これもひとつの愛のカタチ

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小鳥がさえずるとある美しい森に、ふたりで暮らすおさない王子さまとお姫さまがいました。お姫さまは本当は男の子なのですが、王子さまにとって男の子はお姫さまなのでここでは彼をお姫さまとします。

お王子さまとお姫さまはとても仲がよく、手をつないで野をかけまわり、温室の薔薇に水を撒き、焼きたてのパンとあたたかいスープを食べ、夜はふたりで眠り、どこへ行くのも一緒でした。

そんなふたりの森にある日とつぜん一本の見知らぬ木が生えました。
その木はすくすくと育ち、気づいたころには真っ赤な実がなりました。その木は林檎の木でした。

王子さまは木にのぼりその実をもぐと、お姫さまに与えました。お姫さまは林檎をひとくち齧ると、そのあまりの美味しさにびっくり仰天。お姫さまがもっと食べたいとねだると、王子さまはうれしそうに微笑みました。

すっかりあまい蜜にむちゅうになっているお姫さまはふと、王子さまが林檎を食べていないことに気づきます。どうして食べないの?ときくと、王子さまはお姫さまが食べている姿をみるだけで、お腹がいっぱいなのだとこたえました。お姫さまはふしぎに思いましたが、王子さまが与えてくれる林檎が美味しいので気にしないことにしました。

王子さまはくる日もくる日も林檎を与えつづけました。お姫さまは喜んでその林檎を食べました。


ところがある日お姫さまは倒れてしまいます。眠くて眠くてからだがうごきません。お姫さまが助けをもとめるとそこに王子さまがあらわれました。お姫さまは安心してついに眠ってしまいました。眠りについたお姫さまを王子さまは抱きあげ、瞼にキスをひとつ落とします。王子さまはそのままガラスの温室にお姫さまを運び、寝台にねかせると、鍵をかけてお姫さまを閉じこめてしまいました。


しかしお姫さまは眠りにおちるまどろみの中見ていました。やさしい王子さまの正体は、なんとおそろしい魔女だったのです。


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「僕、泉さんの作ったお弁当が食べたい」

一瞬。ほんの一瞬だけ、泉の思考が停止した。内心かなり動揺したが、真に悟られないようにすぐに切り替え嬉々とした表情を作った。

「うわぁ…!ゆうくんがそんな事言ってくれるなんておにいちゃん嬉しいなぁ。ゆうくんの為に腕によりをかけて美味しいお弁当作るからね」

ちらりと、真を見るとそんなに手の込んだものは作らなくて良いからと、伏せ目がちに返すが、その頬は夕暮れのせいか少しばかり赤い。

真が泉に対して何かを要求するのは珍しい事だった。いや、意味合いは違えど普段から要求されている事はある。

ひとつ、普通の距離で接すること。

ふたつ、体に触らないこと。

それを破ると彼は泉の事を嫌いになる、二度と許さないと脅しをかけた。嫌いになる。それは泉にとっては最も死刑宣告にも等しい言葉だった。


春の柔らかな陽気が訪れはじめた頃、泉は今まで以上に執拗に真を追うようになった。それは誰が見ても明白で、凛月からは、うわ、せっちゃんの追い込み見てて見苦しい。今さら無駄なのに…フラれたら慰めてあげる、よしよし、と頭を撫でるジェスチャーまでされる始末だ。屈辱的な扱いだが、正直、見苦しいの一言はかなり胸に突き刺さった。

「ちょっとぉ。うざいからやめてくれる。それに今はそういうんじゃないから」

髪を乱す手を露骨に避けると凛月は、はて?と不思議そうな顔をした。見ている側には二人の関係性は、今までとと何ら変わりはないように見えるからだ。その微妙な変化は自分達にしかきっと分からない。


3月になれば否が応でも泉はここを卒業する。真はここに残り、泉の居なくなった世界で仲間とともに学園生活を謳歌するだろう。真は泉がいなくても充分に輝いていける。本人にその気は無くとも、まるで彼の人生に泉は必要ないと言われているみたいで、泉はそれが少し悔しくて、寂しかった。彼の心の壁を作った原因は自分なのに。それでも、残り少ない時間を彼とともに過ごしたいと思った。これは真の傍を離れると決意した泉の最後の我儘だった。
ただ、意外な事に真は泉のことをそれほど拒まなくなった。以前の彼なら近寄るなと容赦なく泉を拒絶しただろう。もしかしたら優しい彼の事だ。卒業する自分に対して恩恵をかけてくれているのかもしれない。
そんな彼の優しさにつけ込んで、明日、二人で一緒にお昼を食べようと、帰宅途中の彼を待ち伏せして誘った。正直、断られる前提だったので本当に軽い口調でだ。そして返ってきた返事が冒頭の言葉である。


真が自分の作ったものを食べたいと言ってくれている。それは泉にとって天変地異の衝撃で、嬉しさのあまり真の手に触れたいと思ったが、ぐっと堪えた。そのまま隣に並び、たわいもない話をしながら夕暮れの中の歩く。真を家まで見送ると、頭の中で明日の献立を考えながら行きつけの店へと食材を買いに足を運んだ。





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どれくらい経ったころでしょうか。ある日3人のこびとが森に迷いこみました。その中のひとりが誰かの泣き声に気づきます。それは聞いているだけで胸が締め付けられるような悲痛な声でした。こびとたちは声の主を探します。
そしてこびとたちはガラスの温室で眠るお姫さまを見つけました。お姫さまは眠りながら泣いていました。その姿をかわいそうに思ったこびとたちは、ガラスを割りお姫さまを連れて逃げました。ゆめの世界が壊れる音で目を覚ましたお姫さまは、自分をたすけてくれたこびとたちにお礼をいいます。お姫さまにはじめて友だちができました。


バラの温室に魔女がやってきました。魔女はお姫さまのきれいな寝顔を眺めるだけで幸せでした。しかしどういう事でしょう。温室のガラスは割られ、寝ているはずのお姫さまの姿がそこにはありません。お姫さまがいないことに気づいた魔女は怒り狂い、すぐに追いかけお姫さまを連れもどそうとします。

捕まったお姫さまは「いやだ。もうあそこにはもどりたくない」と必死に抵抗しました。あたり前です。毒の林檎で殺されそうになったのですから。

しかし魔女はお姫さまがなぜそんなに嫌がるのか分かりません。そして憐れな王子さまは自分の姿がいつの間にかおそろしい魔女に変わっていることにも気付いていなかったのです。

けっきょくお姫さまはこびと達の助けもあって魔女の元から離れて去ってしまいました。



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数ヶ月前のことだ。

真を見るとどうしても衝動が抑えきれなくて、抱き締めて、頬を擦り寄せようとしたら「やめて」「触らないで」と普段よりも過剰に嫌がられたので、泉は少し苛立しげに聞いた事がある。
「なんで他の連中は良くて俺相手だとそんなに嫌がるの。あ、もしかしてゆうくん照れているの」と聞けば彼は声を荒らげて違う、泉相手だから嫌なのだと言い放った。


あの時の事を思い出して、嫌なのだと。近寄られるのも、触られるのもまだ怖いのだと。

それまで何を言われてもぴんとこなかった泉は、そこでようやく震える真の姿を見て、彼の言わんとすることに気付いた。どくん、と心臓が跳ねてうまく声が出ない。喉からひゅっと冷たい空気が漏れた。自分にとって居心地の良い夢だけを見て、いつしか都合の悪い現実は記憶の奥底に封じ込めていたのだ。
なぜ今まで忘れていた?あの時、彼に自分は何をした?


狭い鳥籠に鍵をかけて閉じ込めて、無理矢理餌を与えようとした。逃げようと必死にもがくきれいなその羽根に手をかけて、乱暴に毟り取ろうとした。その時の自分はどんな酷い顔をしていただろうか。

「ゆうく…」

何か言わなければならないのに、何を言えば良いのか分からなくて。微かに震える真の手に、泉は指で触れようとするが、その手を真は思い切り払い除けた。涙で濡れた瞳で泉を見つめる。その時の真の表情と、言葉が、今でも忘れられない。

「ほら、あんたは全然分かってない」




それでも真は泉のことを嫌いではないという。近寄ることも、触れることも許さない。でも、普通の距離で見守って欲しいと。
それは優しさでもあり酷く残酷で、今まで真を傷つけた罰なのかもしれない。
泉はそれでも時間をかけ、少しづつだが真との見えない壁に近づくことまでは許された。
もし、もしもの話だ。泉が見えない壁を越え、真に触れてしまったらどうなるのだろう。その時こそ真との、この紙一重のような関係は完全に終わってしまうのだろうか。



「…っと」

余計なことを考えていたせいで、手元が狂い、指に朱の線が走る。幸い掠り傷だが泉は握っていた包丁を置くと、すぐさま絆創膏を取りにキッチンを後にした。そういえば、おぼつかない手つきの転校生に、よくゆうくんの口に雑菌を入れるなと怒鳴りつけてたっけ。まぁ、そのおかげで調べなくてもゆうくんの好きなお弁当のおかずが分かるんだけど。
そう、綺麗なゆうくんに汚い不純物は混ぜてはいけないのだ。泉は自分に言い聞かせるように心の中で呟いた。





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耳をつんざくような叫び声が森に響きました。
魔法の鏡を見た王子さまはついに自分の姿に気付いてしまったのです。王子さまはよろめきながら扉の外へと飛びだします。そこで王子さまが見たものは自分と同じく、黒を纏ったみにくい森の姿でした。お姫さまとふたりで過ごした美しいみどりの森はもうそこにはありませんでした。

ガラスの飛び散った温室にはいると薔薇の花はすべて枯れていました。長いこと手入れをしていなかったので花は死にたえ、美しかった陽の当たる温室はすっかり埃がかっていました。
寝台のあったはずの場所にはなぜか見覚えのない黒い棺が置いてあります。そうです、長い間お姫さまが閉じ込められていた死の棺です。自分は知らぬ間に生きたお姫さまを薔薇の庭園に埋葬していたのです。王子さまは気が狂いそうになりました。では、今まで自分があたえていたあの果実はなんだったのか。

生命が死んだはずの森に、あの林檎の木だけが不気味に生きつづけ、血の色のような赤い実がひとつだけ光かがやいています。王子さまはその禁断の果実をおそるおそるひとくち齧りました。その味は苦く、酸味が酷くとても食べられたものではありません。喉が焼けるように熱くなり、王子さまの手から林檎がすべり落ちます。その林檎は毒りんごでした。毒が全身にまわる中、王子さまはこころの中でお姫さまの名前を呼ぼうとして、やめました。酷いことをした自分にはそんな資格ないのですから。




王子さまはおさない頃の夢を見ました。

しろい蛇が王子さまを誘惑します。その蛇の姿はどことなく王子さまに似ていました。

《あの美しさだ。いつ悪いやつらに穢されても可笑しくはない。その前にお姫さまを閉じ込めてしまえばいい。永遠に美しいままに》

そして蛇は王子さまに種を与えました。蛇はあかい舌をチロチロだしながら楽しそうにあざけ笑いました。


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「…そんなに見られると食べづらいんだけど」

真の箸の動きがぴたりと止まる。そのまま手を降ろし、レンズ越しの視線が泉をじろりと横目で捉えた。

「あぁ、ごめんねぇ。気になるよね」
「泉さんもはやく食べないとお昼終わっちゃうよ」
「ゆうくんの食べてる姿を見てるだけで何だかお腹いっぱいになってきちゃった」
「馬鹿なこと言ってないで。さっさと箸を動
かす」
「はいはい」

緩い返事をする泉を尻目に、真は再び箸を動かすと「ん、この卵焼きも美味しい」と目を輝かせた。口に含むとふわりと程よい甘さと風味が広がる出し巻き卵は泉の自信作のひとつだ。どうせなら出来立てを食べて貰いたいと思ったが、隣に座り泉の作るものを食べて貰えるだけでも幸せなのに、これ以上欲を出すなと自尊心が邪魔をした。


今日は天気が良いから屋上で食べようと言い出したのは真の方だった。いつもは騒がしい教室や食堂に、泉が無理矢理割って入る形だが、ふたりで食べようと言う自分の言葉をどうやら尊重してくれているらしい。
ゆうくんは優しい。本来なら受け取る必要のないプレゼントでも、贈った本人の前で付けてみせたりと、とにかく優しいのだ。もしかしたら指の絆創膏にも気付いているのかもしれないと思ったが泉は聞かなかった。
その優しい彼を傷つけたあの頃の自分が、憎い。
真に泉の作ったお弁当が食べたいと言われた時、真っ先に思い浮かんだのが、あの時食べて貰えなかった弁当だった。今となっては食べなくて良かったと思う。あんな不純物が入ったものなんか、不味いに決まってるのだから。 けっきょく泉は半分も食べられなかった自身の弁当箱を隠してから、真の食べ終わるタイミングを見計らって小さめのタッパーを取り出した。

「ごちそうさまでした!泉さんのお弁当すっごく美味しかった」
「ふふ。デザートもあるよ」
「え、なになに?」

お腹も膨れてすっかり上機嫌な真がはやく中身が知りたいと覗き込んでくる。泉の目の前で亜麻色の髪がさらり、と揺れた。ああ、触れたいなと思ったけれど、その気持ちを笑顔で押さえ込む。
開けてごらんと言われ、蓋をあけた真の鼻腔を甘酸っぱい香気な香りがくすぐった。

「林檎だ」
「ゆうくん林檎好きでしょ?」

その言葉に対し、真は懐かしいと答えた。もしかしたら今はそんなに好きではないのかもしれない。キッズモデル時代の真は胃があまり丈夫ではなかったので、消化に負担がかからない物としてよく果物を食べていた。その中でも林檎は特にお気に入りで、ゆうくんが少しでも喜ぶようにと、泉は親に強請って子供用包丁を買ってもらい、真が食べやすいようにと、うさぎの形になるように人知れず練習した。
歪なうさぎは「きつねさん!」と言われてしまったけれど、真の喜ぶ顔が嬉しかったから、泉は料理の楽しさを覚えたのだ。今みたく指に巻いた絆創膏を必死に隠すのも泉にとっては良い思い出だった。

「食べないの?別に毒なんか入ってないから安心してよ」

泉が勧めても真は爪楊枝に刺した林檎をじっ、と見つめるだけでなかなか口に入れようとしない。やっぱり別の物にすれば良かったか、と泉が顔を伏せたと同時に軽く吹き出す音が聞こえた。

「ゆうくん…?」
「きつねが成長してうさぎになっちゃった」

僕、あのきつね可愛くて好きだったのに。呆然とする泉をよそに、くすくすとひとしきり笑うと、真は泉に見せつけるように形の良い白い歯で音をたてて林檎を齧った。
しゃくしゃくと林檎が口に吸い込まれるたびに甘い香りが立ち、みずみずしい蜜が真の唇を濡らす。泉はその赤い唇から目が離せなくなっていた。

「泉さんも一緒に…」

食べよう、と動かした唇がとまる。差し出した真の腕が泉に掴まれた瞬間、真の体が強ばるのと同時に、林檎がかたいアスファルトの上にぽとり、と落ちた。




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パキッと足元からガラスが割れる音がします。お姫さまは割れた魔法の鏡を見つめました。久しぶりにおとずれた森はもうお姫さまの知っている森ではありませんでした。暗い森の中でひときわ大きな木だけがぽつんとそびえ立っています。お姫さまは転がっている齧りかけの林檎を拾いあげました。その林檎は腐っていました。
そして変わり果てた王子さまを見つけると、その憐れな姿を見下ろします。


《馬鹿なひと。自分で食べてしまったの》

動かぬ王子さまにお姫さまが問いかけます。

《ことばで言わないと伝わらないよ》

お姫さまはしずかに瞬きをすると、その瞳からおおきな涙のしずくをこぼしました。




お姫さまは王子さまのせいでたくさん傷つきました。何度も憎もうとしました。でも嫌いにはなれませんでした。

花びらが舞い踊り、爽やかな風が吹きぬけ、木の葉がかさりと音をたて、雪の精が訪れ、季節が何度巡った頃でしょうか。森の外へ抜け出してからお姫さまは気付いたのです。


ほんとうは王子さまは自分に愛を与えようとしてくれていたことを。

世界中の悪意からお姫さまを守るためにガラスの温室に閉じ込めようとしていたことを。

王子さまがどんな姿になろうとも、自分は王子さまを愛してるという気持ちを。



お姫さまはたくさん、たくさん考えました。
そして、王子さまの毒ならすべてを受け入れたいと思ったのです。




お姫さまは瞳を閉じた王子さまに目覚めの口づけをしました。今まで王子さまから与えられた毒を、たくさんの愛にかえて。


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「やめて」と抵抗する手足を骨が軋むほど縛り上げた。

「いやだ」と食いしばる唇を顔を掴んで無理矢理こじ開けようとした。

真の為だと勝手に期待して、勝手に裏切られて、歯向かう態度が気に食わず、お仕置きだと衰弱させて人間らしい生活を与えなかった。その時の自分の表情を思い出した。震える瞳で泉を睨みつける真を見て、支配する優越感に浸り、口元を歪め、愉しそうに笑っている自分がいた。


「ほら、あんたは全然分かってない」

頭の中であの時の悲痛な声が響く。

真の腕には擦れて傷付いた赤い跡が、まだ微かに残っている。



真を腕の中に引き寄せ、唇が触れる瞬間はっと我に返った。真の零れそうな瞳が泉を見つめている。
壁を、壁を壊してしまった。時間をかけて少しずつ築いた真との信頼の壁が、脆いガラスのように簡単に砕けてけいく。

「あ…俺っ…」

怯えた声を漏らしながら、泉は真からゆっくりと離れた。体が震えて足がおぼつかない。また、傷付けようとした。自分に対して失望の念がぐるぐると泉を取り巻く。黒い感情の渦が押し寄せ、今すぐここから飛び降りて真の前から消え去りたいと思った。

なぜ、こんなに彼を愛してるのにいつも傷付けることしか出来ないのだろう。なぜ、見守るだけでは満足できないのだろう。それでも、嫌わないで欲しいと願ってしまう。傷付けた人よりも自分のことばかり考える卑怯な
自分なんか、消えてしまえば良いのに。

「泉さん」

今まで黙っていた真が口を開く。泉はどんな処罰でも受け入れようと、ゆっくりと顔をあげた。まるで死刑を待つ囚人のような気分だった。真は泣きたいような、笑いたいような複雑な表情をして眉を下げている。

「やっぱりさ、まだ、突然触られると体がびっくりしちゃって…正直、怖いなって思う。だから考えて、どうしたら泉さんを受け入れられるかなって考えて…それで、僕から触れば良いんじゃないかなって…」

ぽつり、ぽつりと言葉を紡ぎながら、真は泉の絆創膏の傷をなぞるようにそっと触れ、指を絡めた。その優しい、あたたかい指はまだ微かに震えていた。

「ゆうく…」

ゆうくんは、本当にそれで良いの、と言おうとした泉の唇を、林檎の匂いがする柔らかい唇が塞ぐ。




本当は、許すつもりはなかった。

自分をあんなに傷つけて置きながら、当の本人は卒業と同時に自分から離れる気なのを知っていた。そんなのずるい。僕のこころと体に傷をつけておいて、自分だけは綺麗な世界へと逃げるだなんて絶対に許さない。だから卒業が近付くにつれ、わざと手を伸ばせば届く距離に彼を置いた。

屋上に呼び出したのはもし自分に触れて来たら嘘つきと罵りながらフェンスに追い詰めて、地獄の底へ突き落としてやろうと思っていたから。今度は自分が上から見下して、無様に墜ちて行く姿を嘲笑ってやろうと思っていた。

でも、出来なかった。

林檎が、歪だった林檎がとても綺麗な形をしていたから。

その蜜は毒ではなく、自分に対する純粋な愛情がたっぷりと詰まっていることを幼い頃から知っていたから。

だから、真は自分から彼に触れた。どうせならこの体が毒に支配されて動かなくなるその瞬間まで、彼を道連れにして一緒に朽ち果てるほうが幸せだと思ってしまったから。真は泉に気付かれないようにそっと口元を歪めた。


ずっと恋焦がれてきた蜜の味は甘く、みずみずしく、とろけそうで。でもその優しさが切なくて、少しほろ苦いと感じながらも舌を絡めた。ゆっくりと、たどたどしく、ふたり手探りで、互いの蜜の味をしっかりと確かめ合うように。角度を変えながら何度も。何度も。





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王子さまがそっと目をあけると、そこにはいるはずのないお姫さまの姿がありました。そしてお姫さまはいたずらにこう言うのです。

《僕の毒の味は美味しかったでしょう》と。

王子さまは笑います。

《そりゃあ、目がさめるほどに》



林檎の実はもうなくなってしまいましたが、みどりの木には新しく白の可愛らしい花が咲いていました。
王子さまは纏っていた黒の布を脱ぎ捨てると、触れることを許されたお姫さまの手の甲にキスをひとつ落とします。



そしてふたりはおさない頃のように手を繋ぎ、想い出の森から旅立つのでした。

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