正岡子規/文豪とアルケミスト
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先生とはよく目が合った。
先生からの視線を感じることも多かった。
翌日でも構わない談話室での忘れ物を、わざわざ届けてくれたこともあった。
「何か困ってたら声かけてくれ」事あるごとに貰った言葉だ。
それらによって私が「もしかして先生も私のこと好きなのかな?」と淡い期待を抱いたのもそうおかしいことじゃないと思う。
だけれど、そんな正岡先生に避けられている、と感じるようになったのはいつからだろう。
それまでだったら、なんてことはない誘いに躊躇われたり断られたりする。
例えば、正岡先生に貸していた本や備品は、先生本人ではなく弟子のどなたかが返しにくるようになった。
例えば、食堂で「ご一緒しても?」と聞けば、ニコニコとした顔を崩さないまま伊藤先生と三人でうな重を食べた。
例えば、夕食のあと「先生の部屋に遊びに行っていいですか?」と聞けば、以前ならにこやかな笑顔とともに部屋に誘ってくれたのに、最近はなんだかんだと理由をつけて断られる。
ただ一度「今日は用があるけど、明日の昼なら」と代案を出され嬉しくなりながら部屋を訪れたことがある。
森先生と正岡先生と私の三人で句会、というより私への句作指導になった。ためになったし、森先生に誉められて喜んだところに正岡先生から「まだまだだな!」といつもの笑顔でばっさり切り捨てられてへこんだりした。
それから、正岡先生が一人でいるのを見なくなった。先生が楽しそうに誰かと談笑しているのを見ると、少し心が温かくなった。
そう、それら全て別に構わない。構わないのだ。
嘘をついた。以前のように、先生と二人きりで話したいと思ってしまう自分がいる。
だから、偶然廊下で先生に会って二人きりになれたとき、内心喜んで、冗談めかして聞いたのだ。
「今日、夜の句会が終わった後お部屋に残っていいですか?」
と。
先生には少し困った顔をされ
「誤解されるからそういうことは言わない方がいい」
などと真っ当なことを言われてしまった。
それを言われてしまうとこちらとしては何も言えない。
「考えが足りませんでした」
と少し頭を下げて謝罪すれば
「いや、謝るようなことじゃないさ」
とカラッとした笑顔でフォローされる。
気を遣わせてしまったなあと反省していたら、その夜の句会が先生の部屋から談話室になった。
避けられている。
これだけ重なればさすがの私でもわかる。
そしてその理由だってわかる。
先生は私の好意に気付き、やんわりと断りを入れているのだ。
切ない。
切なくなれる立場じゃないけど切ない。
先生と食べるつもりで用意した干し柿を一人でかじりながら煩悶する。
正岡先生は私のこと好きじゃなかったのかな、私一人盛り上がってバカみたい。
一人で食べるには多すぎる柿も、昨今の態度で先生に渡すのは気が引ける。
夏目先生あたりが引き取ってくれないだろうか。
そんなことを考えながら、食べ飽きた柿を選り分けた。
◇ ◇ ◇
「司書さん、今度予定空けておいてくれ」
少しばかりの傷心を抱え、それでも日常生活に戻っていった頃だった。
「ええと、潜書ですか? それとも句会でしたら他の先生方が……」
一瞬期待しなかったと言えば嘘になる。そもそも先生から話しかけて貰うのも久しぶりだ。
ただ次の瞬間我に帰り、動揺を見せないよう手帳を取り出していた。なのに、
「いや、飯に行こう」
なんて言い出すのだからペンを落としそうになった。
「食事……食堂でお昼をご一緒に?」
動揺しつつも、またいつかのように楽しくお喋りしながらカツ丼が食べられるかと思うと、自然と頬が緩んでしまう。
ところが
「いや、外に。あと夕飯がいい」
話していた先生が一拍置いた。
「休みの日がいいな。午後から夜まで、司書さんの時間を俺に貸してくれ」
はい、とすぐに返事できない。
「……ええと、まずかったか?」
困惑と気遣いと気まずさ。先生の表情に浮かんでいたのはそんな感情だろうか。
「いえ、私は構いませんが……」
私だって困惑しているのだ。どうしてそんなデートみたいなこと誘ってくるんだろう。
でも、先生の嬉しそうな顔を見たら私のとまどいなんて吹き飛んでしまった。
二人で私の手帳を覗き込みながら、デートみたいな何かは今週末に決まった。
【午後…正岡先生と食事】
手帳に書き加えられた予定。みたい、じゃなくてこれは完全にデートだと思う。
その文字列をぼーっと見つめていたら
「俺、この日司書さんが気合い入れてお洒落したところがみたいな」
なんて言われて驚いてしまった。
先生が女性の外見について何か言うのを初めて聞いた。勿論、先生と会う際にお洒落のリクエストを貰うのも初めてだ。
「わ、わかりました……?」
勝手にデートと見立てている私は、そりゃあ自分なりに気合いを入れて着飾って行くだろう。
でも、先生は何を考えてそんなこと頼むんだろう?
「司書さん着物は何持ってる?」
「え? 持っていませんが」
ますますわからなくなる。仕事は図書館の制服で事足りるし、数少ない私服も着物ではなく洋服派だった。
「そうか……困ったな、髪結いだけじゃなく呉服の貸し出しも頼んでおかないといけないのか……」
正岡先生が何かブツブツとぼやいていた。
「ああ、司書さんは気にしないでくれ」
パッと視線を上げ私を見る。
「ただ、週末までに一度、ちょっと夏目に付き合ってやってくれないか?」
なんてことはない、私が正岡先生に指示され行く貸し呉服屋に夏目先生がついてきてくれるというだけだった。
ただ、
「司書さん、私とデートしませんか?」
とニコニコした顔で誘ってきたのは、少し悪い人だと思う。
「これぐらいの役得がなければ、私は正岡の言いなりになんてなりませんからね」
言葉とは裏腹に、店員さんとにこやかに私の着物を合わせている。
着物を合わせ帯を合わせ、店員さんが小物を取りに奥へ引っ込んだ時だった。
「正岡に惚れてるでしょう貴方」
いきなり言われて暫く言葉を失った。
「な、なんでご存知で……」
「見てればわかりますよ」
そんなに分かりやすかったか、と額を押さえてしまう。
「しかし貴方という方も、一体あんな奴のどこがいいのやら」
「あの、正岡先生にこのお話などされたりとか」
「人の恋心を勝手にバラすなんて無粋な真似はしません」
良かった、と胸を撫で下ろす。
ちょうど店員さんが戻り、着付けの続きが始まった。
「しかし正岡も貴方には甘いですからねえ」
店員さんが着付ける横で、先生が話している。
「そうでもないと思うんですけどね……」
「と、言いますと? まさか正岡にいじめられましたか?」
夏目先生の口調は軽く、笑うようだった。
「句会で正岡先生に『まだまだだな』って酷評されたんですよ」
「甘いでしょう」
「ええー……」
「正岡の奴は私なんかに容赦ないですからねぇ、いつか貴方から頂いた干し柿ですが、正岡と食べながら句を作ったのです」
それは知らなかった。正岡先生に渡すのを諦めた干し柿は、私の知らないところで先生の口に入っていたらしい。
「曰く、二十五点だそうで」
思わず吹いてしまった。なるほど正しく酷評だ。
「全く、貴方が素直に直接正岡へ柿を渡していれば、私はあんな評価をされずに済んだのですがね」
裏返った私の声。
「そ、そんなつもりは……」
「そういうことにしておきましょう」
本当にそんなつもりはなかったのに、聞き入れてもらえる雰囲気ではない。
「そんな訳で、しかし今貴方はあの男のことより目の前の帯揚げを選ぶべきですね」
まだもう少し言い訳を並べたかったけど、見れば話しかける機会を失ったらしき店員さんが、数枚の薄布を持ったまま苦笑いをしていた。
「す、すみません!」
結局この日、その後は真面目に着物を選んで、正岡先生の話になることはなかった。
デートもどきの当日が来た。私は朝からずっとそわそわしている。
しかし、肝心の正岡先生本人の姿を午後になってからずっと見ていない。
午前中、忙しそうにする先生を一度見かけたが
「夕方に秉公を迎えにやるから」
とだけ言ってそそくさとどこかへ消えてしまった。
そうか、今日も先生と二人きりじゃないんだと落胆する。確かにこれまで先生は「二人で」とは一度も言わなかった。今日はデートもどきですらないようだ。
正岡先生の代わり図書館にいたのは、どなたかが呼んだという美容師に着付け師。
髪を結われ着物を着せられ、なんというか、私は大層なことになっている。
女性の外見に関する何かなんて正岡先生らしくないが、やっぱり先生の差し金なんだろう。
身なりが整いやっと解放され、ただ説明が欲しくて正岡先生を探そうとした時だった。
きっちりと着物をめかしこんで現れた河東先生に呆気にとられる。
「秉公を迎えにやるから」。これはそんな軽く言われるようなものだろうか?
「司書さんも用意できた?」
師匠譲りの優しさと、師匠よりもずっと自然な女性のエスコート。
「お手をどうぞ」
差し出された腕を前に戸惑ってしまう。
「大丈夫だって、のぼさんに頼まれてるから」
いつもの口調で笑う河東先生にちょっと安心した。
「それに、司書さん和装慣れてないんでしょ? こけさせたら俺がのぼさんに怒られちゃうよ」
そう言われると困ってしまう。躊躇いながらもその手を取った。
「その正岡先生はどちらへ? 午後になってから姿を見てなくて」
と聞いたが
「すぐ会えるよ」
と答えてくれない。
河東先生に手を引かれ、エントランスに向け歩き出す。慣れない草履に足が絡まりそうだ。
「あの、私あまり長い距離を歩ける気がしないんです」
せめて行き先を教えて欲しいと言いかけたとき、エントランスの外、停まっている辻自動車(タクシー)が見えた。
「あれに乗るよ」
導かれるまま、運転手が開いてくれたドアを通る。
「×××でしたね」
そのまま運転手が河東先生に聞いたそれは、私が名前しか知らないお高い料亭だった。
「はい、お願いします」
河東先生が頷いて、車は音もなく走り出す。
「のぼさんはそこで待ってるから」
驚いて声も出せないでいる私に、河東先生が言葉をくれた。
いや、なんでですか、どうしてそんなところに? 疑問は湧くが、同時に一つ納得してしまう。
そんな料亭に行くのなら、確かにこれだけ着飾った方がいいだろう。
「なんだか私が思ってたよりずっと大袈裟なんですが、これは一体どういうことなんですか……?」
力なく河東先生に聞いてみる。
しかし、河東先生はいつも通りの笑顔を向けるだけでやっぱり何も教えてはくれなかった。
◇ ◇ ◇
着いた先は、間違いなく思い描いていた高級料亭だった。
敷地に入る前からびっくりして足がすくんでしまう私に
「さあさあ早く早く」
と河東先生が背中を押す。
うやうやしく女将さんが出迎えてくれてまた緊張が増した。早く河東先生以外にも知っている顔に会いたい。
通された座敷には、確かに正岡先生と付き添いのような高浜先生がいた。ただし、着物に詳しくない私でもわかる、きっちりとしたまた高そうな和服に身を包んで。
二人がこちらを見てほんの一瞬息を呑んだのがわかった。
「ね! 司書さん綺麗でしょ?」
私の後ろから、なんだか得意気に姿を現した河東先生。
「あの、いい加減これは一体何なのか」
「まあまあ」
私の両肩をポンと叩いて、ニコニコした顔を崩さない河東先生に
「では俺達はこれで」
高浜先生も席を立って出ていこうとする。
「俺達は隣にいますから何かあればいつでも呼んで下さい」
襖に手をかけた河東先生と
「あとは若いお二人で、どうぞごゆるりと」
よくわからない言葉を残した高浜先生。
すとん、と襖が閉じられるのを、ただただ呆気に取られて見送るしかなかった。
高浜先生、その言い方はおかしくないですか。
だって、きっとこの図書館でも高浜先生より正岡先生の方が歳上でしょうし、いやそんなことではなく、まるで、そんな言い方って、
「見合いじゃないんだがなあ」
お見合いじゃないですか。
はた、と残された正岡先生を見てしまう。
少しうつむきながらもいつもと変わらない表情で、落ち着いていて、
「とりあえず司書さんも座らないか?」
私に座椅子を勧める。促されるまま腰掛けた。
ついこの間まで、微妙に距離をとられていたかと思えば、こうしてただの同僚とする食事には恐ろしく不釣り合いな場を設ける。
私は先生に翻弄されっぱなしだ。
「ここは蟹が美味いらしいんだ」
先生の視線の先、卓の上へ用意されている品のいい和紙には今日のお品書きが書かれていた。
「先生」
私そんな話がしたいんじゃありませんと、問い質そうとしたときだった。
「失礼致します」
先ほど出迎えてくれた女将さんが、襖の外で料理を運んできていた。
必然、話は打ち切られる。
タイミングが悪い。それとも、事前に先生達と打ち合わせをしてわざとやっているのだろうか? そんなことありえないのに変な邪推をしてしまう。
食前酒と先付が並べられ、折り目正しい仲居さんが礼儀正しく出ていった。
グラスの中、キラキラ光を弾く果実酒に少しばかり目を奪われる。
でもすぐ思い出した。仲居さんのいなくなった今こそこの場の真意を聞くのだ。
ただ、その決意もすぐ立ち消えてしまう。
ふと見た先生は小さな小さなそのグラスを手にとって一気に飲み干していた。ごくごくと動く喉仏から目が離せない。
「ん、俺でも美味い」
果実酒なのだから当たり前かもしれないが、日本酒を苦手とする先生もお気に召したらしい。
ちら、とこちらを見る視線。司書さんは飲まないのか? と言いたげだった。
仕方なく、自分もその酒に口をつける。
舌で味わう前からふわっと甘い香りが広がりつつも、程よい酸味と微かな苦味が口の中で後を引く。
美味しい。
「美味しいです……すごく」
その頃先生は既に小皿に箸をつけ、季節の葉物を楽しんでいた。
咀嚼しているため声にこそ出せないものの、表情だけで「良かった」と喜んでいるのがわかる。
その笑顔に、自分の毒気が抜かれていくのを感じた。
ああ、私は、好きな人にこんなにも弱い。きっと、今日この場で私が先生に問い質すなんてできやしないのだ。
私は今日、先生に交際の申し込みでもされるんですか?
こんなに畏まった場を用意され、全く検討もつかない程幼くはない。それでもこの推測や予想には全く自信がなかった。
だって、そんなもののために作る場としてこれはいささか重い。図書館ではあまり感じさせないことも多いが、以前の人生でも人たらしで鳴らした先生がそのことをわからないはずがない。
高浜先生と河東先生のお二人が一枚噛んでいるのなら、尚更突拍子もないことはしないだろう。
ただ、どれだけ考えたって答えが出ないのも事実だ。今はただ「何故?」の疑問を自分の胸に抱いておくしかない。
それでも、自分にとって一番ショックなパターンだって考えておく。
例えば、この会食が終わったあと「実は今お付き合いしている女性がいて、今度ここで結婚を申し込もうしているんだが」と相談されるとか。
そのとき私は、泣かずにちゃんと「素敵ですね」と言えるだろうか。
◇ ◇ ◇
真意が見えなくとも、好きな人とともに居られるのは楽しいことだった。
そして楽しい時間はあっという間だ。
先生が楽しみにしていた蟹は何品も運ばれ食べた、美味しかった。今はそれぞれの一人鍋に火が通るのを待っている。
今はこんなものがあるんだなあ、と興味深そうに固形燃料を覗き込む先生。
安全で、簡単で、美味しく食べられるからいいと一人納得している。
「美味いもんが食えるってのは、いいもんだなあ」
本当に幸せそうに、ニコニコ笑う。
「俺は、こうして転生してこられて良かったと心の底から思ってるんだ」
胸の奥がドキンと鳴る。
「美味いもんは腹いっぱい食えるし、夏目や森さんや清や秉公やサッチーにも再会できたし、べーすぼーるは出来るし……」
先生は指折り数えて図書館でのいい思い出を挙げていく。
その仕草に心がじんわりと温まった。
これは好きな人どうこうじゃない、特務司書としての喜びだ。
私達は、言ってしまえば先生方を勝手に生き返らせている。
文学を守って欲しいと、そんな理由なら彼らが断れないと、命の危機もある任務に無理矢理引きずり出している。
先生方は、代わりに新たな人生こそ得ているものの、それは帝国図書館に振り回される人生だ。釣り合うかどうかなんて私達にはわからない。
だから、先生自身がこうして新たな人生を肯定してくれて、私は何より安堵した。
しかし、そんな気持ちはすぐ掻き消えてしまった。
「だから、これ以上を望むのは罰が当たるかもしれんが……」
どこか嬉しそうにそして何故か照れくさそうに、先生がこちらを見ながら頬を掻いて言う。
「俺の最期を看取ってくれないか」
◇ ◇ ◇
「嫌です」
言葉は反射的に出ていた。
悪い冗談だと思った。
でも、目の前の先生は驚いたような顔をしてこっちを見ていた。
「な……」
なんでって、それは私が言いたい言葉だった。なんで、先生そんな顔をするんですか。
激情が抑えられない。
「なんですか!? 自殺でもするって言うんですか? 嫌ですよ、私が特務司書の権限でもって許しません!!」
語気が強くなる。目が潤む。こんなこと言われるなんて全く予想だにしていなかった。
全く、他の女性へのプロポーズどころじゃない。
正岡子規という文豪が図書館で自殺するだなんて考えたこともなかった。以前の先生を考えれば病気の可能性もあるがそれも過去の話だ。その時と今の肉体に物理的繋がりなど一切ない。
転生した体が私の知らない間に病魔に侵された可能性も一瞬考えたが、アルケミストとの繋がり上ありえない。
頭はひどく混乱したままだ。
だって、私は先生に死んで欲しくない。
「司書さん、大丈夫?」
気がつけば隣に河東先生がいた。よく見れば高浜先生も正岡先生のそばについている。
「いきなり大声出すからびっくりしちゃったよ」
襖一枚隔てた隣の座敷にいたお二人が慌てて飛び込んできてくれたらしい。
「す、すみません……」
みっともないところを見せてしまった。
「でも先生」
正岡先生に顔を向ける。
「『俺の最期を看取ってくれ』ってどういう意味ですか」
双璧のお二人がぎょっとした顔をした。一方正岡先生はちょっと申し訳なさそうな顔をしている。
「わかったわかった、言葉を変えるから」
先生にかじりつきそうな勢いで迫っているお二人を軽くいなして、
「司書さん」
正岡先生が、すう、と息を吸った。
「俺と結婚してくれないか」
◇ ◇ ◇
あまりに直球な言葉だった。
「……もしかして、私は……付き合いもしていない方からプロポーズされたのでしょうか……?」
多分嬉しい。いや絶対嬉しい。好きな人に結婚を申し込まれたのだ、間違いなく嬉しい。
でも理解に感情が追いついていない。
交際を求められるかと思った。大喜びで受けるつもりだった。
既に密かに付き合っている女性の存在を知らされ、プロポーズの手伝いを求められるのかとも思った。心で泣きながら受けるつもりだった。
自殺願望もしくは残り少ない寿命を告白されたのかと思った。泣きそうになりながら拒絶した。
ただ、まさか自分を好いているとの確信も得ていない相手から結婚を申し込まれるなんて、さすがにそこまで夢見がちな人間でもなかった。
どうやら私は呆けていたようだった。
「ええと……そういうことだ」
困ったような顔をした正岡先生が先程の私の疑問に答えて意識を引き戻される。
「わかってる、俺が我儘なんだ」
困っているのはそのままに、それでも笑おうとして顔が綻んだ。
「俺は転生して充分幸せになった。ここで満足しなきゃいけないのもわかってる。欲を出したっていいことなんか何もない。それでも俺は」
先生がこちらを見続けている。
「細君を得てみたい」
その言葉だけで十分だったのに。
「そしてそれは司書さんがいい」
続いた言葉に胸が強く鼓動した。聞いているだけで心が溶けていく。
自分の心臓の音がやけに早くて大きい。嬉しさと恥ずかしさで私はどうにかなりそうだ。
「司書さんの返事が聞きたい」
私は今、とても照れている。
◇ ◇ ◇
最後の料理―果物が運ばれ、満足感とともに一種安穏とした空気が満ちていた。高浜先生も河東先生も、その後私達の座敷に留まり四人で残りの料理を堪能した。
双璧のお二人がそれぞれ別の用事で揃って席を外したときのことだった。
「今日の料理、本当に美味しかったです」
出された葡萄の皮を剥きながら、上機嫌の私は先生に言う。
「司書さんが楽しめたなら良かったよ」
「先生はどうでした? 蟹楽しみにしていらしたでしょう」
このとき私は本当に、何の気なしに聞いてみただけだった。
「いやあ実は……」
私と同じように紫の皮を剥きながら、その手元に視線を落として先生が言う。
「緊張で味は殆どわからなかったんだ」
え、と思った。
先生の顔は穏やかな、ほんの僅かな苦笑い。
混乱したのは私の方だ。先生の言葉が本当ならば、あの果実酒も、前菜も、蟹だって全然味わえていないということだ。
「あ! でもこの葡萄は旨いぞ! 旬なだけあるな!」
弁明するかのような、純粋に美味だと報告するかのような先生の言葉。
つまりそれは、こんな立派な会席料理の最後一品でやっと味覚が戻ったということか。
今も昔も健啖家で、食事を楽しみのひとつとするこの人が。
なんて寂しい。そう思ったのは間違いない。
「憐れみの込もった顔はやめてくれないか司書さん……」
ただ、それがはっきり表情に出ていたのはちょっと申し訳ない気持ちになる。
「いいんだよ俺は!」
まるで照れ隠しのように。
「葡萄は旨いし」
強がりも交えて。
「司書さんがこれからずっと俺といてくれるんだから」
思いもよらない方向に、こちらの感情を揺さぶってくる。
でも、それなら私にだって考えがある。
「わかりました」
精一杯笑えているだろうか。
「じゃあ結婚したらまた来ましょう」
その笑顔は私だって強がりだったけど。
「そのあと、五年後でも十年後でも、記念日の度ここに来ましょう」
私たちはとにかくこれからなのだ。
先生は少しぽかんとして、
「……そうだな」
何かに納得したようにうんうん頷いた。
「まず来年だな」
その様子を「幸せを噛み締めるように」と思ってしまったのは、少し傲慢だろうか。
傲慢でもいい、私との時間を幸せと感じた先生に心がじんわり温かくなる。
すたん、と襖が開いた。
席を外していた高浜先生がお戻りになった。正岡先生を見て、何やら不思議そうな顔をする。
「どうかしたんですか子規さん」
座椅子に戻りながら高浜先生が言う。私以外から見ても、今の正岡先生には一言問いたくなるような雰囲気があるらしい。
「いいや、なんでもないさ」
あまり表情を変えないまま、今度は正岡先生が立ち上がった。
高浜先生が閉じたのと同じ襖を開き、廊下へ二歩踏み出して振り返り
「それから司書さん」
本当に、話のついでのように声をかけられ
「いつにも増して綺麗だな」
襖を閉じた。
「戻ったよ!」
元気で明るい河東先生の声がする。
「秉、騒ぐな」
「え? なんで司書さんあんなに恥ずかしがってるの?」
「人の話を聞け」
最後に正岡先生が残していった言葉は、私をしばらく動けなくさせるに充分だった。
河東先生が襖を開いた瞬間、早々に正岡先生が戻ってきたのかと肩を跳ねさせてしまったくらいだ。
こんな顔、正岡先生に見せられない。
「のぼさんやるじゃん!」
高浜先生から私が正岡先生から何を言われたのか聞いたのだろう、感心したような声がした。
「……やるじゃんじゃないですよ」
未だ頬の熱が抜けきらないまま、力の籠もっていない抗議をした。
「なんで正岡先生はあんなこと言ったんですか」
今度はお二人が揃って不思議そうな顔をした。
互いに顔を向け合ったあと、私に振り向いて高浜先生が口を開く。
「司書、馬子にも衣装という諺は知ってるか?」
「なるほどー……」
「きよ、その言い方はひどい」
私の肩に手をポンと置いて、苦笑いしながらとりなしてくれたのは河東先生だ。
「今日の司書さんは綺麗だよ。自信を持って」
「そうだといいんですが」
自分の外見について、プロの手を借りて普段よりマシになった自覚は少しだけある。
本当に、今の自分が綺麗だというなら、あの人に綺麗だと思って貰えたのなら
「すごく、嬉しいんですけどね……」
自分の後ろで何やら双璧のお二人が話している気がしたが、あまり内容に興味はなかった。しかし同じようにお二人にも、私の最後のぼやきは聞こえなかっただろう。
次に私の意識がはっきりしたのは、正岡先生が戻ってきてからだ。
「秉公、人の嫁さんにあまり触るな」
字面とは裏腹に、親愛たっぷりに弟子をたしなめる声がする。
でも私はそれどころじゃない。
嫁さん。嫁さん。嫁さん。
その単語がひたすら頭の中で繰り返される。
疑うわけじゃなかったけど、正岡先生はさっき申し出た結婚に本気なのだ。
少し気が早いと思う。嫌じゃないけど。嫌ではないけれど。
「すみませんのぼさん」
たしなめられた河東先生がニコニコしたまま私から離れていく。
「全く……司書さんも振り払っていいんだぞ」
やれやれといった口調とともに、今度は正岡先生が私の肩に手をかけた。
河東先生のときは何もなかったのに、正岡先生だと触れられている部分が熱く感じるのは気の所為だろうか?
「先生」
正岡先生に顔を向ける。ん? と穏やかな笑みをしている。
「その、私たち」
結婚するんですよね、と絞り出すような声で言った。
「ああ!」
満面の笑みに、耳がほんの少し赤く染まっているのが愛おしい。
思考はとにかく正岡先生に占拠され、その一方で驚くほどクリアな視界の端に双璧のお二人が映る。
お二人の前でここまで聞いてしまうのも少し気が引けるが、もうこのまま問うてしまいたかった。
私達は結婚する、なら私、先生のこと先生じゃなくて
「名前で呼んでもいいですか?」
名前で呼びたいんです。
正岡子規は生きた時代柄、雅号だけでなく、本名やそれに準ずるものもいくつかあると聞いている。
私に問われ少し驚いた様子の先生が、またすぐ嬉しそうにして、「さて俺のことは何て呼んで貰おうか」と思案し始めた。
でもしばらくして、それを一旦打ち切ったようだった。
「俺だって、司書さん呼びじゃまずいよな」
薄い茶色の瞳が細くなり、こちらを見つめる。
「俺も」
私の名前を口にして、「呼んでもいいか?」と問いかけた。
終
先生からの視線を感じることも多かった。
翌日でも構わない談話室での忘れ物を、わざわざ届けてくれたこともあった。
「何か困ってたら声かけてくれ」事あるごとに貰った言葉だ。
それらによって私が「もしかして先生も私のこと好きなのかな?」と淡い期待を抱いたのもそうおかしいことじゃないと思う。
だけれど、そんな正岡先生に避けられている、と感じるようになったのはいつからだろう。
それまでだったら、なんてことはない誘いに躊躇われたり断られたりする。
例えば、正岡先生に貸していた本や備品は、先生本人ではなく弟子のどなたかが返しにくるようになった。
例えば、食堂で「ご一緒しても?」と聞けば、ニコニコとした顔を崩さないまま伊藤先生と三人でうな重を食べた。
例えば、夕食のあと「先生の部屋に遊びに行っていいですか?」と聞けば、以前ならにこやかな笑顔とともに部屋に誘ってくれたのに、最近はなんだかんだと理由をつけて断られる。
ただ一度「今日は用があるけど、明日の昼なら」と代案を出され嬉しくなりながら部屋を訪れたことがある。
森先生と正岡先生と私の三人で句会、というより私への句作指導になった。ためになったし、森先生に誉められて喜んだところに正岡先生から「まだまだだな!」といつもの笑顔でばっさり切り捨てられてへこんだりした。
それから、正岡先生が一人でいるのを見なくなった。先生が楽しそうに誰かと談笑しているのを見ると、少し心が温かくなった。
そう、それら全て別に構わない。構わないのだ。
嘘をついた。以前のように、先生と二人きりで話したいと思ってしまう自分がいる。
だから、偶然廊下で先生に会って二人きりになれたとき、内心喜んで、冗談めかして聞いたのだ。
「今日、夜の句会が終わった後お部屋に残っていいですか?」
と。
先生には少し困った顔をされ
「誤解されるからそういうことは言わない方がいい」
などと真っ当なことを言われてしまった。
それを言われてしまうとこちらとしては何も言えない。
「考えが足りませんでした」
と少し頭を下げて謝罪すれば
「いや、謝るようなことじゃないさ」
とカラッとした笑顔でフォローされる。
気を遣わせてしまったなあと反省していたら、その夜の句会が先生の部屋から談話室になった。
避けられている。
これだけ重なればさすがの私でもわかる。
そしてその理由だってわかる。
先生は私の好意に気付き、やんわりと断りを入れているのだ。
切ない。
切なくなれる立場じゃないけど切ない。
先生と食べるつもりで用意した干し柿を一人でかじりながら煩悶する。
正岡先生は私のこと好きじゃなかったのかな、私一人盛り上がってバカみたい。
一人で食べるには多すぎる柿も、昨今の態度で先生に渡すのは気が引ける。
夏目先生あたりが引き取ってくれないだろうか。
そんなことを考えながら、食べ飽きた柿を選り分けた。
◇ ◇ ◇
「司書さん、今度予定空けておいてくれ」
少しばかりの傷心を抱え、それでも日常生活に戻っていった頃だった。
「ええと、潜書ですか? それとも句会でしたら他の先生方が……」
一瞬期待しなかったと言えば嘘になる。そもそも先生から話しかけて貰うのも久しぶりだ。
ただ次の瞬間我に帰り、動揺を見せないよう手帳を取り出していた。なのに、
「いや、飯に行こう」
なんて言い出すのだからペンを落としそうになった。
「食事……食堂でお昼をご一緒に?」
動揺しつつも、またいつかのように楽しくお喋りしながらカツ丼が食べられるかと思うと、自然と頬が緩んでしまう。
ところが
「いや、外に。あと夕飯がいい」
話していた先生が一拍置いた。
「休みの日がいいな。午後から夜まで、司書さんの時間を俺に貸してくれ」
はい、とすぐに返事できない。
「……ええと、まずかったか?」
困惑と気遣いと気まずさ。先生の表情に浮かんでいたのはそんな感情だろうか。
「いえ、私は構いませんが……」
私だって困惑しているのだ。どうしてそんなデートみたいなこと誘ってくるんだろう。
でも、先生の嬉しそうな顔を見たら私のとまどいなんて吹き飛んでしまった。
二人で私の手帳を覗き込みながら、デートみたいな何かは今週末に決まった。
【午後…正岡先生と食事】
手帳に書き加えられた予定。みたい、じゃなくてこれは完全にデートだと思う。
その文字列をぼーっと見つめていたら
「俺、この日司書さんが気合い入れてお洒落したところがみたいな」
なんて言われて驚いてしまった。
先生が女性の外見について何か言うのを初めて聞いた。勿論、先生と会う際にお洒落のリクエストを貰うのも初めてだ。
「わ、わかりました……?」
勝手にデートと見立てている私は、そりゃあ自分なりに気合いを入れて着飾って行くだろう。
でも、先生は何を考えてそんなこと頼むんだろう?
「司書さん着物は何持ってる?」
「え? 持っていませんが」
ますますわからなくなる。仕事は図書館の制服で事足りるし、数少ない私服も着物ではなく洋服派だった。
「そうか……困ったな、髪結いだけじゃなく呉服の貸し出しも頼んでおかないといけないのか……」
正岡先生が何かブツブツとぼやいていた。
「ああ、司書さんは気にしないでくれ」
パッと視線を上げ私を見る。
「ただ、週末までに一度、ちょっと夏目に付き合ってやってくれないか?」
なんてことはない、私が正岡先生に指示され行く貸し呉服屋に夏目先生がついてきてくれるというだけだった。
ただ、
「司書さん、私とデートしませんか?」
とニコニコした顔で誘ってきたのは、少し悪い人だと思う。
「これぐらいの役得がなければ、私は正岡の言いなりになんてなりませんからね」
言葉とは裏腹に、店員さんとにこやかに私の着物を合わせている。
着物を合わせ帯を合わせ、店員さんが小物を取りに奥へ引っ込んだ時だった。
「正岡に惚れてるでしょう貴方」
いきなり言われて暫く言葉を失った。
「な、なんでご存知で……」
「見てればわかりますよ」
そんなに分かりやすかったか、と額を押さえてしまう。
「しかし貴方という方も、一体あんな奴のどこがいいのやら」
「あの、正岡先生にこのお話などされたりとか」
「人の恋心を勝手にバラすなんて無粋な真似はしません」
良かった、と胸を撫で下ろす。
ちょうど店員さんが戻り、着付けの続きが始まった。
「しかし正岡も貴方には甘いですからねえ」
店員さんが着付ける横で、先生が話している。
「そうでもないと思うんですけどね……」
「と、言いますと? まさか正岡にいじめられましたか?」
夏目先生の口調は軽く、笑うようだった。
「句会で正岡先生に『まだまだだな』って酷評されたんですよ」
「甘いでしょう」
「ええー……」
「正岡の奴は私なんかに容赦ないですからねぇ、いつか貴方から頂いた干し柿ですが、正岡と食べながら句を作ったのです」
それは知らなかった。正岡先生に渡すのを諦めた干し柿は、私の知らないところで先生の口に入っていたらしい。
「曰く、二十五点だそうで」
思わず吹いてしまった。なるほど正しく酷評だ。
「全く、貴方が素直に直接正岡へ柿を渡していれば、私はあんな評価をされずに済んだのですがね」
裏返った私の声。
「そ、そんなつもりは……」
「そういうことにしておきましょう」
本当にそんなつもりはなかったのに、聞き入れてもらえる雰囲気ではない。
「そんな訳で、しかし今貴方はあの男のことより目の前の帯揚げを選ぶべきですね」
まだもう少し言い訳を並べたかったけど、見れば話しかける機会を失ったらしき店員さんが、数枚の薄布を持ったまま苦笑いをしていた。
「す、すみません!」
結局この日、その後は真面目に着物を選んで、正岡先生の話になることはなかった。
デートもどきの当日が来た。私は朝からずっとそわそわしている。
しかし、肝心の正岡先生本人の姿を午後になってからずっと見ていない。
午前中、忙しそうにする先生を一度見かけたが
「夕方に秉公を迎えにやるから」
とだけ言ってそそくさとどこかへ消えてしまった。
そうか、今日も先生と二人きりじゃないんだと落胆する。確かにこれまで先生は「二人で」とは一度も言わなかった。今日はデートもどきですらないようだ。
正岡先生の代わり図書館にいたのは、どなたかが呼んだという美容師に着付け師。
髪を結われ着物を着せられ、なんというか、私は大層なことになっている。
女性の外見に関する何かなんて正岡先生らしくないが、やっぱり先生の差し金なんだろう。
身なりが整いやっと解放され、ただ説明が欲しくて正岡先生を探そうとした時だった。
きっちりと着物をめかしこんで現れた河東先生に呆気にとられる。
「秉公を迎えにやるから」。これはそんな軽く言われるようなものだろうか?
「司書さんも用意できた?」
師匠譲りの優しさと、師匠よりもずっと自然な女性のエスコート。
「お手をどうぞ」
差し出された腕を前に戸惑ってしまう。
「大丈夫だって、のぼさんに頼まれてるから」
いつもの口調で笑う河東先生にちょっと安心した。
「それに、司書さん和装慣れてないんでしょ? こけさせたら俺がのぼさんに怒られちゃうよ」
そう言われると困ってしまう。躊躇いながらもその手を取った。
「その正岡先生はどちらへ? 午後になってから姿を見てなくて」
と聞いたが
「すぐ会えるよ」
と答えてくれない。
河東先生に手を引かれ、エントランスに向け歩き出す。慣れない草履に足が絡まりそうだ。
「あの、私あまり長い距離を歩ける気がしないんです」
せめて行き先を教えて欲しいと言いかけたとき、エントランスの外、停まっている辻自動車(タクシー)が見えた。
「あれに乗るよ」
導かれるまま、運転手が開いてくれたドアを通る。
「×××でしたね」
そのまま運転手が河東先生に聞いたそれは、私が名前しか知らないお高い料亭だった。
「はい、お願いします」
河東先生が頷いて、車は音もなく走り出す。
「のぼさんはそこで待ってるから」
驚いて声も出せないでいる私に、河東先生が言葉をくれた。
いや、なんでですか、どうしてそんなところに? 疑問は湧くが、同時に一つ納得してしまう。
そんな料亭に行くのなら、確かにこれだけ着飾った方がいいだろう。
「なんだか私が思ってたよりずっと大袈裟なんですが、これは一体どういうことなんですか……?」
力なく河東先生に聞いてみる。
しかし、河東先生はいつも通りの笑顔を向けるだけでやっぱり何も教えてはくれなかった。
◇ ◇ ◇
着いた先は、間違いなく思い描いていた高級料亭だった。
敷地に入る前からびっくりして足がすくんでしまう私に
「さあさあ早く早く」
と河東先生が背中を押す。
うやうやしく女将さんが出迎えてくれてまた緊張が増した。早く河東先生以外にも知っている顔に会いたい。
通された座敷には、確かに正岡先生と付き添いのような高浜先生がいた。ただし、着物に詳しくない私でもわかる、きっちりとしたまた高そうな和服に身を包んで。
二人がこちらを見てほんの一瞬息を呑んだのがわかった。
「ね! 司書さん綺麗でしょ?」
私の後ろから、なんだか得意気に姿を現した河東先生。
「あの、いい加減これは一体何なのか」
「まあまあ」
私の両肩をポンと叩いて、ニコニコした顔を崩さない河東先生に
「では俺達はこれで」
高浜先生も席を立って出ていこうとする。
「俺達は隣にいますから何かあればいつでも呼んで下さい」
襖に手をかけた河東先生と
「あとは若いお二人で、どうぞごゆるりと」
よくわからない言葉を残した高浜先生。
すとん、と襖が閉じられるのを、ただただ呆気に取られて見送るしかなかった。
高浜先生、その言い方はおかしくないですか。
だって、きっとこの図書館でも高浜先生より正岡先生の方が歳上でしょうし、いやそんなことではなく、まるで、そんな言い方って、
「見合いじゃないんだがなあ」
お見合いじゃないですか。
はた、と残された正岡先生を見てしまう。
少しうつむきながらもいつもと変わらない表情で、落ち着いていて、
「とりあえず司書さんも座らないか?」
私に座椅子を勧める。促されるまま腰掛けた。
ついこの間まで、微妙に距離をとられていたかと思えば、こうしてただの同僚とする食事には恐ろしく不釣り合いな場を設ける。
私は先生に翻弄されっぱなしだ。
「ここは蟹が美味いらしいんだ」
先生の視線の先、卓の上へ用意されている品のいい和紙には今日のお品書きが書かれていた。
「先生」
私そんな話がしたいんじゃありませんと、問い質そうとしたときだった。
「失礼致します」
先ほど出迎えてくれた女将さんが、襖の外で料理を運んできていた。
必然、話は打ち切られる。
タイミングが悪い。それとも、事前に先生達と打ち合わせをしてわざとやっているのだろうか? そんなことありえないのに変な邪推をしてしまう。
食前酒と先付が並べられ、折り目正しい仲居さんが礼儀正しく出ていった。
グラスの中、キラキラ光を弾く果実酒に少しばかり目を奪われる。
でもすぐ思い出した。仲居さんのいなくなった今こそこの場の真意を聞くのだ。
ただ、その決意もすぐ立ち消えてしまう。
ふと見た先生は小さな小さなそのグラスを手にとって一気に飲み干していた。ごくごくと動く喉仏から目が離せない。
「ん、俺でも美味い」
果実酒なのだから当たり前かもしれないが、日本酒を苦手とする先生もお気に召したらしい。
ちら、とこちらを見る視線。司書さんは飲まないのか? と言いたげだった。
仕方なく、自分もその酒に口をつける。
舌で味わう前からふわっと甘い香りが広がりつつも、程よい酸味と微かな苦味が口の中で後を引く。
美味しい。
「美味しいです……すごく」
その頃先生は既に小皿に箸をつけ、季節の葉物を楽しんでいた。
咀嚼しているため声にこそ出せないものの、表情だけで「良かった」と喜んでいるのがわかる。
その笑顔に、自分の毒気が抜かれていくのを感じた。
ああ、私は、好きな人にこんなにも弱い。きっと、今日この場で私が先生に問い質すなんてできやしないのだ。
私は今日、先生に交際の申し込みでもされるんですか?
こんなに畏まった場を用意され、全く検討もつかない程幼くはない。それでもこの推測や予想には全く自信がなかった。
だって、そんなもののために作る場としてこれはいささか重い。図書館ではあまり感じさせないことも多いが、以前の人生でも人たらしで鳴らした先生がそのことをわからないはずがない。
高浜先生と河東先生のお二人が一枚噛んでいるのなら、尚更突拍子もないことはしないだろう。
ただ、どれだけ考えたって答えが出ないのも事実だ。今はただ「何故?」の疑問を自分の胸に抱いておくしかない。
それでも、自分にとって一番ショックなパターンだって考えておく。
例えば、この会食が終わったあと「実は今お付き合いしている女性がいて、今度ここで結婚を申し込もうしているんだが」と相談されるとか。
そのとき私は、泣かずにちゃんと「素敵ですね」と言えるだろうか。
◇ ◇ ◇
真意が見えなくとも、好きな人とともに居られるのは楽しいことだった。
そして楽しい時間はあっという間だ。
先生が楽しみにしていた蟹は何品も運ばれ食べた、美味しかった。今はそれぞれの一人鍋に火が通るのを待っている。
今はこんなものがあるんだなあ、と興味深そうに固形燃料を覗き込む先生。
安全で、簡単で、美味しく食べられるからいいと一人納得している。
「美味いもんが食えるってのは、いいもんだなあ」
本当に幸せそうに、ニコニコ笑う。
「俺は、こうして転生してこられて良かったと心の底から思ってるんだ」
胸の奥がドキンと鳴る。
「美味いもんは腹いっぱい食えるし、夏目や森さんや清や秉公やサッチーにも再会できたし、べーすぼーるは出来るし……」
先生は指折り数えて図書館でのいい思い出を挙げていく。
その仕草に心がじんわりと温まった。
これは好きな人どうこうじゃない、特務司書としての喜びだ。
私達は、言ってしまえば先生方を勝手に生き返らせている。
文学を守って欲しいと、そんな理由なら彼らが断れないと、命の危機もある任務に無理矢理引きずり出している。
先生方は、代わりに新たな人生こそ得ているものの、それは帝国図書館に振り回される人生だ。釣り合うかどうかなんて私達にはわからない。
だから、先生自身がこうして新たな人生を肯定してくれて、私は何より安堵した。
しかし、そんな気持ちはすぐ掻き消えてしまった。
「だから、これ以上を望むのは罰が当たるかもしれんが……」
どこか嬉しそうにそして何故か照れくさそうに、先生がこちらを見ながら頬を掻いて言う。
「俺の最期を看取ってくれないか」
◇ ◇ ◇
「嫌です」
言葉は反射的に出ていた。
悪い冗談だと思った。
でも、目の前の先生は驚いたような顔をしてこっちを見ていた。
「な……」
なんでって、それは私が言いたい言葉だった。なんで、先生そんな顔をするんですか。
激情が抑えられない。
「なんですか!? 自殺でもするって言うんですか? 嫌ですよ、私が特務司書の権限でもって許しません!!」
語気が強くなる。目が潤む。こんなこと言われるなんて全く予想だにしていなかった。
全く、他の女性へのプロポーズどころじゃない。
正岡子規という文豪が図書館で自殺するだなんて考えたこともなかった。以前の先生を考えれば病気の可能性もあるがそれも過去の話だ。その時と今の肉体に物理的繋がりなど一切ない。
転生した体が私の知らない間に病魔に侵された可能性も一瞬考えたが、アルケミストとの繋がり上ありえない。
頭はひどく混乱したままだ。
だって、私は先生に死んで欲しくない。
「司書さん、大丈夫?」
気がつけば隣に河東先生がいた。よく見れば高浜先生も正岡先生のそばについている。
「いきなり大声出すからびっくりしちゃったよ」
襖一枚隔てた隣の座敷にいたお二人が慌てて飛び込んできてくれたらしい。
「す、すみません……」
みっともないところを見せてしまった。
「でも先生」
正岡先生に顔を向ける。
「『俺の最期を看取ってくれ』ってどういう意味ですか」
双璧のお二人がぎょっとした顔をした。一方正岡先生はちょっと申し訳なさそうな顔をしている。
「わかったわかった、言葉を変えるから」
先生にかじりつきそうな勢いで迫っているお二人を軽くいなして、
「司書さん」
正岡先生が、すう、と息を吸った。
「俺と結婚してくれないか」
◇ ◇ ◇
あまりに直球な言葉だった。
「……もしかして、私は……付き合いもしていない方からプロポーズされたのでしょうか……?」
多分嬉しい。いや絶対嬉しい。好きな人に結婚を申し込まれたのだ、間違いなく嬉しい。
でも理解に感情が追いついていない。
交際を求められるかと思った。大喜びで受けるつもりだった。
既に密かに付き合っている女性の存在を知らされ、プロポーズの手伝いを求められるのかとも思った。心で泣きながら受けるつもりだった。
自殺願望もしくは残り少ない寿命を告白されたのかと思った。泣きそうになりながら拒絶した。
ただ、まさか自分を好いているとの確信も得ていない相手から結婚を申し込まれるなんて、さすがにそこまで夢見がちな人間でもなかった。
どうやら私は呆けていたようだった。
「ええと……そういうことだ」
困ったような顔をした正岡先生が先程の私の疑問に答えて意識を引き戻される。
「わかってる、俺が我儘なんだ」
困っているのはそのままに、それでも笑おうとして顔が綻んだ。
「俺は転生して充分幸せになった。ここで満足しなきゃいけないのもわかってる。欲を出したっていいことなんか何もない。それでも俺は」
先生がこちらを見続けている。
「細君を得てみたい」
その言葉だけで十分だったのに。
「そしてそれは司書さんがいい」
続いた言葉に胸が強く鼓動した。聞いているだけで心が溶けていく。
自分の心臓の音がやけに早くて大きい。嬉しさと恥ずかしさで私はどうにかなりそうだ。
「司書さんの返事が聞きたい」
私は今、とても照れている。
◇ ◇ ◇
最後の料理―果物が運ばれ、満足感とともに一種安穏とした空気が満ちていた。高浜先生も河東先生も、その後私達の座敷に留まり四人で残りの料理を堪能した。
双璧のお二人がそれぞれ別の用事で揃って席を外したときのことだった。
「今日の料理、本当に美味しかったです」
出された葡萄の皮を剥きながら、上機嫌の私は先生に言う。
「司書さんが楽しめたなら良かったよ」
「先生はどうでした? 蟹楽しみにしていらしたでしょう」
このとき私は本当に、何の気なしに聞いてみただけだった。
「いやあ実は……」
私と同じように紫の皮を剥きながら、その手元に視線を落として先生が言う。
「緊張で味は殆どわからなかったんだ」
え、と思った。
先生の顔は穏やかな、ほんの僅かな苦笑い。
混乱したのは私の方だ。先生の言葉が本当ならば、あの果実酒も、前菜も、蟹だって全然味わえていないということだ。
「あ! でもこの葡萄は旨いぞ! 旬なだけあるな!」
弁明するかのような、純粋に美味だと報告するかのような先生の言葉。
つまりそれは、こんな立派な会席料理の最後一品でやっと味覚が戻ったということか。
今も昔も健啖家で、食事を楽しみのひとつとするこの人が。
なんて寂しい。そう思ったのは間違いない。
「憐れみの込もった顔はやめてくれないか司書さん……」
ただ、それがはっきり表情に出ていたのはちょっと申し訳ない気持ちになる。
「いいんだよ俺は!」
まるで照れ隠しのように。
「葡萄は旨いし」
強がりも交えて。
「司書さんがこれからずっと俺といてくれるんだから」
思いもよらない方向に、こちらの感情を揺さぶってくる。
でも、それなら私にだって考えがある。
「わかりました」
精一杯笑えているだろうか。
「じゃあ結婚したらまた来ましょう」
その笑顔は私だって強がりだったけど。
「そのあと、五年後でも十年後でも、記念日の度ここに来ましょう」
私たちはとにかくこれからなのだ。
先生は少しぽかんとして、
「……そうだな」
何かに納得したようにうんうん頷いた。
「まず来年だな」
その様子を「幸せを噛み締めるように」と思ってしまったのは、少し傲慢だろうか。
傲慢でもいい、私との時間を幸せと感じた先生に心がじんわり温かくなる。
すたん、と襖が開いた。
席を外していた高浜先生がお戻りになった。正岡先生を見て、何やら不思議そうな顔をする。
「どうかしたんですか子規さん」
座椅子に戻りながら高浜先生が言う。私以外から見ても、今の正岡先生には一言問いたくなるような雰囲気があるらしい。
「いいや、なんでもないさ」
あまり表情を変えないまま、今度は正岡先生が立ち上がった。
高浜先生が閉じたのと同じ襖を開き、廊下へ二歩踏み出して振り返り
「それから司書さん」
本当に、話のついでのように声をかけられ
「いつにも増して綺麗だな」
襖を閉じた。
「戻ったよ!」
元気で明るい河東先生の声がする。
「秉、騒ぐな」
「え? なんで司書さんあんなに恥ずかしがってるの?」
「人の話を聞け」
最後に正岡先生が残していった言葉は、私をしばらく動けなくさせるに充分だった。
河東先生が襖を開いた瞬間、早々に正岡先生が戻ってきたのかと肩を跳ねさせてしまったくらいだ。
こんな顔、正岡先生に見せられない。
「のぼさんやるじゃん!」
高浜先生から私が正岡先生から何を言われたのか聞いたのだろう、感心したような声がした。
「……やるじゃんじゃないですよ」
未だ頬の熱が抜けきらないまま、力の籠もっていない抗議をした。
「なんで正岡先生はあんなこと言ったんですか」
今度はお二人が揃って不思議そうな顔をした。
互いに顔を向け合ったあと、私に振り向いて高浜先生が口を開く。
「司書、馬子にも衣装という諺は知ってるか?」
「なるほどー……」
「きよ、その言い方はひどい」
私の肩に手をポンと置いて、苦笑いしながらとりなしてくれたのは河東先生だ。
「今日の司書さんは綺麗だよ。自信を持って」
「そうだといいんですが」
自分の外見について、プロの手を借りて普段よりマシになった自覚は少しだけある。
本当に、今の自分が綺麗だというなら、あの人に綺麗だと思って貰えたのなら
「すごく、嬉しいんですけどね……」
自分の後ろで何やら双璧のお二人が話している気がしたが、あまり内容に興味はなかった。しかし同じようにお二人にも、私の最後のぼやきは聞こえなかっただろう。
次に私の意識がはっきりしたのは、正岡先生が戻ってきてからだ。
「秉公、人の嫁さんにあまり触るな」
字面とは裏腹に、親愛たっぷりに弟子をたしなめる声がする。
でも私はそれどころじゃない。
嫁さん。嫁さん。嫁さん。
その単語がひたすら頭の中で繰り返される。
疑うわけじゃなかったけど、正岡先生はさっき申し出た結婚に本気なのだ。
少し気が早いと思う。嫌じゃないけど。嫌ではないけれど。
「すみませんのぼさん」
たしなめられた河東先生がニコニコしたまま私から離れていく。
「全く……司書さんも振り払っていいんだぞ」
やれやれといった口調とともに、今度は正岡先生が私の肩に手をかけた。
河東先生のときは何もなかったのに、正岡先生だと触れられている部分が熱く感じるのは気の所為だろうか?
「先生」
正岡先生に顔を向ける。ん? と穏やかな笑みをしている。
「その、私たち」
結婚するんですよね、と絞り出すような声で言った。
「ああ!」
満面の笑みに、耳がほんの少し赤く染まっているのが愛おしい。
思考はとにかく正岡先生に占拠され、その一方で驚くほどクリアな視界の端に双璧のお二人が映る。
お二人の前でここまで聞いてしまうのも少し気が引けるが、もうこのまま問うてしまいたかった。
私達は結婚する、なら私、先生のこと先生じゃなくて
「名前で呼んでもいいですか?」
名前で呼びたいんです。
正岡子規は生きた時代柄、雅号だけでなく、本名やそれに準ずるものもいくつかあると聞いている。
私に問われ少し驚いた様子の先生が、またすぐ嬉しそうにして、「さて俺のことは何て呼んで貰おうか」と思案し始めた。
でもしばらくして、それを一旦打ち切ったようだった。
「俺だって、司書さん呼びじゃまずいよな」
薄い茶色の瞳が細くなり、こちらを見つめる。
「俺も」
私の名前を口にして、「呼んでもいいか?」と問いかけた。
終
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