君とつくる物語り



緑の葉の隙間から降り注ぐ山鳥の歌声を、ニュイは陽射しに霞んだ白い世界のなかで湿った草を踏み締めながら聴いた。何処か耳に馴染んだ朝の歌とよく似ている。今はもうとっくに正午を過ぎているのに奇妙な感じだ。そんなことを考えながらニュイは視界の端でふわふわと揺れ動くレースの裾と離れぬよう日傘の持ち手を合わせた。
「やっぱりマタンも一緒に来るべきだったのよ」
小さな箱をしっかりと胸に抱えながら目の前を歩く主が、バターミルクの頬を染め不満げに呟いた。
「仕方ないですよ。彼にはこの後大事な執務がありますので」
「何度も聞いたわ。でもこの子を見送る大事な日なのよ。少しぐらい抜け出したっていいじゃない。この子を育てたのはマタンなんだから」

お嬢様。今日は陽射しが強いのでこの帽子を。ニュイと一緒にどうか私の分までこの子の旅立ちを見守って来て下さい。

暫くツンと唇を尖らせていた主だが、結局顎の下のリボンを結ぶ彼に渋々宥められニュイを連れ、外の世界へと踏み出た。
心地よい風が悪戯にリボンを掠めながら通り過ぎていく。一面に広がる海原の色をした、久方ぶりに晴れた綺麗な空だった。











淀んだ雲から大粒の雨が花壇にぽつぽつと泥濘を作っていく。変わり映えのしない窓の景色を繰り返し眺めていたちいさな主は、レッスンの合間にこっそりと抜け出してはマタンの部屋を訪れた。すっかり暇を持て余していたのか、鳥籠相手に夢中で話しかける主に彼は溜め息を吐き、鑑賞するにあたって幾つか条件を出した。
此処に遊びに来ても良いがレッスンを疎かにしないこと。
この子に慣れている自分かニュイの手の空いている時間帯だけにすること。

そして、絶対に柵を開けないこと。

「だいじょうぶよマタン。私、約束は絶対に守るわ。だからこの子ともっとお話をさせて。ね?」
ひばりが首を傾げながら一緒に頷く。情が移ると困るのであまり会いに来てはいけないと一概に言えない自分はつくづく主に甘いとマタンは思い、同時に不安を憶えた。


そして数日後、主の悲鳴に駆けつけた彼は自室の扉を開き、目にした光景に言葉を失った。
中には混乱しているのかばさばさと羽毛を撒き散らしながら壁伝いに動き回るひばりと、顔を真っ赤にして泣いている主と、机の上に乗り壁に向かって必死に手を伸ばしているニュイの姿があった。雨避けに鎧戸を閉め切っておいて良かった。せっかく治りかけた翼が窓から墜ちてしまったらそれこそ最悪の事態を引き起こしかねない。
ただ、すぐにそれは自分の思い違いだとマタンは感じた。ふらふらと覚束無い動作でそれでも懸命に羽根を藻掻く姿に、彼は翼を広げ、自由自在に空を泳ぎ描く一羽の鳥のシルエットを見たからだ。
雨が止んで、虹の祝福が現れたその日に、この子を元いた場所に帰してあげましょう。
鳥籠の柵を閉める後ろ姿に、たっぷりと叱られた二人は黙って彼の提案に頷いた。
部屋には少女の鼻を啜る音が、雨に混じって響いては消えた。









「ここでこの子を見つけたの」
大きな老樹を見つけた主が立ち止まり、ゆっくりと箱を開く。
「さようなら、愛おしい子。離れていてもあなたの祝福を祈っているわ。どうか、幸せに」
凛とした真っ直ぐな声だった。
どうやら泣き虫で我儘だった少女は、自分の知らない間に少し大人になっていたらしい。ニュイは微笑むと影を覆っていたアーチの傘を避け、きょろきょろと辺りを探るように首を回しているひばりの姿を見つめた。陽に透けた羽根が何時もより煌めいて見える。何時しか記憶は薄れ、この黄褐色の彩りすらも忘れてしまうのだろうか。
ひばりが少女の手により空に放たれる。
自由を取り戻した翼がぐんぐんと空の海を掻き分けながら、高く、高く、閃き、飛翔していく。ニュイは手を翳しながら、太陽に反射する一羽の鳥のシルエットが見えなくなるまで眼鏡のレンズ越しにちりちりと焼き付けた。
「ニュイはずっと私の傍にいてね」

差しだされた柔らかな手を握り返す。

ええ、もちろん。私達は命を懸けてあなたのお傍にいます。いつかあなたが此処を旅立つその時まで、ずっと。

空っぽになった箱からは優しい朝の歌声が聴こえた気がした。









「どうしたんですかそれ」
「ああ、お嬢様へのお詫びに帽子の羽根飾りでも作ろうと思って」
あの子の落とし物。そう言って微笑むマタンの手には、まだ瞼の裏に焼き付いたままの斑模様と同じものが硝子瓶の中に詰められており、ニュイは驚いた。
「触っても?」
「いいけど。そうっとね」
結局手を伸ばしても触れることの出来なかった羽毛は、ニュイの想像していた感触よりもふわふわと柔らかく、綿毛のように軽い。窓際には空になった鳥籠のシルエットだけがぽっかりと浮かび上がり、部屋には以前のような宵の静けさが戻っている。
雨上がりの空を羽ばたいたあの子は、もうたどり着いただろうか。
「寂しいですか?」
「いや、俺には僕のことも可愛がってくださいって緑の瞳で訴える淡黄色の甘えんぼうの鳥と、手の掛かるお嬢様がいるから寂しくないよ」
「勝手に言ってて下さい」
僕が甘えんぼうの鳥なら、あなたは寂しがりやの鳥のくせに。ニュイは言い掛けて、言葉にするのをやめた。代わりに穏やかな顔をして微睡む彼の形の良い耳元で、朝の歌を囁いて意地悪く起こしてやろうと思った。

翌朝、起こされるのは自分の方だとも知らずに。




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