これもひとつの愛のカタチ




今年の夏は妙に暑い。





仕事帰りに車に轢かれて横たわっている狐を見つけた。呼吸も浅く、足が折れ曲がっていてどうやら自力では動けないらしい。痩せこけて、毛並みなんか血がこびり付いてどろどろで酷い有様だ。都会にいた頃は動物の死骸を見ても何も思わなかった。寧ろ汚いはやく処理して欲しい、帰りもいたら嫌だと思うくらいで。それがどうしてだろうか。着ている服が汚れるのも構わずに、この今にも死に絶えそうな狐を抱えて家に連れ帰ってきてしまった。自分でもなぜそんなことをしたのかよく分からない。でも、もしかしたらこの狐から何処か懐かしいものを感じたからなのかもしれない。
仕事の都合で都会から越して来たばかりの自分はここではまだまだ余所者だ。獣医を調べるにしても情報は無く、人に聞くにしても犬や猫ならまだしも狐となると変な顔をされるに違いないので、自分で添え木をしたり慣れない手当てをしてしばらく此処に置くことにした。それこそ看取ってあげる覚悟で。




自分の心配も余所に狐は見る見るうちに回復していった。最初の頃は警戒心も剥き出しで、まぁ、誰も居ないし怪我が治るまではゆっくりしていきなよ。なんて唸る狐に向かって微笑んでいたら。

「ちょっとぉ。普段寄って来ない癖に揚げだけ取って行かないでよぉ」

今や突然横から現れたこの獣に夕飯のおかずを盗られる有様だ。本当に油揚げが好きなのだろうかと興味本位で与えたのがいけなかったらしく、食事時になると足を引き摺った狐が傍を彷徨うようになった。澄みきった空気と水質の良いこの町に来てから数週間。いつしか見付けた昔ながらの豆腐屋に寄る回数が増え、店主からはおにいさんいつもありがとう。これおまけの揚げだよ、とすっかり顔を覚えられてしまった。


突然転勤が決まり立地の良さと家賃の魅力で選んだ古い民家は、今まで誰も世話する者が居なかったのか御大層に手入れのされていない荒れた庭まで付いていた。引っ越しの片付けがやっと終わったと思ったら、まさか草むしりまでする事になろうとは契約時の自分は思わなかっただろう。い草の匂いが気に入ったのか、畳でごろごろと寝そべっている狐を横目に手を動かしていると、ところどころに空に向かって手を伸ばしているあおい蕾を発見した。夏の終わりには見頃な花を咲かせるのだろうか。
ちょっと休憩、家主を差し置いて気持ち良さそうに眠っている狐をじっと観察してみる。今までは余程栄養状態が悪かったのか、意外にも洗ってみると陽に透けた金色の毛並みは綺麗なもので。今は閉じているが光の屈折具合により縦に長い瞳孔が時折り緑に煌めく様子が結構気に入っていた。情が移ると後々困るので今までは適当に呼んでいたけれど、名前がないのもなかなか不便なのでこの子を『ゆうくん』と呼ぶ事にした。

『ゆうくん』は小さい頃、祖母のいる田舎に帰省する度に遊んでいた村の唯一の子供だ。物陰からちらちらと恥ずかしそうにこちらを覗うゆうくんに気付いた祖母から、ほら、一緒に遊んであげなさいと命令された時はなんで俺がと、思っていたけれど。ゆうくんは今どき珍しいくらいの素直な子供で、俺の後ろを着いて回る懐っこい仔犬みたいな子だった。兄弟に憧れていた俺はすっかり兄ぶって、ゆうくんを本当の弟のように可愛がったものだ。





夏の蝉時雨の音がする。


ああ、懐かしい。祖母の葬式以来しばらく来ていなかったけれどここは間違いなくあの場所だ。風で揺れる葉のざわめきと共に視線を感じた。ゆうくんだ。ゆうくん久しぶり。ゆうくんは何も言わない。代わりにこっちに来てと陽が陰る森の中に俺を誘う。

ゆうくん何処へ行くの。あんまり奥へ進むと帰れなくなるよ。大人達にそう言われていたでしょ。ねぇゆうくん、待ってよ。

ふたりで小さな祠の前を通り過ぎる。ゆうくんは前を向いたまま何も言わない。

そのままゆうくんを追って歩き続けるとぐしゃりと何かを踏み締める感触がして恐る恐る足元を見た。一面の彼岸花。土と草藁の色はいつの間にか人の生き血を啜ったような赤一色に染め上げられていた。その奥には紙の垂れ下がった朱の漆で彩られた立派な鳥居がそびえ立っている。ここがただの入り口ではないことは何故か自分にも分かった。

ゆうくん、そっちに行っちゃ駄目だ。ゆうくん。ゆうくん。

手を繋いで引き止めたいのに。まるで自分はここ迄だというように、足が金縛りにあったように動かない。ゆうくんは一度振り向いて微笑むと行ってしまった。緑の瞳を悲しげに揺らしながら。



(……!!……夢…?)


いつの間にうたた寝をしてしまったんだろうか。まだ跳ねている鼓動を整えながら横を見る。夢の少年と同じ髪色をした狐が幸せそうに寝息を立てていた。




「なぁに?足が痛いから抱っこして運べって?」

さっき庭先で蝶を追い掛けて遊んでるの見たんだけど。あんまり甘えないでよね。文句を言いつつ抱き上げると、ふさふさの尻尾がパタパタと左右に揺れた。狐というより犬みたいだ。昔もこうして転んだゆうくんを抱っこして歩いたことをふと思い出す。
そういえば、最後にゆうくんに会ったのはいつだっただろうか。夢を見てから何処か記憶に引っかかっていたけれど、忙しさを理由にあまり考えないようにして過ごした。



もうすぐ祖母の七回忌だ。法要はこっちに帰って来るのかと母から連絡が来た。祖母の古い家は数年前に取り壊していて、墓も地元に改葬してあるのでもうあの村に行くこともない。あれからもうそんなに経つのか。月日が経つのは思いの外早く、あの時は葬儀でバタバタと忙しかったから気にしている余裕はなかったけれど、やはり記憶のなかにゆうくんの姿だけがない。聞いてはいけないと、頭の片隅で半鐘が鳴っていることに気付きながらも、俺は言葉にすることを止められなかった。

「うん。休み取ってそっちに帰るから。…あのさぁ、ちょっと聞きたいことがあって。あっ、コラっ!邪魔しないの!!」

途中、電話に戯れつく狐を軽く叱るときゅうと犬のような鳴き声が漏れた。

「……うぅん、ごめん何でもない。おばあちゃんの村にさ、ゆうくんって俺と歳の近い子供がいたでしょ。今どうしてるかちょっと気になって」

《…何を言っているの泉?ゆうくんは……》

電話の越しの母の声が遠退いてゆく。何とか平静を保とうとする俺の顔を、緑に輝る双眸がじっと覗き込んだ。目の前が赤く染まっていく。





「彼岸花?」

手を合わせていたゆうくんが振り向く。昔から稲作が盛んなこの土地では豊作の神として稲荷神を崇めていた。ゆうくんは古びた祠に毎日律儀に家で採れた野菜や揚げを御供えしている。なんでもこうしていると自身に何かあった時にお稲荷様が魂を守ってくれるからだそうだ。俺は結構冷めた子どもであまりそう言った迷信は信じていない。むしろ鬱蒼とした森の入り口にある祠が気持ち悪くてこの場所は嫌いだった。でもゆうくんの夢を壊してはいけないので熱心に拝む後ろ姿をいつも一歩下がって黙って見ていた。

「うん。この森の奥に赤い彼岸花が絨毯みたいに一面に咲いていて、それが凄くきれいだったっておばあちゃんが」

お彼岸用のおはぎを作りながら祖母が昨日のことのように口を開いた。祖母は時々こうして昔話を聞かせてくれる。俺はそれを手伝いながら聞く。ここは何もないしいちいち親に連れられて来るのは正直面倒臭い。でも、祖母の話を聞くのは結構好きだったし、なによりここにはゆうくんがいるから。

「そんなにきれいな花なら見てみたかったなぁ」

どんな花なのだろうか。明日、地元に帰ったら図書館で調べてみよう。そうだ、今度ここに図鑑を持ってくるのも良いかもしれない。ゆうくんとふたりで珍しい植物を見つけて遊ぶんだ。ゆうくんは普段大人達が仕事をしている間、与えられた携帯ゲーム機でひとりぼっちで遊んでいるらしい。だからゆうくんを外に連れ出すと大人達は皆喜んでくれた。子どもの笑い声はやはり良いものだと。いつかゆうくんを俺のところにも連れて行けたら良いのに。そうしたらもっとゆうくんを笑顔に出来るのに。

「あの…おにいちゃん」

ゆうくんが少し照れくさそうに俺を見つめる。

「なぁに?ゆうくん」

「僕がそのお花取ってきてあげようか?」

「え?…駄目だよ。危ないって言われてるでしょ」

この村にはじめて来た時、大人達からこの祠からその先の森へは足を踏み入れてはいけないと教えられた。なんでもその昔、ひとりで彼岸花を探しに行った子どもが神隠しにあったように消えたらしい。それから子どもだけでこの森の奥に行くことは村で禁じられていた。鬼に喰われるぞと脅す大人は馬鹿馬鹿しかったけれど、でもざわざわと風が騒ぐこの森は何だか不気味で、俺はその言い付けを守るようにしていた。

「大丈夫だよ。僕、この村のことならなんでも知ってるし」


駄目だって何度も言ったのに。


ゆうくんの笑顔を見たのはそれが最後だった。ゆうくんは消えた。

それこそ神隠しのように―――。








永い、空蝉の八月が終わった。


俺は今仕事の都合で都心から離れた静かな田舎で暮らしている。借りている古民家は一人暮らしをするには広すぎるかと思っていたけれど、何処か懐かしい故郷の匂いのする狐が毎日どたばたと家のなかを暴れ回るので丁度良いくらいだ。


夏の季節が終わり、手入れをした庭に花が咲いた。

それはゆうくんが俺の為に探してくれた。あの赤い、血のような彼岸花だった。






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