こんな世界があってもいいのかもしれない


ねぇ、ゆうくん知ってる。一度身につけたものにはたましいが宿るんだって。だから今着ているこのお洋服にもありがとうってちゃんとお礼を言わないといけないの。ママがそう言っていたと、隣にいる少年がちいさな手でぴんと皺をのばしている。のろのろと着替えていた真は普段から兄のように慕っている少年の言葉に一度首を傾げたが、よくわからないまま、うんと返事をした。それは仕事柄、借りたものを大切に扱うようにと大人が体良くいい聞かせるための例え話だが、おさない真のあたまのなかで西洋のニンフのような愛らしいものではなく、どちらかといえば妖怪にちかいものがうまれていた。じゃあぼくが今日はいてきた赤いくつもお礼を言っていないからどこかに歩いて行ってしまったのかもしれない。真のあたまのなかで、赤いくつが歩き回っていると、ゆうくんはやくと先に着替え終えていた少年に首元のボタンをとめられた。もちろん撮影後もはいてきたくつはそのまま残っていた。その日の夜、真はこっちにおいでと歩くちいさな赤いくつを裸足で追いかける夢を見た。ようやく捕まえたくつをはくと足が勝手に踊りはじめた。真は驚いて大きな目をぱちくりさせたが、なんだか楽しくなって笑った。そうだ、このままおにいちゃんに会いにいこう。きっとよろこんでくれる。おねがいします。どうかぼくをおにいちゃんのところまでつれていってください。真は夢のなかで大好きなおにいちゃんと手を繋ぎ、ひと晩じゅう踊った。そうして朝になるとその夢もすぐに忘れてしまった。





真は連休にどこかに行くのか。今日もさむいなと赤い鼻先を隠すようにマフラーを寄せながら真緒が尋ねた。枯れ葉が並木通りを埋めつくし、歩くたびにかさついた音をたてている。真緒としては軽く聞いたつもりだが、真のほうはというと、どう答えたらいいのかすこし困っていた。それというのも、強引に詰め込んだ仕事がようやく落ち着き、ねぎらいのためにと事務所がTricksterにすこしばかりの休みをくれたのだが、皆と違って真にはこれといった立派な予定がなにもなかったからだ。母親にも先週顔を見せたばかりだし、どちらかと言えば自分は外でアクティブに行動するよりも、ゲームの画面と向き合うほうが性分に合っている。
「僕は寮でたまったゲームでもして過ごそうかな」
「そうか。ゆっくり休めよ」
しばらく実家に帰るという真緒に手を振って十字路を別れる。自分もそろそろマフラーを出そうかな。真はいたずらに首筋を擽る冷たい風を振り切るように衿もとを縮こませながら寮へと急いだ。


まだ誰も帰ってきていない静まり返った室内でクローゼットを開ける。落ち着いた色合いの多い冬物のなかで、とびきり派手な色が真っ先に視界に飛び込んできた。しまい込んでいた棚の奥に手を伸ばし、記憶の糸を手繰り寄せる。最後にこれを身につけたのはショッピングモール以来かもしれない。衣更くんのマフラーみたいに、もっと普段使いの出来る色にしてくれたら良かったのに。厚手の毛糸地にはI LOVE YOUと大きな白文字が編み込まれており、しばらく顔を見せていない贈り主に唇を尖らせる。向こうに渡ってからも欠かさず長いメッセージが送られてくるのが真にとっても日常になっていたが、最近は途切れ途切れで、昨日はとうとう連絡が来ることはなかった。以前事務所の企画で真は単身でイタリアに行ったことがある。東京と同じような気候だろうと軽く考えていたが、実際現地に足を運んでみるとネットで得た情報とは違い、熱のこもったレンガのでこぼこ道は思いのほか真の体力を早々に削った。今の季節も暑くて嫌だけど、サマータイムが終わると夜は気温がぐっと下がるから体調を崩さないようにするのが大変だと、昔と変わらずかいがいしく真の世話をしてくれた人物の言葉を思い出す。ちょうどいま時期だろうか。なんとなく首筋が寂しくなり、手に取ったマフラーをそっと巻いてみた。はじめてこれを身に着けたときは贈り主のにおいをからだに纏うようで変な気分になったが、いまはもう防ダニ用の芳香剤のかおりしかしない。なんだか途端に虚しくなり、誰かが戻って来る前に外そうとマフラーに指をひっ掛け、ぴたりと動きを止めた。正確には止まったというのが正しいのかもしれない。
(あれ……?)
そんなに強く結んでいないはずなのに、マフラーが外れない。もがけばもがくほど、首に縫い付けられている気がする。
「なんで、どうして?……うわぁっ!?」
真が首筋にじわりと嫌な汗をかきはじめると、今度は突如手足が勝手に動きはじめた。引き出しを開け、パスポートや貴重品をつかみ無造作に鞄に詰め込んでいく。もちろん真にそんな意思はなく、まるで見えない糸に操られている人形のように奇妙な感覚だった。困惑している間にもからだは勝手に動きまわり、部屋の外へと出ようとしていることに気付いた真はぎょっとして声をあげた。
「ちょっと待って!」
真の声を無視したからだが玄関に座り込み靴ひもをきつく縛り直していると、廊下から誰かの靴音が近づいてくるのが聞こえた。ちょうど同室の千秋が戻ってくる頃合いだった。開いた扉の隙間からは希望の光が射し込んでいる。
「遊木?どこに行くんだ」
良かった、これで助けて貰える。真は顔を上げ、この不可解な状況を説明しようと口を開くが、その唇から出て来た声は確かに自分のものなのに、同時に別人のものでもあった。
『泉さんに会いに』
いま、自分はなにを言ったのだろうか。慌てて口を塞ごうとするが、その手は変わらず靴ひもを縛り続けている。
「そういえば遊木はしばらく休みと言っていたな。向こうで瀬名も頑張ってるみたいだし、俺からもよろしくと伝えておいてくれ」
『はい』
(ちがう……!!)
笑顔を浮かべる千秋に助けを求めようとすると、無駄な抵抗はするなとでもいうようにマフラーがしゅるりと真の喉を締めつけてきた。一瞬、視界真っ暗になり恐怖にひゅうと息が詰まる。もがくさまを隠すように靴はくるり向きを変え、とんと軽くステップを踏むと、いってきますと元気に走り出した。正義の味方の姿が遠ざかるのを背中に感じ、真はすがるような瞳をしたがその視線はもう届くことはもうなかった。



この辺り一帯は芸能関係者が多く、交通手段として必然的にタクシーを利用することも多い。手を上げるとすぐに一台のタクシーが止まった。運転手が今日は誰だとミラー越しに真の顔を覗き見るが、どうやら知らない顔のようですぐに興味をなくしどちらまでとお決まりの定型文を無造作に投げつけた。
『空港まで』
本当に行くつもりなんだ。走り出す車のなかで真はぎょっとしたが、やはりそうなのかと同時に腑に落ちた。このマフラーは真のからだを操って自分を生みだした彼の元へと行こうとしているのだ。記憶のなかで懐かしい会話が聴こえる。どうしてこんな派手な色にしたの。これは照れ隠しでそっぽ向いた自分の声。俺とゆうくんを繋ぐ運命の糸だからあかい糸に決まってるでしょ。俺に会いたくなったらこのマフラーを巻いてね。いつでもどこでもゆうくんの元に駆けつけるから。これはいつも冗談なのか本気なのか分からないあの人の嬉しそうな声。そういえば昔どこかで誰かにものにはたましいが宿ると聞いた憶えがある。なぜか昔から自分にだけ度を超えた愛情と、蛇のようなつよい執着心を持つ彼の作り出したものなら、たましいのようなものが宿ってもおかしくないと真は思った。あるいは、大切に扱わない自分に対する呪いか。いちおう神秘部に所属しているぐらいだし、非現実的なものに憧れはあるが実際自分の身にふりかかると話は別だ。ここに来るまですれ違うひとに助けを求めようとする度に呼吸が出来なくなって苦しいし、どう猛な蛇を首に巻きつけている気分だった。幸いなことに時間もあるし、こうなった本人に直接会って呪いをといて貰うしかない。真はなかば覚悟を決めて柔らかいシートに疲れたからだをおとなしく預けた。窓からは陽に反射した波がゆらゆら煌めいているのが見えたが、これからこのひろい海を渡るのかと思うと真は気が重く憂鬱でしかなかった。ため息をつく真の頬をちろちろと蛇が舌で撫でた気がした。



久しぶりに訪れたトスカーナ色の街並みは肌寒く、スタイリッシュな帽子や手袋を身に着けた人たちがブーツの踵を鳴らしながら歩くだけで映画のワンカットのようだと、真はずり下がっていたリュックを持ち上げた。着替えもなにも入っていないので中身は軽いが、16時間のフライトとトラムでの移動でからだが鉛のようにずしりと重かった。途中で機内食も食べたが、それでも満たされずなんだかぽっかりと穴が空いたような気持ちだった。いつも彼はこんなに大変な思いをしているのか。そんなことは微塵も感じさせない笑顔を思い浮かべながら自分に駆けよる姿を思い浮かべる。海外は何度か行ったことがあるが、その時は必ず誰かと一緒に行動をしていたので飛行機のなかでも不安であまりよく眠れなかった。だが真の心配とは他所に操られているからだは普段どおりに器用に携帯を使いこなし、トラブルもなくここまで来れたことにほっとした。いまも知らない道をまっすぐ歩いているが、だいたい自分は彼がどこにいるのかすら知らないのだ。ただ、会える自信はあった。この赤い糸が運命だというのなら、マフラーが彼のもとへと導いてくれるだろう。

しばらく歩くとこじんまりとした広場で見慣れたおおきなレフ版をかかげているひとの輪を見つけた。素朴であたたかみのある壁と緑の窓枠のしたで中心となっている整った顔の人物に、通り過ぎるひとがなにかの撮影かと好奇の視線を投げつけている。真にはそれがだれかすぐに分かった。泉だ。泉が目の前にいる。外での撮影風景は見慣れているはずなのに、現地のチームに囲まれている彼はなぜか別人のようで、思わず視線を伏せた。こんなに近くにいるのに、どうして遠く感じるのだろう。さっきまで好き勝手に歩いていた足は、魔法が切れたようにぴたりと動かなくなってしまった。どうせならそのまま思いっきり名前を叫んでくれればいいのに。自由になった手でぐいと糸を引っ張ってみるが、変わらず首に巻きついたマフラーはなにか言いたげにしんと黙っている。眼鏡のしたでぐにゃりとレンガの道が歪み、気づかれないよう背中を向けて歩きだそうとすると後ろから突然腕をつかまれた。
「ゆうくん!どうしてここに?もしかして俺に会いに来たとか」
「泉さん……」
振り向いた真の表情を見た泉は御空色の瞳をおおきく見開き、ちょっとこっちにおいでと真の手をやさしく握って歩きはじめた。懐かしい体温にマフラーが揺れて動いた。


仕事を抜けて大丈夫なのかと心配する真に、いまは休憩中だからと泉が連れてきたのは広場にある古びた教会だった。派手な装飾の観光地と違い、礼拝に訪れている地元のひとの数も少ない。きっとこんな状態の真を誰にも見せなくなかったのだろう。普段は誤解されやすい性格だが、彼が本当はとてもやさしい人なのを真は誰よりも知っている。天井のステンドグラスのしたで、しろいガウンを着た天使が微笑んでいる。慈悲深い表情をしているが、真にはここでは嘘は許さないと天使に言われているように感じた。それはまるで最後の審判を下されている気分だった。
「こんなこと言っても信じて貰えないかもしれないけど」
自分でも嘘のような話だと思いながらも、真はここまで来た経緯をぽつりぽつりと話しはじめた。泉も最初は驚いてはいたが、実際に自分のあげたマフラーが真を苦しめている姿に眉を寄せた。泉でも外せないというのなら、いったいどうすればこの呪いがとけるというのか。
「本当だ、びくともしない……ゆうくんちょっとここで待ってて。ヘアメイクにハサミ借りてくる」
「ハサミ?」
落胆していた真は物騒な単語に驚いて顔をあげた。
「こうなったら着るしかないでしょ」
着る?マフラーを?冷静な泉の言葉に、大人しく黙っていたマフラーごとびくりとからだが震えた。それを不安と受け取ったのか、大丈夫だよ、おにいちゃんが絶対に助けてあげるからねと泉は安心させるようにちいさく微笑むと、強ばった真の手をやさしくさすってくれた。泉がまた離れてしまう。遠ざかる体温に行かないでと無意識に手を伸ばしていた。泉が振り向く。
「ゆうくん?」
「……いやだ。絶対に切りたくない」
自分の意思で一歩踏み出し、引きとめた背中に抱きついた。こんなふうに自分から触れたのは何年ぶりだろうか。子供の頃からいつも自分を守ってくれた背中だった。泉の匂いとぬくもりに、全身に血が駆けめぐるように感情がひろがるのがわかった。そこで真は重い呪いをかけていたのは自分のほうだということにようやく気づいた。そして呪いをとく鍵をもっているのは、かけた本人しかいないということにも。
「僕はただ、泉さんに会いたかっただけなんだ」
ずっと喉に絡まっていた糸が解け、ふわりと床に落ちた。こんなに単純な言葉だったのに、どうしてもっと素直に伝えられなかったんだろう。僕って本当にばかだなぁ。自分を抱きしめてくれる腕のなかで真はなんだか可笑しくなり、口許をゆるめて笑った。

「首に痕ついちゃったね」
長時間巻いていたので喉にくっきりとあかい痣が残っていた。きれいな肌なのに、と残念がる泉に真はマフラーで隠すから大丈夫だよとふたたびマフラーを巻き直した。
「こわくないの?」
「こわくないよ。だってこれは泉さんが僕のために編んでくれた運命の赤い糸で出来ているからね」
手を繋いで教会の扉をひらくふたりの後ろ姿を、しろい天使の像が微笑みながら見守ってくれた。外に出ると風が吹いた。ひと恋しくなる肌寒い秋の季節だった。


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