こんな世界があってもいいのかもしれない
蒸し暑かった季節が終わり、窓のガラスがひやりと水滴を纏い始めた頃になると呼び起こされる記憶がある。
縮こまった赤の糸を指で掬い上げ、作り目の輪に棒の編み針を差し込む。ただひたすら指を動かしその作業を永遠と繰り返す。世間では一般的に編み物は女性の趣味のイメージが多い。空き時間に教室で編み物をしていると普段話した事すらないクラスメイトからすれ違いざまに鼻で笑われることも多かった。わざわざ教室を覗いてこちらに聴こえるように莫迦にする奴らもいるくらいだ。ファンの前では王子だなんだと言われる癖に、似つかわしくないと耳障りな笑い声が。確かに自分を気に入らない奴らにとっては滑稽な姿かもしれない。今まで学院内で散々剣を振り翳してきた手は汚れていて綺麗じゃないことは自分でもよく分かっている。それでも自分は人の為に何かを作るのが好きだった。初めてプレゼントしたのは確か歪なうさぎの顔だったと思う。それでもあの子がとても喜んでくれたのでまだ子供で単純な自分は次は難しいマフラーを編もうと決めたのだ。店できっと似合うであろう色を選び、大事なあの子が厳しい冬の寒さに負けないように。大切なあの子が自分の作ったものを身に着けて少しでも温かい気持ちになれますようにと、想いを込めてひとつひとつ糸を紡ぎあげる。まぁ、そんなものはただ自分の欲求を満たしたいだけの自己満足みたいなものだし。結局渡す前にあの子は居なくなってしまったので、たくさん練習したマフラーはゴミ箱行きになってしまったのだけれど。
別に恥ずべき行為では無いし、人の目は気にしているわけではないが、気高さを売りにしている以上イメージを崩す訳にもいかないので、いつしか気の知れた人間以外の前では編み物はやめてしまった。
だから時間のあるうちに、ここでゆっくりと刻を過ごそう。ここは俺とぬうくん。ふたりだけの秘密の場所なのだから。
ガラスで出来たパイプがじじっと熱の灯った音を鳴らす。ストーブと時計の音を聴きながら編み目を繰り返し交差させていると、膝の上の毛布のかたまりがもぞもぞと動いた。
「いずみさん、なにしてるの?」
眠っていたぬうくんが目を醒ました。とろとろと今にも蕩け落ちそうな瞳でしばらくぼうっとしていたが、傍に落ちている毛糸の玉を見付けると、それを掴み壁に向かって投げた。ぽん、と鈍い音を立てて赤の玉が転がる。
「あれぇ?はねない?」
「これはボールじゃないよ」
遊び道具だと勘違いしていたのか、首を傾げる姿にくすくす笑って、糸を解き短い輪を作って遊ぶよう手に渡してあげる。
「編み物をしてたんだ」
「あみもの?」
「うん。これから寒くなるだろうから、首に巻いたりして風邪をひかないように暖めてあげるの。ぬうくんのその毛布みたいにね」
はみ出た肩に毛布を掛け直してあげるとどうやらぬうくんは理解したようで、なぞなぞが解けた子どものように声を上げて喜んだ。
「わかった。ゆうくんにあげるんだ」
「うん。赤はちょっと派手かもしれないけれど」
本当はもしかしたらファンの子からもマフラーを貰うかもしれないからと、敢えて目立つ色を選んだことは黙っていた。それでも足りないなら誰にも負けないぐらいの愛の言葉も添えようと実は密かに思っている。
「そんなことないよ。ゆうくんきっとよろこぶよぉ。ぼくもいずみさんのことあっためてあげる。ぎゅっぎゅっ」
はしゃぎ声と共に掛けていた毛布が再び床に落ちる。首に縋りつく子どものようなぬくい体温が愛おしい。忘れていたぬくもりを腕のなかで抱き締めて返していると、まぁるい彩りがころころと幾つか視界に転がり込んできた。
「ねぇ、他に作るなら何色が良いと思う?」
「う~ん…ゆうくんのゆにっとのふくはあおでしょ?でもみどりもにあうし…」
う~ん、と一生懸命唸りながら考え込む姿に目を細める。少し肌寒さを感じ始めた防音レッスン室は持ち込んだ簡易ストーブの熱のおかげですっかり暖かくなっていた。
------------------
授業の終わりを告げるチャイムが鳴ると同時に荷物を纏め立ち上がる。誰かに最近忙しそうだねと声を掛けられた気がしたが、それに構わず教室を後にした。冷えた廊下を歩きながら外を見ると枯れた土くれの葉が宙を舞っている。ひと月後には雪が降るだろうか。窓の景色はそろそろと冬支度を始めようとしていた。
「おかえりなさい」
家に戻ると母の声が出迎えてくれた。自然を装っているが恐らく自分が帰って来るをリビングで待っていたのだろう。ユニットの活動が忙しいから学校にしばらく泊まり込むと伝えると母親は一瞬怪訝な顔をしたが、荷物を取りに時間のある時は家に戻ることを条件に納得して貰った。母の反対を押し切りモデル活動を休止した頃からあまり干渉することは少なくなかったが、学校生活にも思うところがあったのだと思う。言いたいことは色々とあるようだが、わざわざ理想の家族象を再び壊すような面倒なことはしたくなかったので互いに何となく黙っていた。
皆さんとどうぞと用意していた数人分の軽食を玄関先で手渡される。今までは食事管理は自分でしていたが、今は自炊する余裕も無かったので以前まで少し疎まさを感じていた母の過保護さが逆に有り難かった。笑顔でそれを受け取り家を出る。背中に突き刺さる後ろめたさから視線を逸らして。
----------------
授業の合間に時間があればレッスン室まで様子を見に行き、放課後は怪しまれないようにユニットの活動にも頻繁に顔を出すようにしていた。それが終わるとひとり帰る素振りをして、ぬうくんが待っている部屋へと戻る。
誰にも気付かれないようにと充分に警戒して行動していたつもりだが、暗がりの部室の前で厄介な人物に声を掛けられ思わず顔を顰めた。
「ありぇ?泉ちんとまこちん。こんなところで何してるんだ?」
「…なずにゃんこそ、こんな遅くまでなんでいるのさ。お子様はもう寝る時間でしょ?」
軽く舌打ちをして、咄嗟に濡れた髪のぬうくんを後ろに隠す。ずっと室内に閉じ篭もっているのも体に良くないので、人気のない夜に構内をこうしてふたりで出歩くようにしていた。出来るだけ人目の付かないようにと、敢えて遠い運動部側のシャワールームを選んだことが仇となってしまった。どう考えてもこの時間に入浴しているのは不自然だからだ。
「おれは泉ちんと同じ歳ら!部室に明かりが付いてるのが見えたから怖いけどわざわざ見に来たんだぞ!それにしても…まこちん確か今日はユニットの活動があるから放送委員の仕事は残れないじゃなかったのか?大丈夫か?もしかして泉ちんに無理矢理捕まってるんじゃ…」
「あ、あの」
突然見知らぬ人物に矛先を向けられたぬうくんが不安そうな瞳でこちらを見上げる。大丈夫だと安心させるように見えない位置で手を握ると、それに応えるようにぬうくんがぎゅっと手を握り返した。細かな緊張と怯えが直に伝わってくる。それはもしかしたら自分のものなのかもしれない。
「ゆうくんまだ残ってるかなと思って探したら、体育館でひとりで残ってダンスレッスンしてるゆうくんを見付けたの。それで俺がそのまま教えてあげて、ついでにふたりでシャワーも浴びたってわけ。何か問題ある?」
「…そうなのかまこちん?」
ぬうくんがこくこくと懸命に頷く。やはりこれくらいじゃ納得出来ないのか俺の威圧的な視線にも動じない。見た目にそぐわず勘の良い彼はぬうくんの目をじっと見据えた。まるで違和感の正体を探るように。
「俺はこのままゆうくんを送って行くから。じゃあね、なずにゃん。…行こうゆうくん」
「あっ、おい泉ちん…!」
まだ何か言いたげに伸ばす手を強引に遮り、その場から逃げるように離れた。迂闊だった。よりによって本人に近い人物に遭うだなんて。
「あのひといずみさんとゆうくんのおともだち?」
「まぁ、そんなものかな」
ずっと黙っていたぬうくんが口を開く。友達と言われれば疑問だが、ただの部活仲間でも無い気がしたのでとりあえずそう答えた。
「ぼく、ちゃんとゆうくんのふりできてた?ばれてない…?」
「うん。ちゃあんと出来てたよ」
「よかったぁ」
いずみさんほめて、と甘えた声で強請る頭を撫でてあげる。もし、自分以外の誰かに姿を見られてしまった場合はゆうくんの振りをするようにと事前に教えていた。ぬうくんもぬうくんなりに考えているのだ。自分を気遣っているのか、ぬうくんは初めて留守番をしたあの日から一度も泣いていない。
不思議な感覚だった。今のぬうくんはまさにゆうくんの生き写しの姿で、自分とそんなに変わらない大きさの筈なのにちいさなぬいぐるみを抱き締めている気分になるからだ。
その日は朝まで腕のなかで眠る寝顔を眺め続けた。
少しでも力を加えると簡単に壊れてしまいそうな、とても脆く、無垢でやわらかな寝顔を。
----------------
振り向くと同時に廊下に響く靴音が止まって重なる。想像通りの人物の姿に微笑む。いつもは追い掛ける側の立場なので、こうして逆に追われるのは何だか新鮮で可笑しかった。ただ、本人はどうやら静かに怒っているようだけど。昨晩からこうなるであろう事は予想していたので、突然現れるよりは良い。
「珍しいねぇ。ゆうくんが俺の後をつけるだなんて。どうしたの?急に俺に逢いたくなっちゃった?抱き締めてあげようか?」
「誤魔化さないで下さい。…昨日のこと仁兎先輩から聞きました。泉さんはここで隠れて一体何をしているんですか?」
「ゆうくんには関係ない」
「…っ関係なくないでしょ!泉さんがここで僕に何をしたかなんて忘れたとは言わせないよ。僕にはそれを知る権利がある…!」
声を荒らげたゆうくんの肩が震えている。
ふたりの間を空虚な冷たい風が静かに吹き抜けた。もちろん忘れたことはない。まだ窓から春色の陽射しが差し込んでいたあの日、ちょうど今背後にある扉のなかに彼を閉じ込めたのだ。外の歓声すら聞こえない、光すら入らないこの隔絶された世界に嫌がる彼を無理矢理。桜の季節は疾うに過ぎたが、彼にとってこの扉の奥にはまだ忌まわしい記憶の一部が残っているのだろう。一度出来てしまった痼はなかなか消えないことを自分も幼い頃からよく知っていたから。
「もし、泉さんがまた誰かをここに閉じ込めているなら僕は見過ごせないよ…ねぇ、教えてよ泉さん。今度はここに何を隠してるの?」
緑の瞳が悲しげに光って揺れた。どうせなら激しくなじってくれたほうがマシだと思った。それならば受け止める振りをして誤魔化す自信がまだあったからだ。やるせなさに胸がざわめく。どうにも自分は昔からこの伏せた眼差しに弱く、これ以上彼を傷付けることなど出来そうになかった。きっと彼はこのまま引き下がるようなことはしないだろう。最初はどうかと心配していたが、彼はこの学院に来てから自分に歯向かう程強くなった。彼は自分で硬い殻を破り、少年時代にはなし得なかった覚悟を手に入れたのだ。
本当は誰よりも巻き込みたくなかったんだけど。ごめんね。ちいさな囁きを空気に溶かしながら、制服の胸ポケットから鍵を取り出す。
「ゆうくんはパンドラの箱を開ける勇気はある?」
「え?」
「誰にも言わないって約束してくれるなら俺の秘密を見せてあげても良い。ただし、それ相当の覚悟は必要だけど」
ゆうくんは驚いたように顔を上げ目を見開くと、決心したように強い瞳で頷いた。
ため息をつき、合図のノックを3回して鍵を差し込む。扉がゆっくりと開き、中から熱を纏ったあたたかな空気がふわりと漏れた。冷えているはずの部屋に誰かが長時間居る証拠だ。もしもの時の為にそっと肩を支えると、緊張でゆうくんが息を飲むのが伝わった。
「先に言っておくけど、驚いて気絶しないでね」
--------------------------
目の前に天使がふたりいる。
「ゆうくんっておいしそうなにおいがするね!なんで?なんで?」
「ゔぅ…」
ふんふんと犬のように鼻を擦り寄せる天使と、壁に向かって後退りしている天使だ。もしかしたらここはパンドラの箱などではなく理想郷…いや、天国なのかもしれない。いつか実物を見てみたいと願っていた大聖堂。その天井に浮かぶ天使像が頭のなかで鐘を鳴らしはじめた。
「もしかしてわたみたいに、ゆうくんはおかしでできてるの?…はむっ」
「うひゃ!?」
「あれぇ?おいしくない」
「い、泉さん見てないで助けて!」
天使たちの戯れに思わず遠いイタリアの地までトリップしていた思考が現実に引き戻される。一見、どっちかと見間違えそうになるが、怯えた表情で助けを求めているのがゆうくんで、壁に追い詰めた指をもぐもぐと残念そうに咥えているのがぬうくんの方。腕には目印のように俺のあげた赤の毛糸を大事そうに巻き付けてある。
「ごめんねぇ。ほら、ぬうくん、ゆうくんがびっくりしてるから離れて」
「でも…おかし…」
ぬうくんがしゅんと項垂れながらゆうくんから離れる。確かに今日の彼はいつもと違う匂いを漂わせている。焼き菓子のような思わず食べてしまいたくなるような甘い匂いだ。
「もしかしてゆうくん何かお菓子持ってない?例えばクッキーとか」
「お菓子…?あ、そう言えば確かポケットに転校生ちゃんの焼いてくれたクッキーが入って……食べる?」
ゆうくんが恐る恐る綺麗にラッピングされた袋を差し出す。お菓子を失ったゆうくんは可哀想だと思うが、あんなに潤んだ瞳で見つめられては渡さずにはいられない。
「うわぁいゆうくんありがとう。いずみさん、おやつもらっちゃった」
「良かったねぇ。でも甘い物食べたら後でちゃんと歯磨きしようね」
「はぁい。いずみさん、はんぶんこしよ」
ぬうくんが齧りかけのクッキーをにこにこと口元に差し出す。甘いそれを受け入れ、さくっと噛み砕いて咀嚼していると怪訝な顔と目が合った。
「…普段甘い物なんか絶対に食べない癖に」
「後でちゃんと消費するからこれくらいなら許容範囲だよ」
「ふぅん」
「なぁに?そんな可愛くない顔して」
「可愛くなくて結構です」
眉間に皺を寄せたゆうくんがぷいとそっぽを向いてしまう。綺麗な横顔が不機嫌に崩れるのを不思議に思っていると、ふあっと気の抜けた音が聴こえてきた。
「いずみさぁん…なんだかねむくなってきた」
「沢山はしゃいで疲れたのかな。おいで」
うとうとと目を擦り始めたぬうくんを膝の上に迎えれる。余程興奮していたのか、ぬうくんはこてんと横になるとすぐに寝息を立てて眠ってしまった。お腹も満たされたせいか、その顔はなんだか幸せそうだ。額にかかった邪魔な髪を起こさぬように指でそっと払い除ける。形の良い口角がきゅっと上がった気がした。
「寝ちゃった…」
「本物のゆうくんに逢えて嬉しかったんだよ。いつもゆうくんの話が聞きたいってせがまれるから、俺とゆうくんの思い出話を寝物語に聞かせてあげるの」
「思い出話?例えば?」
「ゆうくんが撮影中に我慢出来なくておもらしして泣いちゃった時のこととか」
「ひどい!そんなこと他の人に教えないでよ!」
「良いじゃん。ぬうくんはぬいぐるみなんだし」
「泉さん、あのさ、そのことなんだけど…」
戸惑いがちに途切れた言葉。どう聞けば良いのか言葉をあぐねいているようだった。至極当然な反応だと思う。いきなり鏡に映したような自分の姿が現れ、それが自分をモチーフに作られたぬいぐるみがお星様にお願いしたら人間になりました、なんて説明されたら誰だって正気を疑うし、どう考えても現実的じゃない。先程よりは少し慣れたようだが、実際にゆうくんは驚いて腰を抜かしかねた。
逆にこれが自分の立場なら、ふざけるなと嫉妬と怒りの感情できっと今頃狂っている。
「やっぱり信じられない?」
自分としては正直にすべてを話したつもりだが、それでも混乱させてしまった事実に、後悔の念に胸が少し痛んだ。だが、顔をあげた彼から出た言葉は意外なものだった。怒っているようで、笑っている。なんとも不思議な表情をしていた。
「ううん。信じるよ。だって僕のそっくりさんにしては似過ぎてるし、それに笑っちゃうくらいこの子泉さんにべったりなんだもん。でも、怒ってるよ。泉さんが僕に嘘ついてるから」
「え?」
「泉さん、本当は夜も全然眠れてないんでしょ?」
「ゆうくんっ」
慌てて言葉を遮る。膝の上の寝息が変わらないことに安堵すると、ゆうくんはごめんと謝りながらもちいさな声で囁き続けた。
「ねぇ泉さん、僕ってそんなに頼りないかな?泉さんの事だから誰にも言えなくてひとりで悩んでたんでしょ。困っているならもっとはやく僕に相談して欲しかったな。きっと、泉さんは僕に迷惑かけないようにしたかったんだと思うけど」
でも、最近素っ気ないから僕けっこう寂しかったんだよ。こつんと肩に凭れかかる、慈愛に満ちた重み。汚れた世界のなかで、互いの寂しさを埋めるようにずっとふたりで手を繋いで歩いてきた。だけど離れないようにと繋いだ糸はいつの間にかぐちゃぐちゃになって、気付いた時には彼の手は離れてしまった。
「ゆうくんごめんね」
「うん」
「愛してるよ」
「もう。どさくさに紛れて変なこと言わないで」
「俺はいつだって本気なんだけど」
ぴくりと、寄り添っていた熱が照れくさそうに身を捩る。
するりと、絡まっていた糸が解れる音が聴こえた気がした。拗れて何度も絡まってしまったそれは、もしかしたらふたりとも遠回りをしていただけで、本当は最初から真っ直ぐに繋がっていたのかもしれない。
自然に距離が縮まり、指先が重なって触れた。どきどきと大きな心臓の音が邪魔だと思いながら、誤魔化すように青のフレームに手を掛ける。それが合図のようにゆうくんが長い睫毛を伏せ、瞼を閉じた。惹き寄せられるように互いの唇がゆっくりと近付いて行く。その時だった。
「…ちゅうするの?」
「うわぁああ!!」
悲鳴を上げたゆうくんにおもいきり身体を後ろに突き飛ばされた。突然のことに受身が取れず顔を顰めていると、目を覚ましたぬうくんが興味津々といった様子で瞳を輝かせながら見上げている。いつから起きてたのだろうか。
「し、しないよ」
「どぉして?ぼくいつもいずみさんとおはようとおやすみなさいのちゅうしてるよ?こうやってちゅっちゅって」
ぐっと前のめりになった体重が伸し掛かる。
はっと思った時にはもう遅かった。抵抗する間もなく行き場の無くなった唇を、ぬうくんがちゅうちゅうと吸い付いている。クッキーの粉の残る少しざらついた唇の感触がする。甘い、けれどこの状況は不味い。ぬうくんは普段はとても聞き分けの良い子だが、泉さんがちゅうしてくれないと寝ないとそこだけは頑なに譲らないので、実は朝と夜に分けてキスをしていた。もちろん、唇に。
「…や、やめて!僕の見た目で変なことしないで」
「へんなこと?へんなことってなぁに?」
「いいからとにかく離れて!」
「やだぁ、いずみさんとちゅうする」
信じられないと言った表情のゆうくんに強く睨まれる。どうやらせっかく解けた糸は、また絡まってしまったようだった。それも、複雑な形に。
その日、秘密の共有者が増え、静かだったふたりだけの部屋の時計の針が再び動き始めた。その時はまだ気付いていなかった。幾ら夜空を見上げても星の流れは変えられないことに。残酷に時間が流れ過ぎるのを自分はただ、黙って見ていることしか出来ないのだ。
だって自分は願いを叶える神様にはなれないのだから。
縮こまった赤の糸を指で掬い上げ、作り目の輪に棒の編み針を差し込む。ただひたすら指を動かしその作業を永遠と繰り返す。世間では一般的に編み物は女性の趣味のイメージが多い。空き時間に教室で編み物をしていると普段話した事すらないクラスメイトからすれ違いざまに鼻で笑われることも多かった。わざわざ教室を覗いてこちらに聴こえるように莫迦にする奴らもいるくらいだ。ファンの前では王子だなんだと言われる癖に、似つかわしくないと耳障りな笑い声が。確かに自分を気に入らない奴らにとっては滑稽な姿かもしれない。今まで学院内で散々剣を振り翳してきた手は汚れていて綺麗じゃないことは自分でもよく分かっている。それでも自分は人の為に何かを作るのが好きだった。初めてプレゼントしたのは確か歪なうさぎの顔だったと思う。それでもあの子がとても喜んでくれたのでまだ子供で単純な自分は次は難しいマフラーを編もうと決めたのだ。店できっと似合うであろう色を選び、大事なあの子が厳しい冬の寒さに負けないように。大切なあの子が自分の作ったものを身に着けて少しでも温かい気持ちになれますようにと、想いを込めてひとつひとつ糸を紡ぎあげる。まぁ、そんなものはただ自分の欲求を満たしたいだけの自己満足みたいなものだし。結局渡す前にあの子は居なくなってしまったので、たくさん練習したマフラーはゴミ箱行きになってしまったのだけれど。
別に恥ずべき行為では無いし、人の目は気にしているわけではないが、気高さを売りにしている以上イメージを崩す訳にもいかないので、いつしか気の知れた人間以外の前では編み物はやめてしまった。
だから時間のあるうちに、ここでゆっくりと刻を過ごそう。ここは俺とぬうくん。ふたりだけの秘密の場所なのだから。
ガラスで出来たパイプがじじっと熱の灯った音を鳴らす。ストーブと時計の音を聴きながら編み目を繰り返し交差させていると、膝の上の毛布のかたまりがもぞもぞと動いた。
「いずみさん、なにしてるの?」
眠っていたぬうくんが目を醒ました。とろとろと今にも蕩け落ちそうな瞳でしばらくぼうっとしていたが、傍に落ちている毛糸の玉を見付けると、それを掴み壁に向かって投げた。ぽん、と鈍い音を立てて赤の玉が転がる。
「あれぇ?はねない?」
「これはボールじゃないよ」
遊び道具だと勘違いしていたのか、首を傾げる姿にくすくす笑って、糸を解き短い輪を作って遊ぶよう手に渡してあげる。
「編み物をしてたんだ」
「あみもの?」
「うん。これから寒くなるだろうから、首に巻いたりして風邪をひかないように暖めてあげるの。ぬうくんのその毛布みたいにね」
はみ出た肩に毛布を掛け直してあげるとどうやらぬうくんは理解したようで、なぞなぞが解けた子どものように声を上げて喜んだ。
「わかった。ゆうくんにあげるんだ」
「うん。赤はちょっと派手かもしれないけれど」
本当はもしかしたらファンの子からもマフラーを貰うかもしれないからと、敢えて目立つ色を選んだことは黙っていた。それでも足りないなら誰にも負けないぐらいの愛の言葉も添えようと実は密かに思っている。
「そんなことないよ。ゆうくんきっとよろこぶよぉ。ぼくもいずみさんのことあっためてあげる。ぎゅっぎゅっ」
はしゃぎ声と共に掛けていた毛布が再び床に落ちる。首に縋りつく子どものようなぬくい体温が愛おしい。忘れていたぬくもりを腕のなかで抱き締めて返していると、まぁるい彩りがころころと幾つか視界に転がり込んできた。
「ねぇ、他に作るなら何色が良いと思う?」
「う~ん…ゆうくんのゆにっとのふくはあおでしょ?でもみどりもにあうし…」
う~ん、と一生懸命唸りながら考え込む姿に目を細める。少し肌寒さを感じ始めた防音レッスン室は持ち込んだ簡易ストーブの熱のおかげですっかり暖かくなっていた。
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授業の終わりを告げるチャイムが鳴ると同時に荷物を纏め立ち上がる。誰かに最近忙しそうだねと声を掛けられた気がしたが、それに構わず教室を後にした。冷えた廊下を歩きながら外を見ると枯れた土くれの葉が宙を舞っている。ひと月後には雪が降るだろうか。窓の景色はそろそろと冬支度を始めようとしていた。
「おかえりなさい」
家に戻ると母の声が出迎えてくれた。自然を装っているが恐らく自分が帰って来るをリビングで待っていたのだろう。ユニットの活動が忙しいから学校にしばらく泊まり込むと伝えると母親は一瞬怪訝な顔をしたが、荷物を取りに時間のある時は家に戻ることを条件に納得して貰った。母の反対を押し切りモデル活動を休止した頃からあまり干渉することは少なくなかったが、学校生活にも思うところがあったのだと思う。言いたいことは色々とあるようだが、わざわざ理想の家族象を再び壊すような面倒なことはしたくなかったので互いに何となく黙っていた。
皆さんとどうぞと用意していた数人分の軽食を玄関先で手渡される。今までは食事管理は自分でしていたが、今は自炊する余裕も無かったので以前まで少し疎まさを感じていた母の過保護さが逆に有り難かった。笑顔でそれを受け取り家を出る。背中に突き刺さる後ろめたさから視線を逸らして。
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授業の合間に時間があればレッスン室まで様子を見に行き、放課後は怪しまれないようにユニットの活動にも頻繁に顔を出すようにしていた。それが終わるとひとり帰る素振りをして、ぬうくんが待っている部屋へと戻る。
誰にも気付かれないようにと充分に警戒して行動していたつもりだが、暗がりの部室の前で厄介な人物に声を掛けられ思わず顔を顰めた。
「ありぇ?泉ちんとまこちん。こんなところで何してるんだ?」
「…なずにゃんこそ、こんな遅くまでなんでいるのさ。お子様はもう寝る時間でしょ?」
軽く舌打ちをして、咄嗟に濡れた髪のぬうくんを後ろに隠す。ずっと室内に閉じ篭もっているのも体に良くないので、人気のない夜に構内をこうしてふたりで出歩くようにしていた。出来るだけ人目の付かないようにと、敢えて遠い運動部側のシャワールームを選んだことが仇となってしまった。どう考えてもこの時間に入浴しているのは不自然だからだ。
「おれは泉ちんと同じ歳ら!部室に明かりが付いてるのが見えたから怖いけどわざわざ見に来たんだぞ!それにしても…まこちん確か今日はユニットの活動があるから放送委員の仕事は残れないじゃなかったのか?大丈夫か?もしかして泉ちんに無理矢理捕まってるんじゃ…」
「あ、あの」
突然見知らぬ人物に矛先を向けられたぬうくんが不安そうな瞳でこちらを見上げる。大丈夫だと安心させるように見えない位置で手を握ると、それに応えるようにぬうくんがぎゅっと手を握り返した。細かな緊張と怯えが直に伝わってくる。それはもしかしたら自分のものなのかもしれない。
「ゆうくんまだ残ってるかなと思って探したら、体育館でひとりで残ってダンスレッスンしてるゆうくんを見付けたの。それで俺がそのまま教えてあげて、ついでにふたりでシャワーも浴びたってわけ。何か問題ある?」
「…そうなのかまこちん?」
ぬうくんがこくこくと懸命に頷く。やはりこれくらいじゃ納得出来ないのか俺の威圧的な視線にも動じない。見た目にそぐわず勘の良い彼はぬうくんの目をじっと見据えた。まるで違和感の正体を探るように。
「俺はこのままゆうくんを送って行くから。じゃあね、なずにゃん。…行こうゆうくん」
「あっ、おい泉ちん…!」
まだ何か言いたげに伸ばす手を強引に遮り、その場から逃げるように離れた。迂闊だった。よりによって本人に近い人物に遭うだなんて。
「あのひといずみさんとゆうくんのおともだち?」
「まぁ、そんなものかな」
ずっと黙っていたぬうくんが口を開く。友達と言われれば疑問だが、ただの部活仲間でも無い気がしたのでとりあえずそう答えた。
「ぼく、ちゃんとゆうくんのふりできてた?ばれてない…?」
「うん。ちゃあんと出来てたよ」
「よかったぁ」
いずみさんほめて、と甘えた声で強請る頭を撫でてあげる。もし、自分以外の誰かに姿を見られてしまった場合はゆうくんの振りをするようにと事前に教えていた。ぬうくんもぬうくんなりに考えているのだ。自分を気遣っているのか、ぬうくんは初めて留守番をしたあの日から一度も泣いていない。
不思議な感覚だった。今のぬうくんはまさにゆうくんの生き写しの姿で、自分とそんなに変わらない大きさの筈なのにちいさなぬいぐるみを抱き締めている気分になるからだ。
その日は朝まで腕のなかで眠る寝顔を眺め続けた。
少しでも力を加えると簡単に壊れてしまいそうな、とても脆く、無垢でやわらかな寝顔を。
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振り向くと同時に廊下に響く靴音が止まって重なる。想像通りの人物の姿に微笑む。いつもは追い掛ける側の立場なので、こうして逆に追われるのは何だか新鮮で可笑しかった。ただ、本人はどうやら静かに怒っているようだけど。昨晩からこうなるであろう事は予想していたので、突然現れるよりは良い。
「珍しいねぇ。ゆうくんが俺の後をつけるだなんて。どうしたの?急に俺に逢いたくなっちゃった?抱き締めてあげようか?」
「誤魔化さないで下さい。…昨日のこと仁兎先輩から聞きました。泉さんはここで隠れて一体何をしているんですか?」
「ゆうくんには関係ない」
「…っ関係なくないでしょ!泉さんがここで僕に何をしたかなんて忘れたとは言わせないよ。僕にはそれを知る権利がある…!」
声を荒らげたゆうくんの肩が震えている。
ふたりの間を空虚な冷たい風が静かに吹き抜けた。もちろん忘れたことはない。まだ窓から春色の陽射しが差し込んでいたあの日、ちょうど今背後にある扉のなかに彼を閉じ込めたのだ。外の歓声すら聞こえない、光すら入らないこの隔絶された世界に嫌がる彼を無理矢理。桜の季節は疾うに過ぎたが、彼にとってこの扉の奥にはまだ忌まわしい記憶の一部が残っているのだろう。一度出来てしまった痼はなかなか消えないことを自分も幼い頃からよく知っていたから。
「もし、泉さんがまた誰かをここに閉じ込めているなら僕は見過ごせないよ…ねぇ、教えてよ泉さん。今度はここに何を隠してるの?」
緑の瞳が悲しげに光って揺れた。どうせなら激しくなじってくれたほうがマシだと思った。それならば受け止める振りをして誤魔化す自信がまだあったからだ。やるせなさに胸がざわめく。どうにも自分は昔からこの伏せた眼差しに弱く、これ以上彼を傷付けることなど出来そうになかった。きっと彼はこのまま引き下がるようなことはしないだろう。最初はどうかと心配していたが、彼はこの学院に来てから自分に歯向かう程強くなった。彼は自分で硬い殻を破り、少年時代にはなし得なかった覚悟を手に入れたのだ。
本当は誰よりも巻き込みたくなかったんだけど。ごめんね。ちいさな囁きを空気に溶かしながら、制服の胸ポケットから鍵を取り出す。
「ゆうくんはパンドラの箱を開ける勇気はある?」
「え?」
「誰にも言わないって約束してくれるなら俺の秘密を見せてあげても良い。ただし、それ相当の覚悟は必要だけど」
ゆうくんは驚いたように顔を上げ目を見開くと、決心したように強い瞳で頷いた。
ため息をつき、合図のノックを3回して鍵を差し込む。扉がゆっくりと開き、中から熱を纏ったあたたかな空気がふわりと漏れた。冷えているはずの部屋に誰かが長時間居る証拠だ。もしもの時の為にそっと肩を支えると、緊張でゆうくんが息を飲むのが伝わった。
「先に言っておくけど、驚いて気絶しないでね」
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目の前に天使がふたりいる。
「ゆうくんっておいしそうなにおいがするね!なんで?なんで?」
「ゔぅ…」
ふんふんと犬のように鼻を擦り寄せる天使と、壁に向かって後退りしている天使だ。もしかしたらここはパンドラの箱などではなく理想郷…いや、天国なのかもしれない。いつか実物を見てみたいと願っていた大聖堂。その天井に浮かぶ天使像が頭のなかで鐘を鳴らしはじめた。
「もしかしてわたみたいに、ゆうくんはおかしでできてるの?…はむっ」
「うひゃ!?」
「あれぇ?おいしくない」
「い、泉さん見てないで助けて!」
天使たちの戯れに思わず遠いイタリアの地までトリップしていた思考が現実に引き戻される。一見、どっちかと見間違えそうになるが、怯えた表情で助けを求めているのがゆうくんで、壁に追い詰めた指をもぐもぐと残念そうに咥えているのがぬうくんの方。腕には目印のように俺のあげた赤の毛糸を大事そうに巻き付けてある。
「ごめんねぇ。ほら、ぬうくん、ゆうくんがびっくりしてるから離れて」
「でも…おかし…」
ぬうくんがしゅんと項垂れながらゆうくんから離れる。確かに今日の彼はいつもと違う匂いを漂わせている。焼き菓子のような思わず食べてしまいたくなるような甘い匂いだ。
「もしかしてゆうくん何かお菓子持ってない?例えばクッキーとか」
「お菓子…?あ、そう言えば確かポケットに転校生ちゃんの焼いてくれたクッキーが入って……食べる?」
ゆうくんが恐る恐る綺麗にラッピングされた袋を差し出す。お菓子を失ったゆうくんは可哀想だと思うが、あんなに潤んだ瞳で見つめられては渡さずにはいられない。
「うわぁいゆうくんありがとう。いずみさん、おやつもらっちゃった」
「良かったねぇ。でも甘い物食べたら後でちゃんと歯磨きしようね」
「はぁい。いずみさん、はんぶんこしよ」
ぬうくんが齧りかけのクッキーをにこにこと口元に差し出す。甘いそれを受け入れ、さくっと噛み砕いて咀嚼していると怪訝な顔と目が合った。
「…普段甘い物なんか絶対に食べない癖に」
「後でちゃんと消費するからこれくらいなら許容範囲だよ」
「ふぅん」
「なぁに?そんな可愛くない顔して」
「可愛くなくて結構です」
眉間に皺を寄せたゆうくんがぷいとそっぽを向いてしまう。綺麗な横顔が不機嫌に崩れるのを不思議に思っていると、ふあっと気の抜けた音が聴こえてきた。
「いずみさぁん…なんだかねむくなってきた」
「沢山はしゃいで疲れたのかな。おいで」
うとうとと目を擦り始めたぬうくんを膝の上に迎えれる。余程興奮していたのか、ぬうくんはこてんと横になるとすぐに寝息を立てて眠ってしまった。お腹も満たされたせいか、その顔はなんだか幸せそうだ。額にかかった邪魔な髪を起こさぬように指でそっと払い除ける。形の良い口角がきゅっと上がった気がした。
「寝ちゃった…」
「本物のゆうくんに逢えて嬉しかったんだよ。いつもゆうくんの話が聞きたいってせがまれるから、俺とゆうくんの思い出話を寝物語に聞かせてあげるの」
「思い出話?例えば?」
「ゆうくんが撮影中に我慢出来なくておもらしして泣いちゃった時のこととか」
「ひどい!そんなこと他の人に教えないでよ!」
「良いじゃん。ぬうくんはぬいぐるみなんだし」
「泉さん、あのさ、そのことなんだけど…」
戸惑いがちに途切れた言葉。どう聞けば良いのか言葉をあぐねいているようだった。至極当然な反応だと思う。いきなり鏡に映したような自分の姿が現れ、それが自分をモチーフに作られたぬいぐるみがお星様にお願いしたら人間になりました、なんて説明されたら誰だって正気を疑うし、どう考えても現実的じゃない。先程よりは少し慣れたようだが、実際にゆうくんは驚いて腰を抜かしかねた。
逆にこれが自分の立場なら、ふざけるなと嫉妬と怒りの感情できっと今頃狂っている。
「やっぱり信じられない?」
自分としては正直にすべてを話したつもりだが、それでも混乱させてしまった事実に、後悔の念に胸が少し痛んだ。だが、顔をあげた彼から出た言葉は意外なものだった。怒っているようで、笑っている。なんとも不思議な表情をしていた。
「ううん。信じるよ。だって僕のそっくりさんにしては似過ぎてるし、それに笑っちゃうくらいこの子泉さんにべったりなんだもん。でも、怒ってるよ。泉さんが僕に嘘ついてるから」
「え?」
「泉さん、本当は夜も全然眠れてないんでしょ?」
「ゆうくんっ」
慌てて言葉を遮る。膝の上の寝息が変わらないことに安堵すると、ゆうくんはごめんと謝りながらもちいさな声で囁き続けた。
「ねぇ泉さん、僕ってそんなに頼りないかな?泉さんの事だから誰にも言えなくてひとりで悩んでたんでしょ。困っているならもっとはやく僕に相談して欲しかったな。きっと、泉さんは僕に迷惑かけないようにしたかったんだと思うけど」
でも、最近素っ気ないから僕けっこう寂しかったんだよ。こつんと肩に凭れかかる、慈愛に満ちた重み。汚れた世界のなかで、互いの寂しさを埋めるようにずっとふたりで手を繋いで歩いてきた。だけど離れないようにと繋いだ糸はいつの間にかぐちゃぐちゃになって、気付いた時には彼の手は離れてしまった。
「ゆうくんごめんね」
「うん」
「愛してるよ」
「もう。どさくさに紛れて変なこと言わないで」
「俺はいつだって本気なんだけど」
ぴくりと、寄り添っていた熱が照れくさそうに身を捩る。
するりと、絡まっていた糸が解れる音が聴こえた気がした。拗れて何度も絡まってしまったそれは、もしかしたらふたりとも遠回りをしていただけで、本当は最初から真っ直ぐに繋がっていたのかもしれない。
自然に距離が縮まり、指先が重なって触れた。どきどきと大きな心臓の音が邪魔だと思いながら、誤魔化すように青のフレームに手を掛ける。それが合図のようにゆうくんが長い睫毛を伏せ、瞼を閉じた。惹き寄せられるように互いの唇がゆっくりと近付いて行く。その時だった。
「…ちゅうするの?」
「うわぁああ!!」
悲鳴を上げたゆうくんにおもいきり身体を後ろに突き飛ばされた。突然のことに受身が取れず顔を顰めていると、目を覚ましたぬうくんが興味津々といった様子で瞳を輝かせながら見上げている。いつから起きてたのだろうか。
「し、しないよ」
「どぉして?ぼくいつもいずみさんとおはようとおやすみなさいのちゅうしてるよ?こうやってちゅっちゅって」
ぐっと前のめりになった体重が伸し掛かる。
はっと思った時にはもう遅かった。抵抗する間もなく行き場の無くなった唇を、ぬうくんがちゅうちゅうと吸い付いている。クッキーの粉の残る少しざらついた唇の感触がする。甘い、けれどこの状況は不味い。ぬうくんは普段はとても聞き分けの良い子だが、泉さんがちゅうしてくれないと寝ないとそこだけは頑なに譲らないので、実は朝と夜に分けてキスをしていた。もちろん、唇に。
「…や、やめて!僕の見た目で変なことしないで」
「へんなこと?へんなことってなぁに?」
「いいからとにかく離れて!」
「やだぁ、いずみさんとちゅうする」
信じられないと言った表情のゆうくんに強く睨まれる。どうやらせっかく解けた糸は、また絡まってしまったようだった。それも、複雑な形に。
その日、秘密の共有者が増え、静かだったふたりだけの部屋の時計の針が再び動き始めた。その時はまだ気付いていなかった。幾ら夜空を見上げても星の流れは変えられないことに。残酷に時間が流れ過ぎるのを自分はただ、黙って見ていることしか出来ないのだ。
だって自分は願いを叶える神様にはなれないのだから。