こんな世界があってもいいのかもしれない




「おはようございます」

寝不足の頭で靴を履き替えているとよぉく耳に馴染んだ声に呼び止められた。朝の投稿時の挨拶が飛び交うなかで、声の主は何か言いたげな表情で眉を寄せている。つい先程まで見ていた顔と同じなだけに、その雰囲気の違いが面白くて思わず口元が綻んでしまう。マフラーで隠れているので恐らくバレてはいない。

「おはよう。ゆうくんの方から俺に挨拶してくれるなんて珍しいねぇ」
「…昨日休んだって偶然鳴上くんから聞いて。どこか調子悪いんですか?」

少し口篭りながら喋る彼に、俺が居ない時になんでなるくんと仲良く喋ってるのと浅ましい嫉妬心がふつと湧き上がる。同時に不器用ながらに自分を心配してくれている彼の気持ちが嬉しくて。淀んだ気持ちを誤魔化そうと、手を伸ばすもあっさりとかわされてしまった。何だ元気そうじゃないですかとそっけなく踵を返し、少し大きめのリュックを揺らす背中を歩幅を詰めて追い掛ける。いつもの雰囲気だ。たった1日しか会っていないのに、こうして隣を並んで歩くのは何だか久しぶりな気がした。

「ちょっと夜風に当たりすぎちゃったのかも。普段からゆうくんに煩く体調管理しろなんて口煩く言ってるのにね」
「まさか…本当に星を見に行ったの?」

逃げるように教室を目掛けていた上履きが廊下でぴたりと止まる。その隙を逃さまいと横に並び顔を覗き込むと、緑の瞳は逸らすこともなく上目遣いでこちらを凝視した。

「ゆうくんの為におにいちゃんお星様に沢山お願いしておいたよ」
「何それ。僕の為に風邪ひくなんてどうかしてるよ…」

馬鹿じゃないの。知らないからね。歯切れの悪そうに悪態をつくと、ゆうくんは呆れた様な、困った様な複雑な表情を浮かべた。喜ばせる筈が、逆に彼にそんな顔をさせてしまったことに少し胸が痛む。彼に対して嘘をつくつもりでは無かった。寒空の中、星を見に行ったのは事実だ。けれども本当は体調なんか崩していない。自分の中で、どこか彼に対して後ろめたい気持ちから出た嘘だった。


家に残してきたもう一人の『ゆうくん』はどうしているだろうか。

あの後、着替えもままならないぬうくんを置いては行けなくて学校を休んだ。何も知らない無垢なぬうくんは、喩えるなら赤ちゃんのような存在だった。自室のベッドの上で強ばった身体の緊張を溶かすように首筋に唇を落としながら、ゆっくりと、一枚ずつ、焦らせるように服を剥ぎ取る想像をしたことは何度もある。でもまさか大きくなったゆうくんに対して、子供の着替えを手伝うようなシチュエーションになるとは思わなかったのだ。下着は勿論、膝まづき片方ずつ靴下も履かせてあげる。なんだか悪戯をしている様な、いけない事をしている様な気持ちになり、出来るだけ直視しないように薄目で接したけど時折触れる肌に正直、興奮した。

人間になったのが余程嬉しかったのか、着替えを終えたぬうくんは俺の胸に抱き着いたまま離れなかった。いずみさん、いずみさん、と舌足らずな口調で懸命に話し掛けてくる姿は愛おしくて無下になんか出来ない。学校へ休みの連絡をいれた後、しばらくベッドの上でぬうくんの話に頷いていると、きゅるると自分ではない腹の虫が鳴いた。ぬうくんは自分から出た音に不思議そうにお腹を抑えている。ちょっと待っててねとぬうくんをキッチンの椅子に座らせ、食べやすそうな簡単なオムライスを作って与えてみた。スプーンを握らせて口に運ぶ。おいしいと笑顔で食べてくれたので取り敢えず安堵の息をついていると、おぼつかない手つきのぬうくんのスプーンからぽろぽろとご飯がこぼれ落ちた。その度にぬうくんがあっ、と残念そうな声を上げる。口の周りに付いたケチャップを掬い取り、口を開けてと代わりに食べさせてあげるとぬうくんはいずみさん、ありがとうと喜んだ。人としての知識はほとんどないはずなのに、ぬうくんは俺に対してありがとうと感謝の言葉を何度も口にする。それは普段から俺がぬうくんに今日も話を聞いてくれてありがとうと話し掛けていたせいかもしれない。 子供の頃にゆうくんと出逢う前からいつも抱き締めて一緒に眠る兄弟代わりのくまのぬいぐるみがいた。寝る前にその日にあった出来事をこっそりと教える秘密のお友達だ。泣いている声を誰にも聞かれたくない時には、ふわふわの毛並に顔を埋めたことを憶えている。周りからパパ、ママ呼びを揶揄われる年頃になってからはそのぬいぐるみとはいつの間にか離れてしまったけど、どうやら幼い頃の癖は抜けていないらしく、ぬうくんを手にしてから再び誰にも言えない秘密の時間ができた。
慣れない人間の体で余程疲れたのか、目を擦りはじめたぬうくんをベッドに寝かせて寝物語を聞かせる。ぬいぐるみの頃は主にゆうくんの話が多かったので、なんの話が聞きたい?と寝かし付けるようにリズミカルに布団に手を置いてみる。

「うーんと…ゆうくんのおはなしがいい。あとおほしさまのおはなし!」

ぬうくんは微笑んで瞼を閉じた。





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「…ずみさん。泉さん…!」

自分を呼ぶ声に現実に引き戻され、ハッとした。せっかくゆうくんから話しかけてきてくれたのに、上の空になるだなんて幾ら疲れているとはいえどうかしている。

「あ…、ごめんねぇ。昨日あまり寝付けなくてまだ頭が覚醒してないみたい」
「もしかして熱があるんじゃないですか?」

そういうと、前髪を指で避けられレンズに隠された美しい顔が近付いてきた。互いの額がこつんとぶつかる。

「なっ…!?」
「ほら、やっぱり顔も赤いし」

至近距離の顔に心臓が激しく動悸を打ち始めた。ゆうくんの唇が動く度に、昨日から部屋で見ていた光景と重なる。寝起きの甘い声で目覚めとおやすみなさいのキスを強請られて、滑らかな足を上げさせて下着を履かせて…

「そ…それ以上近寄らないで」
「えっ」

欲望のフラストレーションに耐えられなくて、思わず前髪に掛かっていた手を払い除けた。優しい熱が驚いて離れる。

「大事なゆうくんに風邪移したら大変だからさ。ごめん、俺もう行くね」

居た堪れなくなり廊下を駆け出す。
だって、ずるい。俺から触るのは嫌がる癖に自分から触るのは平気だなんて。ゆうくんの傷ついたような表情が脳裏に焼き付いて離れなかったが、それでも足を止めることは出来なかった。こころの中で何度もごめんと謝罪の言葉を唱えても届きはしないのに。





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今日はまだ体調が優れないからとメンバーにレッスンの断りを入れて帰路へと急ぐ。ぬうくんは大丈夫かな。さすがに続けて学校を休むわけにもいかないので、幸せそうに眠るぬうくんの寝顔を見ながらどうすれば良いのか考え込んでいたら、起きた本人にいずみさんきょうはがっこうでしょ?いってらっしゃいとあっさりと見送られてしまった。本当にひとりで大丈夫なのと念を押してみても、いつもおるすばんしてるから大丈夫と得意げな顔が浮かぶ。
ごはんは置いておくけどキッチンの周りは危ないから触らないこと。誰が来ても決して玄関のドアを開けないこと。そして出来るだけ早く帰って来るから絶対に外には出ないことを約束して、出来るだけ早く帰って来るからと学校へと来たは良いが、朝ゆうくんに対してとってしまった態度と、家の中でぬうくんがなにをして過ごしているか気が気じゃなく、やはりもう一日くらい学校を休めば良かったと後悔した。

「ただいま。帰って来たよ」

鍵を開けて逸る気持ちを抑えきれず雑に靴を脱ぎ捨てる。てっきりドアを開けた瞬間に出迎えてくれるであろうと思っていた姿が見あたらない。ぬうくん、と名前を呼んでみるがやはり出てくる気配はなく、もう一度、今度は大きく声を掛けてみても空気は変わらずしんと静まり返っている。ぬうくんが居ない。まさか外へと出てしまったのだろうか。最悪の状況を考え、一気に血の気が引いてスリッパも履かずに靴下のままバタバタと家中を駆け回った。リビング、キッチン、風呂と1階をくまなく探し、階段を駆け上がり2階の自室のドアを乱暴に開ける。音に反応したのか部屋の片隅で膝を抱えながら小さく縮こまった背中が動くのを見付けてふぅ、と安堵の息を漏らした。

「良かったぁ。ぬうくんいなくなっちゃったのかと思ってびっくりしたよ」

傍に近寄ろうとしたが、小さく嗚咽を漏らすような音が聴こえて思わず足を止めた。寂しさに耐えきれず泣いてしまったのだろうか。

「どうしたの?泣いてるの?」
「いずみさぁん……」

ぐすぐすと鼻を鳴らし、見上げた瞳は今にも涙が溢れそうなほど滲んでいる。

「ぬうくん大丈夫?どこか痛いの?」

異様な雰囲気にすぐさま駆け寄り気付いた。微かなアンモニア臭と、朝履かせたジーンズがぐっしょりと濡れている。

「…ごめんなさい。きのうおトイレおしえてもらったのにじょうずにできなかったの…」

ずっと我慢していたのか、堪えきれなかった大粒の涙がぽろぽろと溢れみるみるうちに頬を濡らしていく。ごめんなさい、じょうずにおるすばんできなくてごめんなさいと謝り続けるぬうくんに手を伸ばすと、怯えたように肩がぴくりと震えた。

「謝らないで。俺の方こそはやく帰って来れなくてごめんね。一人で不安だったでしょ?一緒にあったかいお風呂入ろう。だから泣かないで。ね?」

横から抱き上げるとぬうくんは一瞬驚いた顔をしたが、こくりと頷くと落ちないようにぎゅうっと首に手を回してしがみついた。まだ身体が震えている。一体いつから泣いていたのだろうか。朝、笑顔を見せてくれた瞼と目尻がすっかり赤く腫れている。かわいそうに。無理をして自分を送り出してくれた姿に気付いてあげられなかった。やっぱりひとりにするべきじゃなかった。何度もこの目で見てきている筈なのに、どうして自分はいつも大事なサインに気付いてあげられないのだろう。もう二度と取り返せないことに嘆き、失望して、自分の無力さにいつも後悔することしか出来ないのだ。


泡のスポンジで足の裏を擽ると風呂場にきゃあきゃあと笑い声が響いた。もうすぐ家を空けていた両親が戻ってくる日にちだった。





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冷えた長い廊下を歩き急ぐ。

窓からはあの頃見た桜の花びらではなく、秋の色を添えた葉がかさついた音を奏でていた。他の部屋よりも幾分重厚な扉の前に辿り着き、再度周囲を確認してから鍵を差し込む。

「いずみさん、おかえりなさい」

ゆっくりと開いた扉から春の陽射しのような声が出迎えた。嬉しそうに擦り寄う頬を優しく撫でる。

「ごめんねぬうくん。お待たせ」

扉の閉じる音が響く。



そこはパンドラの箱にも似た、想い出の防音レッスン室だった。



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