君とつくる物語り
朝の冷えた露が窓の硝子を曇らせはじめた頃、ニュイは音を立てぬよう廊下を歩いていた。幸いにも昨夜は穏やかな刻を過ごすことが出来たので、白亜の館は一度も目を醒ますことなくひそやかに眠っている。歩くといっても自室からほんの目先ほどの距離なので、直ぐに目的の場所に辿り着いたニュイは手にしていた鍵を慣れた動作で鍵穴に挿し込んだ。静かな廊下にがちりと金属の回る音が響く。
数日前、少しの間留守にすると革のトランクを持ったマタンの背中を見送ろうとしたニュイは振り向きざまに鍵を預けられた。副執事長の彼はまだ幼い主の代行として、頻繁ではないが執事長と交互にここから遠い市街地へと出向くことが時おりある。上等な帽子とフロックコートを身に着け、磨かれた革靴を鳴らしながら部屋を出ていく彼は、元から兼ね備えた美貌と、まだ歳若いが毅然とした雰囲気も相まって、どこから見ても立派な家柄の紳士にしかみえないだろう。
扉の把手に手を掛けたニュイは溜めていた息をおおきく吐いて足を踏み入れた。それは主の居ない領域に侵入するという躊躇いからというものではなく、ニュイ自身この部屋を訪ねることには充分に慣れている。つい先日も戦闘後の高揚感で眠れない互いの熱を鎮めあったばかりで、まだ身体には寝台の感触と彼の匂いがはっきりと残っているぐらいだ。
窓に近づこうとするニュイの気配に気づいたのか、暗闇のなかでじっと眠っていた影が目を醒まし、ばたばたと忙しなく動き出した。
ただひとつだけいつもと違うのは、この部屋にはすでにニュイの他に先客が居るということだった。
「マタンとお散歩をしていたらね、この子の助けを呼ぶ声が聴こえたの」
大広間の扉を開けて主を出迎える準備をしていたニュイとオーロージュは互いの驚いた顔を見合わせた。
小さな少女が大事そうにハンカチに包んだ何かを上機嫌な声で屈んだニュイ達の目の前に差し出す。にこやかな表情をしているが余程泣いたのか、人形のように愛らしい瞼はぽってりと腫れあがり、その傍らには護衛に着いていた筈のマタンがなぜか酷く疲れた顔をして立っている。
白の清楚なレースから現れたのは、頭に小さな冠羽を被せた淡黄褐色の鳥だった。大きさからして成鳥したひばりだろうか。うっすらと血の滲んだ羽毛は襲われでもしたのかところどころ抜け落ち、どうやら雛のように巣から落ちたというものではないらしい。怪我をしてからどれくらいの時間が経っているのかまでは分からないが、ひばりは人間を威嚇する気力も残っておらず、ただ肺から消え入りそうな呼吸を漏らすだけだった。
︎︎ このまま外に放っておけば、おそらく翌朝には土の上で硬直しているか、鷲や他の動物の餌になっていることだろう。ちからの弱い生き物はそれだけで標的になりやすい。残酷なようだがそれは自然では当然の摂理で、人間は不用意に手を出してはいけないのが決まりだ。ニュイはマタンが主を傷付けぬよう、ひとつひとつ言葉を選びながら説明をしてみたが、頑なな主はそれを受け容れず森のなかでわんわんと泣き喚き、心優しい彼を困らせたのだと考えた。普段は厳しい彼だが、純粋な幼い涙に誰よりも弱いことを知っていたからだ。
責任を持ってお前が世話をしろよと、執事長に命じられたマタンは頷いて返事をした。その言葉のなかにはもしもの自体が起こった場合、この少女に命の尊さを教えるのは自分の役割だという重さの意味も含まれている。
「確か先代が使っていた鳥かごが何処かにあった筈だ」
ニュイはひばりの体温が下がらないようにハンカチ越しにちいさな身体を擦る主に良かったですねと声を掛け、オーロージュとともに地下の倉庫へと向かう背中が見えなくなるまでこっそりと眼鏡の奥の視線で追い続けた。
保護をしてから数週間が経過した。傷も体力も回復し、生命に満ち溢れたちいさな身体は、マタンの差し出した指に器用に脚を乗せながら、歌をうたったりと上機嫌に遊んでいる。その神聖な一枚絵のような朝の光景を、ニュイは微笑ましく眺めるのが好きだった。
出来るだけ仕事の前に朝陽をひばりに浴びせて欲しいと頼まれていたニュイは、几帳面な彼の顔を思い浮かべながらこの時間を愉しみにしていたぐらいだ。ところがマタンが発ってからすぐに、ニュイは作戦担当と呼ばれている筈の自分の読みの甘さを思い知ることになった。
閉め切った窓の鎧戸を開き、澄み切った空気と太陽の陽射しを部屋に取り込む。確かマタンはひばりが病気にならないようにと、ゲージをこまめに清潔にしてから餌と水を与えていた。記憶を頼りにまずはひばりを別の場所へと移動させようと、手を伸ばした、その瞬間。
「痛っ」
尖い嘴に指を啄まれ、ニュイは驚いて咄嗟に声をあげた。まるで自分の縄張りから出て行けと言わんばかりに興奮したひばりは、声を張り上げ明らかにニュイを威嚇している。
愛らしい見た目にニュイはすっかり失念していたが、小さな鳥は本来の野生の剥き出しの本能を忘れてはいなかった。ひばりは人に慣れたのではなく、甲斐甲斐しく面倒をみてくれた彼にだけ心を開いていたのだ。
ニュイは彼に信頼をされているのだと浮かれていた愚かな自分を蹴り飛ばしたい気分になった。もし、自分のせいで彼のいない間になにかあったらと考えるだけで戦慄しそうになる動悸をなんとか整えた。
彼はただの部屋の鍵ではなく、掌に納まる程の小さな命をニュイに預けたのだ。
せめてストレスを与えぬようにと少し離れた場所から様子を窺う。餌の食いつきぐあいから食欲は落ちていないようでニュイはほっと胸を撫で下ろした。
初日は悲惨なものだった。せっかく苦労して掃除したゲージは、暴れて散らばった羽毛と、皿から溢れ落ちた餌まみれとなり、朝礼に遅れたニュイは執事長に叱られ朝から散々な目にあった。
こうしてニュイは翌日から夜明け前にひっそりと行動し、扉を開ける度に緊張しながら彼の部屋を訪れる眠れぬ日々を過ごした。彼の部屋でそのまま寝起きすることも考えたが、それでは余計にストレスを与えかねない。おかげで寝不足気味だ。これで真夜中に招かれざる客の相手でもしようものならたまったものではないし、酷い八つ当たりをしてしまうかもしれない。
ニュイがこっそり欠伸をしていると、餌を食べ終えたひばりが朧げな薄明りが広がる窓辺に向かって囀りはじめた。朝を告げる合図だった。
「そうだよね。君もはやく空に戻りたいよね」
一度でもひろい空を飛ぶ自由さを知っている羽根にとって、きっとここは狭く窮屈な世界でしかないだろう。何処までも続く果てしない外への恋しさに鳴いているのだろうか。ニュイはひばりに過去の自分の姿を重ねた。
きっとマタンにとって、怪我をしたこの鳥は自分と同じ様な存在なのだ。
葉の揺れる音に紛れて鳥の囀りが聴こえる。
まだ従僕だった頃、ニュイとマタンは執事長に命じられ、割られた薪を風通しのよい場所へと運び出す手伝いをしていた。深い森の静寂に包まれた白亜の館の近くには急斜面がいくつかあり、子どもの脚には負担が大きい。それでなくとも薪棚との往復は足場も悪く重労働だった。
陽射しも落ち始め、ようやく帰路につけると喜んでいたニュイはふと足元の違和感に気づき、歩くのをやめた。
「どうしたの?」
後ろを着いてきてる筈の足音が突然止んだことを不審に思ったのか、先を歩いていたマタンが振り向きざまニュイに声を掛けた。どうやら足首を捻ったらしい。ニュイは痛みを誤魔化すように笑顔を作り、高く声を張り上げた。
「僕、少し疲れたのでゆっくり歩いて行きます。マタンは先に行っててください」
ただでさえ普段から足手まといなのに、これ以上教育係の彼の手を煩わせるわけにはいかない。ニュイは小さくなる背中を見送るとその場に蹲り、膝を抱えた。ざらついた土と朽ちた葉の感触がいっそうニュイに虚しさを与えた。ここでの暮らしは以前のように飢えの心配はないが、上流階級とは無縁で育ったニュイにとっては息苦しい世界でしかない。厳しい環境に耐え抜いた者だけが、将来この館を任される執事に選ばれると大人たちに聞かされても、幼いニュイには難しくよく分からなかった。
このままここから逃げ出したら、どうなるのだろうか。
白亜の館に来てからこう考えるのは一度ではない。だが、ニュイは考えはすれど、行動に移すことは決してなかった。もし見つかれば叱られるからという真っ当な理由などではなく、一度でも道を間違えると永遠にこの森を彷徨って出られなくなると思い込んでいたからだ。ちっぽけで弱虫なニュイを、鳥たちが木陰に隠れながらざわざわと愉しげに笑っている。情けなさと足首の痛みでじわじわと景色が滲むニュイの視界に、ふいに影が揺らいだ。
「足痛めたんでしょ。見せて」
ニュイはその影が、意地悪な森が自分を惑わせるために魅せた蜃気楼なのだと思った。ここまで駆け上がって来たのか、めずらしく息を切らせたマタンがニュイの足首に井戸水で濡らしたハンカチを押し当てる。火照った熱に冷やりとした感覚が気持ちいい。
「どうして······」
「だって置いて行ったら、ひとりで泣くでしょう」
そう答えるとマタンはニュイを背中におぶって歩き出した。なにか言わなければいけないのに、言葉が縺れて上手く言うことが出来ない。ニュイはせめてもと堪えていた涙が溢れ出ないように、汗で張り付いたシャツに顔をうずめて鼻を啜った。マタンは何も言わず黙って歩き続けた。
今思えば、あの日から、彼は自分にとって特別な存在なのだろうとニュイは思った。
彼の背中と心地よい体温だけがニュイの拠り所となり、ニュイは確かにあの瞬間、自分のなかで作り上げた硬い殻にひびがはいる音をはじめて聴いた。
少し、夢を見ていたらしい。
彼誰時はいつの間にか、ひっそりと東の空に溶けて消えていた。
つぶらな眼差しにじっと見つめられていることに気付いたニュイは、怖がらないでとひばりに声を掛けながら距離を縮めた。まだ触れることは出来ないが、それでも自分の領域に迎え入れてくれる程には信用を得たようだ。小首を傾げてる様はとても愛らしい。
「僕、きみともっと仲良くなりたいな。そうだ、君にだけ僕が知っているマタンの秘密を教えてあげる。彼は、普段はお嬢様に好き嫌いはいけませんと口煩く言っているんだけど、夕食時のスープにエンドウ豆のちいさな実が入っているとね、一瞬、難しい顔をしてからスプーンですくって」
「······へぇ。人のいない間に秘密を共有して愉しむだなんて、随分仲良くなったものだねぇ」
「マタン。帰って来るのは明日の予定じゃ······」
「予定より早く済んだから夜の便で帰って来た。それより、何か変わりは?」
「ありません。この子もお嬢様も良い子にしていましたよ」
「そう」
部屋の主を微笑んで出迎える。手袋の下に隠れた小さな掻き傷は、鍵を掛けて自分とこの子だけの秘密にしよう。
鉄道の揺れが酷くてあまり眠れていないと、疲れた表情で脱ぎ捨てたコートと帽子からは、彼の苦手な社交界の匂いが微かに漂っていた。飾りピンを外し、シャツを詰襟のものに変えて鏡台の前に立つ。張りのある喉元を器用に紐で左右対称に結ぶ様をニュイは鏡越しに覗いた。この館で蝶結びは執事長と補佐役だけがする昔からの風習となっている。ただ留め金具で長さを調節するだけのニュイにとってはちょっとした憧れの仕草だ。
普段あまり見慣れない余所行きの姿も素敵だが、やはり彼にはしなやかな身体で燕の尾を翻す、闇色のスーツが一番よく似合っている。
部屋の主が帰って来たことが分かったのか、ひばりが親鳥を呼ぶ雛のように激しく鳴き始めた。自分がここにいることを必死に主張する姿にマタンは指を差し出し、幾分ふっくらとした羽根に優しく触れた。
「そろそろ飛ぶ練習をしようか」
この子はそのうち飛び立つだろう。穏やかな声で呟く彼の横顔をニュイは見つめた。ここには彼の同期の執事長と、ニュイを含む数少ない後輩しか残っていない。
広い外の世界へと巣立っていく彼らの背中を、飛ばない鳥はどんな気持ちで見送っていたのだろうか。
窓から眺める青い空に憧れ、一度でも翼を広げて自由に飛びたいと思ったことはあるのだろうか。
「僕は貴方の傍を離れません」
「なぁにそれ」
指を絡ませ、くすりと微笑むと身体を引き寄せられた。餌を強請るように唇を合わせる。久方ぶりの手袋越しの熱がもどかしい。
「だって置いていったら、貴方はひとりで泣くでしょう?」
深碧の夜の帳が静かに幕を閉じ、訪れたやわらかな群青色の朝と混じり合う。高い窓から差し込む朝の陽射しに、ひばりは眩しそうに目を細め小さく鳴いた。