これもひとつの愛のカタチ

少年は暑い陽射しの中ベランダに佇み絵を描いていた。

指定された用紙に毎日同じ色の絵。代わり映えのしない文。今日も何も変化はない。思わずため息をつくのも日課だった。周りの友達は皆、少年よりも先に色とりどりの絵を描きこのつまらない作業を少しばかり楽しんでいると聞く。自分の世話の仕方が悪いのか。他の子よりも真面目にしてるつもりなのに、と母親に嘆けば少年が愛情を込めて世話をすればきっと綺麗な色が付くと教えてくれた。

「毎日毎日蕾を描くだけとかちょ~つまんない。…早く咲かないかなぁ」

君は何色の花を咲かせるんだろう。
少年は緑色の小さな蕾を愛おしそうに見つめそっと指で触れた。




日中は暑くなるが朝の空気は冷たい。少年はひやりとした感覚から逃れる様に布団に包まるが、ふっと目が覚めてしまった。起床するには充分余裕のある時間だ。
まだ覚醒しない頭でゆっくりと起き上がると暗い空気の中閉ざされたカーテンを見た。隙間から漏れた光が細く差し込んでいる。今日こそはいつもと違う世界の色が見られるかもしれない。自分でも何故か分からないが少年はそう確信した。特別な日になると思った。

ベッドから抜け出し、肌寒さに身震いしながら暖かい光の方へと近付く。夏休みに入ってから何度繰り返した朝だろう。まだ両親が寝静まった時間に目が覚め、期待に胸を膨らませ、そしてカーテンを開き失望してベッドに戻る。

だが今日は違う。少年の予感がそう告げる。

この薄暗く閉じた空間の向こうには見慣れた蒼空のコントラストや光合した青々しい葉以外の新しい色が待っているのではないか。
逸る気持ちを抑えつつ少年はカーテンに手をかけ勢いよく引いた。


いつも見慣れているはずの場所に朝露が煌めいている。少年はあまりの美しさに息を飲んだ。澄み切った冷たい空気が肺を満たし少年の頭を覚醒させる。

朝顔の鉢植えを置いているはずの場所に綺麗な《ヒト》がいた。いや、一目で《ヒト》ではない何か別の異形な存在だと少年は瞬時に理解した。歳若い青年の形をした《何》かだ。だが不思議と恐くはなかった。

金糸の透き通った髪に露に潤んだ碧の瞳。人形のように整った端正な造りの顔。しなやかな長い手足には細い蔦が巻き付き、花弁はところどころに鮮やかな色を咲かせその存在を更に艶やかなものに仕立てあげた。
こんなに美しいものを少年は見た事がなかった。


「妖…精…?」


高まる鼓動に少年はつい声を出してしまった。緊張で声が上擦る。
言葉が通じるのか《ヒト》ではない《何》かは少年に視線を合わせると優しく告げた。


自分は朝顔の精だ。たくさんお世話して、声をかけてくれて、育ててくれて有難う。君のおかげで僕は咲く事ができた。ずっと君に僕の色を見てもらいたかった。ねぇ、僕は今どんな色をして咲いているのかな?


《精霊》が問いかける。少年は目を輝かせ興奮気味に花の美しさを褒め称えた。精霊が嬉しそうに微笑む。その日から少年には誰にも言えない秘密が出来た。







「ねぇ、寒くない?」

仗露の無数の穴から放たれた水が弧を描きながら朝顔を濡らす。精霊の上半身は薄手のシャツしか着ておらず水がぴったりと張り付き肌を透かせてる。冷たくて気持ちが良いと精霊は少年に微笑みかけるがどうにも風邪をひきそうに見えて、もし寒くなったら着て欲しいと、お気に入りのブルーのカーディガンを濡れた肩に掛けた。勿論サイズは合わないので着れはしないが精霊はありがとうと礼を言う。

愉しい時間が過ぎるのはあっという間で、すぐにつまらない時間が来てしまう。夏休みでも少年は忙しかった。両親は将来の為になればと様々な習い事をさせていたが、まだ遊びたい盛りの少年には重荷にしか感じられなかった。両親の期待に応えねばと頑張れば頑張る程心が擦り切れそうになるが、家に帰り一日の報告をすると精霊が偉いねと彼を褒めてくれるので苦手なバレエだって何だって頑張れた。



太陽が沈み辺りが薄暗くなる。少年はこの時間の精霊を眺めるのが一番好きだった。
鮮やかな青い花は薄紅色へと色を変え、精霊の長い睫毛がゆっくりと閉じていく。精霊の眠りを確認するとおやすみなさいと額にそっと口付けた。冷たく無機質な感触がする。
夜が暗闇に包まれ少年が寝息をたてる頃、ひとつ、ふたつと花は萎み項垂れた。





連日の猛暑により日照りが続いた頃、少年は母方の実家に帰省する事となった。毎年盆に親戚が集まる恒例の行事だったが、去年は参加出来なかったので今年はどうしても行かなければならない。普段は決して両親に我儘を言う事がない彼だが、行きたくないと泣いて初めて両親を困らせた。

おいで。と呼ばれ少年が近付くと泣き腫らして熱を帯びた体を精霊が優しく包み込んでくれる。体は冷たいはずなのになぜか温かいと思った。

僕の事は心配いらないから行っておいで。みんな君に会えるのを楽しみにしているよ。だから、帰ってきたらまたお話しようね。

少年がこくりと頷くと、精霊は消え入りそうなくらい儚げに美しく微笑んだ。







カーテンの布がパタパタと風に旗めいている。

少年がベランダに立ち尽くす。

変わり果てた黄土色の腐り切った葉と、渇いて色の抜けた花弁が足元に散っている。その隣りには土埃で薄汚れたブルーのカーディガンが落ちていた。


朝顔の観察日記は帰省の日から止まったまま終わった。








夏のうだる様な暑さの中帰宅した泉は自分の部屋へと駆け込み窓を開けた。夏は嫌いだ。暑いし蒸すし日焼けするし良い事がない。

だが今日は珍しくひとつだけ良い事があった。鞄から掌にすっぽりと収まるサイズの簡易な箱を取り出す。これは彼のひとつ下の後輩がくれた物だ。彼とは泉がキッズモデルの仕事を始めた頃に出会った。初めて見た時はその容姿に驚いたが、一緒に過ごすうちにその性格と人となりに好意を抱き、守りたいと実の弟の様に大切に扱った。いつしかそれは恋愛感情へと変わり泉は毎日の様に愛を告げるが、二人の関係は空回りして思う様にはいかなかった。

そんな中彼からプレゼントを貰った。嬉しいけどなぜ、と聞くと

「だっていつも僕を外で待ってる間に向かいの家の花を眺めているでしょ」

好きなのかなと思って。と彼は少し口篭りながら答えた。これは夏に調子を崩した泉を彼なりに気遣ってくれた物なのかもしれない。
嬉しい、有難う、大切にする!と興奮気味に伝えると彼は恥ずかしそうに儚く笑った。

その微笑みに少しだけ、彼の姿にそっくりな初恋の淡い色を重ねる。胸がきゅっと締まり、耐えきれずに泉は彼を抱き締めた。
「離して!調子に乗らないで!」と抵抗して暴れる彼に構わず力を込める。温かい。生きている体温がした。



カーテンのレールに箱から取り出した風鈴の紐を取り付ける。泉の横顔を夏のなまぬるい風が吹き抜けた。

「…綺麗な音」

硝子に描かれた色とりどりの朝顔が揺れると、風鈴はちりんと優しい音色を部屋に響かせた。

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