君とつくる物語り



ぼくはおばけが苦手です。

ぼくがもっと小さい頃、なかなか寝ようとしないぼくにおかあさんが読んでくれた一冊の本がありました。
その本には白いおばけが出てきて、眠らない子どもをおばけの世界に連れさってしまうのです。それからぼくはおばけが怖くてたまりません。 おしごとでどうしても暗くて気味の悪いスタジオの前を通らないといけない時はぎゅっと目をつぶって走ります。そんなことをしていたら大好きなおにいちゃんにぶつかってしまいました。ゆうくん、あぶないよと怒られて、ぼくが泣きながら説明するとおにいちゃんは優しく笑ってぼくの手をにぎってこう言います。

「怖がりのゆうくん。おにいちゃんが魔法をかけてあげる」

ぼくはぴたりと泣くのをやめておにいちゃんの顔を見上げます。そしておにいちゃんは繋いだ手からぼくに魔法をかけてくれたのです。









カチリカチリと時計の針が夜を刻み、夜空が闇色に溶けだす頃。黒きものと呼ばれる存在達が宵の宴に酔いしれ騒ぎはじめる。そんないたずらもの達に足を捕まれないようにと、しんと静まり返った校内に響く足音ふたつ。ひとつは大事なスマホを学校に忘れた間抜けな僕のもの。そしてもうひとつは。
「…本当に一人で平気だから、泉さんは帰って良いよ」
「何言ってるの。怖がりのゆうくんにはお兄ちゃんがついていてあげないと」
後ろを振り返らなくとも分かる弾んだ声にため息をついた。この人のなかで僕はいったい何歳なんだろう。

遅い時間までレッスンをして転校生ちゃんを家まで送り届けた僕は、ポケットの中に入っているはずのいつもの存在が無いことに気付いた。慌てて引き返すも外はもう真っ暗で、こんな暗闇のなかひとりで夜の校舎に戻るのは嫌だなと重い足取りで歩いていたら、風の無いはずの茂みがゆらゆらと揺れているのに気付いて足を止めた。
何かに見られている気がする。草の音を掻き鳴らして遊んでいたそれは徐々に僕の方に近付いてきて、はやくこの場から離れなければと頭の中で警告音が鳴り響くのになぜか身体が金縛りにあったように動けない。唇をはくはくと動かして、いよいよまっくろな影が草むらから飛び出して来た瞬間、乾いた喉から声を出そうとしてやめた。
「…なぁんだ猫かぁ。もう~驚かさないでよ」
闇の中でギラギラと光るアーモンドみたいな形をした金色の瞳がじっと僕を見つめる。小さな影の正体に、すっかり安心し切っていた僕はもうひとつの気配の存在に気付けなかったのだ。
「ゆ~うくん」
背後からぬっと伸びてきた手に掴まれて、僕は夜空に響き渡るくらいの情けない悲鳴をあげた。驚いた黒猫はにゃあと鳴いてどこかへと去ってしまった。



新曲の振り入れをしていたらこんな時間になってしまったと言うけれど、普段からなぜか僕の周りの至る所に現れるこの人は、はっきり言って幽霊よりもよっぽど怖い。
何度か校内に泊まった時も偶然と言いながら当然のように鉢合わせるので、どうして泉さんがここにいるのと聞いたら、どうしてか知りたい?と意味ありげに微笑むので僕は恐ろしくて答えを聞くのをやめた。
かわいい弟が襲われたら大変だからとしれっと兄の顔をするこの人物は、正直何をしてくるか分からないので、少しでも距離をとりたくてずんずんと足を早めてみるけれど、相手はそう簡単に離れてくれるわけもなく。僕は諦めて居心地の悪さを感じながらも、後ろに最も危険なお供を引き連れて忘れ物という宝を探すべく夜の学校を探検するのだった。




まずは一番可能性のあるレッスンルームを目指していると、途中音楽室の扉から微かにピアノの音が溢れているのに気付いた。低く淀んだ音を出していたかと思うと、今度は激情のままに鍵盤を叩くような激しい音を指で弾いている。
不揃いなそれは楽曲と言うよりも不協和音に近くて、こんな夜更けに、しかも明かりもつけずに誰だろうと思っていたら隣で泉さんが苦虫を噛み潰したように眉を寄せていた。
「くまくん…アイツ練習にも出て来ないで。どうせこんな時間まで寝ていて今頃起きたんでしょ」
「え、声かけていかないの?」
呆れた声を出しながらくるりと背中を向けて歩き出してしまったので思わず引き止める。少し怒気を含んだ声に、僕のことは構わないから凛月くんを送ってあげてと言わなかったのは正解だったと思う。
「はぁ?今日は体調良いって言ってたくせに練習サボって寝ている奴にわざわざ声掛ける必要はないよ。子どもじゃないんだから」
「う、うん」
なんだろう。どうしてだか分からないけど、時々泉さんの言葉が胸につきりと刺さることある。
この学院で再会してから泉さんと僕の間にはからからと空回りする目に見えない何かがあった。僕が泉さんに対して何を考えているのか分からないように、向こうだって僕のことなんて分からないはずだ。なのに一体何がこの人を駆り立てるのか、意味も分からず執拗に追い掛けられるのが嫌で僕は必死に逃げ回った。走り疲れた僕はコツコツと作り上げたちいさな箱庭にそっと息を潜めて隠れる。けれど、泉さんは縮こまった僕の姿を簡単に見つけては、ゆうくん出ておいでと、まるでかくれんぼでも楽しむように軽々と侵入してくるのだ。そんな掴みどころのない彼に、いまだにどう接して良いか分からずにいた。
ほら行くよと促されて慌てて後を追いかける。チラリと横目で見た音楽室に、月明かりの下でピアノを弾いている、どこかミステリアスな雰囲気をもつ赤いルビーの瞳の人物の姿を想像しながら。





最後に触れたのは確かにレッスンルームのはずだった。念のため教室も移動して歩いた廊下もくまなく探してみたけれど、いつも肌身離さず持ち歩いていた分身のような存在は、まるで神隠しにでもあったかのように一向に僕の前に姿を現す気配はない。
「うっう…何処に行っちゃったの僕のスマホ」
もしかして忘れたんじゃなくて帰り道にどこかで落としちゃったのかな。ロックはかけているけれど個人情報が詰まっているものなので出来れば他人に触られたくない。それに新作のゲームを買ったばかりなので経済的に新しいものを買う余裕もなかった。
「ゆうくん」
仲間と作り上げてきた沢山の思い出の詰まったスマホに泣く泣く思いを馳せて壁に項垂れていると、後ろからするりと伸びてきた白い腕に抱き竦められた。びくりと体が嫌でも反応する。本当に、油断も隙もない。だからこの人に背中を向けるのは嫌なのだ。
「やだっ触らないで」
抱っこを嫌がる猫のようにいやいやと抵抗してみせるけれど、すりすりと毛並みを楽しむみたいに肌を擦り寄せるこの人には全く効果はない。
「自己管理も出来ないお馬鹿さんは嫌いだけど、可哀想なゆうくんにはお兄ちゃんが新しいのを買ってあげる。せっかくだからお揃いの機種にして位置情報とデータもシェアリンクしようか。それならゆうくんも安心でしょう」
「い、いらない!そんな怖いスマホ絶対にいらないからっ!」
名案だと言わんばかりの、身の毛もよだつ提案をする満足気な腕の中からみぎゃあと毛を逆立ててようやく抜け出した。遠慮しなくて良いよと微笑むこの思考回路がこわい。もしかして僕のスマホが無いのって…いやいや、それ以上考えるのはやめよう。







カチリカチリ。時計が進む。こっちの世界は楽しいぞとおばけが誘いにやってくる。怖いはずなのに足が勝手にふらふらと歩いて止められない。

その時、震えるぼくの腕を掴んで引き止めてくれたのは。





「あーあ。ゆうくんとの夜のデートももう終しまいか。楽しい時間はあっという間だねぇ」
「いや、デートじゃないから。泉さんが勝手に着いてきただけだから」
もう時刻も遅いから宝探しは諦めることにした。泉さんも帰ろうと促すとまだゆうくんと一緒に居たいと子どもみたいなことを言い出すので、僕は先に帰りますねと踵を返して歩き出す。ゆうくん待ってと後ろから声がするけど無視した。なにがそんなに愉しいのか音楽室を通った時以外では終始ご機嫌で、鼻歌でも聞こえそうな軽い足取りの彼にすぐに追いつかれてしまった。隣に並んだ泉さんが目を細めてじっと僕の顔を見つめてくるので、何?と素っ気なく目を伏せる。そんな慈愛の籠った眼差しで見つめられると、なんだかむず痒いような、くすぐったいような変な感じするのでやめて欲しい。
「こうして暗い廊下をふたりで歩いてると昔のことを思い出すなぁって。ゆうくんは覚えてないかもしれないけど、あの頃スタジオの奥に小道具とかマネキンが置いてある薄暗い部屋があってさぁ。まぁ今考えるとただの倉庫なんだけど、ゆうくんあの部屋が怖いって泣きながら俺に抱きついてきたの。それが可愛くって子どもごころに未だに残ってるよ」

唐突に思い出話を振られて思わず目を見開いた。
今でも脳裏にはっきりと覚えている。撮影スタジオを移動する際にどうしても通らないと行けない部屋があった。普段使われないその部屋は時々扉が開いていて、表情の無いしろいマネキンがこっちを見てくる気がして、僕はおばけに連れていかれるとべそをかいてこの人に泣きついたのだ。
「僕も覚えてるけどさ、今はあんまりその話はしたくないかな…」
「どうして?あぁ、もしかして恥ずかしい?」
「いや、そうじゃなくて…」
どう言ったら良いんだろう。うまく言えなくて口篭っていると、突然消灯されていた頭上の蛍光灯がバチッと音を立ててチカチカと点灯を繰り返しはじめた。
「えっ…なに?」
空気が一変するのが分かる。窓の外では風がざわざわと騒ぎ、静まりかえっていたはずの暗い廊下の先で何か生き物のような黒い無数のシルエットが、キィキィと耳障りな声をあげて羽根を広げながら舞っていた。どう考えても普通の光景ではない。
「しっ、ゆうくん俺の後ろにさがって」
唇に人差し指を立てて声を殺すようにジェスチャーをすると、泉さんは僕を庇うように前に踏み出た。
「泉さん…」
異様な状況に目の前の背中を凝視してから、縋るようにぎゅっと抱きつく。コウモリのような黒いちいさな影は徐々に群れだし、やがて姿形をひとのようなものに変えると血のように赤く、鋭い眼光が闇のなかに現れた。緊張でふたりの息が混ざる。
「…おや。こんな夜更けに迷い人が現れたと様子を見にきたら瀬名くんと遊木くんじゃないかえ。夜の校舎でふたりで逢瀬とはなかなかやるのぅ」
どこか聞き覚えのある、時代錯誤の響きの良い声に肩の力がへなりと抜け落ちた。
「なんだあんたか。そうだよぉ。今いいところなんだから俺たちの邪魔しないで」
「何言ってるの!?ち、違います!違いますからっ!泉さん離れてっ」
見せ付けるように抱き寄せられて、慌てて腕の中から逃げ出すと泉さんは名残惜しげな声を上げ、朔間先輩をじろりと睨んだ。
「まったく。あんた達兄弟がこんな時間まで何してるのか知らないけど、変なトリックなんか使ってないでいい加減弟を連れ帰って明日は出て来いって言っておいてよね。こっちだって暇じゃないんだから」
口ではそう言ってはいるが、やっぱり泉さんも残っている彼のことが心配なのだ。その言葉を聞いたどこか人間離れした雰囲気を持つ赤い瞳の人物が不思議そうに首を傾げる。
「はて…?凛月ならだいぶ前に真緒くんがおぶって帰ったぞ」
「え?」
今度はこちら側が首を傾げる番だった。そう言えばレッスン後に少し生徒会室に寄ってから帰ると一人残った衣更くんが、ついでに凛月の様子も見てくるかと言っていたような。同じように瞳を丸くしている隣の泉さんとふたりで顔を見合わせる。

じゃあ音楽室でピアノを弾いていたのは…。
僕らの言わんとすることを何か読み取ったのか、朔間先輩は悪戯に口元を歪めた。それは全身がぞくりと粟立つような美しい悪魔の微笑みだった。
「この夢ノ咲には人々の想いが強すぎるせいか、夜が満ちると人ならざる異形のもの達が集まってくると聞く。くっくっく…おぬしらも気をつけるがよい。ただのいたずら者ならば可愛いが、そうでない者ならばあっという間に…」


かくして僕らモデルの兄弟は、何処から侵入したのか、翌朝音楽室が猫の足跡まみれになっているとも知らずに仲良く手を繋いで校内を駆け回り無事に脱出するのだった。
「はぁっ…ゆうくん大丈夫?」
「はぁひぃ…も、もう走れない」
校門を抜け出たところで肺に足りない空気を取り込み肩で呼吸を整える。体力はだいぶ付いたはずなのに全速力で走ったせいか足に力が入らない。少し休もうと膝を屈めた瞬間、背負っていたリュックから何かがごとりと鈍い音を立てて滑り落ちた。
「何か落ち…ゆうくんこれって」
泉さんが拾い上げた物を見てふたりで愕然とした。それはまさに探していた宝物、もとい僕のスマホで。そうだ、確か帰り際に…。
「ウッキ~置いていくよって明星くんに急かされて慌ててリュックのポケットに突っ込んだんだっけ。あはは…は」
冷えた空気を笑って誤魔化そうとするが気まずい。勝手に着いてきたとはいえ、あちこち散々振り回されて泉さん怒ってるかな。 何も反応がないのが逆に怖くて、ちらりと顔色を伺うと泉さんと目があった。想像していた表情と違う、柔らかい笑みがそこにあった。
「ゆうくんの大事なもの見つかって良かったねぇ。ほら、おばけが来る前に帰らないと」
前科はあれど、僕は少しでもこの人を疑ってしまったことに、こころの中で後悔と謝罪をして差し伸べられた手を素直に受け取った。汗が冷えて冷たい手だった。






静かな住宅街をふたりで並んで歩く。ひとりで帰れるから送らなくても良いよと言っても、最後までエスコートさせてよと強引に押し切られて、結局家まで送って貰うことになった。近くまで来ても窓の明かりはやっぱり灯っていない。
家まで辿り着くと、じゃあね、おやすみと泉さんが背中を向けて行ってしまう。どうしよう。僕は泉さんに言わないといけないことがあるのに。
「泉さん…っ!」
たまらず名前を呼んだ。泉さんが振り向いて足を止める。それでも僕は躊躇って言葉が出なかった。


『泉さんひとりで帰るの怖くない?大丈夫?』




僕は、実は泉さんがおばけや幽霊みたいな非科学的な存在が誰よりも苦手なことを知っている。

魔法をかけてあげると言われたあの時、おにいちゃんが倉庫に入って行くのを僕は必死でとめた。やめよう、おばけに連れていかれちゃうよとぐずる僕におにいちゃんは大丈夫だよと笑って倉庫にパチリと明かりをつける。そして無造作に置かれているしろいマネキンにそっと手で触れた。
「ほら、こいつらは絶対に動かないから大丈夫。それでも怖い時はおにいちゃんがゆうくんが連れていかれないようにおばけから絶対に守ってあげる。それならもう安心でしょう?」
うん!と素直に頷いた幼い僕は、はじめは自分の手の震えだと思っていた。でも繋いでいるうちに僕は子供ながらに気づいてしまったのだ。この手の震えは自分のものじゃないって。

魔法使いだと思っていた兄の正体は、実は僕を守る騎士だった。

それは大きくなった今でも変わっていない。いつも背中を向けて逃げてばかりの僕だけど、廊下で咄嗟に僕を庇ってくれたこの背中が、微かに震えていることに気づいたから。少しでもその震えを抑えてあげたくて、後ろから抱き締めた。なぜか余計に鼓動が早くなってしまったけれど、僕はその時、忘れていたこの人のあたたかいこころに触れた気がしたのだ。
僕の手を引いてふたりで駆け抜けた時も、繋いだ手からじっとりと冷たい汗と緊張が伝わってきた。本当は怖いくせに、完璧な兄を演じるために泉さんが僕に必死で隠そうとしていることも知っている。
変わらない。この人はなにも変わらないのだ。
僕の作り上げた箱庭で、泉さんが見つけてくれた宝箱を久しぶりに開けてみる。中は空っぽでなにも入っていなかったけれど、確かにそこにあったのだ。
この人から貰った勇気の魔法が。

「ゆうくんどうしたの?もしかしてまだ怖い?」
なかなか喋ろうとしない僕に泉さんが心配そうな顔をして戻って来た。さっきのは正直少し怖かったけど、僕はもう幽霊やおばけの類いを信じる歳ではない。ひとりでも平気だ。あの怖かったおばけは僕の小さなこころが作り出した幻想なのも分かっている。

だけど。

「…今日は家にお母さんいないんだ。だから…もう少し一緒にいて欲しいな。お兄ちゃん」
一瞬、泉さんは驚いた表情をしたけれど 、それはすぐに嬉しそうな微笑みへと変わった。
その笑顔に僕はまだ気づいていなかった。とくり、とくりと、胸の中で小さく生まれたこの不思議とあたたかい感情が、この人に新しくかけられた恋の魔法だということに。

おばけが怖い子どものふりをして、僕はへにゃりと眉を下げて笑うのだった。




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