スヴニールな時間を貴方に


タイが曲がってると、緊張した面持ちの僕の襟元を直す指を黙って見詰める。彼は自分のことはあまり語らないけれど、手馴れた仕草から育ちの良さがなんとなく伝わってくる。きっと自分なんかとは違う裕福な家の子だったのだろう。
ひとつだけ。そんな彼がまだ泣き虫だった頃の幼い自分にひとつだけ、こっそりと秘密を教えてくれた。このペンダントの中には弱かった過去の自分が入っていると、ちいさく笑いながら。

約束通り自分の背中を守る純白の手袋が、目の前で真っ赤なバラの色に染まっていく。

ペンダントを大事そうに握り締めていたその指で、力無く僕の頬を撫でた君は最期に何を伝えようとしていたのだろうか。

もうすぐこの閉ざされた世界にもブル・ア・ネージュの白い雪が舞い降りる。







「雪が溶けた頃には新しい時計候補が来る予定だ。しっかり育ててやれよ。それまではおれがおまえのバディだ。改めてよろしくなニュイ」
「ええ、宜しくお願いします。オーロージュ」

扉が閉まると同時に、パチパチと暖炉の中で揺らぐ炎が想い出と共に響いて彈ける。
正直、こんなにも早く自分が教育担当になるだなんて思わなかったから。ここに来たばかりの頃、慣れない環境に僕は隠れて泣いてばかりで。その度に厳しかった教育担当の彼に見つかって連れ戻されていたっけ。
悲しみに暮れる人の感情とは裏腹に、時計の針は何事もなかったかのように時を刻み季節は移ろい変わり行く。

ただ、君だけがここにいない。君だけが。




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「ニュイ、はいってもいい?」

控えめなノック音に眺めていた写真立てをそっと伏せる。返事とともに現れたのは僕らの大事な天使と、つい先日この館の一員になったばかりの銀の毛並みのふっくらとした猫。

「マタンがね、ニュイと一緒に寝たいってきかないの。マタンは本当にニュイのことが好きなのね」
「いいよ、マタン。こっちにおいで」

毛布の端を捲り上げて迎え入れる。良かったね、今年はあたたかい冬を過ごせるよ。見た目に依らず機敏な動きでごろごろと擦り寄る猫の頭を撫でてやる。不思議だね。君と喧嘩ばかりしていたこの子が、今や正式に君の名前を受け継いでいるなんて。きっと君が知ったらもの凄く怒るだろうな。想像するだけでなんだか微笑ましい。でもそれは決して見るのこと叶わない夢の話だ。

「私も一緒に寝てもいい…?」
「勿論。今日はお嬢様のお好きなマザーグースの詩でも読みましょうか」
「嬉しいわニュイ。ありがとう」

気丈に微笑むこころ優しい天使が、ひとりでは不安で眠れないことを。誰かの温もりを求めて夜な夜な部屋を訪れることを残された者達は皆知っているから。僕達はそれぞれ寝室に子守り歌代わりの本を置くようになった。
オーロージュもまだ幼い彼女にこれ以上寂しい思いをさせたくなかったのだろう。だから冬場の間だけ使われていない納屋にこっそりと匿っていた猫が見つかった時も、あっさりとこの館に住むことを許可してくれたのだと思う。流石にその名前には驚いてそっくりだなと笑っていたけれど。

「残された石は寂しくないのかしら」
「季節が変わればすぐに新しい鳥がやって来ますよきっと。さぁ、もう眠りましょう」

うとうとと、微睡み始めた天使の瞼にキスを落とす。そうだ。厳しい冬が過ぎ去り、バラの花が咲く頃にはきっと新しい風がやって来る。春を信じてそれまで僕らは肩を寄せ合い寂しさを紛らわそう。
でも、本当に飛び立った小鳥たちは目的の地へと辿り着いたのだろうか。それまで海を渡り、故郷へと帰って来た鳥は一羽もいない。







真っ暗だ。

ここは何処だろう。蝋台を探そうにもこうも見えなくては歩いて見付けることすら出来ない。

これは夢だろうか。なんとなくだけどここが自分のいる現実ではないことだけは分かる。そう、ここはきっと自分のこころが生み出した何処までも続く果てのない孤独の世界だ。どうせ見るなら幸せな夢が良いのに。例えば、あの時の花が舞うように幸せな日々の。もうそんな光景を望むことすら出来ないのに。仕方ない事だと。彼は作戦担当としてのお前を優先したのだと、慰めの声が聞こえる度に自分が消えて無くなりそうになる。本当は僕が消える筈だったのに、どうして自分はこんなところに立っているんだろう。足が竦んで動けない。その時だった。靴音が、聞き間違える筈の無い革靴の音が闇に響いて僕の横を通り過ぎた。まるで僕の存在自体に気付いていないように。

「待って……っ!」

ひゅうひゅうと、窓を激しく叩きつける風の音で目が醒める。外は酷い雪の群れだ。
夢で良かった。思わず心臓に手を当てて自分の鼓動を確かめる。だって光の果てに飛び立った筈の彼が、あんな寂しいところに居るはずがないのだから。

「ゔみゃあん」

同じく眠れないのか、尻尾を揺らしながら金属の音を鳴らして戯れている猫が退屈そうに声をあげる。

「こら、ダメだよマタン。お嬢様が起きて…しま…う…」

しゃらりと、金色の鎖が揺れて僕の視界に現れたのは。
夜明けに照らされて輝く真鍮に、あの雨の日の記憶が蘇り震える手を伸ばす。

『あのね、ニュイ……あのね…これをニュイにね持っていて欲しいの』

雨の葬儀の後、ちいさな肩が濡れないようにと傘を差していた自分へと弱々しい声で差し出されたのは、彼がいつもその身に付けていたペンダントだった。すっかり冷えてしまった手を屈んで握り返す。

『これはお嬢様が持っていてください』
『でも…』
『マタンもきっとそれを望んでいるはずです』

こくりと、伏せ目がちに頷く姿を今でも憶えている。

ダメだ。いけない。彼のこころを、ひたむきに隠していた彼のこころを勝手に覗いてはいけないと分かっているのに。僕はその蓋を開くのをやめることが出来なかった。

「ふっ…うっ…」

慣れない燕尾服に身を包み、初めて撮る写真に緊張で上手く笑えていない少し幼い自分の姿が滲む。泪が頬を伝わってうまく呼吸が出来ない。
忽然と、彼の部屋から皆で揃いの写真が姿を消したその時から。てっきり僕は信仰深い彼が、命よりも大切な主の姿をその胸に閉まっていると思い込んでいたから。

勘違いするなと。冷たく突き放す彼の言葉にそれでも良いと。例え性の処理が目的でも僕は求められて嬉しいと喜んで身体を差し出した。でも本当は、自分に触れる彼の手が本当は震えていることに気付いていた。泣きそうな瞳で僕の名を呼ぶ事を知っていた。
同性愛の行為は清浄なものではないと。それが神に赦されない行為だと、昔から教えられている事も知っている。それでも、最期に彼は僕に愛を伝えようとしていた。

言葉ではなく、その命を掛けて。




穏やかな寝息をたてる、光の色を湛えた天使のやわらかな髪を起こさないようにそっと撫でる。

「マタン、お嬢様を宜しくね」

ガラス玉の瞳がゔみゃあと何か言いたげに僕の顔をじっと見つめる。主よ。あなたの元を離れることをお許し下さい。


僕は祈りを捧げるふりをしながら、本当は自分を捨てた神なんか信じていない。

でも、もし彼が。

神を信じる彼が光の回廊へとたどり着けないのだとしたら。僕は彼を探しに行かなければならない。例えそれが主を裏切る自分への罰の。永遠の地獄だとしても。





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身を切るような寒さだ。


地平線の見えない白銀の世界を一歩づつ踏みしめながら進む。息を吸うだけで肺が凍るように痛い。僕は君の元へと辿り着けるだろうか。やっぱり馬を使えば良かったかな。でもこんな吹雪の中じゃ帰れなくなったら可哀想だ。

どれくらい歩いたのかな。

ああ、でも良かった。既に立たない膝で君の眠る十字架の上へと倒れ込む。ほら、ちゃんと着いた。僕は勘だけはいいんだ。降り積もった雪を、感覚の無い指で掻き分けて現れた石に頬を擦り寄せる。冷たい。今の僕の心臓のようだ。
こんなところまで追い掛けてきて、着いて来るなと。馬鹿なことをしてと君はやっぱり怒るかな。



「んっ…ニュイ…?どこにいるのニュイ……?」


眩しい、朝の光。
そろそろお嬢様が目を覚まして、消えた僕の姿を不安な瞳で探しているかもしれない。
ごめんなさい。貴方の為に命を捧げると誓ったのにごめんなさい。
視野を失った曖昧な世界で、それでも瞼を閉じて思い浮かべるのは。雪溶けの春の陽射しに包まれた美しい白亜の城と、刻んだ幸せの情景。

地平線の無い暗闇に蝋燭の灯りをぽつりと点す。こんなちっぽけな僕の光じゃ君を見付け出すことは出来ないかもしれないけれど。



それでも僕は君に逢いたい。

君にもう一度逢いたい。

どんなに時間が掛かっても良い。

もう一度君に巡り逢って、今度は自分から愛を。

君から貰った愛の意味を、今度は自分から伝えたい。
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