これもひとつの愛のカタチ

高層ビルの建ち並ぶオフィスの街が、昼の騒音と入れ替わるようにじっとりと湿った夜の空気を纏い始める。それと同調するかのように、小さな雑居ビルの片隅で色とりどりのネオンの看板がぽつぽつと静かに明かりを灯し始めた。

都心から少し離れ、人の目を敢えて遠避けているような寂れた場所に、一軒の小さなBARが存在していた。店自体はカウンターとテーブル席を合わせても20席にも満たないそれ程広くはない作りだが、奥に置かれた重厚なグランドピアノの存在感がこの店のシックで上等な雰囲気を物語っている。

陽が沈み夕刻を過ぎた頃になると、この店で働くひとりの若者が開店前の準備に慌ただしく追われる姿があった。テーブルを丁寧に拭きあげ、椅子を指定の位置に並べ終える。それまで動き回っていた遊木真は一度鏡の前に立ち止まり、跳ねた毛先を指で弄り両手でシャツの襟元を整えた。まだ見習いの身なので黒のシャツと短いエプロンという簡素なユニフォームだが、普段好んで着ているゆったりとした私服とは違うものを身に纏うだけで気持ちが幾分と引き締まる気がした。自分もそろそろ店の雰囲気に馴染んで来たのではないかと。




行く宛もなく夜の街をふらふらとさ迷っていた真を、この店のマスターこと鳴上嵐が拾ってからちょうど一年程が経つ。

「あなた、そんな寂しい目をしてどうしたの?」

酷く汚れた格好で裏路地に蹲っている自身よりも若く、虚ろげな少年から目を逸らせなくて嵐は声を掛けた。本来ならば得体の知れない人物に関わるのはあまり得策ではない。だけど、こういったものは運命なのだ。心で言い聞かせながら普段から人との出逢いを大切にしている嵐は、膝を抱え伏せていた人物の顔がゆっくりと起き上がるのを見て驚いた。自分自身モデルして美しさを商売としている業界にいるが、正反対ともいえるこの薄汚れた場所にそぐわない程の美しい美貌があったからだ。
ちょっといらっしゃいと、冷えた手を強引に掴み歩き始める。真は何も言わず抵抗すらしなかった。また凛月ちゃんに怒られちゃうわぁと、漆黒の高貴な毛並みを持つ猫のような人物にちくちくと小言を言われる光景を思い浮かべて。変なところには連れて行かないから安心してちょうだいと、嵐は男とも女ともとれない不思議な魅力を携えた微笑みで、真の為に温かい珈琲を淹れてくれたのだ。普段店の珈琲なんか飲んだことがない真は、味はよく分からなかったけれど、それでも温かい
と思った。

指紋ひとつない鏡に映る自分とふと目が合う。少しはまともな目になったのだろうか。真は答えのない質問を鏡の中の自分に問い掛けた。
仕事を与えられ居住の提供までしてくれた人物に、はじめは警戒心を隠しながら様子を伺っていた真だが、うちは行き場の無い猫達の集まりだから気楽に助け合って生きましょうと。自分に居場所をくれた嵐に対し、少しでも恩を返したいと雑用から懸命に働くようになった。今では鍵を預けられ、開店前の準備を一人で任されるようになっている。

にゃあと足元に擦り寄る存在に、自分は嵐にとってこの猫と同じなのだと。時々店の裏にやって来る野良猫に餌を与えながら、真はそれでも幸せだと思った。


普段は青の派手なフレームで隠している緑の瞳を細めると、一瞬だけ底深い影が宿るのを真はどこか他人事のように見つめた。今日は先輩の凛月は休みで、店の主の嵐が出てくるまでにはまだ時間がある。真は腰で結んだソムリエエプロンの紐をきつく縛り直すと鏡のなかの自分に背を向けた。






静かな店内に雨の音が響く。

先程外の掃き掃除をしているとぽつぽつと大粒の雨が降り始めた。天気も悪いし、今日はそんなに客も来ないだろうとカウンターでグラスをひとつひとつ丁寧に磨き上げていると、客の来訪を知らせるドアの音が鳴った。まだ準備中になっているはずだ。突然現れた人物に声も出ず、驚きに視線を玄関のドアに向ける。自分よりも少し歳上だろうか。雨に濡れたスーツ姿の青年が肩の水の雫を端正な顔を不快に歪めて手で払っている。その絵になる佇まいに一瞬気を取られた真だが、すぐに我に返ると慌てて青年の元に駆け寄り真新しいタオルを差し出した。青年は真の顔も見ずに有難うと素っ気なく礼を言うと、タオルを受け取り張り付いた髪を拭きあげながら店内をぐるりと一瞥する。目当ての物が見付からなかったのか、青年は目の前に佇む真に目を向けた。二人の視線が初めて絡んだ。

「今日はくまく…朔間かマスターは居ないの?」

「えっと…朔間は本日は休みでマスターはあと30分程で来ますが」

「そう…」

青年は少し考えてから、開店前だがここで待っても良いかと真に聞いてきた。この雨の中を出直すには困難だと判断したのだろう。構いませんどうぞ、と返事をすると真が案内するより先に手馴れた動作でカウンターチェアに座り始めた。見たところ客というよりは嵐と凛月の知り合いのようだ。借りたタオルを丁寧に畳んで返す仕草すら優雅で彼の几帳面さを表している。何か約束事でもあるのだろうか。
経験は浅くとも夜の街に繰り出す数多くの人間を見てきた真だが、この青年から醸し出されている雰囲気は他の者とは少し違う。商社マンのようなスーツを身に纏ってはいるが、人目を引く美しい美貌はとても一般のものとは思えない。
開店まではまだ少し時間はあるが、真は店内にBGMを流すと小さなキャンドルグラスに火を灯した。雨の名残を打ち消すようにゆったりとした穏やかなジャズの音色が、青年に支配されていた場の空気をいつもの店のものへと変えていく。

「新しく入った子?名前は…遊木くんね」

胸元の白いネームプレートに書かれた真の名を確認するように復唱すると、青年は挨拶代わりに名刺を差し出した。彼の勤め先は最近仕事が忙しくて姿を見せない旧友と同じ広告を見ない日はないくらいの有名な大手企業のものだった。課は違うかも知れないが互いの個人情報のためにそれは黙っていることにした。

(瀬名泉さん…)

名は体を表すと言うが、綺麗で神秘的な水を連想させる響きはこの美しい人物にぴったりだと真は思った。

「何か温かいものでも作りましょうか?」

ただの客ではなく、マスターの知人かもしれない人物に勝手な事をするのはどうかと思ったが、雨で冷えきった体を温めるには室内の暖房だけでは風邪をひいてしまうのでないかと真は迷いながらも飲み物を勧めた。

「君が作ってくれるの?」

「はい。まだ難しいものは出来ませんが…」

投げ掛けるような視線に、やっぱり僕みたいな新人には任せられないよねと、声のトーンが落ちるのが自分でも分かった。
香水と化粧の匂いをさせ酔い潰れる母親の姿を幼い頃から見てきた真は酒の知識は少しばかりあったが、仕事となれば話は違う。閉店後や空いた時間にマスターや先輩の凛月に教えて貰ってはいるが、膨大な知識は勿論のことセンスを用いられる繊細で的確な技術や、客の心を読み取りニーズに応える接客力は元から人と接することが苦手な真にはまだまだ程遠いものだった。
やはり嵐が来るまで余計な事をしなければ良かった。逆に不愉快な思いをさせてしまったのではないかと肩を落とす真の姿に泉が優しく微笑みかける。

「じゃあホットウイスキーをお願いしようかな。どう?作れる?」

「はい…!」

思いがけない言葉に真は顔を上げると耐熱用のグラスにお湯を注ぎ温めはじめた。少し緊張はしているがカウンター越しに向けられる眼差しが優しいものだったので落ち着いて手を動かせす。
店に入ってきた彼を初めて見た時、人を寄せ付けないどこか冷たい印象を勝手に抱いていた。血統書付きの高貴な猫のような、野良猫みたいに生きてきた自分とは正反対の、どちらかといえば苦手なタイプだと思っていた。しかし真の予想に反して澄み切った青の瞳は冷たいどころか湯水の様にあたたかく、きっと真の様子を見て比較的初心者でも出来そうなリクエストをチョイスしてくれたのであろう。そんな彼に心も体もあたたまるものを提供してあげたい。
温まったグラスにスコッチとお湯を満たし、角砂糖をひとつ落としてから軽くステアする。その上にスライスしたレモンとクローブを添えると、芳醇なウイスキーと柑橘類の爽やかな香りとともに、スパイスの甘い匂いがふわりと立ち込めた。

「うん…。おいしい」

ゆっくりと香りを楽しんでから口に含んで味わうと、泉はグラスを置いて緊張の面持ちで見守る真に微笑んだ。その穏やかで大人な笑みに真は思わず良かったと胸を撫でおろした。

「…こんな事を言うと困らせてしまうかもしれないけど、実は一人で作るのは瀬名さんが初めてだったんです。今まではマスターや他の人が傍に付いていてくれていたので」

「だからそんなに緊張していたんだ。ふふっじゃあ俺が君の記念すべきお客様第一号だね」

外の雨はいつの間にか上がり、温まった店内に二人の愉しげな話し声が響いた。



「ここのマスターとは昔のモデル仲間なんだ。まぁ俺の場合は伸び悩んで辞めちゃったんだけど…。その後苦労してせっかく大きな会社に入れたと思っていたら、海外に飛ばされたりしてさぁ。とんでもないところに入ったと思ったよ」

道理で彼の放つ雰囲気が万人離れしているはずだと真は納得した。マスターの嵐は今でも雑誌のモデルとして活躍し、時おり店を凛月に任せては空けることが多い。モデルの世界で身に付いた気品なのだろうか。言われてみればピンと伸びた美しい姿勢や、華やかでひとつひとつが絵になる仕草が彼とよく似ていた。泉は笑いながら真に愚痴をこぼすがその若さで海外勤務を任されているのであれば、仕事の場での能力の高さも伺える。比べるつもりは無いが自分とは真逆な世界に生きる、まるでドラマの主役のような彼の話を聞くのはとても愉しかった。持て成す側のはずが、職業柄なのか彼の巧みな話術にすっかり乗せられ、逆に自分の方が緊張の糸を解いて貰っている事に真は気付いていた。

「2年ぶりにこの店に来たけど、遊木くんみたいな子が入ったなんて正直驚いたな。ここは癖の強い奴らの集まりだから君も大変でしょ?」

癖の強い奴らとは彼の友人のことだ。確かに嵐や先輩の凛月は他の人間とは違い、後から入ってきた人達がその異変さに耐えきれず辞めていく姿をこの一年で真は何度か見てきた。しかし真は自分も普通ではないと自覚していたので、そんなあなたも同じでしょうと思いながら目の前に座る人物に眼鏡の奥底で笑って誤魔化すことにした。



大きな振り子時計の音が響く。そろそろマスターの嵐が来る時間だ。多少の名残り惜しさを感じながらも真はすみませんとひと言告げ、一度裏に立ち去ろうとするが、カウンター越しから突如伸ばされた手に掴まれたそれが出来なかった。

「あの…?」

「また来るからさぁ。その時も俺の話相手をしてくれる?今度は君の話もゆっくりと聞きたいなぁ…」

ゆうくん。と聞き慣れない名前で自分を呼ぶやや低めの声に真の心臓がどくりと跳ねた。先程まで穏やかだった彼の瞳が鋭く熱を持ったものに変貌している。時おり、客のなかにも同じ視線を送ってくる者がいたので、彼の自分を見つめる視線に何となく真は気付いていたが、薄明かりでそれに気付かないふりをしていた。一応適度な距離を保って接していたつもりだったので、まさか紳士を装う彼にこんなふうに触られるとは思っていなかったのだ。もしかしたら経験の浅そうな自分を揶揄っているだけなのかもしれない。真の緑の瞳がキャンドルの炎に照らされゆらゆらと揺れ動く。

すりすりと誘惑するように絡められた長い指を真が振り解けずにいると、二人の雰囲気を打ち破るようにドアが開く音がした。






「…それで、うちの新人くんに手を出そうとしたセッちゃんは怒ったナッちゃんに店を追い出されたと。もぅなんでそんな面白い事を俺の居ない間にするのかなぁ」

「全然面白い話じゃないから、あんのクソオカマ…!!人が疲れてるのにわざわざお土産届けに来てやったっていうのに良いところで邪魔してぇ…!せっかく面倒臭い仕事片付けて来たのに、今日ゆうくん居ないし。来て損したぁ」

真の前とはうって変わり荒々しい口調で息を巻きながら、泉は先日の腹ただしい出来事を思い出しロックのウイスキーを煽った。凛月の仕上げた洗練された味は充分舌に馴染んでいるはずなのに、今の泉には真のあの甘く辿たどしいウイスキーの味が無性に恋しかった。

あの後、店に現れた嵐は二人の間に流れる只ならぬ空気をすぐさま読み取ると、泉ちゃんの綺麗な見てくれに騙されちゃダメよ。真ちゃんなんかすぐベッドのなかに引き摺りこまれちゃうわ、この男は危険なんだから、と頼んでいたフランス製の化粧品を泉から奪うと取り繕う間もなく真を店の奥に隠してしまったのだ。

「残念ながら今日はあの子はお休み。ねぇ…何なら久しぶりに今夜は俺が慰めてあげようか?」

セッちゃんのベッド寝心地良いし、と凛月が誘うように耳元で囁く。

「えぇ~慰められるならゆうくんが良い~。…決めた。俺、日本にいる間はしばらくここに通うから」

「怖っ。それもうストーカーじゃん。ただでさえうちは人手が少ないのに、貴重な新人くんが辞めたらセッちゃんのせいだからね」

「それってくまくんがいびって辞めさせてるだけでしょう?はぁ…ゆうくん、困った顔も可愛かった…。なるくんも酷いよねぇ。俺にくれれば家のなかで大事に膝に乗せて可愛がってあげるのに」

「なにそれ、結局ペットにしてベッドのなかで可愛がりたいだけじゃん」

「違うよ。ただ傍に居て俺を癒してくれればそれだけで良いの」

(ありゃ。セッちゃん本気で重症かも。)

ゆうくんゆうくんと、カウンターに塞ぎ込む彼の姿は付き合いの長い凛月にも物珍しい光景だった。泉曰く、眼鏡の奥に秘められた魅惑の美貌と、どこか嗜虐心を煽る仕草にすっかり心を奪われてしまったらしい。いわゆる一目惚れというやつだ。
普段、他人に絶対心を開かない気難しい彼が、家に置きたがるということはかなり本気だということだ。さて、どうしたものかと考えた凛月は好奇心から少し助け舟を出してあげることにした。

「あの子、ゆうくんならナッちゃんの経営するアパートに住んでるよ。何ならナッちゃんの居ない日とセットでシフトも教えてあげる」

「…可愛い後輩を狙う悪い男にそんな情報教えるなんてどういう風の吹き回し?」

「別に可愛くないけど。あの子俺がどんなに嫌味言っても全然効かないから面白くないし。その代わりさぁ、今度ま~くん一緒に連れて来てよ。最近仕事が忙しいって全然構ってくれなくてさ。ま~くんが過労死したらおたくのブラック企業を訴えてやるから」

「ま~くん?…ああ、衣更のことね」

泉は自分が海外勤務に行く前に入社した赤い髪の新入りの姿をぼんやりと思い浮かべた。凛月の幼馴染だという彼はいかにも体育会系のノリで明るくハツラツとした青年だったが、つい最近社内ですれ違った時には別人かと見間違うくらいに疲れ果て暗い表情になっていた。真面目で誠実な性格が仇となったのであろう。この世界は多少の要領の良さと、汚れた現実を上手く利用しなければ生き残れない。普段は他人の事など、どうでもよく気にも止めない泉だが、真の情報を手に入れる為なら少しばかり口添えしても良いと考えた。

「…おっけぃ。じゃあ取り引き成立という事で」

悪魔との契約に不敵な笑みを浮かべた泉がグラスを傾ける。凛月の手によりアイスピックで芸術品のように整えられた丸い氷が、グラスのなかでカランと綺麗な音を鳴らして溶けた。




ひとつだけ凛月は泉に黙っていることがある。

時々、真と更衣室で一緒になることがある。凛月は着替えてる時にどうしても視線を逸らせない存在があった。自分には見られても構わないと思っているのか、彼は隠しもしないのだ。初めてそれを目にした時は、流石に凛月も息を飲んだ。
シャツのボタンを外し、真の白い肌に現れたのは醜く爛れたおおきな火傷の跡だった。他も煙草を押し付けられたようなちいさな跡や、消えない痣がたくさんあることを、凛月は泉には敢えて言わないことにした。

(まぁ、セッちゃんならあの子を脱がすことなんかわけないと思うけど…)

目的の為なら手段を選ばないセッちゃん。あの子を裸に剥いたその時、果たしてセッちゃんはどんな表情をするのだろうか。小動物みたいな見た目をしているけど、あの子はけっこう怖い子だよ。飼うつもりが逆に駄目にされちゃうかもね。でも、その時は友人のよしみで助けてあげる。

凛月はしばらく退屈しなくて済みそうだと心のなかで嘲笑うと、カウンターから場を移し、自身のグランドピアノを愛おしげに撫でる。
人が羨むような血統書付きの猫の皮を被るのが得意で、どちらかといえば執念深く、獰猛な蛇のような本性をもつ友人の為に、似つかわしくないなと思いながらも凛月は淡いセレナーデを一曲奏でた。


BAR《BLACK CAT》は今宵も暗闇に迷った猫たちの為にネオンの明かりを灯し始める。




カクテル言葉 ホットウイスキー・トゥディ《誘惑のしぐさ》

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