これもひとつの愛のカタチ

「ゆうくん…?ゆうくんだよね…!」

突如声をかけられ振り向いた真は驚いた。

「泉…さん…?」


ずいぶんと懐かしい人物だと遊木真は思った。
真を呼んだこの人は一つ歳上の昔の『仕事』仲間で、真は彼にとても懐いていた。顔を見るのは数年ぶりだが、面影は充分に残っている。それにその呼び名を使うのはただ一人しかいない。

真は無理矢理記憶を呼び起こし目の前の人物に重ねた。正直、あの頃の事はあまり思い出したくない。







母が泣いている。

狭く暗い子供部屋で幼い真は母の啜り泣く音を壁を隔てて聞いていた。
非力な小さな手では母を抱き締めてあげる事すら出来ない。もし自分まで泣いてしまったら、母がさらに辛い顔をする事を知っていたので布団を頭まで被り無理矢理眠りについた。
父はなぜ出て行ってしまったのだろう。幾ら考えても大人の事情は真には難しくて分からない。それでも父が帰ってくればまた元の家族に戻れる、なんて希望を抱いても無駄な事だけはちっぽけな真の頭でも理解していた。


母に手を引かれ連れて行かれる『仕事』も嫌だった。今日も迎えが遅くなるけど一人で頑張れるわね?と母に問われ真が素直に頷くと母は頭を撫でて振り返らずに行ってしまう。本当は知らない大人だらけの空間に置き去りにされていつも不安だった。上手に出来ないと母にまで捨てられてしまうのではないかと、緊張と脅えで胃がじくじくと痛み時々吐くようになった。特になま物は臭いだけでも気持ちが悪くなった。


『ゆうくん』とまだ声変わりのしていない歳上の少年の声が自分を嬉しそうに呼んでくれる。


張り詰めた空気の中で唯一、真が信頼していたのがこの人物だった。優しく頼れる兄のような彼が大好きだった。しかしあの時の事を考えるとなぜか頭が締め付けられるように痛むので、真は無意識の内に記憶に封じ込める様にしていた。



「久しぶりだね。ゆうくんも覚えていてくれたなんて嬉しいなぁ」

俺、すぐにゆうくんだって分かったよと、微笑みながら長い足で距離を詰めてくる。


当時から大人びているとは思っていたが、真のひとつ歳上の瀬名泉はとても端正な青年に育っていた。シャープな切れ長の瞳が特徴的で、愛らしい頬の丸みは無くなりすっかり男らしい顔立ちをしている。服を見ればここいらでは有名な私立の制服を着ていた。すらりとした長い手足によく似合っている。芸能活動でもしているのだろうか。華やかな彼にピッタリだと真は思った。

ちらりと、自分の冴えない格好を思い出し少し気恥ずかしくなって俯く。そんな真の様子を知ってか知らずが、泉は真の腕を掴み顔を近付けた。あの頃よりも綺麗な大人の顔に思わず心臓が跳ねる。久しぶりに会ったというのに変わらず距離が近い。もう何年も会っていなかったというのに。

「ねぇ、ゆうくん。これから時間ある?せっかく会えたんだし」

「えっ…」

少し俺に付き合って欲しいな。記憶より低い低音が耳元で囁く。擽ったくて咄嗟に身を捩ろうとした真を泉は離そうとしなかった。握られた腕が少し痛い。真は迷ったがひと言、いいよとぽつりと返事をした。まだ帰るには時間がある。それに力を込められた手とは裏腹に、縋り付く様な瞳で懇願されたら断れない。良かったと泉の表情が柔らかいものに変わった。腕を握る力が緩まる。

「もしゆうくんに会えたら、ずっと一緒に行きたいと思っていた場所があるんだ」

夕暮れの消え入りそうな空が二人を茜色に染めている。じきに陽も沈み暗くなるだろう。こんな時間に何処へ行こうと言うのか。黄昏の空を眺めていた真が目の前の人物へ問いかけると、泉はいつの間に持っていたのか大きな鍵を指で鳴らし微笑む。それは真には出来ない大人の笑みだった。








白い月明かりが暗い夜を照らし、海と砂を光らせていた。波のざわめく音が静かに響いてる。少しだけ肌寒い夏の風が、潮の香りと共に真を撫でた。

「泉さんってば…こんな所に連れて来たかと思えばどこか行っちゃうし」

ごめんね、ここで少し待っていて、と防波堤の上に真を座らせると泉は何処かへ行ってしまった。防犯灯に照らされた影が長く伸びて遠ざかって行く。取り敢えずここで待っていても暇なので足をブラブラさせながら真は不満を漏らすが、その口元は笑っている。

───それにしても、バイクに乗るの楽しかったなぁ。

目を閉じると耳に響くのは大きなエンジン音。真は初めての体験にとても興奮していた。まだ手足に振動が残っている気がする。年齢に不釣り合いな大きなバイクを見た時は驚いたが、素直に格好良いねと褒めると泉は少し照れ臭そうに笑った。誰かを後ろに乗せるのは嫌だけどゆうくんは特別だよ、とまで言ってくれる。

自分の一体何が彼にとって特別なんだろう。

真は目の前の広い背中にそう問い掛けたかったが、嬉しそうな彼の姿を思うと何となく気がひけて結局最後まで聞けなかった。バイクに跨る彼の姿はとても絵になっていて、真の知っている彼とは別人に見えたけれど、それでも話すとやっぱり大好きだったあの頃の、優しい彼と変わらない。落ちないようにしっかり掴まっててと言われた手にぐっと力を込めた。






水の音がする。

ザワザワと騒ぎ出す風に真は強く呼ばれた気がした。頭上にある古びた蛍光灯に羽虫が集まり、チカチカと点滅を繰り返す。くるりと振り返ると緑の瞳に黒く宇宙の様な海原が広がった。暗く、深く、何だか足元まで飲み込まれそうで気味が悪い。ぶるりと体を震わせる真の元に、息を切らせた泉が戻ってきた。ガサリと何かが地面に落ちた音がする。

「ゆうくんっ…!」

あっ、と声を出すまでもなく、気付いた時には勢いそのままに抱き締められていた。走ってきたばかりの泉の熱い体温と鼓動が伝わる。あたたかい。大人っぽい香水に紛れ懐かしい、大好きだった彼の匂いとぬくもりがする。真は無意識に言葉を紡いだ。もう何年も口にしていない、久しぶりの感覚だった。

「おにいちゃん…」

泉の肩がぴくりと震える。真はその背中をあやす様にそっと触れた。昔、彼がそうしてくれたように。



新人の癖に表紙を飾って生意気だと先輩モデルから嫌がらせを受ける様になった。暴言を吐かれるのはまだ良い。母に買って貰った数少ない私物がなくなるのが一番辛かった。家計のために遅くまで働いている母にそんな事は言えない。周りの大人に助けを求める事さえも出来ない。真が辞めても代わりの子供なんてすぐに見つかる。この業界ではよくある話なので誰も気にしないだろう。そんな中、彼だけが真を助けてくれた。



撮影ブースの裏で声を殺して泣いている真を見付けては背中を抱き締めてくれた。

一緒の撮影の時には他のモデル仲間から守ってくれた。

本物の兄弟みたいだね。近頃良い表情する様になったね、と大人から褒められる事が多くなった。

こんなに、家族以上に自分に優しくしてくれた彼の事を、何故今まで忘れていたんだろう。
もし自分だけが忘れていたとしたら、それはとても失礼な事ではないのか。靄ががった記憶が少しずつ晴れていく気がする。それでも何かに邪魔されてぼんやりとしか見えない。視界が重くなる。頭が気絶しそうなほどくらくらしたが、何かに脅えている彼に気付かれないように真は泉を抱き締めた。

落ち着きを取り戻したのか、泉が少し名残惜しそうに離れていく。

「お兄ちゃんなのに格好悪いところ見せてごめんね。ゆうくんが居なくなっちゃったのかと思って俺、焦って…」

「もぅ。子供じゃないんだから黙って居なくならないよ」

「そっかぁ、そうだよね…」

そんなすまなそうな表情をされると何だか複雑な気持ちになるからやめて欲しい。
自分は今どんな表情をしているだろう。誤魔化す様にふいと顔を背ける。

「変な泉さん」

「あれ?もうお兄ちゃんって呼んでくれないの?」

泉が目を見開く。しっかり聞こえていたみたいで真は急に恥ずかしくなった。

「呼びません!」

「えぇ~昔はお兄ちゃんって呼んでくれたのに寂しい」

子供が悪戯をする様に二人で軽く笑い合う。再会してからそれほど時間が経っていないのに今まで離れていた時間が巻き戻ったようだった。

「それで。泉さんはどこに行ってたの?」

こんな寂しいところに僕を一人にしてさ、と少し拗ねてみせると泉は御機嫌を取るように地面から白い袋を持ち上げ真の目の前に掲げた。色とりどりの紙で出来た束が透けて見え、真の目が爛々と輝く。

「花火だぁ…!」






足元が危ないからと手をとると、泉は真の前を歩きはじめる。あくまでこの人は自分の事を子供扱いする気か、と砂浜に残った足跡を追いながら真は溜め息をついた。無理もない。彼はずっとこうなのだ。本当は一歳しか違わない子供なのに、真の前ではいつも気を張って無理をしているのを知っていた。でもその気持ちが嬉しかったので真は黙っていた。守られてばかりでずるい子供だったと思う。何も彼に返せていない。今更心残りだと考えても仕方ないのに。真は骨ばった大きな手をぎゅっと握り返した。





白い蝋燭を砂に埋め火を灯す。
砂浜に揺らめく炎が映り影を落とした。真と泉はカラフルな花火の中からそれぞれ好きな物を選び同時に火を着ける。薄暗い砂の粒に光がアーチを描いて降り注いだ。
火薬の焦げた匂いと煙が風に流れ漂う。火花は華を咲かせるように様々な色や形に変化して、見ている者の目を愉しませてくれる。真も泉も子供のように声をあげてはしゃいだ。

そういえばこうやって誰かと花火をする事自体初めてかもしれないと真は思った。もしかしたら小さすぎて覚えていないだけかもしれないけど、家族が離れ離れになる前も後もそんな記憶がない。



向かいにしゃがむ泉の顔が橙の明かりに照らされ影を作る。細く小さな線香花火の音がパチパチと弾け、それはやがて真っ赤な玉となり、ぽとりと静かに落ちた。
にぎやかな灯りが消えると同時に静寂が訪れ、蝋燭の炎だけが赤くゆらゆらと揺れている。

「…終わっちゃった」


真は名残惜しげに花火の散った砂浜から顔を上げ、先程から口数が少なくなった泉の顔を覗き込む。真の瞳の中に泉が小さく映り込む。

「あ…っ」


それは夢の終わりの合図だった。

真の頭の中を数時間の出来事が一斉に駆け巡る。景色が映画の画面の様にバサバサと切り替わり、あまりの情報量に頭が破裂しそうになった。刻が巻き戻り激しいフラッシュバックが真を襲う。


苦しい。やめて。こわい。

思い出したくない。助けて。助けておにいちゃん。

おにいちゃんっ!!



夕暮れの空が。風を切るバイクの振動が。眩しかった花火が。そして真の瞳に映る目の前の人は…

今まで真を苦しめてきた霧状の水の泡が、しゅわしゅわと弾け消えていく。


━━あぁ、そうだ、あの日。






目的地まではまだまだ時間がある。
泉は真が車のなかで暇をしないようにとお気に入りの絵本を持ってきたが、当の本人は窓の景色が変わるのを飽きもせずに眺めていた。
「ゆうくん楽しい?」と聞けば「うん!僕遠くまでお出かけするのはじめて!」と満面の笑みを浮かべる。こんな仕事の移動の車でさえ楽しむ彼をもっと喜ばせてあげたいと泉は考えたが、まだ子供の彼では遠くへ連れて行ってあげる事さえ出来ない。親の力を借りれば簡単なのだろうけど、それでは泉が真を連れて行く事にはならないと彼のプライドが許さなかった。真の前ではいつでも格好良いおにいちゃんでいたいのだ。そうだ、と泉は名案が思い付いた。

「俺、大きくなったらすぐにバイクの免許とる!それでゆうくんを好きなところに連れて行ってあげる」

「ほんと?じゃあ僕、海に行きたい!!」

「えぇ~そんなところで良いの?」

海なんて暑いし人は多いし日焼けするし、他にも色々あるでしょと泉は言いたくなったが「今まで海に行ったことがないの」と言う彼の言葉に口を噤んだ。

「じゃあ俺がゆうくんを海に連れて行ってあげる!夜は一緒に花火して遊ぼう」

約束。と真の頭を撫でると、真はキラキラと目を輝かせ「花火?おにいちゃんと花火したい!楽しみ!」とお日様のように微笑んで彼に抱き着いた。それを聞いていた大人達はかわいい口約束にクスクスと笑いを漏らす。車内にほんの少しだけ優しい時間が流れた。








「…泉さん、約束覚えててくれたんだ」

「俺がゆうくんとの約束を忘れるわけないでしょ」

「ごめんなさい」

「どうしてゆうくんが謝るの?」

「だって…っ」

真は言葉に詰まる。

胸が苦しくて。張り裂けそうで。つらい。








到着した先はとても陽射しが強い場所だった。燦々とした光が川を照らし煌めいている。この日の二人の仕事はアウトドア向けの子供服の撮影だった。大人達はテントを組み立てたりと慌ただしく動いていたので、撮影の準備が出来るまで二人は手を繋ぎながら川辺を散歩していた。アウトドアなので男の子らしい格好良い服が着れると真は期待していたが、今回も袖がひらひらした、どちらかといえば女の子が着るような動きにくい服を着せられて真は落胆した。

「いいなぁおにいちゃんは。いつも格好良いお洋服が着れて」

「ゆうくんももう少し背が伸びて男らしくなったら着せて貰えると思うよ」

「悔しいから絶対おにいちゃんより大きくなる!」

「ふふっ。楽しみにしてるね」

自分より大きくなった真を想像して笑う泉の頬を汗が伝う。川辺の方が少しは涼しいだろうと思っていたが、予想外の暑さに泉は焦っていた。まずい。そろそろ陽の当たらない場所に戻らなくては。その前に日焼け止めを塗り直したい。近くに置いてあるリュックを取りに行こうとして、戻り自分の被っていた帽子を真の頭に乗せる。

「ゆうくん、暑いからこれ被ってて。撮影用だから失くしちゃダメだよ」

「は~い」

真は遠ざかる背中に聞こえるよう元気よく返事をした。



ほんの数秒離れた時だった。強い風が吹いたと思った瞬間、ばしゃん、と背中から大きな魚が跳ねた様な水音が聞こえた。続いて自分の名前を呼ぶ声が聞こえた気がする。振り向くとそこにいるはずの真の姿がない。

「ゆうくん…?」

「ゆうくん…どこ…?」

泉は血の気が引いて全身が冷えていくのが分かった。体が震え心臓がばくばくと脈打つ。おぼつかない足取りで先まで真がいた場所に駆け寄るが、川は何事も無かったかの様に静かに水音を流していた。

その中に不自然にぷかりと浮いた見慣れた帽子を見つけ、泉は金切り声のように悲鳴をあげた。怖いと思う間もなく水の中に飛び込んだ。


太陽の暖かい光に照らされた地上とは違い、川の水は冷たい。ゆるやかにみえた水流は激しく、思っていたよりも深く、砂利と不揃いな石が泉の足を掴もうとする。泉はもがきながらも足を取られないようにと前へ、前へと進んだ。

ゆうくん!ゆうくんっ!

心の中で必死に叫ぶとボヤけた視界の中で、水に反射して揺らめく亜麻色を見つけた。真は瞳を閉じ、水の流れのままに漂っている。ふわふわの服を着た、こと切れた人形の様に浮かぶ彼に泉は必死に手を伸ばした。

もう少し。もう少しで届く。もう少しで。

伸ばした手が真の手に触れようとした時、ごぼっと口から空気が漏れた。肺を水が満たしていく。

息が出来ない。苦しい。泉は薄れゆく意識の中、キラキラ光る水の泡が差し込んだ光の方へと登っていくのをただ虚ろな目で眺めた。








「だって…」

「ゆうくんっ…」

泉の視界を大粒の涙が塞ぐ。あの時の、水の泡の様にぼやけて真の顔を上手く見ることが出来ない。

「だって僕のせいでたくさん泣いたでしょ」







母が泣いている。

自分の名を呼び、啜り泣く声が聞こえる。真の小さな手ではもう抱き締めてあげる事は出来ない。代わりに父が震える母の細い肩を抱き締め、支えてくれる姿を漂う線香の煙とともに虚ろに眺めた。

真は全てを思い出した。自分が死んだ日の事も。何もかも。



ただ、病室で眠る彼の事が心残りだった。目を覚ませばきっと自分のせいだと、自分を責めて泣くだろう。優しい彼は真の事を想ってたくさん泣くだろう。





湿った空気が泉の前を吹き抜け蝋燭の炎が消える。暗闇と引き換えに、宇宙に散らばる星たちが輝きを灯しはじめた。降り注ぐ星が、漆黒の海が、星空の海へと変わりだす。白い月明かりに照らされた亜麻色の髪は青白い光を纏い、幼く小さな真は生気のない人形のように美しかった。泉は震える手で嗚咽を漏らしながら小さな体に縋り付く。

「…助けてあげられなくてっ…守ってあげられなくて…ごめんっ。ごめんっっ」

「でも助けに来てくれたでしょ?」

おにいちゃんが僕を呼ぶ声、聞こえてたよ。真は今の泉の存在を確かめるように、小さな手で少し癖のあるやわらかな髪を撫で、あたたかい頬を包み、そして震える泉の手を握った。


朧気な意識の中で、自分を呼ぶ声といつも繋いでいる大好きな手が差し伸ばされた。水の波紋が響き渡り、閉ざされた暗い世界に一筋の光が現れ、真をあたたかい世界へと導いてくれる。

あの時繋げなかった手から彼の悲しみが伝わり、少しでもその喪失感を埋めてあげたくて真は彼の手を離す事が出来なくなった。

でも、今の彼には。大人になって。支えてくれる人達が周りにいて。未来を歩む彼には、もうこの小さな手は必要ない。

「ずっと傍に…いてくれてありがとう」

「おにいちゃんも約束守ってくれてありがとう。花火、すっごく楽しかった!」

大輪の花火のような真の笑顔が、濡れそぼった泉の顔に微笑みを取り戻す。

スクリーンのような満天の空に小さな光が集まり星の川が流れている。その中に一際輝く青白い星を二人で見上げると、真と泉は繋いだ手の力をゆるめた。

「おにいちゃんとずっと一緒にいたいけど、僕もう行かなきゃ」

「うん…」

真は止まった時間の中に。泉は進んだ時間を生きなければならない。二人が一緒にいられる最後の時間が流れる。泉は握っている真の小さな手をそっと、愛おしげに離した。

「ゆうくんありがとう…さようなら」





消えた蝋燭から弔いの白い煙が細く、ゆるやかに空に伸びていく。泉は自分の手を見つめた。夢でも幻でもない、あの子の小さな掌の感触がまだ残っている。

「…絶対泣かないって決めてたのに、本当最後までダメなおにいちゃんだよね」

あの日の姿のまま蜃気楼のように突然泉の前に現れた、何も知らないあの子を。傷付けないように見送らねばと思っていたのに。まだ鼻の奥がツンとして、目頭が熱い。甘えてばかりいたあの子は泉が思っていたよりずっと強くて、守られていたのはもしかして自分の方だったかもしれない。泉は自分の不甲斐の無さに笑った。











目が覚めると、そこは病院の集中治療室だった。酸素の漏れる空気音と規則的な機械音が静かに響き、泉の傍らで母が寝ている。意識の戻った泉に気付いた母は看護師を呼ぶと声をあげて泣いた。ゆうくんは?と聞くと、母の抱き締める力が更に強くなったので泉は全てを悟った。

退院する頃には真の葬儀は終わっていて、泉が最後に見たのは帽子を被った可愛らしい服を着た真の姿だった。しばらく現実を受け入れるのが辛くて、結局真の家に行き手も合わせる事すらしていない。


高校三年生になり、母から今年の夏休みはどこに行きたいかと聞かれ今年は日本に残ると泉は答えた。母は少し寂しそうな顔をしたが、そうね、最後の夏休みだものね。あなたも色々と忙しいでしょう。とあっさりと納得してくれた。
夏休みは海外に旅行をする事が家族の恒例になっていた。夏になるとどうしてもあの日を思い出し、息子の気が少しでも晴れるようにと、忙しい両親が泉の為に無理に時間を作ってくれている事を泉は知っていた。

春には高校を卒業する。泉は大人にならなければならない。もう大事な物を失いたくないとずっと心を閉ざしてきた彼にも、それなりに話をする友人も出来た。だけど、まだ心のどこかであの子と離れるのは嫌だと思っていた。時間が経つのが怖かった。


七夕祭の準備で構内が色めき立っている。伝統行事だか何だか知らないけど興味が無いと、泉は色とりどりの紙がさげられた大きな笹の葉を一瞥し、離れようとした。

「先輩もどうゾ。」

燃える炎のような色をしたアシンメトリーの髪の人物に突如前から声をかけられ、思わずぶつかりそうになる。気配が無かったので全く気付かなかった。確か親が有名な占い師で本人もTVに出たりしている、泉よりもひとつ下の後輩だ。話した事はないがそれなりに有名なので顔は知っていた。手には一枚の短冊を持っている。

「…何これ。こんなのいらないんだけど」

差し出された手を跳ね除けて、立ち去ろうとする泉に彼は先程とは違う声色で語り出す。


『あなたの傍らで小さな星が彷徨っている。魔法の力では魂を導くことは出来ない。けれど、もうすぐ精霊の力が宿る時期だ。星に願いを込めてみると良いかもしれない』

立ちすくむ泉の制服の胸ポケットにすれ違いざまに紙を差し込むと彼は行ってしまった。
心臓をナイフで抉られたような衝撃だった。
血がとめどなく溢れてずっと忘れていたはずの痛みが泉を襲う。

だって。そんな事が。そんな訳がない。

だけど、もし泉が離れたくないと願えば願うほど小さなあの子が。この世を彷徨うだけの寂しい存在になっているとしたら。そんな残酷な事はない。

泉は走った。人気の無い教室にたどり着くと勢いよくドアを閉める。堪えていた涙が頬を伝いぽたぽたと流れ落ちた。

泉が喪失感に襲われる時、あの子のあたたかい温もりが傍にあればとずっと思っていた。でも、それはただのエゴだ。もういい加減にあの子のちいさな手を放してあげなければいけない。


泉はポケットから先の短冊を取り出すと自分の机の上に置き震える指でペンを握った。


もし、精霊の力が本当にあるというのなら。あの子の魂を安らかな場所へ導いて欲しい。

でも、その前に一つだけ。願わくば聞いてもらいたい事が一つある。


泉は筆を走らせた。ただひとこと。

『もう一度 君に会いたい』

と、強い想いを込めて。

ポタリと涙の雫が落ち、書いたばかりの文字が少し滲んで歪んだ。





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