こんな世界があってもいいのかもしれない
すぅ、と冷えた空気がカメラの熱気の抜け切らない身体を撫で付ける。まだ手袋をするには少しばかり早いので、代わりにちいさな手を温めるようにぎゅっと握り締めた。白い息を吐きながら寒空の下をあの子とふたり手を繋いで歩いた記憶がある。
今日もお迎えは自分の母親だけ。おにいちゃんのおててあったかいね、はにかんだ笑顔を浮かべるこの子はお家に帰ってもひとりぼっち。家の中へと消えていく寂しげな背中を母と見送り、振っていた手を下げる。鍵を開ける仕草がなんだか大人っぽく見えて、密かに憧れていたのはほんの最初だけ。ゆうくんが俺の本当の弟になれば良いのに。そうしたらずっと一緒に居てあげられるのに。そう母親に言っても笑われるだけだったので、いつしか流れ星を見る度にひとりで夜空に願い事をするようになっていた。
お星さまお願いします。ゆうくんがこれ以上寂しい思いをしませんように。俺の願いを叶えて下さい。あの子が笑顔になれるなら俺はどんなことでもします。
だから、どうか。
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もうすぐ冬の訪れを告げるようなしんとした空気が、眠気でぼんやりとしていた頭を覚醒させる。ウール素材のブランケットを肩に掛け、保温のタンブラーに注いだ熱い珈琲をひと口啜り湯気が立ち昇っていくのを見上げた。宝石箱を全部ひっくり返したような、広い宇宙に散らばる満天の輝き。まるで自分はこの世界ではちっぽけな存在だと思わされるようだった。
それは数年に一度現れる彗星の光だった。今年の流星群は特に大規模なものらしく、数日前からメディアでもこぞって騒がしく報道されている。普段なら幸せそうな親子の愉しげな声が響き渡る遊具は静まり返り、すっかり夜の顔を見せている。遊園地の裏に位置するこの小高い丘は天体観測をするには実はうってつけの場所なのだが、どうにも寂しげな雰囲気の為か、それとも知っている人がただ単純に少ないだけか自分以外の気配が増える事はなさそうだ。それならば都合が良いと、鞄からある物を取り出す。本来ならば夜のデートを楽しむように、彼とここで二人で肩を寄せ合いながら星を眺めるつもりだった。寒いから嫌です、ときっぱりと告げる彼の顔を思い出し独り言のように微笑む。
「そりゃあ大事な大会の前なのに風邪なんか引きたくないよね」
今度彼の為にあたたかいマフラーでも編んであげよう。星空の元で愛を語らうというロマンティックな夢は叶わなかったが、今日は願掛けをするつもりでわざわざバイクを走らせここまで来たのだ。さすがにひとりで過ごすにはここは少し物寂しいので、代わりに彼の形をもじったぬいぐるみを手のひらに抱き寄せる。
ぬいぐるみのゆうくん。通称、ぬうくん。
ゆうくんのファンの子達がSNSでそう呼んでいるのを知り、いつの間にか自分もその名で呼ぶようになっていた。語呂が良いと云うか、このぽやっとした、ちょっと間の抜けた眼鏡を掛けた愛らしいぬいぐるみに凄く似合っている気がする。ごめんね、寒かったよね。バイクの風ですっかり冷えてしまった綿の頭を撫でながら、掛け直したブランケットに一緒に包まる。これは独り言だと分かっているが、どうもこのぬいぐるみにはつい話し掛けてしまうのだ。
「流れ星が落ちて消える前に三回願いごとを唱えるとその願いが叶うんだって。ぬうくんも一緒にお願いしようか」
自分は欲深い方だと自覚しているので、実は願い事はたくさんある。いつの間にか自分の居場所になっていたKnights。アイドルとして仲間ともっと高みを目指したい。これはまだ誰にも相談していないが、モデルとしてもう一度ランウェイを、今度は世界の舞台を歩いてみたい。あと、欲を言えばゆうくんとまた昔みたいに手を繋いで歩きたい。俺の編んだマフラーを首に巻いたゆうくんの姿を想像する。いや、何を願うかはもう自分のなかでとっくに決まっている。
ゆうくんの所属するTrickstarがSSで優勝しますように。それが今の自分にとっての一番の願いだ。自分の夢は後で自分の力で掴み取れば良い。
「ほらぬうくん見てごらん。お星様がいっぱい降りて来たよ」
刺繍が施されたぬいぐるみの瞳に、次々と流れ落ちた星が吸い込まれて行く。その夜は彗星が尾をひくように、沢山の星が空から地上へと降り注いだ。
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(寒っ…)
防寒対策はしていたつもりだが長時間外に留まっていたせいか、やはり昨夜の冷たい風にだいぶ体が堪えたらしい。まだ起床時間ではないがベッドのなかで微睡みながら身体を捩っていると、足の先に何かが触れた。すべすべとしたやわらかな感触が気持ち良くて、無意識に足を絡ませる。夢を見ているのかな。程良いぬくもりが心地良い。でも夢にしてはリアルすぎる。まだ少し眠っていたいが、ぬくもりの正体が気になるので重い瞼を無理やりこじ開ける。開いた視線の先には枕の隣に眠る人形のように美しく見知った顔がそこにあった。
(あれ…ゆうくんだ。ああ、眼鏡が無いとやっぱり綺麗だな)
邪魔なフレームのない素顔を見るのは久々で。長い睫毛が寝息とともに動く様をしばらく眺めていたが、ふと目線を下げるとなだらかな曲線を描いた鎖骨が視界に入り驚いて飛び起きた。
「なっ…!なんでゆうくんが俺のベッドで寝てるわけ…?」
しかも、裸で。思わず自分の姿も確認するが、寝る前に着替えたパジャマのままでそれはそれで少し残念な気持ちになる。確か昨夜は家に帰ってからすぐにお風呂に入って、本当はいけない事だけど髪も乾ききらないうちに疲れてそのままベッドへと雪崩れ込んで。その後の記憶がない。
昨日あった出来事を思い出そうと寝癖で跳ねた髪をぐしゃぐしゃに掻き回していると、薄く開いた唇から艶っぽい吐息が漏れ、緑の色を帯びた瞳が目を醒ました。
「ん…いずみさん…おはよぉ」
目を擦りながらゆっくりと起き上がる一糸纏わぬ生まれたての姿を、カーテンの隙間から差し込んだ朝の木漏れ日が照らす。自分を見てふわりと微笑むその背中に、白い天使の羽が生えた気がした。一瞬で消えてしまったそれは夢なのか、幻なのか。
あまりに眩しく目を逸らせずにいると、夢とも現実ともつかないゆうくんが大きな瞳をぱちくりと瞬かせ、不思議そうに首を傾げた。
「いずみさん、おはようのちゅうは?」
「へ?」
「いつもみたいにおはようのちゅうしてくれないの?」
いつの間に自分達は朝の目覚めのキスをする仲になったのだろうか。今まで妄想することはあったけれど、それが叶った事など一度も無い筈だ。憶えのないたった数時間の間に、彼と自分の間に一体何があったのだろう。俺の事が好きなあまり気持ちを抑えきれないゆうくんが裸で夜這いを仕掛けて、なんて都合の良い解釈をしてみたけど、それにしては状況が全然追いつかない。しばらく家族が不在な分、戸締りはいつもより念入りにしていたからだ。そんな事を考えているといつの間に傍に近寄って来たゆうくんが薄紅色の形の良い唇を口づけを強請るように差し出してきた。どんな砂糖菓子よりも甘いであろうその唇に思わずゴクリと息を飲む。ドキドキと心臓が破裂しそうなほど騒いでいるのが自分でも分かった。
(これは…キスしても良いって事だよねぇ?)
頭の片隅に辛うじて残っている理性が自分に問い掛けるが、それに気付かない振りをする。花の蜜に吸い寄せられるように体が動いて、滑らかな肩に手を掛けたその時──。
「あれ?」
「ど、どうしたの?」
もうすぐ唇が触れるというところでゆうくんが素っ頓興な声をあげた。思わず動揺して声が裏返る。
「いずみさん、ちいさくなった?」
頭を鈍器で殴られたような激しい衝撃を受けた。やはり揶揄われていたのかと思うと虚しさが一気に込み上げて来る。何が目的なのか期待を煽る様に裸にまでなって。俺が唯一、気にしている言葉をゆうくんの口から聴きたくなんかなかった。
「どうやって家に入ったのか分からないけど、冗談にしては度が過ぎるんじゃないの。ゆうくんは俺を揶揄うのがそんなに楽しい?」
「ゆうくん?いずみさんなにをいってるの?ぼくはゆうくんじゃないのに…」
つい自暴自棄になり冷たい言葉を浴びせてしまう。ところがゆうくんは取り繕うわけでもなく、ぐっと身を乗り出してきた。ぺたぺたと顔を触られる。
「ち、ちょっと」
向かいあわせの瞳に自分の姿が映っている。ゆうくんは焦る俺に構わず、自分の姿を観察している様で何だか鏡にでもなった気分だった。先までショックを受けていたのに、この顔に至近距離で見詰められると心臓が跳ねて落ち着かない。結局どんな酷いことをされようとも自分は彼の事が好きで仕方ないらしい。ただ、今日の彼はやはりどこか変なのだ。見詰め合うのに飽きてしまったのか、今度は部屋全体を物珍しそうにきょろきょろと見渡したり、自分の手のひらを握ったり離したりと不可解な行動を繰り返している。その目も、口元も、しなやかに伸びた手足も。絶対に見間違う筈がないのに、どこか別人の様な違和感があった。しばらく何かを確認するかのようにあちこちと触っていたゆうくんは突然こっちを振り向いたかと思うと、勢い良く俺の胸に飛び込んで来た。その衝撃に耐えきれなくてベッドのスプリングが大きく音を立てる。
「いずみさん!ぼく、にんげんになってる!!」
まるで星を散りばめたような、輝いた瞳。
すりすりと仔猫のように擦り寄せる熱に、一瞬意識が遠退くのをぐっと堪えた。にんげん!にんげん!と嬉しそうに声を上げてはしゃぐ彼をどうにかしなければいけないからだ。これは相当な熱があるのかもしれない。
「ゆ、ゆうくん落ち着いて。俺の知ってるゆうくんは生まれてからずっと人間でしょ。もしかしてどこか体調悪いんじゃないの?それなら一緒に病院に…」
「もぅ、だからぼくはゆうくんじゃなくてぬうくん!」
「ぬ、ぬうくん?」
「…きのういずみさんぼくにおしえてくれたでしょ?おほしさまに3かいおねがいするとねがいをかなえてくれるって。だからぬうくんにんげんになりたいっておほしさまにおねがいしたの」
確かに、教えた憶えがある。でもそれはその場に居た自分とぬいぐるみ以外誰も知らない筈で。そう言えば、一緒に眠っていたはずのぬいぐるみの姿がどこにも見当たらない。
「ずっといずみさんとおはなしがしたかったの。いつもぼくのことをたいせつにしてくれてありがとう」
ぬいぐるみが人間になるなんて。そんなお伽噺のような話が現実にあるわけがない。でも、自分のことをぬうくんと名乗る目の前の彼は、狭くて暗いショーケースの中から僕を見つけて、連れ出してくれてとても嬉しかった、と誰にも話したことの無い秘密を確かに言ったのだ。そんな彼からはいつもの陽だまりの香りではなく、自分が愛用する香水の匂いが染み付いている。
「本当にぬうくんなの…?」
「うん!」
あまりの状況にしばらく声を出せずにいると、先程まできらきらと輝いていた彼の、ぬうくんの表情が見る見るうちに曇り始めた。
「もしかしていずみさんうれしくない…?」
今にも泣き出しそうな声だった。
流れ星の奇跡が本当にあるのかはよく分からない。けれど、もしそれが本当ならば、自分の為にその願い事を使ってくれたこの子が悲しい想いをするのだけは間違っている。
「…ううん。ちょっと驚いただけ。俺もぬうくんとお話し出来るのすっごく嬉しいよ。お星様に感謝しないとね」
良い子、といつもぬいぐるみにしているように頭を撫でてあげると、ぬうくんは声を上げて喜んだ。見た目はゆうくんなのに言動や仕草が子どもみたいで、何だか昔を思い出し少し懐かしい気持ちになる。体が冷えてきたのか、ぬうくんがくちゅんと小さなくしゃみをした。正直嬉しい姿だが、ぬうくん相手に変な気持ちになるのも困る。とりあえず服を着せてあげないと。
「風邪を引いたら大変だからとりあえず俺の服を着ようか」
サイズはそんなに変わらないはずだから大丈夫と、下着から靴下まで一式揃えて手渡すとぬうくんはあたらしいお洋服だと喜んだ。思い返すとぬうくんは家に来てからずっと青のユニット衣装1着のままだ。一緒に寝たり話し掛けたりはするけれど、さすがに着せ替えの趣味まではない。
「ところでこの《おようふく》はどうやってきるの?」
ぬうくんはおもちゃのように下着のゴムを引っ張っぱって遊ぶと、にこにこと愉しそうに笑うのだった。