リクエスト小説


しとしとと降り続ける雨で気温の下がった少し肌寒さの残る部屋へと帰宅した真は、玄関の鍵をかけた事を確認するなり、濡れた靴を乱雑に脱ぎ捨て疲れた身体ごとソファーへと雪崩れ込んだ。


部屋の明かりも付けぬまま、重く、抜けるように息を吐いて目を瞑る。本当はこのまま溶けるように眠ってしまいたい。深夜に帰宅し、シャワーで汗を流しから軽くストレッチをして、明日の仕事のスケジュールの確認をする。それがここ最近の真の習慣だった。確か事務所から連絡のメールが来てたっけ。頭ではそう考えながらも、気怠い身体を一向に動かす気になれなかった。

眠って、朝になって。すべてが夢だったら良いのに。

玄関のドア一枚を隔てた、向こう側で佇む黒い影をぼんやりと見つめる。ちょうど雨の日の訪問者が訪れる時間だった。

「ゆうくん…居るんでしょ」

開く気配のない扉に、焦れた人物が少しの間を置いてドア越しから真に話し掛ける。真はそれには応えず、ただ息を潜めながらその声に耳を傾けた。

「話がしたいから開けてくれないかな。少しだけで良いから」

ゆうくん、と雨に濡れそぼった弱々しい声が自分を呼ぶ。名前を呼ばれる度に痛む胸の感覚に眉を寄せた真は、両手で耳を塞ぎながら帰ってよと、ひたすら時間が過ぎるのを声を押し殺しながら静かに待った。

「…こんな時間に来て迷惑だったよね。ごめんね」

また、来るねと寂しげな声が、名残惜しそうに遠退いてゆく。ふらりと立ち上がり、玄関から完全に気配が消えたことを確認すると、真は玄関の冷たいドアに背中を預け、項垂れながら重い口を開いた。

「…泉さん」

雨が降る日、決まって同じ時刻に泉は真の部屋を訪ねてくる。じっと音も立てず、ただひたすら真がドアを開けるのを待ち、また来るとだけ言葉を残していくのだ。

真にはその時刻が、なにを指しているものなのか分かっていた。


おそらく、泉がこの世を去った時刻だ。



----------------



今まで長い時間をかけて紡いできた関係が壊れるのは、ほんの一瞬のことだった。
無数の細かな亀裂が入っていることに真は気付いていたが、互いに傷つかないように目を逸らして見えないふりをしていた。限界が来るのは必然的だった。

一番傍にいて欲しい時に居てくれないなんてそんなの恋人じゃないっ!!

しばらく日本に帰って来れなくなると、決まりの悪そうに目を伏せる泉の言葉に、真ははじめて振り絞るように声を荒らげた。空いた隙間を埋めるようにどんなに肌を重ねても、今の真にとっては冷えたベッドに取り残されるだけの、ただの虚しい行為に感じるだけだった。
今日だって泉がイタリアに帰るまでの短い滞在時間を縫って、ふたりで星空を見ようと真夜中の秘密のドライブを楽しむはずだったのに。こんな車内で激しい口論なんてするつもりなんてなかった。

「もう…無理だ…別れようよ」

別れを切り出したのは真の方だった。虚しさに震える唇を噛み締める真の肩をどうして、と信じられないといった表情の泉の腕が掴む。揺さぶられる度に泉の左手に嵌められた指輪が、窓から射し込む月明かりに反射して滲む真の瞳にきらりと光った。

「何処へ行くの?!ゆうくん…っ!!」

耐えきれない空気に、力強い腕を振りほどいて真は車内から飛び出した。後ろから泉が自分の名を叫ぶ声が聞こえる。鬱蒼とした暗い道を走って駆け抜けながら、真は左手から指輪を引き抜き、投げ捨てた。弧を描いて落ちる微かな重みに、草わらの茂みが小さく音を鳴らす。真はハッとして視線を落とすが、こう暗くてはもう何処に落ちたかすら分からない。

「ゆうくん…取り敢えず帰ろう」

追い着いた泉が、放心して立ちすむく真の背中をそっと抱き締める。微動だに動こうとしない真の手を握り、泉は落ち着いた声色でもう一度帰ろうと促すと、手を引いてふたりで元来た道を無言で歩き出した。
静かな車内に轟くエンジン音と沈黙が流れる。助手席の真は軽くなった左手の指を、泉から隠すように右手を被せて覆った。

━━捨ててしまった。この人との大事な想い出も、なにもかも。

ちらちらと脅えた瞳で時おり運転席側を盗み見ても、泉は真のほうを向くことは無かった。

真をマンションまで送り届け、帰る前にもう一度連絡するからと泉は頷く真の姿を見届けると、おやすみとかるく微笑んで、再び車を走らせた。それが、真が見た泉の最後の姿だった。




待ち続けても一向に鳴らない電話が鳴ったのは、ちょうど泉がフィレンツェへと飛び立っているはずの夜だった。

前日から連絡もつかず、搭乗時間になっても現れない泉に不安を抱いた事務所の人達が捜索願いを出したところ、泉のものとおぼしき車が、ガードレールを突き破り崖の下に転落しているのを警察が発見したという。知人からの連絡に真は声を失った。その場所は、数日前に真が指輪を捨てたふたりで訪れた最後の想い出の地だったからだ。

アスファルトに残るタイヤの激しいスリップ痕により、前日の激しい雨で路面が濡れて滑りやすくなっていたことと、スピードの出し過ぎが重なった不幸な事故というのが警察の見解だった。遺体の損傷が酷いらしく、面会も出来ぬまま閉じられた棺桶越しに、真は泉に弔いの言葉すら言えずにいた。

自分のせいだ。自分のせいで泉は死んだのだ。これは事故なんかじゃない。自殺だ。自分が泉を殺したようなものなのだ、と。

それから、雨の降る夜が来る度に真はひとり怯えて過ごすようになった。自分を怨んだ泉が、死後の世界から真を迎えにやって来るからだ。



--------------


その日は一段と激しい雨が降っていた。大粒の雨の雫が、真の高鳴る心臓を叩きつけるかのように、アスファルトにぶつかっては消えてを繰り返している。

真の精神はもう限界だった。

充分に眠る事も出来ず、食事も喉を通らない。心配した友人たちに声をかけられても相談することすら許されない。だって、自分のせいで泉が死を選んだなんて誰にも言えなかった。
気が狂いそうだ、と真は思った。泉を殺した罪の意識を、一生抱え込みながら生きていくことがたとえ自分に枷られた報いだとしても。

「ゆうくん」

少し低音の、今は自分にしか聴こえない大好きだった心地よい響きの声に、真は覚束無い足取りで玄関へ近寄ると、ドアノブに手を掛け躊躇った
この扉は、あの世とのたった一枚の境界線だった。

「泉さん…僕のこと怨んでるんでしょ。僕が別れるなんて言ったからっ…」

泉は何も応えなかった。ただ、外の世界では、ばしゃばしゃと水の跳ねる音だけが響いている。その重い沈黙に、真は縋りつくようにドアに凭れかかった。

「…ごめんなさい…ごめんなさいっ…本当はもっとはやく泉さんに謝りたかった…でもっ、自分が追い詰めたせいで泉さんが死んだなんて、恐くて言えなかった…っ!」

今さら悔やんでも、どうにもならないことくらい知っているのに。それでも、真は嗚咽を漏らしながら小さく、ごめんなさい、ごめんなさい、と繰り返し泉に謝ることしか出来なかった。それまで黙っていた泉にゆうくん、と呼ばれ顔を声をあげる。そして、いつもと同じように少しだけで良いからドアを開けて欲しい、と泉は雨に濡れた声で呟いた。その望みを叶えるために、真は震える手でずっと開けてはいけないと思っていたドアをゆっくりと開いていく。よく見知ったシルエットの靴が見えた。

━━ああ、泉さんだ。泉さんがいる。

顔は、恐ろしくて見れなかった。
血の色だろうか。真新しかったジャケットは鉄の錆びたような色で酷く薄汚れている。

「手を出して」

真は言われたとおりドアの隙間から手を伸ばした。ところどころ皮膚の破れてかさついた手がそっと真の手に触れる。冷たい、死者の手だった。

この手に連れて行かれるのだろうか。泉が望むなら、それでも良いと思った。誰よりも美しかったこの人を、こんな悍ましい姿に変えてしまったのは自分なのだから。
血の色を失ったぼろぼろの両手が、真の手を優しく包み、離れて行く。真は手のひらに残された違和感に目を見開いた。それはあの日、真が捨てたはずの左手に馴染んだ指輪の重みだった。

「どうして…」

「見付けるの遅くなってごめんね。本当はもっと早く返してあげたかったんだけど…」

表情は見えないが、苦笑いのような泉の乾いた声に、真の瞳から一筋の涙が流れ落ちる。



泉の部屋に泊まった翌日、疲れて眠り果てた真が起きて目にしたのは左手に嵌められた指輪だった。いつの間に用意したの。こういうのってもっと他の記念日に渡すものじゃないの。と赤い顔で泉に問い質すと、

「ゆうくんと初めて結ばれたんだから俺にとっては大切な記念日だよ。それに、どんなに離れて会えなくなっても、これを見たらゆうくんと愛し合ったんだっていつでも思い出せるからさ」

これから旅立つ俺の変わりに付けさせて、なんて笑って泉は言うが、真は泉が離れることへの不安を、この指輪で隠そうとしていることに気付いていた。だから、その不安を取り除いてあげたくて左手の指を絡めながらキスをした。優しい、幸せな記憶だった。




「…本当は別れるなんて言いたくなかった」

「分かってるよ」

「僕達いつからこんなに擦れ違ってたんだろうね。素直に泉さんに寂しいって言えば良かった」

「俺もゆうくんなら分かってくれるってどこか過信してた。ゆうくんが泣いてることに気付けないなんてそんなの恋人失格だよね」

「でも幸せだったよ。確かに僕は幸せだったんだ…」

真が指輪を握り締めて微笑む。その姿に泉もつられて微笑んだ。

「ゆうくん愛してるよ。愛してる…」

「泉さんっ…!!」

薄れ行く泉の声に、真は勢いよくドアを開けるが、扉の向こうにはもう誰も居なかった。

「…ふっ…うっ…」

真は玄関にそのまま座り込むと鼻を啜り声泣いた。残された指輪と、真の幸せを願う泉の言葉が、真の冷えた心をじわりと熱くし、真は声をあげて泣いた。

いつも泉を真の元に導いてくれた冷たい雨の音だけが、悲しみに暮れる真の心に寄り添うようにそっと慰めてくれた。

2/5ページ
スキ