正岡子規/文豪とアルケミスト
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困ったような下がり眉だった。
「帰っちゃうんだもんなあ」
お正月は実家で過ごすと伝えたのは数日前だったか。たしかその時は「そうか、ゆっくりしてきてくれ」と柔らかい笑顔を返されたはずだ。
思いのほかさっぱりとした対応に、ああこの人は物事に執着しないタイプなんだなと思い、また納得していた。
そして、今である。
抱きしめられて、動けない。
「先生、あの、これは」
年の瀬で連日忙しい帝国図書館。その合間に作った、恋人との時間でのこと。
「嫌だったか?」
「そういうわけじゃないんですけど」
そうか、と満足そうに微笑んで今度は私の頭を撫で始めた。なでりなでり、先生の手のひらを感じる。髪乱れるな、と思わなくもない。
「急にどうしたんですか? と聞いているんです」
同じ図書館で働いているとはいえ、ここ数週間お互い忙しかった。それでも顔を合わせれば話もするし、そこでは先生に何か変わった様子はなかったはずだ。
「司書さんに、これから何日も会えなくなるんだなあって」
実感が湧いて、寂しくなったということだろうか。
「俺、ここに来てからこんなに司書さんと離れることないから」
言われてみればその通りだった。それでも
「たかが数日じゃないですか。我慢して下さい」
抱きしめられたまま、先生の頭に腕を伸ばす。イイコイイコと言い聞かすように、私も先生を撫でる。
しょんぼりと悲しそうな顔をされた。
「その顔やめて下さい。罪悪感でいっぱいになるんです」
それを聞いた先生は、ちょっと嬉しそうにした。
「なれなれ」
頭をぐりぐり押し付けてきて、大型犬のようだった。
「そんなことする人にはお土産買ってきませんから!」
「司書さんひどいや」
言って、二人で笑いあった。先生の満開の笑顔が眩しかった。
* * *
そんな風に正岡先生と笑いあってから、二日経った。
ばたばたと忙しい年末が終わろうとしている。帝国図書館は無事今年最後の開館日を終え、今や年を忘れる宴の席だった。
文豪の先生方と自分たち図書館スタッフが、ともに並んで料理をお酒を会話を煽る。
自分もお酒を口にしながら、ちらりと盗み見た想い人は、親友の夏目先生や句会仲間の森先生とともに楽しそうにしていた。
そんな正岡先生を見て、安堵のため息を少し。そして自分に意識を戻す。
明日の予定が入っているからほどほどにと自分に言い聞かせて、他の先生方と杯を傾ける。
飲みながら思い出すのは、去年の今ごろのこと。
まだまだ転生した先生方の人数も少なく、これからの侵蝕者たちとの戦いを思うと不安で胸がいっぱいになった。その少ない先生方と去年もこうして年末の酒の席こそ用意したものの、お互い遠慮の残る関係だったのを覚えている。
それが、今日はこの大宴会だ。
潜書について、不安がないわけではない。ここに呼べた先生もいれば、未だ呼べない先生もいる。それでも、まだ特務司書になったばかりで右も左もわからなかったあの頃に比べれば確実に研究は進んでいる。今こうして転生している先生方は、皆笑顔で一年を振り返り、あるいは忘れるようにこの場を楽しんでいた。
「おうおめえさん、全然飲んでないじゃねえか」
物思いにふけっていたら、最初に口をつけて以来飲み進めていないコップを、正面にいた牧水先生にあざとく見咎められる。
「先生基準で飲んでたら、あっという間に潰れちゃいますよ」
言い逃れるように、申し訳程度口をつけた。だって、
「明日の始発で帰るんです、あんまり飲みすぎるわけには」
ああ、と牧水先生は納得のいった顔をした。
「おめえさん、地元はどこだったか」
牧水先生と他愛のない会話を続けながら、つい視界の端に正岡先生を探してしまう。
あちらでは、生まれ年が先生と同じ幸田先生と尾崎先生が話の輪に加わったらしい。
正岡先生は少しお酒も入って弾けるような笑顔だ。
「……おめえさん、わかりやすいって言われねえか?」
ふと気がつけば、目の前の牧水先生がじっとりとこちらを見つめている。
「うぇえ!?」
どうやら正岡先生に意識を奪われ過ぎていたらしい。そして牧水先生に、その理由共々、全て見透かされているのがわかる。
にへら、とした笑顔に騙されそうになるが、なかなかどうしてこの人に隠し立ては出来ない。
「俺で良ければ話ぐらい聞くぞぉ?」
新しいカップに私の分らしきお茶を注ぎながら、牧水先生が笑顔を向ける。
言ってしまっても、大丈夫だろうか。
「恋愛のプロフェッショナルの若山せんせぇ……」
「おう」
ぐ、と数秒正岡先生を見ようとした。幸田先生の影に隠れたのか見えなかった。残念だなあなんて思うのは、贅沢だろうか。
「私、明日から実家に帰るじゃないですか」
「そうだな」
「今更なんですけど」
「おう」
「数日会えなくなるんだなあって」
そう、まるで二日前の正岡先生の気持ちを写し取ったかのような寂しさ。自分が先生に語った「たかが数日」がとても重い。
数日だって、会えなくなるのはこんなに物悲しいのだとやっと知った。
「ああー」
実に楽しそうに、牧水先生が笑う。
「ええ……そこ笑うところじゃないですよ」
「すまんすまん」
まだ笑いの止まらない先生がくつくつと声を押し殺しながら謝る。
「それで? おめえさんはどうする?」
「どうもしませんよ」
そう、何もしない。帰省を取りやめたり、出発を遅らせたりもしない。
「せめて先生を鼓膜に焼き付けて、早く図書館に帰りたいって思いながら実家で過ごしてきますよ」
ちらっと正岡先生を探すが、誰かの影に隠れているのかやはり見つからなかった。
その姿を見続けることすら、今夜は叶わないようだった。
「熱いねえ」
「駄目ですか?」
「いんや?」
お茶じゃなくて、アルコールが欲しくなった。手元に残っていたお酒を飲み干す。
「私、正岡先生のこと好きなんですよ」
牧水先生が、お、なんて顔をする。
「最後まで聞いてもらえます?」
意味深な笑顔を向けられた。それを肯定と受け取る。
「大好きなんですよ。ベタ惚れです。恥ずかしいくらい。私こんなに誰かのこと好きになれるって知りませんでした。先生に言わせてみれば、情熱的な恋でしたっけ? 今してますよ」
ニヤニヤされている。
「こんなに好きで、好きで、どうしましょう。自分でもわからないです」
「のろけるねえ」
「本人にはとても言えませんけどね」
私ばかりが好きで、恥ずかしいじゃないですか。
「ふうん?」
疑問符の、相づち。
「もう少しお酒が欲しいです」
「飲み過ぎるわけいかねえって言ったのはおめえさんなんだがな」
言いながらも、牧水先生が酌をしてくれた。
文豪の先生に不遜だとは思うが、ありがたく受ける。
「恋っていいもんだろう?」
「わかりませんよ」
拗ねて、机にすがりつけばやっぱり笑われた。
牧水先生はいつも柔和な笑顔を浮かべる方だけど、今日は特に楽しそうに見える。宴の席が好きなのか、人の恋を聞くのが好きなのか、両方か。
酔いが回った私では、判断がつかなかった。
ああ、ここまで酔うのも久しぶりかもしれない。くらくらして、気持ちがいい。
「だそうだぞ、子規」
一気に酔いが覚めた。
若山先生が、まっすぐ私を――否、私の後ろにいた正岡先生を呼んでいた。
反射的に振り返ると、後ろ姿でもわかる気まずそうな人。
言葉が出ない。
「子規、お前どこから聞いてたんだったか?」
ニコニコ笑いながら、牧水先生が煽る。
正岡先生は、ぐ、と酒を煽って
「勘弁してくれ」
ほとんど答えのようなことを言った。
まるで時間が止まったかのように私達は動けないのに、牧水先生の押し殺した笑い声はしっかり聞こえてくる。
先生が誰かの影に隠れていると思った私の考えは正しかった、私自身の影に隠れていたのだ。
「牧水……」
怒っているような、諦めたかのような、正岡先生の唸り。
「色男は辛いねえ」
けらけらと、牧水先生はもう笑い声を抑える気もないらしい。
「司書さん」
呼びかけられて、ビクッとした。
「部屋行って、二人で飲もうか」
俺もあんまり飲める方じゃないけど、なんて。
こんなの了承したら、部屋で詰問されるのが目に見えていて、今からこっぱずかしい。
「楽しく喋ってた俺には何もなしかぁ?」
「司書さん借りるぞ、牧水」
「おう、あんまいじめるなよ」
先生同士は合意の形成がなされた。外堀が着々と埋められている。
「司書さん、つまみいくつか持ってってくれ」
数本のお酒を抱えた正岡先生に指示された。
「私まだ行くって言ってませんけど」
「来ないのか?」
心外だ、なんて表情を作る。この人がどれくらい本気でそう思っているのか、さっぱりわからない。
それは酔いが回っているせいか、私が理解を放棄しているせいか。
本気でもそうじゃなくても、私が諦めれば関係ないから。
「行きますよ、行けばいいんでしょう」
先生は笑った。その頬が赤らんでいるのは、酔いでしょうか、照れでしょうか。
明日の出発は最低でも遅らせる必要があるなと思いながら、先生のあとについて食堂を出た。
カツカツと、廊下に二人分の足音が響く。
皆まだ食堂にいて、この広い図書館に自分たち二人しかいないような気分になる。
宴会を抜け出てから互いに何も喋らず、ただただ前を歩く正岡先生の後ろ姿を見続けた。
先生の足取りに、迷いはない。
なさすぎる。
「すみません、あの、先生」
少し急いたような表情が振り返り、
「あ……」
ふわりと、でも申し訳なさそうな顔になった。
酔った私は先生に追いついて歩くのが困難であり、先生は私との歩幅の差を忘れていた。
数メートル離れていた私が追いつき、軽く上がった息で先生に弱々しく抗議する。
「常規さん」
「ん」
先生がその困った顔のまま、私の手を握った。
あまりに滑らかに手を繋いできたから、先生は私が抗議したことにも気づいていないかもしれないと思った。でも、それでもいいやと流されてしまう。
私の手を引いて、先生はまた歩き出した。
行き先は、正岡先生の部屋だった。
* * *
正岡先生の部屋は、大量の本と雑貨で埋もれている。昔よりはマシだ、とは本人の談。
特務司書として、先生方の部屋に入るのも珍しくはないが、正岡先生の部屋だけはこうして訪れることがたびたびあった。
今日は、部屋に招かれる嬉しさと、これから何を言われるのだろうという気まずさと。
「司書さん」
低い机に酒瓶を置いた先生は、こちらを振り返り私を呼ぶ。
先生はまだ酔いと照れが抜けない頬の赤らみで、こちらまで恥ずかしくなる。
「俺も、司書さんのことが好きだ」
心臓がバクンと脈打った。
まだ部屋に入って戸を閉めただけで、そこから一歩も動けていない。それなのに、そんな甘ったるい言葉を投げかけられたらますます動けなくなる。
その言葉が、さっきまで自分が酔いに任せて吐露した心情を受けてのものならなおさらだ。
もう先生の顔を見ていられない。
「司書さんが俺のことを好きなのは、知ってたけど、それでも、そんなに好きだなんて知らなかった」
先生は私に少しずつ近づいてきて、うつむいている私の頭上から言葉が降ってくる。
私だって知らなかったって、さっき言ったばかりじゃないですか。
「俺はそれがすごくすごく嬉しくて、その」
先生の声も、小さく掻き消えそうになる。
「嬉しかったんだ……」
とても声には出せないけど、喜んでもらえたのなら私も嬉しい。こんな状況じゃなければきっともっと嬉しかったはずだ。
「だから、その……」
先生が言葉を続ける。
「もう一回言って欲しいなって」
私の答えは、言葉にならないうめき声だった。
「だ、駄目か?」
オドオドした先生の声がする。私も先生の立場なら何回も聞きたいと思うだろうから、気持ちはわかる。でも、
「あれは、私も………先生ご本人の前じゃないから言えたことと言いますか……」
言わされる方としてはたまったもんじゃない。
「メチャクチャに言ったのは覚えてますけど……なんて言ったかも忘れちゃいましたし……」
実際、恥ずかしいことを言ったぐらいにしかよく覚えていないので、これで逃げ切りたい。
「……俺のことが」
先生が口を開いた。
「恥ずかしいくらいベタ惚れで、こんなに誰かを好きになれるなんて知らなかったって、情熱的な恋だって、好きで好きでどうしようって」
たどたどしさを振り払えない様子でも、はっきり言い切る。
唖然とした。そして同時に頬にカァッと熱が走る。
「……よく覚えてますね……」
「そりゃまあ……」
今すぐ逃げたいくらいに恥ずかしい。なのに先生は、私の肩を挟んで両手を後ろの壁に当てて、
「……俺は今のを、司書さんの口から聞きたい」
なんて無茶を言う。私がどれほど居た堪れないかわかってないような気がして、
「あの、常規さんは!」
恥ずかしくないんですか、と言おうとして先生の顔を見上げた。
私並みに気まずそうな居た堪れなさそうな恥ずかしそうな表情がこちらを向いていた。
「俺ばっかりが司書さんのこと好きなのかって、ずっと思ってて」
「そうじゃなかったんだ、って今日やっと思えて」
「聞いてる間は気が気じゃなかった、盗み聞きしたのは悪かったと思っている、けれども……聞かずには、いられなくて」
私を真っ直ぐ見つめられないのかほんの少し視線を下にずらしているのが、むしろ先生の熱の入り具合を表しているようだった。
そこまで言われたら、私だって少しは覚悟を決めなきゃいけないじゃないですか。
「常規さ、ん」
ごくり、と自分の唾を飲み込む音がする。
「……私は今までこんなに誰かを好きになったことがありません」
「これは、情熱的な恋です。先生に対しての」
「私は、正岡先生が好きです!」
最後はもはや叫んでいた。
そして叫ぶと同時に、先生に強く強く抱きしめられる。
「俺もだ! 俺も司書さんのことが大好きだ!」
するり、私の頬に厚い皮膚をもった指が沿う。頬に温かい、と思う間も無く先生の顔が近付いて唇が重なった。
優しさも強さも全てが混ぜこぜになった、正岡先生らしいキス。蹂躙されているとも、甘やかされているとも思う。
背中に柔らかい布地を感じたのは、それからすぐ。
強く抱きしめられて身体は痛いくらいだったが、そこに嫌悪感はなかった。
終
「帰っちゃうんだもんなあ」
お正月は実家で過ごすと伝えたのは数日前だったか。たしかその時は「そうか、ゆっくりしてきてくれ」と柔らかい笑顔を返されたはずだ。
思いのほかさっぱりとした対応に、ああこの人は物事に執着しないタイプなんだなと思い、また納得していた。
そして、今である。
抱きしめられて、動けない。
「先生、あの、これは」
年の瀬で連日忙しい帝国図書館。その合間に作った、恋人との時間でのこと。
「嫌だったか?」
「そういうわけじゃないんですけど」
そうか、と満足そうに微笑んで今度は私の頭を撫で始めた。なでりなでり、先生の手のひらを感じる。髪乱れるな、と思わなくもない。
「急にどうしたんですか? と聞いているんです」
同じ図書館で働いているとはいえ、ここ数週間お互い忙しかった。それでも顔を合わせれば話もするし、そこでは先生に何か変わった様子はなかったはずだ。
「司書さんに、これから何日も会えなくなるんだなあって」
実感が湧いて、寂しくなったということだろうか。
「俺、ここに来てからこんなに司書さんと離れることないから」
言われてみればその通りだった。それでも
「たかが数日じゃないですか。我慢して下さい」
抱きしめられたまま、先生の頭に腕を伸ばす。イイコイイコと言い聞かすように、私も先生を撫でる。
しょんぼりと悲しそうな顔をされた。
「その顔やめて下さい。罪悪感でいっぱいになるんです」
それを聞いた先生は、ちょっと嬉しそうにした。
「なれなれ」
頭をぐりぐり押し付けてきて、大型犬のようだった。
「そんなことする人にはお土産買ってきませんから!」
「司書さんひどいや」
言って、二人で笑いあった。先生の満開の笑顔が眩しかった。
* * *
そんな風に正岡先生と笑いあってから、二日経った。
ばたばたと忙しい年末が終わろうとしている。帝国図書館は無事今年最後の開館日を終え、今や年を忘れる宴の席だった。
文豪の先生方と自分たち図書館スタッフが、ともに並んで料理をお酒を会話を煽る。
自分もお酒を口にしながら、ちらりと盗み見た想い人は、親友の夏目先生や句会仲間の森先生とともに楽しそうにしていた。
そんな正岡先生を見て、安堵のため息を少し。そして自分に意識を戻す。
明日の予定が入っているからほどほどにと自分に言い聞かせて、他の先生方と杯を傾ける。
飲みながら思い出すのは、去年の今ごろのこと。
まだまだ転生した先生方の人数も少なく、これからの侵蝕者たちとの戦いを思うと不安で胸がいっぱいになった。その少ない先生方と去年もこうして年末の酒の席こそ用意したものの、お互い遠慮の残る関係だったのを覚えている。
それが、今日はこの大宴会だ。
潜書について、不安がないわけではない。ここに呼べた先生もいれば、未だ呼べない先生もいる。それでも、まだ特務司書になったばかりで右も左もわからなかったあの頃に比べれば確実に研究は進んでいる。今こうして転生している先生方は、皆笑顔で一年を振り返り、あるいは忘れるようにこの場を楽しんでいた。
「おうおめえさん、全然飲んでないじゃねえか」
物思いにふけっていたら、最初に口をつけて以来飲み進めていないコップを、正面にいた牧水先生にあざとく見咎められる。
「先生基準で飲んでたら、あっという間に潰れちゃいますよ」
言い逃れるように、申し訳程度口をつけた。だって、
「明日の始発で帰るんです、あんまり飲みすぎるわけには」
ああ、と牧水先生は納得のいった顔をした。
「おめえさん、地元はどこだったか」
牧水先生と他愛のない会話を続けながら、つい視界の端に正岡先生を探してしまう。
あちらでは、生まれ年が先生と同じ幸田先生と尾崎先生が話の輪に加わったらしい。
正岡先生は少しお酒も入って弾けるような笑顔だ。
「……おめえさん、わかりやすいって言われねえか?」
ふと気がつけば、目の前の牧水先生がじっとりとこちらを見つめている。
「うぇえ!?」
どうやら正岡先生に意識を奪われ過ぎていたらしい。そして牧水先生に、その理由共々、全て見透かされているのがわかる。
にへら、とした笑顔に騙されそうになるが、なかなかどうしてこの人に隠し立ては出来ない。
「俺で良ければ話ぐらい聞くぞぉ?」
新しいカップに私の分らしきお茶を注ぎながら、牧水先生が笑顔を向ける。
言ってしまっても、大丈夫だろうか。
「恋愛のプロフェッショナルの若山せんせぇ……」
「おう」
ぐ、と数秒正岡先生を見ようとした。幸田先生の影に隠れたのか見えなかった。残念だなあなんて思うのは、贅沢だろうか。
「私、明日から実家に帰るじゃないですか」
「そうだな」
「今更なんですけど」
「おう」
「数日会えなくなるんだなあって」
そう、まるで二日前の正岡先生の気持ちを写し取ったかのような寂しさ。自分が先生に語った「たかが数日」がとても重い。
数日だって、会えなくなるのはこんなに物悲しいのだとやっと知った。
「ああー」
実に楽しそうに、牧水先生が笑う。
「ええ……そこ笑うところじゃないですよ」
「すまんすまん」
まだ笑いの止まらない先生がくつくつと声を押し殺しながら謝る。
「それで? おめえさんはどうする?」
「どうもしませんよ」
そう、何もしない。帰省を取りやめたり、出発を遅らせたりもしない。
「せめて先生を鼓膜に焼き付けて、早く図書館に帰りたいって思いながら実家で過ごしてきますよ」
ちらっと正岡先生を探すが、誰かの影に隠れているのかやはり見つからなかった。
その姿を見続けることすら、今夜は叶わないようだった。
「熱いねえ」
「駄目ですか?」
「いんや?」
お茶じゃなくて、アルコールが欲しくなった。手元に残っていたお酒を飲み干す。
「私、正岡先生のこと好きなんですよ」
牧水先生が、お、なんて顔をする。
「最後まで聞いてもらえます?」
意味深な笑顔を向けられた。それを肯定と受け取る。
「大好きなんですよ。ベタ惚れです。恥ずかしいくらい。私こんなに誰かのこと好きになれるって知りませんでした。先生に言わせてみれば、情熱的な恋でしたっけ? 今してますよ」
ニヤニヤされている。
「こんなに好きで、好きで、どうしましょう。自分でもわからないです」
「のろけるねえ」
「本人にはとても言えませんけどね」
私ばかりが好きで、恥ずかしいじゃないですか。
「ふうん?」
疑問符の、相づち。
「もう少しお酒が欲しいです」
「飲み過ぎるわけいかねえって言ったのはおめえさんなんだがな」
言いながらも、牧水先生が酌をしてくれた。
文豪の先生に不遜だとは思うが、ありがたく受ける。
「恋っていいもんだろう?」
「わかりませんよ」
拗ねて、机にすがりつけばやっぱり笑われた。
牧水先生はいつも柔和な笑顔を浮かべる方だけど、今日は特に楽しそうに見える。宴の席が好きなのか、人の恋を聞くのが好きなのか、両方か。
酔いが回った私では、判断がつかなかった。
ああ、ここまで酔うのも久しぶりかもしれない。くらくらして、気持ちがいい。
「だそうだぞ、子規」
一気に酔いが覚めた。
若山先生が、まっすぐ私を――否、私の後ろにいた正岡先生を呼んでいた。
反射的に振り返ると、後ろ姿でもわかる気まずそうな人。
言葉が出ない。
「子規、お前どこから聞いてたんだったか?」
ニコニコ笑いながら、牧水先生が煽る。
正岡先生は、ぐ、と酒を煽って
「勘弁してくれ」
ほとんど答えのようなことを言った。
まるで時間が止まったかのように私達は動けないのに、牧水先生の押し殺した笑い声はしっかり聞こえてくる。
先生が誰かの影に隠れていると思った私の考えは正しかった、私自身の影に隠れていたのだ。
「牧水……」
怒っているような、諦めたかのような、正岡先生の唸り。
「色男は辛いねえ」
けらけらと、牧水先生はもう笑い声を抑える気もないらしい。
「司書さん」
呼びかけられて、ビクッとした。
「部屋行って、二人で飲もうか」
俺もあんまり飲める方じゃないけど、なんて。
こんなの了承したら、部屋で詰問されるのが目に見えていて、今からこっぱずかしい。
「楽しく喋ってた俺には何もなしかぁ?」
「司書さん借りるぞ、牧水」
「おう、あんまいじめるなよ」
先生同士は合意の形成がなされた。外堀が着々と埋められている。
「司書さん、つまみいくつか持ってってくれ」
数本のお酒を抱えた正岡先生に指示された。
「私まだ行くって言ってませんけど」
「来ないのか?」
心外だ、なんて表情を作る。この人がどれくらい本気でそう思っているのか、さっぱりわからない。
それは酔いが回っているせいか、私が理解を放棄しているせいか。
本気でもそうじゃなくても、私が諦めれば関係ないから。
「行きますよ、行けばいいんでしょう」
先生は笑った。その頬が赤らんでいるのは、酔いでしょうか、照れでしょうか。
明日の出発は最低でも遅らせる必要があるなと思いながら、先生のあとについて食堂を出た。
カツカツと、廊下に二人分の足音が響く。
皆まだ食堂にいて、この広い図書館に自分たち二人しかいないような気分になる。
宴会を抜け出てから互いに何も喋らず、ただただ前を歩く正岡先生の後ろ姿を見続けた。
先生の足取りに、迷いはない。
なさすぎる。
「すみません、あの、先生」
少し急いたような表情が振り返り、
「あ……」
ふわりと、でも申し訳なさそうな顔になった。
酔った私は先生に追いついて歩くのが困難であり、先生は私との歩幅の差を忘れていた。
数メートル離れていた私が追いつき、軽く上がった息で先生に弱々しく抗議する。
「常規さん」
「ん」
先生がその困った顔のまま、私の手を握った。
あまりに滑らかに手を繋いできたから、先生は私が抗議したことにも気づいていないかもしれないと思った。でも、それでもいいやと流されてしまう。
私の手を引いて、先生はまた歩き出した。
行き先は、正岡先生の部屋だった。
* * *
正岡先生の部屋は、大量の本と雑貨で埋もれている。昔よりはマシだ、とは本人の談。
特務司書として、先生方の部屋に入るのも珍しくはないが、正岡先生の部屋だけはこうして訪れることがたびたびあった。
今日は、部屋に招かれる嬉しさと、これから何を言われるのだろうという気まずさと。
「司書さん」
低い机に酒瓶を置いた先生は、こちらを振り返り私を呼ぶ。
先生はまだ酔いと照れが抜けない頬の赤らみで、こちらまで恥ずかしくなる。
「俺も、司書さんのことが好きだ」
心臓がバクンと脈打った。
まだ部屋に入って戸を閉めただけで、そこから一歩も動けていない。それなのに、そんな甘ったるい言葉を投げかけられたらますます動けなくなる。
その言葉が、さっきまで自分が酔いに任せて吐露した心情を受けてのものならなおさらだ。
もう先生の顔を見ていられない。
「司書さんが俺のことを好きなのは、知ってたけど、それでも、そんなに好きだなんて知らなかった」
先生は私に少しずつ近づいてきて、うつむいている私の頭上から言葉が降ってくる。
私だって知らなかったって、さっき言ったばかりじゃないですか。
「俺はそれがすごくすごく嬉しくて、その」
先生の声も、小さく掻き消えそうになる。
「嬉しかったんだ……」
とても声には出せないけど、喜んでもらえたのなら私も嬉しい。こんな状況じゃなければきっともっと嬉しかったはずだ。
「だから、その……」
先生が言葉を続ける。
「もう一回言って欲しいなって」
私の答えは、言葉にならないうめき声だった。
「だ、駄目か?」
オドオドした先生の声がする。私も先生の立場なら何回も聞きたいと思うだろうから、気持ちはわかる。でも、
「あれは、私も………先生ご本人の前じゃないから言えたことと言いますか……」
言わされる方としてはたまったもんじゃない。
「メチャクチャに言ったのは覚えてますけど……なんて言ったかも忘れちゃいましたし……」
実際、恥ずかしいことを言ったぐらいにしかよく覚えていないので、これで逃げ切りたい。
「……俺のことが」
先生が口を開いた。
「恥ずかしいくらいベタ惚れで、こんなに誰かを好きになれるなんて知らなかったって、情熱的な恋だって、好きで好きでどうしようって」
たどたどしさを振り払えない様子でも、はっきり言い切る。
唖然とした。そして同時に頬にカァッと熱が走る。
「……よく覚えてますね……」
「そりゃまあ……」
今すぐ逃げたいくらいに恥ずかしい。なのに先生は、私の肩を挟んで両手を後ろの壁に当てて、
「……俺は今のを、司書さんの口から聞きたい」
なんて無茶を言う。私がどれほど居た堪れないかわかってないような気がして、
「あの、常規さんは!」
恥ずかしくないんですか、と言おうとして先生の顔を見上げた。
私並みに気まずそうな居た堪れなさそうな恥ずかしそうな表情がこちらを向いていた。
「俺ばっかりが司書さんのこと好きなのかって、ずっと思ってて」
「そうじゃなかったんだ、って今日やっと思えて」
「聞いてる間は気が気じゃなかった、盗み聞きしたのは悪かったと思っている、けれども……聞かずには、いられなくて」
私を真っ直ぐ見つめられないのかほんの少し視線を下にずらしているのが、むしろ先生の熱の入り具合を表しているようだった。
そこまで言われたら、私だって少しは覚悟を決めなきゃいけないじゃないですか。
「常規さ、ん」
ごくり、と自分の唾を飲み込む音がする。
「……私は今までこんなに誰かを好きになったことがありません」
「これは、情熱的な恋です。先生に対しての」
「私は、正岡先生が好きです!」
最後はもはや叫んでいた。
そして叫ぶと同時に、先生に強く強く抱きしめられる。
「俺もだ! 俺も司書さんのことが大好きだ!」
するり、私の頬に厚い皮膚をもった指が沿う。頬に温かい、と思う間も無く先生の顔が近付いて唇が重なった。
優しさも強さも全てが混ぜこぜになった、正岡先生らしいキス。蹂躙されているとも、甘やかされているとも思う。
背中に柔らかい布地を感じたのは、それからすぐ。
強く抱きしめられて身体は痛いくらいだったが、そこに嫌悪感はなかった。
終