スヴニールな時間を貴方に

あまい、どこかで嗅いだことのある夢のなかまで漂うフルーティーな香り。なんだっけ、この匂い。
そうだ、確か僕は重い木箱をオーロージュとふたりでよろけながら厨房に運んでいて。その途中、突然脚が軋むように痛くなって、バランスを崩した木箱から真っ赤な果実がころころと逃げ出して。まだ空は明るいはずなのに真夜中の森みたいに視界を奪われて。


それから、それから。






「目が覚めた?」
「マタン…」

真鍮のオイルランプがゆらゆらと踊りながら壁に橙色の影を映している。いつの間に部屋に戻って来たんだろう。ナイフを机に置いたマタンが、僕の顔を冷静な彼にしては珍しく炎に揺れる瞳で覗き込む。もしかしてずっと傍にいてくれたのかな。本格的に執事として任命されたばかりの彼は僕なんかよりもうんと忙しい筈なのに。林檎なんか剥いて、せっかくの真新しい燕尾服が汚れたら大変だよ。まだすっきりとしない頭で可笑しなことを考えていると、遠慮がちに扉を叩く音が聴こえて。僕の代わりに見知った顔の初老の医師をマタンが部屋に出迎えるをただぼうっと眺めていた。

「成長痛だって」
「せいちょうつう?」
「急激に成長して、それに着いて行けない身体が悲鳴を上げてるってこと。俺はニュイの歳くらいの頃はそんなに痛みは感じなかったから個人差があるみたい。まぁ、病気じゃないみたいだから安心しなよ」

宵のうちに戻りたいと、忙しなく馬車に乗って行ってしまった医師の代わりにマタンがわかり易い言葉で教えてくれる。
そういえばここ数日、寝る前になんだか身体中の関節が疼くような妙な感覚があった。朝になると不思議と消えてしまうからそんなに気にしてなかったけど。
せめて知識だけでもと、はやく彼に追いつきたい一心でびっしり詰まった小さな文字を無理やり頭に詰め込んでいるがせいなのか、目が疲れて最近視力も落ちてきている気がする。
なんだろう。背ばっかり伸びたせいか、身体の変化に気持ちがちっとも着いて行けない。噛み合わないちぐはぐな歯車みたいだ。

「まだ痛む?」
「うん」

本当はもうほとんど痛くなかったけど、まだちょっとだけ彼に甘えたい僕は嘘をついてしまった。少し丈の合わなくなった寝間着の下に隠れた脚を、彼の手が優しく擦ってくれる度に僕はなんだか嬉しくなる。だって、こんなにゆったりとした空気を一緒に過ごせるのは久しぶりなんだ。まだ見習いの僕なんかに構ってられないのは充分に分かっているから。それでも、寂しくて眠れない夜は彼のベッドに潜り込んで部屋に戻ってくるのをこっそり待ってるんだ。まぁ、その前に大抵寝ちゃうんだけど。

「もし、僕がマタンよりも大きくなったら一緒に寝て貰えなくなっちゃうのかな?」

僕の冗談交じりの声に、触れていた優しい熱がぴたりと止まり離れて行く。どうしたんだろう。僕、なにか変なことを言ったのかな。

「…ちょうどいい機会だから言うけど。ニュイ、もう俺のベッドに来るはやめな」
「え…?」
「ただでさえ狭いベッドがこれ以上狭くなるのは御免だし。そろそろ俺から離れてひとりで眠れるようにならないとお嬢様に笑われるよ」
「どうして…?僕とマタンは家族なのに一緒に寝てはいけないの?僕、まだマタンと…」
「ニュイはもう13歳でしょ。いつまでも甘えてないでいい加減大人にならないと。それに……これ以上は、俺が辛い」

突き放されたのに。
そんな傷付いた硝子玉の瞳で見つめられたら、僕は嫌だなんてそんな我儘は言えなくなってしまった。君にそんな顔をさせてしまうだなんて。少しでも優しくして貰おうと痛くないのに痛みがある振りをして、きっと嘘をついた罰が当たったんだ。

「この林檎はね、ニュイがはやく良くなりますようにってお嬢様が一番美味しそうだと思った物を選んだんだって」

明日、元気になった顔を見せてあげなよと、扉の閉まる音と同時に綺麗に剥かれた林檎を手に取りひとくち齧る。あまい、蜜の味。酸化して色が変わってしまう前にはやく食べきらないと。

マタン、君の言うとおりだね。
近頃すっかりおしゃべりが上手になった、僕のために笑いかけてくれるちいさな天使を守れるように、僕はもっと大人にならないといけないんだ。そのためなら僕はこの痛みに耐えよう。こころと身体がバラバラになるような、アドレサンス《思春期》の痛みを我慢しよう。

それでも、君との距離が今よりも離れてしまうのはやっぱり苦しくて、痛い。

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