スヴニールな時間を貴方に

葬いの鐘が響いた。

自分の手元に遺されたのは、死ぬ間際に母が握り締めていたという写真入りのペンダントだけ。不幸な事故だと啜り泣く音は何処か遠く、現実を夢うつつなものに溶かしていく。
日曜日は家族揃って教会で祈りを捧げる日と決められていた。死は忌むべきものではなく、神の元へと辿り着ける祝福だと。穏やかな瞳の、通い慣れた教会のまだ歳若い司祭が熱心な信心者だった両親のために慈しみの言葉をかけ十字を切る。
どんなに神に祈りを捧げても人の命というものはこんなにも呆気なく、死が天国への近道だというのならば。残された自分にとって、この色褪せた世界に生きる意味はあるのだろうか。

名前の刻まれたペンダントの中には赤子の頃の自分の姿があった。

人間は幸せだけでは生きられないものです。ですが、魂はいつでもあなたの傍にいます。想いを信じて、いつか自身も愛するものが出来たならば、その光の為に生きなさい。誰もが悲しみを乗り越えて生きる意味を探すのですから。
今の自分にはその眼差しと神の御言葉は受け入れ難く。不意に顔を背けて棺の中の両親に花を手向ける。

《この花束のように。あなたにたくさんの愛をこめて》

母が好きだった、鮮やかなバラの匂いがした。





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「マタ~ン!あれぇおかしいなぁ…どこに行ったんだろう」
「さっきから床に這いつくばって人の名前呼んでるけど俺に何の用?”作戦担当”」
「うわぁあ!?気配を消していきなり現れないで下さいよマタン」

バツの悪そうに猫じゃらしを隠す後ろ手を睨みつける。気付かない振りをしているけれど、お嬢様とこいつが自分の居ない時にこっそりとあの忌々しい猫を自分の名で呼んでいることは知っている。まぁその分ベットのなかで充分に仕返しはしているのだが、今はそんな気分じゃない。

「ねぇ、それよりクソ猫見なかった?」
「お嬢様の大事なお友達にいい加減その呼び名は止めましょうよ。さっき迄ここにいた筈なんですけど、僕も今探していて…」
「そう、じゃあまだ遠くには行ってないね。…やっぱりあの時処理しておけば良かった」
「え?マタン?」

遠く、自分を呼ぶ声が聴こえるが軽く無視をして廊下を歩き出す。今日は朝からずっと苛々通しの最悪の日だ。久々に見た悪夢を拭い去ろうと冷たい水で目を醒ましていたその時だった。カタリと物音がして、気付いた時には傍に置いていた筈のペンダントが無くなっていた。完全に油断していた自分が悪いが、あの猫が自分の前に現れる時は決まって狙ったように何か悪さをするのだ。もしかしたら以前お嬢様の周りをちょろちょろと纏わりついている時に、誤って尻尾を踏んづけたことを未だに根に持っているのかもしれない。
首から下げる真鍮の重みが無いとこうも胸がざわついて落ち着かないものなのか。
はやく、取り戻さなければと角を曲がった瞬間、ゆらゆらと挑発して扉の中へと消える尻尾を目で捉えた。重い扉がギィと音を立てる。

「くだらない鬼ごっこはもう終わりにするよ。いい加減…に…」
「ごめんなさい…見るつもりはなかったの。この子の首にペンダントが絡まっていて、取ってあげようとしたら開いてしまって…それで…」

ゔにゃあんと、まるで自分には関係無いとでも言いたげなふてぶてしい声が、乾いた空気の中で響いた。




扉の向こうには。

「…マタンはニュイのことを愛しているのね」

扉の奥に秘密裏に隠してきたこの想いが好意ではなく、愛だと。
どうしてこの恋も知らぬような幼い少女は気付いてしまうのだろうか。学校にも行けず、狭い鳥籠のなかでしか自由に生きられない。それでもその聡明な眼差しはけっして曇ることはなく、その瞳の前では嘘は付けないと荒んでいた粗野な心まで自然に綻んでしまう。

「ええ。愛しています。この事はふたりだけの秘密ですよ」
「ええ、私だれにも言わないわ。でもマタンの想いが叶うようにこっそりお祈りするのは許してね」
「有難うございます優しいレディ。でも私はこの先も彼に想いを告げることはありません」
「まぁ、どうして?」


名前を呼ばれるのが嬉しいと。
ただそれだけの理由で抵抗もせずに自分に身体を差し出す彼の愛は、自分と同じものではない残酷なものだと。ただの雛鳥の擦り込みのようなものだと分かっているから。それでも、彼を愛することがやめられない。例え偽りの愛情だとしても、彼の唇は禁断の果実のように甘くて。味わう度に自分は地獄へと堕ちていくのだろう。

だけど、それが理由ではない。自分には。

目の前の、困惑に瞳を大きく揺らす主に膝まづいて柔らかな手に忠誠の口付けを落とす。

「私の…いえ、ここにいる者たちは皆、お嬢様、貴方の為に命を捧げると誓っているからです」

ここに来た誰もが何かしらの事情があり、自分が生きる為の理由を探していた。暗闇の中で光を探していた。そして産まれたてのちいさな手に触れたその瞬間に、この尊い光を、希望の光を、守ろうと誓ったのだ。命を懸けて。

「マタン…あなたのために私に何か出来ることはない?」
「貴方が成長をして幸せに…素敵な女性になることが私にとっての願いです」
「ええ、なるわ。私、みんなのいる大好きなこの家の名に恥じないような素敵な女性にきっとなるわ」

抱えるように自分の頭を撫でるか細い腕が記憶のなかのぬくもりと重なる。

こんなふうに誰かに抱き締められたのは何年振りだろうか。






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《マタンへ。午後は素敵なお客様がいらっしゃる予定なの。だから紅茶とお菓子をこっそり見つからないようにバラのお庭まで運んできてね。特別な日だからクリームたっぷりのサントノーレが良いわ。あと尻尾の長いお客様のために美味しいお肉をお願いね》


「…ったく、なんで俺があの猫の為にこんな苦労して外まで運ばないといけないの」

ガラガラと、安定感の悪い道をワゴンを押しながら突き進む。ただでさえこのティーカップは割れやすいのに。以前粉々になった陶器の猫の姿を思い出すと余計に腹ただしい。

「あ、マタン。こっちです」

呼び止められたローズアーチの前で立ち止まる。どんな素敵なお客様が来ているかと思えば、白のベンチには猫のぬいぐるみが一匹、二匹。くまのぬいぐるみが一匹。どれも離ればなれのお嬢様の為にと旦那様が贈られた品物だ。それと、お嬢様の膝の上で当然のように寛ぐ泥棒猫が一匹。視線に気付いたのか、天使が自分に向けて羽根を広げてイタズラな瞳で微笑むので宿敵を睨むのをやめる。
それで、何となくだが、わざわざ自分がこの場所に呼ばれた理由が分かった気がした。思わず溜め息が洩れてしまう。やっぱり自分はこの幸せを運ぶ天使には敵わない。

「今日はお嬢様がここで結婚式を挙げるんだって。こんなにはやくお嬢様の花嫁姿が見られるだなんて、なんだか感動しちゃうなぁ」

花の教会で自分は神父役のつもりなのか、作戦担当が呑気に泪を拭いながら歓びに溢れた表情をしている。眼鏡の奥の眼孔は誰よりも鋭い筈なのに、相変わらず自分のことには疎い。

「なにを言ってるのニュイ?花嫁役はあなたよ」
「へ?」
「私はこの家を継ぐその時まで例え遊びでも結婚はしないの。だからあなたが代わりに花嫁役をやってね」
「ええっ?」
「お嬢様直々に御指名だなんて光栄な事なんだからもっと嬉しそうな顔すれば?」
「…マタン、良ければ花嫁役譲りましょうか?」
「いや、結構。俺は花婿役で我慢するよ」

土埃が被ってはいけないと、クローシュの上にさらに覆っていたレースを広げて不満顔の花嫁に乗せてやる。

「まぁ、とっても綺麗よニュイ」
「はぁ…有難うございます」
「じゃあ私が神父役をやるわね。えっと…あら、いけない。私、大事な聖書をお部屋に置いてきてしまったわ。せっかく用意したのにどうしましょう」
「…その健やかなる時も、病める時も、喜びの時も、悲しみの時も、富める時も、貧しい時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか」

愛おしい花嫁と、愛おしいちいさな神父が同時に目を丸めて驚いた顔で自分を覗き込む。

「詳しいのねマタン」
「ええ。ここに来るまでの少しの間ですが、私は教会で過ごしていましたから」


ひとを愛する意味を、命の使い道を見つけなさい。

いつか司祭に言われた言葉の意味を思い出す。神など、何処にもいないと。憎しみさえ抱いていたこんな自分でも、いつか光の果てに辿り着けるのだろうか。

あなたの幸せを願うと。バラのブーケを花嫁に手渡そうとする天使の横を、やわらかい風が吹き抜ける。

燕尾服のしたでペンダントが揺れる。
刻まれた名前と共に、とうに棄てたと思っていた過去の記憶のなかには。この花束のように抱えきれない程の、両親の愛が確かにあったのだ。

どこか懐かしい想い出の匂いのする、このちいさな教会には生命に輝いた美しい花《ベル・フルール》がやさしさで満ち溢れている。

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