スヴニールな時間を貴方に


夏の寝苦しい季節が嫌いだと君が言ったから。僕はそんな君のために少しでも涼しい夜風を取り込もうと寝台の錆びた窓枠に必死に手を伸ばす。今日はくっつかないで眠るからと仔猫みたいな声を擦り寄せて。そうすれば君が小言を言いながらもシーツの端を寄せてくれるのをずるい僕は知っているから。僕は透かさずベッドに潜り込んで、いつもの紙の捲れる几帳面な子守唄を聴きながら背中を丸めて瞼を閉じるんだ。
ねぇ、マタン。僕は冬よりも夏のほうが好きだな。だって手足があかぎれないし、お外で睫毛が凍りつくことがないんだもの。それに、冬はなんだか寂しいんだ。窓から向かい入れたやわい風が、葉を踊らせながら僕を優しく包み込んでくれる。まるで揺りかごのように。変だよね。僕はお母さんのぬくもりすら知らないのに。いい加減ひとりで眠れるようになれと君は言うけれど、僕は自分の冷えたベッドよりもこの部屋のシーツの匂いが落ち着くんだ。

君がどうして夏を嫌うのか、本当の理由を僕はぜんぜん理解していなかった。
生温かい夏特有の湿った風が、君の辛い記憶の面影を呼び起こすからだということに。眠れない君の隣で幸せな夢を見ていた幼い僕は気付いてあげられなかったんだ。








-----------------------------



ミモザの香り漂う黄色の春が終わりを告げた。僕は代わるように中庭を涼し気な色に染め上げた花のカーテンに水を与える。これも僕に与えられた大事なお仕事だ。じりつく太陽と追いかけっこをしながら井戸から水を運んだり、害虫の駆除をしたりとこれが子どもにはけっこうな重労働だったりする。生け垣にぐるりと囲まれた広大な緑地帯はちょっとした迷路のようで、館に来たばかりの頃の僕はよく迷子になっては教育係の彼を困らせていた。この白亜の館には匂い溢れる鮮やかなバラ園の他に、時期に合わせた植物や瑞々しい果実が、閉ざされた世界に季節の訪れを教えてくれる。そう、今ならばヘブンリーブルーの朝顔が美しい。遠い昔、この白亜館を建てた主が、故郷の海を渡り嫁いで来た妻が少しでも寂しい思いをしないようにと、国のなかでも腕利きの庭師に命じて作らせたものだと聞いた。その想いは今でもこの自慢の庭園に色濃く受け継がれている。
今年の夏は特に暑い。眩しい光に目を細めていると、上に向かって誇らしげにラッパを吹く鼓笛隊のなかでくったりと列を乱し俯く花を見付けた。昨日までは凛と背筋を伸ばしていた綺麗な花だった。朝顔の命は短い。その名の通り朝の目覚めと同時に開花し、夜が訪れるとまるで役目を終えたようにゆっくりと瞼を閉じる。
ごめんなさい。僕はこころで唱えながらそんな姿を見付けては、蕾に手を伸ばし残酷に命を摘み取らなければならない。本当はそのままにしておきたいけれど、萎んだ花がらを排除することで茎の養分の消耗を防ぐことになるのだと教えられたから。種を残すことが出来るのは選ばれた花だけで、他の大勢の花は次の命を咲かせるために自分の生涯を閉じるのだ。僕はなんだか手のひらの萎びたの花の感覚を捨てることが出来なくて、そっとポケットの中に偲ばせて芝生を踏み締めた。

「ねぇ、マタン。起きてマタン。僕お花の水やり終わったよ」
淡い緑の陰を伏せた睫毛に話し掛ける。返事がないひとりごとを呟く僕を、鳥たちが宿り木の上で首を傾げながら見守っている。燦々とした熱を遮ってくれるこの大きな樹は、広い庭園の中でも彼のお気に入りの場所なのを僕だけが知っている。正確には勝手に跡を付けて怒られたのだけど。ゆらゆら揺すっても一向に目覚める気配のない青銅の陶器のような顔色を覗き込む。こうして黙ってるとどこかの国の王子様みたいだ。少し休むから庭の手入れが終わったら起こせと彼に命じられた。マタンは言わないけれど蒸し暑い夜のせいなのか、もしかしたらよく眠れていないのかもしれない。そうでなければ幾ら午前の慌ただしい業務が過ぎたとはいえ、こんなところで寝息を立てるだなんて珍しいんだ。普段あまり見る事の出来ない寝顔をもっと観察していたいけれど、そろそろ起こさないと僕は後で泣いて後悔することになるだろう。
「起きないと僕、君にいたずらしちゃうよ…?」
いつもの冴えた瞳はそれでも開くことはなくしんと黙ったままだ。僕は好奇心と一緒に微笑みながら膨らんだポケットに手を差し込んだ。ひやりと指先が冷えた感触がする。
閉じた瞼に、朝顔の雫をひとたらし。いつも難しい表情をしている君に、もっと笑顔が増えるように僕が代わりに聖なる泉に祈りを捧げてあげましょう。くすくすっ。ひとしきり鼻や瞼をくすぐって遊んでも、耳元で笑い声を掛けても胸元で綺麗に組まれた指は硬く、動き出す気配がまるでない。僕はなんだか彼がこのまま目を覚まさないんじゃないかと途端に不安になって。

彼の胸に耳を押し当てて、心臓の鼓動を聴いた。

「……雑なやり方で勝手に人を葬るな」
ドクン。跳ねたのは自分の心臓の方だった。ブラウスに染みが出来たらどうすると、不快な表情で朝顔を手で払う姿に、僕は思わず自分の心臓を落ち着かせるようにぎゅっと握った。
「だって何度も声を掛けたのにマタン起きないんだもの。それに僕お葬式見たことないから正しいやり方なんて知らない」
渇いた喉から誤魔化すように声を絞り出す。ただ寝ているだけなのに、君が死んでしまったのではないかと。恐くて目の前が急に真っ暗になっただなんて、彼に知られてまた子ども扱いされるのは嫌だ。
「そうか。この館に居る限りニュイもそろそろ知っておいた方がいい年齢なのかもしれないね」
マタンはそう言って、少し何かを考え込んだ後に言葉を続けた。僕はそのまま黙って彼の声に耳を傾ける。何処か、遠い。僕の知らない、虚ろな瞳を見つめながら。
「森を抜けた東の方角に狭い馬車道があるでしょ。本来なら厳格なカトリックは教会で葬儀のミサを執り行う。でもここは市街の教会まで遠いから遺体を運ぶのにどうしても時間が掛かってしまう。冬は道が無くなるし、特に真夏は遺体が腐敗しやすいから厄介だ。だから余程のことがない限りは急いで馬車を飛ばして神父だけ来てもらうんだ」
深い山あいに閉ざされたこの土地は、夏は鬱蒼と茂った森が、冬は険しい雪道が侵入しようとするものを拒絶するように阻む。どうしてこんな不自由な場所に白亜館を建てたのか。最初に馬車で連れて来られた時、僕はあまりの大きさと厳重な門扉にお城と勘違いしてしまったくらいだ。そんな僕を見た旦那様は、先々代の主は厳しい人だけど家族をとても愛していたと聞く。だから貴族の同士の戯れに疲れた彼は、家族とゆっくり過ごせる安息の地を探していたのかもしれないねと、緊張で怯える僕の不安に優しく微笑みかけながら迎え入れてくれた事を今でも鮮明に憶えている。
「神父様が来た後はどうするの?」
「黒の喪服に身を包んで死者を弔う為のレクイエムを皆で斉唱する。

《主よ、永遠の休息を彼らに与えたまえ。耐えざる光で彼らを照らしたまえ。》

勘違いしてはいけないのはレクイエムは魂を鎮めるものではない。亡くなった者の生前の罪を軽減してもらう為なんだ。そうして神の許しを得た者だけが光の回廊へと旅立てる。例え肉体が滅んでも、その魂は永遠のものとして神の元で生き続ける。…というのが俺の知っている神父の教え」
「じゃあもし神様に許して貰えなかったら?」
「もちろんすべての魂が空に還れるとは限らないし、それだけじゃない。この世に強い心残りがある魂は残ると俺は思ってる」
僕はそれが、あの館内を彷徨う幽霊のことを指しているのだとすぐに分かった。夜が寝静まりうとうとと本を捲っていると、時おり靴音とともに黒い影が現れては、蝋燭の炎を悪戯に揺らして僕のことを脅かしにやって来るのだ。僕はその度にお前なんか怖くないもん!と叫んではマタンのベッドに潜り込んでいる。マタンはあまり怖がるなと言うけれど、もしかしたらあの幽霊も大切な何かを探していて空に還れないのかもしれない。だとしたら、それはあまりにも寂しい。寂しくて、悲しい。

「斉唱が終わった後は、安息の祈りを込めた聖水を遺体に撒く。それから神父が祈りの言葉を捧げて、生前愛用していたロザリオや十字架を胸の上で持たせる。ニュイも持ってるでしょ?」
「うん」
神様に祈りを捧げる時に使いなさいと。旦那様が僕に与えてくれたミルク硝子で繋がれた、手のひらにすっぽりおさまる十字架には小さなイエス様が磔にされている。
「最後に遺体の周りを花で飾り、棺に蓋をして墓地まで葬送する」
「葬送?」
「最期のお別れをして皆で送り出すってこと。まだ墓地の場所はニュイには教えられないけれど、主人に最期まで使えた者は見晴らしの良い場所に丁寧に埋葬されるから安心しな」
「埋めちゃうの……?寂しくない?」
「寂しくないよ。もう眠っているから」

冷たい土のなか。瞼を開くとそこは真っ暗で、どこまでも続く闇だ。声を上げても、泣き叫んでも、暗闇に取り残された僕は永遠にひとりきり。棺に横たわる自分の姿を想像して僕は途端に怖くなった。だってマタン。僕のロザリオは君の大事に握り締めているものとは違う。僕の十字架は本当は何も入っていないただのからっぽの器で。僕は、神様に見捨てられた子なんだ。







夢のなかに白い足跡が刻まれてゆく。

僕は靴が脱げたことにも気付かないで、息を切らしながら裸足で馬車を追い掛けている。これは、僕が時おり見るこわい夢。そして、幼い頃の記憶。

静かな雪の降りしきる日だった。モミの木には赤い林檎が飾られ、どこからとも無く子どもの愉しげな聖歌が冬の街に流れだす。僕は前の旦那様の使いで人混みのなかを歩いていた。街は神様の誕生を祝う人達が忙しそうに動き回り活気に溢れている。帽子の仕立て屋の前を通りがかった時だった。かじかむ手に白い息を吹きかける。チリン。天使の鈴の音が聴こえた気がした。瞳のなかを香水の匂いを引き連れた金色に結われた糸がゆるやかに流れ、馬車のなかへと消えていく。僕と同じ髪の色だ。大きな羽根飾りで顔はよく見えなかったけれど、僕はなぜだかその綺麗で上品な人を自分の母親だと思った。神様に祈りが届き、まだ見ぬ母が迎えに来てくれたのだと。僕は気付いたら走り出していた。硬いパンの入った紙袋が雪の上で鈍い音を立てる。
《おかあさん!》
《おかあさん!》
冷たい氷の粒が、容赦なく頬に突き刺さり視界を遮る。それでも僕は走った。足が砕けそうになるくらいに必死に走った。
《僕に気付いて!おかあさん!》
しばらくすると店の前で馬車が止まった。良かった、気付いてくれたんだ。苦しい、息が出来ない。でも、もしも。もしも、母のぬくもりに抱き締められたならば。僕はそれだけで涙を流し、凍てついた心と身体は再び息を吹き返すだろう。
でも僕に与えられたのは、焦がれたぬくもりではなく、ガラス窓に隔てられた残酷な現実だった。
《嫌だわ汚らしい子っ…あっちに行きなさい!》
それは僕のよく知る大人たちと同じ、蔑んだ瞳。言葉の出ない僕を従者が乱暴に雪の上へと突き飛ばす。
神様は僕の願いを聞き入れてくれなかった。いや、最初からそんなものは無かったのかもしれない。僕はきっと産まれた時から神様に嫌われているんだ。だからおかあさんも僕を愛してくれなかったんだ。振り返ると降り積もる雪が足跡をかき消している。戻る道すら失った僕はこれ以上涙が零れないようにゆっくりと瞼を閉じた。眩い雪景色が、漆黒の暗闇へと変わってゆく。
その日から僕の世界には、神様はいなくなった。






「こんな暗いところにひとりぼっちだなんてかわいそうだよっ。僕ならきっと耐えられない…」
「ニュイ…」
「僕ね、マタンにずっと黙っていたことがあるんだ。僕、本当は神様なんか信じてないんだ。だから僕はきっと君と同じ光の世界にいけない。死んだら罰としてそのまま土のなかに埋められちゃうんだ」
ずっと雪のなかに閉じ込めていた言葉が、涙とともに溢れ出す。神様への罪を告白する僕を、君はやはり軽蔑するだろうか。それとも洗礼を受けていない僕を、愛を知らない可哀想とな子どもと憐れむだろうか。もし、そうだとしたら僕を形作る結晶は、今度こそばらばらに砕け散ってしまうだろう。
「……強くなれって言っただろ。泣き虫ニュイ。俺は信仰心は個人の自由だと思ってるし、人はいつしか必ず死ぬ。だからニュイのなかに神様がいないなら神様なんて関係ない。もし、それでも、お前の魂が暗闇に取り残されることがあったら、俺が蝋燭を照らして探し出してあげる。それなら怖くないでしょ。だからもう泣くなニュイ」


約束と。優しく差し出された、その手は。

「…うん」

僕は時々こわい夢を見る。真っ暗で冷たい場所にひとりで膝を抱えて蹲る夢。でもね、この館に来てから不思議だったんだ。
最初は環境が変わったせいかと思っていた。澄み切った空気は美味しく、執事の見習い業務はとても厳しいけれど、ここには僕を咎めるような人はいないから。夢のなかで泣いている僕を、誰かが優しく抱き締めてくれてくれた。そして手を繋いで、あたたかい外の世界へと連れ出してくれる。孤独で暗い夜の夢に、眩しい朝の光をくれたのは。マタン、君だったんだね。

僕は忘れない。例え君が憶えていなくとも、あの時君が交わしてくれた約束を僕は大人になっても忘れないだろう。
今はまだ君のいう様に僕は弱くて、泣き虫で。ちっぽけで何も出来ないけれど。僕は君に何かを返したい。僕があげられるものなら、君が望むものをすべて与えてあげたい。

君が与えてくれたような優しさを、幸せを。僕もいつか、君にあげられたら。






-----------------------------





「……そこに居るんでしょ。隠れてないで出て来なよ。作戦担当」
「すみません。読書の邪魔をしてはいけないと思って」
濃い木の陰を落とした聡明な横顔が本を閉じる。物語りの途中に、天使が作った花の栞が大切に挟まれているのが見えて僕は微笑む。
「お嬢様は?」
「先程、例のお客様がお見えになられました。余程楽しかったのでしょう。今は部屋でお休みになられています」
「あのクソ猫っ…また俺がいない隙を狙って」
「言葉遣いが悪いですよマタン。それに、貴方が意地悪するからです」
あんたも猫も生意気だと、底深い光を宿した泉にきつく睨まれてしまい、眼鏡の奥で困ったように笑みを零す。本当は他人と距離を置きたがる君が、子どものような感情を見せつける相手が僕は少しだけ羨ましかったりする。猫に嫉妬しているだなんて恥ずかしくてとても言えないけれど。
「隣り、座っても?」
「勝手にしな」
それでも、こうして君の隣にいられるようになっただけでも僕は嬉しいんだ。僕らは色恋めいた関係などではなく、ただ互いの熱を共有するだけ。それでも求めてくれる君の体温は心地よくて。真夏の熱が混じり合い、僕の冷えた身体をじんわりと溶かす。
「今年も綺麗に咲きましたね」
森から運ばれた微風が薄花色の草原を揺らしながら音を奏でる。館に人が沢山いた頃に比べて庭園の規模は少し小さくなってしまったけれど、それでもお嬢様が毎年楽しみにしているので手入れは怠らないように管理している。春の花はオーロージュが。夏の花は僕とマタンが。秋の花はミディとソワレがそれぞれ担当を。そしてぶどう摘みを終えた頃には、薪とオレンジの香りが漂う温室でゆったりと紅茶を飲みながら、厳しい寒さを耐え抜いたスノードロップが雪解けからちいさな芽をのぞかせるのを、皆で迎えるのだ。

君のお気に入りのこの場所はとても心地よくて。もしかしたら君が好きなのは、夏の陽射しを遮る葉ではなくて。この静かに寄り添ってくれる木肌のぬくもり方なのかもしれないと、僕は今更ながらに気付いてしまった。マタン、幼い頃の君も僕と同じで本当は寂しかったんだね。


「お嬢様が、木苺の収穫を楽しみにしていると言っていました。イギリスから取り寄せた紅茶に…あなたの焼いた菓子に合わせて…食べるのが楽しみだと、言って……」
狭まる視界とともに意識が曖昧な世界に溶けてゆく。昨夜も遅くまで君の部屋にいて、あまり寝ていないから。
「ニュイ…眠ったの?」
声が遠退いてゆく。久しぶりに君が名前を呼んでくれた気がする。
僕の小さなミルク硝子の十字架は相変わらず空のままで。神様に祈りを捧げている清らかな魂の傍らで、僕は今日も偽りの祈りを捧げ続けている。
それでも僕は夢を見ていたい。君の隣で、僕にはない天使の羽根が大人になるのを見届けるまでは幸せな夢を。










もうすぐ短い夏の季節が終わる。







10/10ページ
スキ