これもひとつの愛のカタチ

ダマスク模様の壁に掛けられた金の振り子が規則的な音を立てながら左右に揺れている。オーロージュは一瞬だけ視線を上げ、目の前に座るちいさな少女にはもう聴こえてはいないなと思いながらも、手にしていた本の英字を流暢に読み上げた。あと数分後には今か今かと待ちかねている少女の為に、にぶい鐘の音が午后の授業の終わりを知らせてくれるだろう。まだ歳若い少女といっても、彼女は執事長として舘を任されているオーロージュの立派な主だ。腰まで届きそうなウェーブのかかったやわらかな髪に、臙脂色のリボンが上品に結われている。たっぷりとふんだんにあしらわれたフリルの似合う、黙って座っていれば大きなビスクドールと見間違うくらいの、綿菓子のように愛くるしい少女だ。ただ、少々落ち着きがなく、苦手な外国語の授業にすっかり飽きてしまった彼女は、秋らしいベルベット生地で仕立てられた黒い靴を机の下で見付からぬようにぱたぱたと揺らして遊んでは、行儀が悪いとオーロージュに叱られていた。
今はまだ時間は掛かるが、時が経てば複雑な相続問題も多少は落ち着き、数年後にはおそらく貴族の令嬢達が集まるフィニッシングスクールに通う事になる。その歳頃までには、美しい木々に囲まれて育った深窓の少女が恥を掻かぬようにと、執事達は主の眠りにつく時間と同等の熱量を、それぞれの得意とする教養の時間に割り当てた。



窓の四角い額縁の中では蒸し暑い夏の影を打ち消すように、濃く色づいた葉が風に揺られては渇いた土に赤の絨毯を作り上げている。
「あっ、」
ぼんやりと外を眺めていた少女がちいさく声を洩らす。揺らしていた脚からとうとう靴が脱げ落ちたらしい。オーロージュは素早く靴を拾い上げると、少女の前に膝まづき、手慣れた動作で白のレースに包まれたちいさな踵に再び靴を当て嵌めた。
「お嬢様。最後まで集中を」
「ごめんなさい。でもね、オーロージュ。マタンが笑っているの」
少女は一度申し訳なさそうに眉を寄せると、微笑みながら窓の外を指さした。どうやら集中出来ない原因はここではなく外の世界にあるらしい。秋晴れの澄んだ空の下を、見慣れた眼鏡を掛けた青年が車椅子を押しながら歩いている。会話こそは聴こえないが、車椅子に乗っている青年から発せられているであろう愉しげな笑い声がオーロージュと少女の耳に聴こえた気がした。幼少の頃からの一番付き合いの長いオーロージュでさえ初めて見る屈託のない笑顔だった。以前より幾分細くなった下半身を覆っている濃紺のカシミヤで編まれた膝掛けは、最近車椅子に乗れるようになった彼のためにと、少女が自ら選びプレゼントしたものだ。





酷い雨の夜だった。その日はいつも通りニュイとマタンが組となり、ひとつひとつ扉を開けては蝋燭の炎を照らし館内の見回りをしていた。敵襲があると言っても常日頃ではない。稀にイレギュラーな事も起こり得るが、ごく僅かでも情報が掴めればある程度の侵入者は予測出来たし、何より作戦担当の鋭い勘は不思議とよく当たったものだ。ただ、一度だけ命と引き換えにしてでも守らないといけない砦が破られそうになった事態がある。独自の判断で主を連れ去そうとし、信頼を背いた刑として、マタンを追放した嵐の夜だ。あの日も、今日と同じように空が大粒の涙を流しながら虚しく孤独に泣いていた。


窓の格子が、横殴りの雨に打ち付けられがたがたと激しく揺れている。眠れないオーロージュは微かだが床から金属でも落ちるような鈍い音を聴いた。初めは風の悪戯かもしれないと、思い過ごそうともしたが、何故だか耳から離れない胸騒ぎのする嫌な音だった。
オーロージュは敢えて灯りは付けずに、月明かりだけを頼りに冷えた廊下を歩いた。暗い闇の中で細く光が漏れている部屋を見付け、上着の内側に隠していたナイフを取り出し握り締める。人の気配がする。オーロージュは息を殺しながら慎重に扉に手を掛けた。僅かに開いた隙間から、金の花模様が描かれた赤い絨毯の上で横たわる金属の燭台が見えた。炎は消えているようだが、鼻を付く焦げた異臭がする。ここに落ちているのがいつもの見回り用の燭台ならば、今、部屋にいるのは誰なのか。そのすぐ傍らに、見慣れた男物の靴が不自然な形で床に転がり落ちているのを見付け、オーロージュは目を見開き勢いよく扉を開いた。空を切り裂くような雷が鳴り、オーロージュの目の前で青白い閃光と赤い鮮血が交互に重なり合っている。蹲るように倒れているマタンの脚の傍らに、上着を脱いだ血だらけのシャツを纏ったニュイがいた。足の根元にハンカチをきつく縛り上げ、止血作業をしている様子だった。オーロージュが生きているのかと聞くと、微かだけど呼吸はあるので生きています。激しい出血で気を失っているようですとニュイは血で曇った眼鏡の奥で冷静に答えた。自分が倒れているマタンの姿を見付けた時にはもう敵の姿は消えていたと話しながら、ニュイは切断された足首を隠す様にさらに上着を被せた。支給されたミッドナイトブルーに濃い染みが滲んで広がってゆく。
駆け付けたソワレとミディが侵入者を追うが、酷い泥濘がふたりの足元を阻み、激しい雨がマタンを襲った人物の痕跡を綺麗に土の中へと流し込んだ。




控え目にドアをノックをすると、幼い声とともに少女の笑顔がオーロージュを出迎えた。部屋の中にはニュイの姿もあり、膨らんだ寝具の上にはカードが複数枚散らばっている。どうやら三人でゲームをして遊んでいるようだった。オーロージュの目線に気付いたニュイは椅子から立ち上がり、まだ勝負の途中なのにと頬を膨らませる少女を宥めながら部屋を出た。賑やかだった部屋に静寂が流れる。マタンの意識が戻ってからもニュイは仕事の時間以外は彼の傍を片時も離れる事はなかった。食事や入浴、排泄の処理までもすべてニュイが自ら面倒をみた。お前も疲れているだろうから代わるぞとオーロージュが何度声を掛けても、ニュイは頑なに首を横に振り、マタン自身もニュイに世話をされる事を望んだ。オーロージュもふたりが互いの寝室を行き来する間柄なのを知っていたので、無理に引き離すような事はしなかった。
起き上がろうとする薄い身体にオーロージュはそのままで良いと声を掛け、先程までニュイが座っていた椅子をひいた。傷口から発熱し、床に伏せる時間も多い彼だが近頃は顔色も良く、ストイックな彼ならば体力さえ戻れば車椅子に乗って移動する事も可能だろう。オーロージュは今後自分の代わりに書斎を任せたいと伝えると、やっと仕事が出来るとマタンは喜んだ。ちいさなお姫様に何もしなくて良いからずっとここにいて欲しいと泣き付かれて困っていたとくすぐったそうに笑っている。幼い少女もまた、荷物を纏めて出て行く背中を見送る事しか出来なかった過去の自分の無力さを知っているが故に必死なのだ。
あの夜の事をマタンはあまり憶えていないと言う。背後から襲われ相手の顔も見ぬうちにぶつりと意識が途切れてしまった。最後に見た光景は、倒れた蝋燭の炎が蛇の様に床を這っていく姿だと彼は記憶を紡ぐように淡々と言葉にしてオーロージュに語った。オーロージュは彼がなにかを庇い、嘘を付いている事に気付いていたが、それ以上深く追求する事はしなかった。
「言っておくけど、その辺の賊なんかよりよっぽど手強いぞ。おれは時々書斎ごと燃やしたくなるからな」
オーロージュが口の端を釣りあげて笑う。それに応えるように、クビにならないように覚悟しておくとマタンも一緒に笑った。






「ふたりがこっちに気付いたわ」
嬉々と顔を上げた少女が窓に駆け寄り扉を開いた。臙脂色のリボンがオーロージュの目の前でふわりと揺れる。今日はマタンにお気に入りのリボンを結んで貰ったと、少女は執事達に朝の挨拶をしながらスカートの裾を翻した。髪を整えて貰うのはただの口実だ。本当は彼がベッドの上で呼吸をしているのかを確認するために、主が目覚めとともに彼の部屋を訪れている事を執事達は皆知っていた。マタンもその事を理解している。理解しているからこそ、自分のせいで不安を抱いている少女の髪を丁寧に櫛で梳いた。
大きな声で名前を呼ばれたふたりの青年は顔を上げ、窓辺の少女に手を振った。足元の車輪に轢かれた紅い葉の群れが、ざわざわと音を立てながら、青い空へと一斉に舞い上がり散ってゆく。
ひやりとした風に包まれたオーロージュは、過去に放った自分の言葉を思い出した。

――ニュイ、敵を足止めするにはどこを狙えばいいと思う。
――腕や腹じゃ駄目だ。逃げられない様に脚の筋を狙うんだ。可哀想だと思って躊躇するな。
――これはもう動かないが、実際に動く筋肉を切るのは難しい。
――このナイフは骨までよく切れる一級品だ。目を逸らさないで最後まで見ておくように。

午后の授業の終わりを告げる鐘の音が鳴り、オーロージュは現実に引き戻された。まだ刃先が柔らかい肉に食い込む感触が手に残っている気がする。そう言えばあのナイフはどうしたものか。車椅子に乗って穏やかに微笑む青年の脚に巻かれた包帯の下は、あの時自分がニュイにあげたナイフの切断面によく似ていた。


「お嬢様、風邪を引かれると困るのでそろそろ。何か温かいお飲み物をご用意しましょう」
「そうねオーロージュ。マタンとニュイにも熱い紅茶を。私の大事な執事に風邪を引かれては困るもの」
「かしこまりました。では準備をして一緒に彼らを出迎えましょう」
「私のはミルクをたっぷりいれてね」
オーロージュは窓の扉を閉め、差し出された少女の柔らかい手を握り部屋を出た。木漏れ日に反射した窓硝子の外では、枯れた落葉樹の並木を歩くふたりの影がどこまでも伸びていた。


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