一時間の君との距離
《いつも僕の笑顔を見守ってくれてありがとう》
ぱたり、と雫が溢れて落ちた。
遠退く機内の中でこれを読まなくて良かった。もう二度と無くさないようにと、手持ちの鞄の底に詰め込んだ大切な忘れ物。君への想いを宛てたアルバムの最後のページに、まさかこんなメッセージがあるなんて思わなかったから。本当に気付いたのが帰ってからで良かったよ。だってこんなぐしゃぐしゃに濡れた酷い顔、人前でなんか絶対に見せられない。
萌黄の葉が揺らぐ中で、成長した君の姿を見付けた。事前に入学することは知ってから特に驚きはしなかったけれど、久しぶりに見た君はなんだかとても瑞々しくて。懐かしさのせいか、それともずっと抑え込んでいた鬱積のせいなのか。こころの奥底に閉じ込めていたアルバムを数年振りに引っ張り出してみた。
誰よりも才能がある癖に。どうして俺に何も言わずに居なくなったの。ゆうくんの裏切り者。うそつき、と。
破いた写真の隣に書かれた言葉は当時の自分の記憶だ。大人達から神童と崇められモデルとして確かに成功していた筈の彼は、最後に何を想ってカメラの前に立ったのだろうか。少し変色した繋ぎ目を指でなぞる。一度バラバラになっても不安定さを微塵も感じさせない人形のような顔はとても美しく。
どうしてかな。写真を見返すうちに気付いてしまった。
彼はこころを殺しながら、声出せずにずっと誰かに助けを求めていたのに。馬鹿な自分は嫉妬の海に溺れるあまり気付いてあげられなかった。先に手を離していたのは俺のほうだったのかな。ごめん。ごめんね。今更気付いても遅いのにね。
遠くから彼の姿を眺めているうちに、気付いたらカメラのシャッターを切っていた。今度こそ守ってみせると。彼のふとした表情も見逃さない為だった。
だって自分で初めて撮った写真の中の彼は、淡い陰を落としていてやっぱり笑っていなかったから。
メッセージには続きがあった。
《いつも僕の笑顔を見守ってくれてありがとう》
《でもまだ足りない写真が一枚あるよ》
目まぐるしく移り変わる季節を追いながら彼の表情の総てを回収したと思っていたのに、彼はまだ足りないという。どういう意図なのか、笑顔を取り戻した彼は自分にはかり知れない何かを見付けてみせろと悪戯に笑うのだ。きっと聴いても君は素直に答えてくれないだろうから、今度逢う時までにゆっくりと考えてみよう。君から俺へ宛てた、問い掛けの意味を。
「ゆうくん俺とデートしようよ」
「うん。少しならいいよ」
あっさりと。本当に拍子抜けするくらい随分あっさりと言うものだから、思わず動揺して手に持っていた紙袋を落とすところだった。せっかくの芸術品のようなチョコレートが割れてしまっては勿体無い。いつもありがとうと手土産を受け取っては子供のように悦ぶ姿に、もしかして菓子が目当てなのではと一瞬疑ってしまったが、彼の瞳はやっぱり悪戯に笑っていて。答え合わせをするのを彼もきっと待っていたんだと思う。
外に出る時間が無いからと、結局ビル内のカフェで過ごす事になった。これじゃあ、いつもとあまり変わらないんだけど。店員がやたらと勧めてくる変な名前の新作ブレンドは無視して、デートという単語に浮かれていた気持ちを珈琲で無理やり流し込む。味は結構おいしい。目の前の彼はというと、カップの浴槽に浮かぶミルクの泡のうさぎをより良い角度で撮ろうと夢中になっていた。まぁ、そんな姿も向こうに居るとなかなか見られないものなので、じっくりと目に焼きつけておこう。
「そういえば、ゆうくん映画の主演に決まったんだって?おめでとう」
「ありがとう。ってまだ極秘扱いな筈なんだけど…よく知ってるね」
「俺のゆうくん情報網を甘く見ないでよね。あーあ、ゆうくんが主演なら俺もオーディション受ければ良かったなぁ」
「泉さんは違う事務所でしょ」
「ちょい役でも良いからさ、何とかならないかなぁ。間近でゆうくんの演技見たいし」
「駄目駄目。泉さんが傍に居たら撮影進まなそうだもん」
「確かに」
たわいも無い会話だ。弾んだ空気をとめて、渇いた喉を珈琲で潤す。口の中に一気に苦味が広がった。
「あのさ」
「ん?」
出掛かった言葉を飲み込む。本当は。
「ゆうくんドジなんだからあんまり無茶しないでよね。もし撮影で怪我なんかしたらイタリアから怒鳴り込んでやるんだから」
「あはは…本当に来そう。でも大丈夫だよ。躓くのは慣れてるし、それに僕は転んでも何度でも立ち上がるから」
本当は、もう心を殺さないで欲しいと言いたかった。
主演なんて絶対無理をするに決まってるのに、また君が笑顔を失うんじゃないかと、不安で堪らなかった。でも、君は俺の考えることなんかすっかり見透かしていて、強くなった僕に乞うご期待!なんておどけて笑うものだから本当に敵わない。ふと、頬杖をつきながら微笑むゆうくんと目が合う。
「それで、泉さんは足りない僕を見付けられたの?」
瞳の中で笑顔がくすぐったそうに揺れた。
シャッターを。ああ、はやくシャッターを切らないと。
カメラのレンズ越しではない彼を瞳のフィルムに収める。アルバムを見られた時点で彼にはバレていたのかも知れない。きっとアルバムを捲る自分は、目の前の彼と同じ表情をしているだろうから。
この時確かに自分は手に入れたのだ。ずっと焦がれていた、自分だけに向ける特別な笑顔を。
「うん。見付けたよ」
「そっか。良かった」
綺麗な指がティースプーンでカップをくるくると掻き混ぜる。甘ったるい泡のうさぎは、照れたようにエスプレッソの中に溶けてしまった。
7/7ページ