君とつくる物語り

フルーティーな酸味と甘さの混じった泡でホイップされたクリームを体に塗ると、なんだか自分がデコレーションされた不思議な気分になる。普段使っている安物と違いイタリア生まれのキメ細かい泡は、僕の知っているオレンジの香りを上質なものに変えてぱちんと弾けた。

───石鹸って、女子じゃないんだから。

ツルツルとした紙に包まれたこれを見付けた時の正直な感想だった。律儀に使ってみるけど思っていたよりは爽やかでそんなにくどくない気がする。

空港で泉さんを見送ったあと、頭がふわふわしてどうやって家まで辿り着いたのかよく覚えていない。それでもお土産にと手渡された紙袋だけはしっかりと握って帰って来た。

「けっこう重いけど何が入ってるんだろう」

開けて一番先に目についたのは見覚えのあるロゴマークのついた木箱だった。開けてみると中には少しいびつな形の棒状のチョコレートが沢山入っている。重さの原因はこれに違いない。

「このお店…」

以前フィレンツェを訪れた際にたまたま僕が見つけて、無理やり泉さんを連れて入ったショコラティエのものだ。少し観光地から外れた赴きのある静かな店内で、職人技のきらきら輝くチョコレートを子供のようにガラスケースに張り付いて眺めた。
全部食べたいなぁ。どうしようと声をあげてはしゃいでたら、甘くなさそうに見えるけどハイカロリーだから程々にしておいた方が良いよぉ。しばらく会わないうちに少し体重増えたんじゃない?ゆうくん。と横から苦いポリフェノールがたっぷり含まれた大変嬉しくないアドバイスが飛んできた。海外で活動するモデルの美しい迫力のある笑顔に威圧されて結局ヘーゼルナッツ入りのチョコレートしか買えなかったけど、その後テラス席で手渡されたホットチョコレートはとろとろに甘くて、優しい生クリームの味がしたのをよく覚えている。

そんなビターな彼が選んだのは砂糖で煮詰めたオレンジに、甘さ控えめのチョコレートをコーティングしたいわゆるピール菓子というものだった。

ひとつ摘んで口に放り入れる。

鼻を抜けるオレンジの風味と、弾力のある果肉が固いチョコレートが混ざり合って、噛めば噛むほど口の中に広がってなかなか面白い食感だ。帰国後ダイエットしたことはメールで軽く伝えたけど、なんだかんだ言いながら泉さんはやっぱり僕に甘いと思う。袋の中にはまだ他にも入ってて、これも菓子かと思って期待していたら、紙に包まれた丸いオレンジの匂いがする石鹸が幾つか入っていた。

またオレンジ。あの人僕をオレンジにでもするつもりなのかな。クリームの泡を洗い流してすっかりオレンジの匂いに包まれた体を、たっぷり入ったお湯の中に沈めて温める。

チョコレートと石鹸のしたに隠されていたのはリボンで丁寧にラッピングされた純白のリングケースだった。薬指のプラチナをそっと外して真ん中のくぼみに嵌めてみると当たり前だがぴったりと収まる。正直、僕はこの指輪をどう扱って良いのか分からなったので部屋の片隅に飾ることにした。こんな大切なものを持ち歩くにしてもドジな僕は傷を付けたり、紛失する可能性だって充分にある。それにいま僕は数年前に設立したばかりの事務所の名前を背負って活動していて、二十歳を越えたとはいえ熱愛報道には充分気を付けなければいけない立場だ。そんな僕が指輪を付けて堂々と外を歩くなんて許されない。
同じ立場の泉さんには分かっているはずなのに、どうしてこのタイミングで指輪を渡して来たんだろう。念入りに箱の底に指輪のケースまで隠してさ、もし僕が受け取らなかったり、突き返したらどうするつもりだったの。ぼんやりと別れ際の彼の表情とフィレンツェでの記憶を思い出していたら、いつの間にそんなに時間が経っていたのか逆上せる寸前で僕は慌てて浴槽から飛び出した。

髪を乾かしてからそわそわと落ち着かない仕草で、手元のスマホを覗いてはため息をついた。フィレンツェとの時差を何度も確認する。こっちは深夜だけど向こうは今頃夕食どきの時間だ。普段はメールで素っ気なく返事を返すけど、こういう大事なことはちゃんと自分の言葉で伝えないといけないと思ったから。なんてぐずぐずためらっているうちに、情けないことにあれから一週間も経ってしまった。長湯をしたおかげでちょうど良い時間だし、今日こそはと意気込んで通話ボタンを押してみる。静かな部屋に単調な呼び出し音が響く。はやく出て欲しいなって気持ちと、このまま出ないで欲しい複雑な気持ちがぐるぐると頭を巡っていると、ふっと音が鳴り止んだ。一瞬の間だけど思わず心臓が跳ねる。指輪の効果は抜群で、相手は泉さんなのにどうしても緊張してしまう自分がもどかしい。

「…はぁい!一週間ぶり!ゆうくんから俺に電話くれるなんて珍しいね。どうしたの?あ、もしかして俺に会いたくなっちゃった?分かるよ。俺もゆうくんに会いたくて会いたくてたまらないもん」

陽気な挨拶とともに電話越しから今にもハートマークが飛んできそうな勢いの弾んだ声が聞こえてくる。なんか悩んでた自分がばかみたいで思わず通話を切りたくなったが、ぐっと堪える。

「あはは…泉さん元気だね相変わらず。いま時間大丈夫?」

「そりゃあゆうくんから電話が来たらどんなに疲れてても元気になるよ。俺はさっき仕事終わったから大丈夫だけどゆうくんの方こそもう遅いんじゃないの?夜更かしは駄目だよ。あ、ちょっと待っててくれる?急いで録音するから」

「しなくて良い!しなくて良いからっ!」

ゆうくんから電話が来たのが嬉しくてうっかり録音するの忘れてたと、さらりと何でもない事のように告げる人物はなんだか高校時代の懐かしい姿に戻ったみたいで驚いた。この前会ったばかりの大人の雰囲気を演じていた泉さんはどこへ行ったの。もしかして別人?…じゃなくて。

「僕は明日お昼から仕事だから少しくらい夜更かししても大丈夫なの。それよりお土産ありがとう。…お礼言うのが遅くなってごめんね」

オレンジのチョコレート美味しかったよと、たどたどしく伝えると泉さんが嬉しそうに笑うのが分かった。

「ゆうくん普段は甘ったるいチョコばかり食べてるでしょ。本当は美容のためにもっと高カカオのものをお勧めしたいところなんだけど、オランジェットならゆうくんでも食べられるかと思って」

確かに普段よりもビターなチョコレートは濃くて少し苦かったけど、その分オレンジは甘かったから僕の口にもイタリアの味はすんなりと馴染んだ。日本ではチョコレートなんて食べてる姿は見たとこないけど、泉さんでも向こうでならこういう物も食べるのかな。さすがに恐ろしくてもう全部食べちゃったなんて言えない。代わりに例の石鹸も今日使ってみたと話すと泉さんはますます饒舌になって、僕の知らないフィレンツェの話を沢山してくれるから何だかこっちまで楽しくなってうんうんと頷く。

「こっちはバスタブがないから残念だけどその分香りで楽しもうと思ってさ。ちゃんと天然素材のオーガニックで出来てる物だからゆうくんも安心して使ってね」

泉さんの話に寄るとフィレンツェにはハーブ薬局なるものが沢山あるらしく、中でも古くから修道院で受け継がれた伝統のある石鹸はイタリア土産でも人気の商品らしい。僕はイタリアの長い歴史についてはまだよく分かってないけど、そう言われてみるといつも使っている詰め替えのボディソープよりもなんだか肌がしっとりしてツルツルになった気がする。泉さんが石鹸を僕にくれた理由は分かった。でもまだ気になることがひとつあるなんて考えていたら、気づいた時には口に出していた。

「…どうしてオレンジを選んだの?」

だってそんなに種類のある石鹸ならハーブやそれこそ男性用だってあるわけで。女の子ならまだしも成人した僕にはフルーツの香りは似合わない気がしたから。チョコレートもそうだ。僕自身あのお店で他にも甘くないチョコレートが沢山あるのを見て知ってる。だから泉さんがどうしてこんなにオレンジにこだわるのか、心の底でちょっと引っかかっていたのだ。

「もしかして気に入らなかった?」
「ううん。オレンジの匂いは好きだしチョコレートもすっごく美味しいよ。でも、なんでオレンジばかりなのかなぁ…って…」

言ってから後悔した。

僕は馬鹿だ。せっかく泉さんが僕のために選んでくれたのに、これじゃまるで文句を言ってるみたいじゃないか。思わず口を塞ぐけどもう遅かった。さっきまで嬉しそうな泉さんの声のトーンが下がっていたらどうしよう。もし、そうなっていたら謝らなきゃと思っていた僕の想像とは裏腹に、泉さんは柔らかく優しく声色で僕の質問に答えてくれた。

「ゆうくんに似ていると思ったから」

「え…?」

「ほら、オレンジって太陽を連想させる果物でしょ。ゆうくんは俺にとっての太陽で、こっちで辛いことがあってもお日様みたいなゆうくんの笑顔を思い浮かべるだけで俺は幾らでも頑張れるし。俺が朝の光を浴びてる頃に、ゆうくんは今頃日本で太陽の下を歩いて輝いているんだなぁって思うだけでいつも元気を貰っている。だから俺は離れていても安心してここにいられるんだよ」

言葉が出なかった。だって僕は心のどこかで勝手にオレンジの甘酸っぱいイメージを連想して、まだまだ未熟でダメな子だと言われるものだとばかり思っていたから。だからまさか太陽の青空の似合うオレンジ屋根の国でそんな風に捉えていてくれたなんて思いも寄らなかったんだ。彼はとっくに僕の事を認めてくれていたのに、自分はその想いに気づくことが出来なかった。そんな僕が大切な指輪を貰っても良いのかな。隣に並んでも良いのかな。

「ゆうくん…?」

黙ったままの僕に泉さんが不安げに声をかける。正直僕はまだ泉さんの気持ちにどう答えたら良いのか分からない。でも。

「泉さん。…ありがとう」

「うん」

言わなければいけないことが沢山あったはずなのに、胸が詰まって上手く言葉に出来なくて。そんな不器用な僕の言葉でさえ泉さんは受け止めてくれた。きっと、電話を隔てた彼の表情は優しいものに違いない。なんて感傷に浸っていたら泉さんが突然話を変えだした。そわそわと言った感じに声の表情
まで変えて。

「ところでゆうくん、今ってもしかしてお風呂上がり?」

「うん?そうだけど?」

「へぇ…。実は俺もゆうくんと同じ物買ってあるんだよね。オレンジの」

なんだろう。なんだか泉さんの声がいやらしく弾んでいる気がする。もしかしてこの人。お風呂上がりの僕の姿を想像して……。

「き、切る!もう切るから!おやすみっ!」

「あ、待ってゆうくん!────風邪ひかないようにね。おやすみぃ」

通話の切れた音のするスマホをしばらく握りしめたまま僕はベットに仰向けに倒れた。鏡を見なくても自分が熟れたオレンジのように赤い顔をしているのが分かる。

やっぱりあの人僕のことをオレンジにして食べる気なんだ。

ちょっぴり意地悪でビターチョコみたいな彼が囁く流暢な愛の言葉が耳から離れない。体の熱を何とか放出しようと猫のように丸まってみるが、たっぷりと砂糖漬けにされた心と体は漂うオレンジの香りに逆らえなくて、その日は結局眠りにつくことが出来なかった。
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