スヴニールな時間を貴方に
おかしいなぁ。ここに居る筈なんだけど。
気づかれないようにと、靴の音色を最小限に抑えながら草生を突き進んでいた足を止める。これでも追跡行動は得意なんだけどなぁ。しゃがみ込んで付いたばかりの真新しい痕跡を指でなぞる。どうやら侵入者は見た目とは違いかくれんぼが得意らしい。
「作戦担当、そっちはどう?」
「それが…この方角に逃げたのは間違いないんですけど。すみません、見失ってしまって…」
合流したマタンがぐるりと辺りに鋭い視線を張り巡らせる。絶対に逃がさないと、強い炎を燃え滾らせた瞳で。
──時は遡ること、数時間前。
「動物を触ったなんてバレたらオーロージュに叱られるわ。このことは三人の秘密よ」
「ええ、かしこまりましたお嬢様。さぁ、あまり遅くなってはその執事長に怪しまれてしまうのでそろそろ戻りましょう」
少し興奮ぎみの天使の前に膝まづき、スカートの裾に付いた土埃を丁寧に手で払ってから屋敷へと誘導する。普段は人を寄せ付けない雰囲気の彼だけど、このちいさな天使の前だけは春の柔らかな風のように微笑むものだから。僕はその表情を見るのが好きでにこにこと呑気に後ろを歩いていたら、振り向きざまに《後で奴を追う》と、睨まれながら口の動きを読んだ時は冷たいナイフで刺されたような衝撃を受けた。出来れば、このままここから離れて欲しいだなんて思ってしまう僕はやはり甘いだろうか。機嫌の悪い手負いの猛獣のような今のマタンに捕まればきっと辛い思いをするだろう。本当は黙って見逃してあげたい。
それでも、僕は。
ざわりと風がイタズラに騒ぎだし、陽の光に反射しながら揺らぐ葉の色に紛れて動く黒い影が映り込む。
「…マタン!6時の方向、上です!」
「見つけた…絶対に逃がさないよっ」
ごめんね。彼を裏切ることだけは出来ないんだ。
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「ぶみゃぁぁああああ!!!」
人気のない物置部屋の中で、思わず耳を塞ぎたくなるようなおおきな悲痛な声が響き渡る。外を見張っていろと命令されたけれど、あまりのひどい光景に耐えられなくなりつい目を逸らしてしまう。
「マタン、もう少し優しく洗ってあげて下さい!」
「はぁ?こんなノミだらけの奴に優しくなんて出来るわけないでしょ。…痛っ、このクソ猫っ!!」
バシャバシャとせっかく苦労して運んできたお湯が、泡だらけで暴れるふたりによりみるみるうちに溢れて減っていく。こうなる事が分かっていたから僕が洗いますって言ったんだけど。鈍臭いあんたじゃ逃げられると却下された挙げ句に、外でも見張ってなと脱いだジャケットを預けられてしまった。シャツの袖を捲った腕についた赤い線が痛々しくて、思わずジャケットを握り締める。後でバレたら皺になってると怒られるかもしれない。
「あぁっもう!こんな汚い姿でお嬢様の傍に近寄るだなんて有り得ない!」
普段から身嗜みに厳しい彼からすると、何処から現れたかも分からない泥だらけのイレギュラーなこの侵入者は、美しい白亜の館にそぐわぬ許せない存在らしい。なんだかちょっとだけ昔のことを思い出して笑ってしまう。
「…なに、人が苦労してるのに笑って」
「すみません。昔の自分たちみたいだなと思って。マタンは覚えていないかもしれないけど、僕がここに来た時にマタンは真っ先に僕をお風呂に案内してくれたんです。主人の隣に立っても恥ずかしくないようにまずは身嗜みにも気を遣うことって僕の髪を優しく洗ってくれて…」
「……っ」
「ぶみゃああん!!?」
「マタン!?」
どうしよう。少しでも空気を和ませようと思ったのに却って逆効果だったみたい。
任務を終えたマタンが無言で出て行くのを見払ったタイミングで、すっかり弱々しくなった小さくなった猫が震えながら僕に擦り寄る。
よしよし、怖かったね。でもね、彼は乱暴で怖い人かもしれないけれど本当は優しい人なんだ。ほら、その証拠に見違える程きれいになったでしょ。
もし君が嫌じゃなかったらこれからもここに遊びに来てくれないかな?お嬢様が君とお友達になりたいって。もちろん僕もだし、マタンともきっと仲良くなれると思うんだ。だって君にそっくりな毛並みをしているもの。
「ぶみっ」
僕のちょっと強引なお願いに、マタンの用意していた真っ白リネンに包まれた、彼と同じ色の硝子玉の瞳を持ったシャ・ラヴェ(洗われた猫)が仕方ないなぁと返事をしてくれた。