は広いのに、こんなところで会ってしまうとは。先ほど毒を吐いた相手がいきなり目の前に現れたものだから何となく気まずい。
と、みすずの後ろから男が「ねえ、待ってよー」と馴れ馴れしく肩に手を置いた。みすずは男をきっと睨みつけ、肩に置かれた手を払いのける。
「私、そういうの興味ないんで」
「みんな最初はそう言うんだけど、絶対気にいるから。話聞くだけでも……」
「興味ない」「話だけでも」の押し問答を繰り返している。
克巳はしばらくやり取りを眺めていたが、どうやら悪質な何かに捕まってしまっているのでは、と遅まきながら気づき、咄嗟に、
「みすずちゃん!」
と叫んでしまった。
突然大声で名前を呼ばれーしかも勤め先の生徒からーみすずは克巳の方を振り向いた。ぱっちりとした黒目がちな目が、さらに大きくなっている。男の方もぽかんと間抜け面を晒す。
「お、遅くなってごめん! 稽古長引いちゃって!」
さも待ち合わせしていたかのような白々しいセリフを吐き、男をジロリと睨みつけ精いっぱいのドスを効かせた声で、
「こいつ誰?」
その一言で男は縮みあがった。
「行こう」
みすずの手を取ってずんずんと歩き出した。
「……あ、あのッ」
「ねえッ」
「ちょっと待って!」
みすずに大声を張り上げられ、克巳はやっと我に返った。立ち止まって振り返ると、少し息の荒い女教師が立っている。
あれ、俺は一体何をしていたんだっけ……?
「もういいんじゃない?」
「……何が?」
「……手、繋がなくても大丈夫じゃない?」
ようやく、悪質なキャッチからみすずを助けてやったこと、そして彼女の小さな左手が自分の右手にすっぽりと覆われたままであることに気がつく。慌てて手を離してポケットに突っ込んだが、その感触はまだ右の掌にじんわりと残っている。
みすずの顔が心なしか赤いのは、猛スピードで歩く克巳と歩調を合わせたせいか、手を繋いでしまったことへの照れなのか……。
みすずも誤魔化すように話題を変えようとするが、
「私、新宿駅まで行くんだけど……えっと……グチ、じゃなくって……」
「オロチ」
「あ……、オロチくんは?」
わざとではなく、本当に覚えられないのか。克巳はため息をついた。
「そんなに名字が覚えにくいなら……、名前で……、『克巳』でいいよ」
道場では勿論のこと学校でも、特に親しい間柄でなくても、仰々しい姓より名前で呼んでほしいと主張しており、この時点で克巳の発言には他意はなかった。
みすずは困ったように視線を泳がしながら、
「それは……ダメでしょ……」
「何で」
「だって、特定の生徒だけを名前で呼ぶのは、さすがに……」
「じゃあ、みすずちゃんって呼んでいい?」
教師の行動として不適切ということかと思いながらも、思考とは裏腹な言葉が口をついて出てきた。
俺は何を言っているんだ?
一向に名前を覚えてくれないこの人を困らせたいだけなのか、それとも……。
「……そうやって聞かれたら、ダメとしか答えられません」
みすずは目を伏せた。
見下ろしながら、睫毛が長くふんわりとしていることに気づく。
「何で。他の奴らからも呼ばれてるくせに」
「そういう時は注意してます。年が近くても私は教師なんだから」
『教師』のところだけやけに力が込められる。
克巳にとって空手が自分を支えるすべてであるのと同じように、彼女は教師であることが矜持なのか。
何だよ、俺よりずっと背が低くて、生徒の名前だってろくに覚えられないくせに。
職員室に忘れ物をしたことに授業中に思い出して、慌てて取りに行ってたくせに。
頼りない先生のくせに。
それでも、『先生』なのか……。
肉体は日々成長しその辺の成人男性とは引けを取らないつもりだった。それでもやっぱり自分は高校生で、教師であるみすずと肩を並べることができないのか。
そこまで思い至ると、鳩尾の奥がぎゅっと締めつけられるように痛んだ。
克巳の心中を知ってか知らずか、みすずはそれまで頑なだった表情を少し緩めた。
「でも、ここは学校じゃないから」
「……え?」
「待ち合わせしてた彼氏に助けてもらったってことにしてあげる」
目があうとみすずは微笑んだ。
「さっきはありがとう。克巳くん」
小さく手を振ったかと思うとくるりと踵を返し、その姿はすぐに雑踏の中に紛れてしまった。
克巳は後ろ姿が見えなくなるまで、見えなくなってもみすずの歩いて行った方をずっと眺めていた。
その夜、一瞬だけ彼女になったみすずの笑顔が頭から離れることはなく、『克巳くん』は何回も何十回も頭の中でリフレインした。
翌朝、日直の仕事で職員室に入ると、教材を抱え澄ました顔で次の授業に向かおうとしているみすずとかちあいそうになる。
「……ッと」
「あら、おはよう、オロチくん」
「……おはようございます、川原先生」
何食わぬ顔で挨拶を交わし、それぞれに歩いていく。
もしもう一度学校の外で会うことができたら。
その時は教師と生徒ではなく、一人の男と女として手を繋いで街を歩きたいと心の中で願いながら。
始業のチャイムが鳴り教室の中の生徒たちはバタバタと各自の席に着く。とある高校のいつもの朝の風景。しかしいつもと違ってがらりと扉を開けて入ってきたのは、1時間目の物理担当の教師ではなく見慣れない若い女教師だった。
方々から「誰?」「知らなーい」「あんな先生いたっけ?」と囁き合う声が聞こえる。
教師は意に介さずにっこりと笑い、
「おはようございます。今週は青山先生がお休みなので、私が代わりを務めることになりました。よろしくお願いします」
教壇の上からぺこりと頭を下げた。
それでもほぼ全員が合点のいかない顔をしていることに気づいたようで、簡単な自己紹介を付け加える。
「この4月から日比野高校から異動になった、川原みすずです。担当教科は地学ですが、この学校は地学は1年生に教わるから皆さんとはなかなか接点がないけど、せっかくの機会なので……。実は私、人の顔と名前を覚えるのが苦手なので、今日は一人でも多く皆さんのことを覚えられたらいいなと思ってます。……じゃあ、前回の小テストを返します」
みすずは答案に書かれた名前を読み上げていき、名前と顔を確かめるように、取りに来た生徒の顔と手元の答案を交互に見比べる。
しかしある生徒の答案になると、困ったような顔で首を傾げた。少し考えてから半分疑問形で名前を呼んだ。
「……グチ、カツミくん?」
次の瞬間、教室中でどっと笑いが起こった。
みすずは爆笑の意味を図りかねて戸惑っている。
笑い声の渦の中、一番後ろの席に座っている、一際体格のいい男子生徒がおもむろに立ち上がり、ずんずんと前まで来て憮然としながら答案を受け取ると「……オロチカツミです」と訂正した。
それからしばらく、2年1組の一部の男子生徒の間である遊びが流行った。二人で組になり、みすずに「俺の名前わかります?」と質問し、みすずに覚えられている方が勝ち、というものだった。
本人も自覚しているだけあって正答率はかなり低く、どちらも答えられないということも多かったが。
「先生! こいつの名前はわかるでしょ!?」
渋い顔をした克巳が引っ張りだされた時は、必ずといっていいほど少し不安げに首を傾げ、
「……グチ、カツミくん?」
と答えるのだった。
昔から、知らない相手でも向こうが自分のことを知っていることなどざらだった。空手や格闘技に詳しくなくても「神心会」「愚地」の名前を出せば一発なのに。
他人から名前を覚えてもらえないことが、目立ちたがり屋で自己顕示欲の強い克巳にはおもしろくなかった。
(ぬぁーにが『グチカツミくん』だよ。教師なら生徒の名前くらいちゃんと覚えろっつーの)
道場からの帰り道、心の中で毒づいてしまう。
金曜日の夜の新宿は、帰路につく者とこれから街に繰り出す者で溢れている。人の流れを縫うように歩いていたが、向こうから足早に歩いてくる女と正面から激突してしまった。
「ぼふっ」
女は克巳の胸に顔を埋める格好になり、慌てて「すみません」と顔を上げたが、克巳と目があうなりぎょっとした。
「えっ?」
「あっ……」
東京の街は広いのに、こんなところで会ってしまうとは。先ほど毒を吐いた相手がいきなり目の前に現れたものだから何となく気まずい。
と、みすずの後ろから男が「ねえ、待ってよー」と馴れ馴れしく肩に手を置いた。みすずは男をきっと睨みつけ、肩に置かれた手を払いのける。
「私、そういうの興味ないんで」
「みんな最初はそう言うんだけど、絶対気にいるから。話聞くだけでも……」
「興味ない」「話だけでも」の押し問答を繰り返している。
克巳はしばらくやり取りを眺めていたが、どうやら悪質な何かに捕まってしまっているのでは、と遅まきながら気づき、咄嗟に、
「みすずちゃん!」
と叫んでしまった。
突然大声で名前を呼ばれーしかも勤め先の生徒からーみすずは克巳の方を振り向いた。ぱっちりとした黒目がちな目が、さらに大きくなっている。男の方もぽかんと間抜け面を晒す。
「お、遅くなってごめん! 稽古長引いちゃって!」
さも待ち合わせしていたかのような白々しいセリフを吐き、男をジロリと睨みつけ精いっぱいのドスを効かせた声で、
「こいつ誰?」
その一言で男は縮みあがった。
「行こう」
みすずの手を取ってずんずんと歩き出した。
「……あ、あのッ」
「ねえッ」
「ちょっと待って!」
みすずに大声を張り上げられ、克巳はやっと我に返った。立ち止まって振り返ると、少し息の荒い女教師が立っている。
あれ、俺は一体何をしていたんだっけ……?
「もういいんじゃない?」
「……何が?」
「……手、繋がなくても大丈夫じゃない?」
ようやく、悪質なキャッチからみすずを助けてやったこと、そして彼女の小さな左手が自分の右手にすっぽりと覆われたままであることに気がつく。慌てて手を離してポケットに突っ込んだが、その感触はまだ右の掌にじんわりと残っている。
みすずの顔が心なしか赤いのは、猛スピードで歩く克巳と歩調を合わせたせいか、手を繋いでしまったことへの照れなのか……。
みすずも誤魔化すように話題を変えようとするが、
「私、新宿駅まで行くんだけど……えっと……グチ、じゃなくって……」
「オロチ」
「あ……、オロチくんは?」
わざとではなく、本当に覚えられないのか。克巳はため息をついた。
「そんなに名字が覚えにくいなら……、名前で……、『克巳』でいいよ」
道場では勿論のこと学校でも、特に親しい間柄でなくても、仰々しい姓より名前で呼んでほしいと主張しており、この時点で克巳の発言には他意はなかった。
みすずは困ったように視線を泳がしながら、
「それは……ダメでしょ……」
「何で」
「だって、特定の生徒だけを名前で呼ぶのは、さすがに……」
「じゃあ、みすずちゃんって呼んでいい?」
教師の行動として不適切ということかと思いながらも、思考とは裏腹な言葉が口をついて出てきた。
俺は何を言っているんだ?
一向に名前を覚えてくれないこの人を困らせたいだけなのか、それとも……。
「……そうやって聞かれたら、ダメとしか答えられません」
みすずは目を伏せた。
見下ろしながら、睫毛が長くふんわりとしていることに気づく。
「何で。他の奴らからも呼ばれてるくせに」
「そういう時は注意してます。年が近くても私は教師なんだから」
『教師』のところだけやけに力が込められる。
克巳にとって空手が自分を支えるすべてであるのと同じように、彼女は教師であることが矜持なのか。
何だよ、俺よりずっと背が低くて、生徒の名前だってろくに覚えられないくせに。
職員室に忘れ物をしたことに授業中に思い出して、慌てて取りに行ってたくせに。
頼りない先生のくせに。
それでも、『先生』なのか……。
肉体は日々成長しその辺の成人男性とは引けを取らないつもりだった。それでもやっぱり自分は高校生で、教師であるみすずと肩を並べることができないのか。
そこまで思い至ると、鳩尾の奥がぎゅっと締めつけられるように痛んだ。
克巳の心中を知ってか知らずか、みすずはそれまで頑なだった表情を少し緩めた。
「でも、ここは学校じゃないから」
「……え?」
「待ち合わせしてた彼氏に助けてもらったってことにしてあげる」
目があうとみすずは微笑んだ。
「さっきはありがとう。克巳くん」
小さく手を振ったかと思うとくるりと踵を返し、その姿はすぐに雑踏の中に紛れてしまった。
克巳は後ろ姿が見えなくなるまで、見えなくなってもみすずの歩いて行った方をずっと眺めていた。
その夜、一瞬だけ彼女になったみすずの笑顔が頭から離れることはなく、『克巳くん』は何回も何十回も頭の中でリフレインした。
翌朝、日直の仕事で職員室に入ると、教材を抱え澄ました顔で次の授業に向かおうとしているみすずとかちあいそうになる。
「……ッと」
「あら、おはよう、オロチくん」
「……おはようございます、川原先生」
何食わぬ顔で挨拶を交わし、それぞれに歩いていく。
もしもう一度学校の外で会うことができたら。
その時は教師と生徒ではなく、一人の男と女として手を繋いで街を歩きたいと心の中で願いながら。