スヴニールな時間を貴方に




森を駆ける。

木の根に絡まれて足を奪われないように必死に駆け抜ける。僕は興奮していた。新しい仕事を与えられたからだ。この籠を赤い実が溢れるくらいに満たすこと。枝には棘があるから気を付けるように。ひとりで戻れるね。そう軽く告げるとマタンは振り向かずに霧の中へと消えてしまった。僕は彼にあしらわれたことにも気付かないで喜んで走った。鬱蒼とした木漏れ日を抜けると果実の瑞々しい香りが僕を出迎えてくれた。
「痛っ…」
ちいさな実を守るために生まれた鉄壁の要塞が侵入者を容赦無く突き刺す。木苺の収穫は出来るだけ若いものは避けて、熟れて柔らかくなったものだけを選んで皮が破れないように指でそっと摘みあげること。いつも僕らに優しくしてくれる庭師のおじさんとマタンが収穫していた時はあんなに簡単そうに見えたのに。僕の両手と衣服は飛び散った鮮やかな赤色でべとべとだ。


もう手の甲に鞭を打たれることはめっきり少なくなったけれど、この悲惨な格好を厳しいあの人に見られでもしたらと思うだけで身体が震え上がる。そんな執事長の姿を最近はあまり見掛けない。今はオーロージュとマタンの世話に付きっきりだから。僕らは時計の欠盤が出る度に補充される。その為にここにいるんだって、よく分からないけどマタンが言っていた。それはとても名誉なことなんだって。だからマタンが選ばれた際に僕はとても喜んだ。当然だ。マタンは落ちこぼれの僕なんかとは違って完璧なんだ。僕もはやくマタンに追いつきたい。そう笑いながら憧れのベストに腕を巻き付けると、マタンは何故か一瞬悲しそうに瞳を揺らして僕の頭をくしゃりと撫でた。


暑い陽射しに伝った汗を拭うと、森の奥から空を引き裂くような金切り声が聴こえてきた。大きな翼がぐるりと旋回している。今日はなんだか鳥が多いね。久しぶりに会えた彼の姿にはしゃぎながら纏わりつくと、マタンはここには新鮮な餌が転がってるからだと可笑しそうに笑う。最近彼の言ってることは難しくて僕にはよく分からない。きっとそれはマタンが大人になってしまって、僕がまだこどもだから。

「あっ、こら!」
せっかく苦労して摘んだのに。ルルルル。羽根のような歌声に振り向くと小鳥達がちいさなくちばしを赤く染めながら、籠のなかの実を美味しそうに啄んでいる。だめだよ、君たちにもあげたいけどこれは僕の大事なお仕事なんだ。あっちに行ってよ。手を振りかざして必死に追い払っていると黒い人影が現れた。冷たい瑠璃色に鳥達が白い羽根を散らして飛び立つ。マタンだ。
「…ひっどい格好」
「マタンだって人のこと言えないくせに」
せっかくの白手袋が真っ赤だよ。せめてもの反抗にと頬を膨らませながら手元に視線を送る。一瞬目を細めたマタンは汚れた手袋を慣れた仕草でジャケットへと押し込むと、籠を持ち上げて歩きだした。
「一緒に執事長に怒られるのと、こっそり裏口から侵入するのとどっちがいい?」
「もちろん裏口!」
ドジ踏んで見付からないようにしてよね。まぁ、その時は置いていくけど。マタンが笑う。僕も笑って彼の後を追い掛ける。
でもおかしいな。マタンはいつからここに居たんだろう。全然気付かなかった。


芳醇で甘酸っぱい香りに微かに混じり込んだ血の匂いが、風に流れて消えた。






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ミルクのように白いけど ミルクじゃない
草のように青いけど 草じゃない
血のように赤いけど 血なんかじゃない
すすのように黒いけど すすじゃない


亜麻色の髪を靡かせた天使が唄う。隣ではエキゾチックに束ねられた艶やかな藍色が首を傾げて垂れている。
本日の午後はお嬢様がフランボワジェを御希望なので。僕はその光景に目を細めながら、赤いドレスを纏ったフランボワーズをおひとりずつ丁寧に籠の中へと案内する。
「はて、一体何のことやら…お嬢様の謎解きは難しくて解らぬな」
「確か小さな白い花を咲かせるんですよね?」
「ダメよニュイ。ソワレに答えを教えては」
「ふふっ申し訳ありません」
「むむ…」
執事達の誰よりもしなやかな瞬発力と、鋭い斬れ味を持ち合わせている筈の彼は、生真面目な性格のせいか時々こうしてお嬢様に遊ばれている。まぁ、唄を教えたのは僕だという事は黙っておこう。ちなみに彼を悩ませている正体は今、僕の掌の中にある。
「ニュイは木苺を摘むのが上手ね。私ね、前にどうしてもやってみたくて隠れてこっそり摘んでみたの。だっていつも見ているだけなんだもの。そうしたら実が弾けてびっくりしてしまって。見付かったマタンに棘があるから触ってはいけませんと凄く怒られてしまったわ」
「ええ、憶えてますよ」
血相を変えたマタンがドレスを赤く染めたお嬢様を抱き抱えて戻って来た時は、どこか怪我をされたのではないかと屋敷中が騒然となった記憶はまだ新しい。今年は土壌の栄養価が高いせいか、陽に翳すと一段と色鮮やかに艶めいて見える。赤黒い、柘榴石のように。



数年前、この森でひとりの庭師が殺された。喉や全身をナイフで切り裂かれた惨たらしい死に方だった。恐れをなした使用人たちの中には館を出る者もいた。表向きはいつもの金目当ての野盗として処理をしたが、ただひとつ違ったのは庭師の小屋から大量の武器と、もうすぐ産まれてくる赤子を殺せ。さすれば多額の報酬を与えよう。何処か見覚えのある封蝋の痕跡が見付かった事だった。
新体制になってからオーロージュはある提案をした。それは信用出来る者だけで舘で暮らすというものだった。まだ幼いお嬢様にとっては酷な話だと反対する者も居たが僕はその意見に賛同した。賑やかだったこの白亜の館も今ではすっかり寂しい限りだ。それでも僕らは天使の笑い声が絶えないようにたくさんの愛情を注いだ。時には乳母の代わりに、時には友人として。



どん、と。静寂の森に土足で侵入するかのように重い銃声が鳴り響いた。鳥たちが羽根を広げて一斉に空へと逃げ出す。
「なんの音かしら…」
わたし、とても怖いわ。不安気に瞳を震わせる天使の肩に手を添えたソワレがニュイ、どうすると視線で問い掛ける。ここは僕が引き受けます。あなたはそのままお嬢様の護衛を。大丈夫、流石にひとりで戦闘するつもりはないよ。相手側の人数だけでも偵察もしておきたいし、それに、これは作戦担当の僕の役目でもあるから。

「きっと鹿を追っているうちにこの森に迷い込んでしまった猟師でしょう。さぁ、お嬢様。陽射しが強くなって来たのでそろそろ屋敷に戻りましょう。僕は門を閉じてから参ります。ついでに迷子の狩人を見つけて、森の出口まで道案内をしてさしあげましょう」
「ニュイ……もし狩人さんに会えたらこれを渡してくれる?」
真っ白な無垢の手から差し出されたのは、ぎっしりと実の詰まった甘いコルベイユ。
「ですが、お嬢様」
「お父様もよく休日に銃を背負ってお友達と馬に乗って出掛けていたわ。狩りは決して悪いことばかりではないと分かってはいるの。でも、出来ればこの森ではむやみな殺生はして欲しくないわ。動物たちには静かに暮らして貰いたいの。だってこの森の命そのものだもの」
その穢れのない瞳が、いつかこの森に隠された残酷な真実を知る時が来たら。僕はその時耐えられるだろうか。どうか、どうか、この瞳だけは綺麗なままで。その為なら幾らでもこの手を赤い血で染めよう。
「分かりました。伝えておきますね」
「ありがとうニュイ、大好きよ」
ふわりと、頬に触れた天使の口付けが離れていく。またひとつ、この笑顔を裏切る度に僕はきっと地獄に堕ちるだろう。
それでも。ジャケットの脇腹に納めたホルスターに手を掛ける。気になることがあった。微かだが、聞き慣れない音がしたのだ。弾が違うのか、噂に聞く英国式の銃なのか。


さぁ、狩りの時間だ。鬼が出るか、それとめ蛇が出るか。もしかしたら兎は自分の方なのかもしれない。






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薄らと漂う硝煙の中を息を潜めながら進む。踏み躙られてぐちゃぐちゃに飛び散った果実を横目でひと睨みし、念の為横たわる死体の手から弾倉を抜き取り投げ捨てた。掠めた右腕が焼ける様に熱い。銃弾の当たる手応えはあったが、逃がしてしまった。出血の量から恐らく致命傷には至っていないだろう。これは誘い込まれた僕の判断ミスだ。傭兵あがりか、的確な狙撃の腕と殺気は金で雇われただけのいつものごろつき共とはわけ違う。一度撤退したか、まだこの森の何処かに潜んでいるか。ざわざわとまるで僕を弄ぶように風が悪戯に木々を揺しはじめた。近付いてくる。火薬と草の匂いに紛れて近寄る足音に僕は引き金に手を掛け、一度向けた銃口を降ろした。僕はこの気配と息遣いを誰よりも知っているから。
「マタン…」
「銃声が聴こえたから。…撃たれたの?」
破れて黒い染みの滲んだ右腕を鋭い眼光に捕えられ、思わず身を竦める。
「少し掠めただけです。それより申し訳ありません。ひとり取り逃してしまいました」
「そう」
失態を責めるわけでもなく、マタンは木に凭れ掛かった僕の前に屈むと清潔なハンカチを取り出し器用に傷口を縛り始めた。長く伏せた睫毛が、何処か安堵したようにも見える。胸が痛い。辛辣な言葉を浴びせられたほうがましだなんで。僕はどこまで貧欲なのだろうか。転がった死体を一瞥し、黙っていたマタンが薄く口を開く。
「こいつらはどうする」
「直にソワレが合流します。暗くなる前にこのままここに埋めるつもりです」
マタンはそのまま立ち上がると、冷たくなった手を取り胸の前で重ね合わせた。彼はどんなに罪深くとも死者を愚弄しない。マタンは何も言わないけれど僕には分かる。それは命を奪う彼自身が、両親のいる光の回路に行きたがっているから。
傷口がどくどくと疼き出す。早ければ今夜にでも、近いうちにまた襲撃が来るだろう。顔を憶えられた。相手は怪我をした僕を真っ先に狙いに来る筈だ。

作戦担当に任命された時、なぜ他の者ではなく自分なのかと先代の執事長に問いた事がある。ニュイ、お前は誰よりも非情で残酷になれるからだとあの人は言った。僕は主を守る為なら躊躇わずにナイフを振り翳すだろう。例えその判断が仲間の命を犠牲にする事になろうとも。それでも。

「……作戦担当として命じます」
「何、突然」
「貴方は今夜はお嬢様の警護についてください。しばらくバディを解消しましょう。お別れですマタン」

僕は神なんか信じていない。それでも、優しい君が光の回路に辿り着けるならば。僕は君の穢れも罪も全て背負いたい。その判断が、例え君に恨まれる事になろうとも。僕は君の為なら光のない世界に沈んだって構わない。そう、決心した筈なのに。
「悪いけどその命令は聞けない」
ニュイ、と。幼い子どもをあやす様に頭を撫でられじわりと景色が滲む。昔は大きく感じていた手は今はさほど変わらない。僕はいつの間にか君の背を越えていたんだね。だけど僕は君に触れられると我儘だった子どもの頃に戻ってしまうんだ。僕は本当は怖かった。君という半身を自分よりも先に失うのが、ただ怖かったんだんだ。
「背中、守れって言ったでしょ」

それは優しく、まるで呪縛のように。

僕は知らなかった。自分の放った言葉の重さが。今まで命を奪った無数の手が、自分の代わりに彼の足を掴んで暗い闇の中に引き摺り込むだなんて。
どうして彼の手を冷たく振り払う事が出来なかったのか。僕は、魂が尽き果てるまで後悔するだろう。これは僕の罪、君への贖罪。


一羽の白い鳥が、番を庇う様に羽根を広げて撃ち落とされた。


あの日、あの時。ルグレ《後悔》の森で。



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